俺がお前でお前が俺で(後編)

 寝起きなのか、慌てていたせいか、全員が寝間着姿という異様な三人組。
 どこかにいこうとしている背の高い人影を、後ろから引き留めているのはポコリーヌ。いつも綺麗に身なりを整えている彼が、寝癖もそのままなのはおかしい。
 もう一人、前から押し留めようとしているのはアーサーだ。寝巻着姿など、絶対に外に晒すことなどないはずの彼までもがそこにいるということが、やはりただこごとでないことが起きている証である。
 そんな彼らに挟まれて、周囲を無言のまま不機嫌そうに威圧しているのは見間違いようのない自分――青い髪、金色の瞳をもつ男、ディラスであった。こんな風に、自分の姿をみる機会があろうとは。
 それにしてもなんというか……。ものすごい仏頂面である。

 俺は、いつもあんな顔してんのか?!

 子供がみたら裸足で逃げ出すような凶悪な面構えに、肉体本来の持ち主であるディラスでさえ、ショックを受けるくらいだ。
 ウェイターとして働くうち、いくぶんか表情はマシになったと思っていたが、これである。客観的にみた己の駄目さ加減に、わずかについてきていた自信が粉々に砕けて吹っ飛んでいった。フレイに協力してもらって、笑顔の練習までしたというのに!
 思わずうちひしがれていると、背からわずかな重みが消えた。みれば、フレイが重力を感じさせない軽やかさで、地面に降り立つところであった。
「ディラス?! どうかしたの?!」
 フレイが大きな声で、ディラスの本当の身体に向かって呼びかけながら、駆け寄っていく。
 ああそうだ、あの身体には今、いかなるものが宿っているのか。
 うすうす感づきながらも、真実を確かめるべく、フレイのあとを追うように近づいてみる。
「ああ、フレイさん、来てくださったのですね……!」
 アーサーが、ほっと表情を緩める。
「ディラス君が朝からおかしいのデス。おきてからというもの、ずっと――」
 同じように、安心したような顔をしたポコリーヌが、目を伏せて事情を説明しようとした瞬間。
 大きな影が、ポコリーヌとアーサーをおしのけるようにして飛び出した。
「フレイ!」
「ひゃあっ?!」
 母親をみつけた無邪気な子供のように、ぱあ、と顔を輝かせてフレイを抱きついたのは、ディラスの身体であった。
 そして、ぎゅうぅぅ、と、人目も憚らずに熱烈にフレイを抱きしめる。
 いくら街に知れ渡った恋人同士とはいえ、本来のディラスであれば絶対にしないような所業である。
『んなっ……?!』
 思わず声を漏らしたディラスだが、ヒヒンとしか声にならない。今はライデンなので当たり前なのだが、悔しい。
「フレイ……」
 甘く睦言を囁くような声で名を呼びながら、鼻先をフレイへと摺り寄せる青年の姿に、周囲は絶句している。抱きつかれたフレイのほうも、真っ赤になって固まってしまっている。
 先に我に返ったのは、今朝方からこの状態に付き合っていたのだろうポコリーヌとアーサーであった。
「やっぱりこうなりマシタか……。予想どおりといえば、予想どおりデス」
「ポ、ポコリーヌさん、ディラス、ど、どうしたんですか?!」
 ぎゅうぎゅうに抱きしめられながら、なんとか視線を向けてくるフレイの問いかけに、ポコリーヌは沈痛な面持ちで首を横に振った。
「それが、よくわからなくて困っていたところデス」
 はあ、と疲れを追い出すような重い息をもらしながら、アーサーがずれた眼鏡を押し上げる。
「朝起きてから、ずっとこの調子なんです。なにを訊ねても、フレイさんの名を呼ぶばかりで……。今、そのまま街へでようとしていたので、ポコリーヌさんと一緒に止めていたところです」
 その言葉に納得したように、フレイが頷いた。
「ああ、それでメグが私のところにきたんですね」
「ええ、フレイさんならば、ディラスくんの様子がおかしい理由がわかるかと思ったのですが……」
 三人分の視線を受けながらも、ディラスでないディラスはフレイに身を寄せるばかりで、まともに応える様子はない。というか、フレイしかみていない。フレイ以外は眼中にないといわんばかりの、その態度のふてぶてしさといったらない。
「ごめんなさい。ちょっと、私にもわからないです……」
 自分への好意を駄々漏れにしながらくっついてくる恋人を邪険にできないのか、フレイが広い背をあやすように撫でる。
 それに気をよくしたのか、蕩けそうな表情をして、フレイをさらに懐深く抱く。きゃあ、と小さな悲鳴をあげたフレイであったが、まんざらでもないらしくされるがままになっている。
 それをみて、ようやく本当のディラスは我に返った。

 お前、さっきまでの仏頂面はどこにやった?! っていうか、俺のフレイから離れろ!

 ライデンの巨体を活かし、ずずい、と二人の間に割ってはいろうとしたものの、ディラスでないディラスが舌打ちしながら鋭い目つきを向けて、フレイを抱きかかえたまま、避けるように身体を捻る。
 フレイに対する態度と、それ以外への態度に天と地ほどの開きがある。
 そうして、ぐるぐると回るようにしながら、みっともない攻防を繰りかえしているところに、アーサーの咳払いが響いた。
「これ以上こうしていても、らちがあかないようですので、ディラスくんのことはフレイさんにお任せしてもよろしいでしょうか?」
「え、ええっ?!」
 いきなりすべてを丸投げされたフレイが、驚きの声をあげる。当然だ。
「私たちとしてもできる限りはお手伝いしたいと思いますが、その様子では……」
「……うっ、そ、そうですよね」
 アーサーが、秀麗な顔に苦笑いを浮かべながら、フレイにくっついて離れない青年を見遣る。
 いわんとしているところがわかったのか、かっくりとフレイが項垂れた。
 引き剥がそうにも難しい。会話をしようにも聞く耳をもたない。目に映しているのはフレイだけ。
 こんな状態の人間への対処方法なんて、誰もわからないだろう。
 求めている人物がいれば、おとなしくしているのなら、ひとまずその人に預けるしかない。
 わしゃわしゃと、犬でも撫でるように、両手を伸ばして青い髪をかき混ぜるように撫でたフレイが、観念したように言う。
「とりあえず、服を着替えよう? ね?」
「?」
 きょとん、としたまま動かぬようすをみせる男に、フレイが我慢強く言葉を重ねる。
「寝間着から着替えなきゃ、どこにもいけないよ。ほら、アーサーさんと一緒にいってきて」
「……」
 アーサー、という人物名がでた瞬間、む、と眉間に皺が寄った。フレイの口から、自分ではない男の名前がでるのが嫌だ、とその顔に書いてある。嫉妬まるだしだ。
「き、着替えてきたら、ずっと一緒にいるから! だから、そんな顔しないで。ね?」
「……」
 このままではまずい、と思ったらしいフレイのフォローを受け入れたのか、しぶしぶといった様子で離れていく。
 ほっとしたフレイが、アーサーに向き直る。
「アーサーさん、お願いしてもいいですか?」
「ええ、お任せください。さ、こちらへ」
「……」
 ひどく不安そうな、寂しそうな顔をして、そのままアーサーの後をついていく姿に呆れるしかない。

 俺、あんな顔もできんのか……。嘘だろ。悪夢だ。

 ライデンの肉体のまま、あらぬ時空へと現実逃避しかけているディラスの横で、フレイがポコリーヌにひとしきり謝っている。
 決して、彼女が悪いわけではないはずなのに。律儀である。
 やがて、よろよろになったマーガレットがポコリーヌ邸まで戻ってきた頃、アーサーもまた戻ってきた。いつもの服装に着替えたディラスの身体を連れて。
「フレイ!」
「わぷっ……!」
 そうしてまた、喜色満面でフレイを抱きしめる。

 いい加減にしろー!

 顔の筋肉を引きつらせながら、自分の身体に対してディラスは激しい嫉妬を覚えた。
 前脚を振り上げて、踏み潰してやりたい衝動に駆られる。かといって、それは間違いない自分の身体であって、傷をつけるのも躊躇われる。
 ぎりぎりと現状に歯噛みする間にも、彼らの話はまとまっていく。
「では、ディラスくんのことを頼みます。私も、なにが起きたのか、できるかぎり調べてみます。ひとまず、ディラスくんの部屋にお邪魔して、なにかしらの痕跡がないか確かめてみないと……」
 考え込むアーサーに、フレイが「こちらこそ、よろしくお願いします」と頭をさげ、この騒動に巻き込まれたポコリーヌとマーガレットへと視線を向けた。
「ポコリーヌさん、ありがとうございました。メグもありがとね、また今度お礼するから」
「いいえ、気にしないでくだサイ。こちらこそ、フレイさんがきてくれて助かりマシタ」
「そうだよ。ちょっと変になったディラスが悪いだけだよ! ほら、ディラス! フレイさんに迷惑かけちゃだめだからね!」
「……」
 めっと人差し指をたてながら指導してくるマーガレットに対しても、ディラスでないディラスの瞳は氷のように冷たい。
 そのまま、ふいっと視線を離したと思ったら、フレイの髪に顔を埋めてしまった。
「あ~……、だめだねこれは」
「あはは……」
 べったりとフレイに甘えきってしまっているさまに、さしものマーガレットも匙を投げてしまった。
 それに苦笑いで答えたフレイが、抱きしめてくる青年の背を優しく叩く。
「とりあえず、今日一日、様子をみてみます。じゃあ、これで」
 ほら、これじゃ歩けないよ、とフレイがいえば、おとなしく離れる。どうやら、フレイのいうことは、わりと素直にきくようだ。
 そのまま、指を絡ませあうようにして手を繋ぎ、二人が歩き出す。
 が、数歩先にいったところで、フレイが振り返った。
「ほら、ライデンもいこう」
『……おう』
 なんだかライデン扱いされることに、情けなくも慣れてきつつあるディラスは、ヒン……と元気のない声で応える。そのまま、ため息をこぼしながら、フレイたちのあとを追う。
 ただ、疲れきっていながらも、フレイの口から『ライデン』という名が出た瞬間、ディラスの肉体が確かに反応をみせたことは、見逃さなかった。
 つまり。
『――おい、おまえ、ライデンだろ』
「……」
 背後から、人の言葉になっていない、かすかな馬の鳴き声で問いかけてみる。
 おぼろげではあるが、ライデンの夢をみていたことを、ディラスは思い出していた。不可思議で、嫌な感じを覚える夢だったと思う。
 と。
 ふ、とディラスの身体が、顔だけをこちらへ向けた。
 まさか反応があるとは思っていなかったせいで、ひくっと喉を震わせる目の前で、にやり、とその顔が笑みを刻んだ。
 その、上機嫌そうな金色の瞳をみた瞬間、ディラスの感情が沸騰した。
『……~~っ、て、てめぇぇぇえ! やっぱりそうか!』
「ひゃっ?!」
 ヒヒーン、と今日一番の声をあげると、その大きさに驚いたフレイが大きく肩を跳ねさせた。
 がつがつと、蹄で石畳を打ち鳴らしながら、自分の身体にはいりこんだライデンにディラスが迫ろうとしたところ、フレイが立ちふさがった。
「ど、どうしたの、急に……! ほら、ライデンおちついて? だいじょうぶ、だいじょうぶ」
『だあぁぁあ! だから! 俺が! ディラスなんだよ!』
 どうどうとフレイに宥められながら、ディラスは悲痛極まりなく叫んだ。
「ライデン! お、落ち着いて……、きゃっ?!」
 懸命に宥めるフレイを、背後から伸びた長い腕が絡めとる。
 それは、ディラスの身体にいかにしてはいりこんだかわからぬライデンの行為で。
「ディ、ディラス……?!」
 驚きに背後を振り仰ぐフレイの細い顎を長い指でとらえ、さらに上向かせながら覆いかぶさる。
 あっという間に口づけの体制へともちこんだライデンに、かっとディラスの頭にさらに血が上った。
 ドン! と、蹄で足元の石を割り踏み込みながら、額にある角を己の肉体へと突きつける。
 いままさにフレイに口づけようとしていた姿勢のまま、ぎろり、と金色の瞳が睨みつけてくる。
 鋭い剣の切っ先に似た角の先端で、喉元に狙いを定められたライデンが、ゆっくりとフレイから手を離した。
 それを確認して、ディラスは角を静かにひく。
「……」
『……』
 そのまま、一人と一頭は、決闘するかのような緊張感をもって、飛行船通りの往来で相対する。
 急に不穏な空気に包まれたこの状況についていけないフレイを、ライデンが道の端へとそっと追いやる。
 ぱりり、と、どこにも暗雲などない空の下、青白い雷が宙を彩る。
 ディラスとライデンがもっとも得意とする魔法の気配を察したのか、フレイが顔色を変える。
「ちょ、ちょっと待っ、ここ、街中……!」
『ふざけんじゃねえぞ、このウマがー!』
「――!」
 制止しようとするフレイの声が合図となったかのように、ディラスとライデンを中心として生まれた青く峻烈な雷が、周囲を巻き込みながら嵐となって炸裂した。

 

 

「よし、今日はここでのんびり釣りでもしようね」
『……』
「……」
 ポコリーヌキッチンを離れ、道のど真ん中で暴れ出したところを、フレイに実力をもってして制圧された後――二人と一頭は、セルフィアからほどちかいヨクミール森の滝付近を訪れていた。
 急に暴れだしたことへの説教をされつつ、キュアオールで傷を癒してもらったので、肉体的に問題はないが、いろんな意味でディラスは精神的に病みそうであった。
 ちら、と己の身体にはいりこんだライデンを見遣る。フレイとちゃっかり手を繋ぎ、あたりを興味深そうに見回している姿に苛立ちだけが募っていく。
 説教を受けていたときは、しゅんとしたところをみせていたが、フレイがディラスに対して怒っているのだということを途中で理解したらしく、そのあとはどこ吹く風でフレイの言葉を受け流していた。
 フレイの中で、すべては自分がやったことになっているかと思うと、腹の奥がシクシクと痛んでくる。
 俺じゃない! と、叫びたいのに、伝えたいのに、届かない。このもどかしさを、どうしたらいいのか。
 ディラスは大きく息をついた。
 ちなみに、なぜにこんなところに来たのかというと――こうなった理由のわからない、普通でない状態のディラスを住民達の目に晒すのは、あとで正気にもどったときにショックを受けるだろうと配慮してくれた、フレイの発案である。
 だが、静かな場所で落ち着けるのはディラスにとっては、心からありがたいことだった。
 清らかな水面を眺めているだけでも、気分が多少よくなる。釣りでもできれば、なおよい。
 ライデンの姿のまま、ディラスはフレイが用意した釣竿を眺め、餌木になにを使おうおかなどと考える。釣りをして、疲れきった心を慰めぐらい許される。そう思ったものの――改めて絶望が突きつけられていることに気付いた。
 細い釣竿の握りと、自分の手というか、脚を見下ろす。
 そこにあるのは、指ではない。黒々とした蹄のみ。

 釣りができねえー!

 この身体では、釣り道具を持ち上げることすらできやしない。
 角の先に釣り糸を括りつけてもらえば! と、ひらめいたが、そんな自分の姿を想像したら泣きたくなったので、ディラスは考えることをやめた。
 ぎぎぎ、と奥歯を噛みしめる。一生このままライデンの姿で、釣りも楽しめないとか絶対にいやだ! はやくもとにもどりたい!
 だが、とりあえずわかったことは、ライデンの体に自分の意識。自分の体にライデンの意識が宿っているということだけだ。
 ディラスは、世界の不思議や神秘、真理に詳しくない。ルーンをひきつけやすい体質であることは理解しているが、魔法の原理・秘術を深く会得しているわけではない。
 おそらく、ライデンがなにかしでかしたのだろうという予測はできるが、そこまでだ。解決策なんて微塵も思いつかない。
 なので。
『おい、ライデン! 俺の身体を返せ!』
 できることといえば、真正面から抗議することだけであった。
「……」
 こちらの言葉は通じるようなので、あいかわらずフレイとらぶらぶな恋人同士の光景を作り出しているライデンに話しかけてみたものの――まったくもってこちらに興味がないらしく、つん、とあらぬ方向へと顔を向けてしまう。
『……こ、このウマ野郎がー!』
 いままさに自分が馬であることは棚に上げ、ディラスは激昂した。
 突進するか、魔法を使うか、後ろ脚で蹴り飛ばすか、と考えたものの、そうするとまたフレイに怒られる。
 ぐらぐらと、怒りのあまり今にも倒れそうなあやうい意識で、ディラスは必死に考える。が、いい解決策はやはり思い浮かばないのであった。
 一方、ディラスの中のライデンといえば。
「ちょ、ちょっとディラス……?!」
 滝から零れ落ちる水が流れていく川から少し離れた花畑付近にフレイをひっぱっていき、問答無用で座らせると、当たり前のようにその膝に頭を乗せた。
 あまりにも自由すぎるその行動に、フレイさえも目を白黒させている。
「……釣り、しないの? めずらしいね。大好きなのに」
 甘えるように瞳を細め、頬を寄せてくるその姿を可愛いとでも思っているのか、戸惑いながらも青い髪を梳いている。
 あまりにも自然と恋人らしいことするライデンに対し、ディラスは状況も忘れて思わず感心しそうになる。自分にはそんな真似できやしない。
「ふふ、今日は甘えん坊さんなんだね、なんだか可愛い」
 そんなことをいいながら、フレイが膝の上で無防備にさらされた額を優しく撫でる。
「ね、ディラス?」
 フレイが顔を覗きこめば、すべてを預けたままのライデンが、幸せそうに微笑んで手を伸ばした。
 そうして、長い指先でフレイの頬を撫でていく。
 その柔らかな表情とひどく優しい仕草に、フレイが無言のまま瞳を潤ませ頬を染めるのをみて――ディラスの意識は現状を処理しきれなくなり、ゆっくりと停止した。
 あまりにも、綺麗で自然で、微笑ましい恋人同士の触れ合いにしか見えない。
 名のある画家が、恋人の甘い時間を描き出した絵画のように、そこには入り込めない世界ができあがっていた。
「……フレイ」
 やがて、鼓膜を擽るような低く落ち着いた音色で名を呼んだライデンが、身体を起こしてフレイへと手を伸ばす。
「わ、わあっ」
 そのまま、草の上へとフレイを優しく押し倒す。その勢いで花が散ったのか、ふわっと、白い花びらが舞い上がる。
「ディラス……!」
「フレイ……」
 花弁の間を縫うように、流れるような動作でライデンがフレイへと覆いかぶさっていく。慌てるフレイに笑いかけ――ちゅ、とライデンがフレイに口づける。
「ひゃっ?!」
 味わうように、ぺろ、と唇を舐められたフレイが、甲高い声をあげて真っ赤になった。
 色づいた秋の木の葉のように頬を紅潮させて、フレイは圧し掛かる男を見上げる。
「な、え……?! ちょ、ちょっと待って、ディラス……! ど、どうした、の……? んうっ……!」
 唐突にはじまった愛情表現に驚き戸惑うフレイの抵抗を、大きな手でいともたやすく抑え込み、ライデンがそのやわらかな唇をさらに食む。

 なにやってんだ、お前はぁぁぁ!?!?!!

 フレイの頭を押さえ込み、たっぷりと唇を重ねて存分に貪る自分の姿を客観的にみせつけられたディラスの血が沸騰した。
 が。
 止めなければいけない。そう思うのに、フレイの艶めいた声や表情に、目が釘付けになる。
「ん、ん……!」
 苦しそうに眉を寄せるフレイの顔が、なんとも色っぽい。普段は、することばかりに夢中で、その表情を観賞するような余裕などない。口づけを受けるフレイをみるのは、初めてだ。

 い、いつも俺はこんなことしてんのか……?!

 ちらちらと視界を霞めるのは、赤く濡れた小さなフレイの舌だ。それを容赦なく追いかけ吸い上げ、ライデンは深く唇を結んで息を奪っている。
 苦しいのか、ぽろ、とフレイの眦から零れ落ちた宝石のような涙を舐め上げて、ライデンが艶っぽく笑う。
 跳ねるフレイの細い足を、己の長い足を絡めて抑え、またフレイの甘さを味わうように、音をたてて唇を吸い上げる。
 ディラスは、男女の艶事を目撃したことは、いままでない。つまり免疫がない。
 そういう手合いの本をダグからからかいまじりに渡されたことがあったが、表紙をめくっただけで恥ずかしすぎて放り出したくらいだ。いやまあ、あとでこっそりお世話にはなったけれども。
 そんな健全な青少年の事情はさておき。

 やりすぎだろ、俺! ああいや、いまはライデンか――って、そうじゃねえええ!

 ここでようやく我を取り戻し、慌てて駆け寄ったディラスは、フレイを傷つけないよう角の位置に気を付けながら、鼻先でライデンというか、自分の身体を押した。
 一瞬、後ろ足で蹴り上げてやろうかと思ったが、それではフレイごと吹き飛ばしてしまう可能性もある。それはできない。フレイを傷つけるなど、とんでもない。
 だが、びくともしない。動かない。恵まれた長身と体躯がこんなに疎ましいと思ったのは、初めてだった。
 ヒンヒン、と情けない声を漏らしながら、それでもフレイを助けることを諦めないでいると。
「……!」
 どん、と大きくライデンがはいりこんでいるディラスの身体が、下から上へと跳ねた。
 自分がしたことではない。何が起きたのかと、わずかに後ずさる。
 みれば、組み敷かれたフレイが、圧し掛かる大きな身体を押し上げている。その細腕は震えることもなく、しっかりと大きな男を支えている。
 さすがはアースマイト。いや、そこは今、感心するところではない。
「あ、あなた……!」
 真っ赤な顔を悔しそうに恥ずかしそうに歪め、フレイが細く整った眉を下げる。
「あなた、ディラスだけど、ディラスじゃ、ない……! 誰なの?!」
『!』
 そういって、じたばたと、さきほどよりなお暴れ出すフレイに、ディラスは目を丸くした。同じように、ライデンもまた琥珀色の瞳を満月のように見開いている。
 一体、どこでその判断をしたのかわからないが、フレイのなかではそれはすでに確定事項であるらしい。
 迷うことなく、目元をさらに険しくして、フレイが叫ぶ。
「ディラスを、どこにやったの?! やだ、もう! 離し……、て!」
 フレイの言葉の勢いと、その力強さにおされたのか、ライデンがゆっくりと離れる。
 唐突に自由になったことに気づいたフレイが、慌てて身を起こし、自分の身体を抱きしめるようにして距離をとる。
 大きな若葉色をしたフレイの瞳が、ディラスの身体に宿る何者かを見定めるように、凛とした強さで煌めいた。
 その視線を一身に浴びながら、ふ、とライデンが笑う。
 フレイに拒絶され、大きく身を退かれたというのに、場違いなくらいの幸せそうな笑みである。それは、ディラスの肉体において、滅多にみることのできないほどのものであった。
 自分はフレイの前で、こんな顔ができているのだろうか――そう、ディラスが思った次の瞬間。
 ぐらり、と意識が傾いだ。
 ふいに訪れた異常に、きつく目を閉じ頭を振って視界を改めたとき。
 ディラスの世界は、一変していた。
 さきほどまで響いていた、滝の音が聞こえない。木々のざわめき、風の歌声、降り注ぐの太陽の光の温かさも遥か彼方に消え去ってしまった。
 そこは、暗く沈んだ湖の底のような、静かな場所。
 妙な既視感を覚えて、ディラスはきょろりと瞳を巡らせる。
 見下ろせば間違いない自分の姿、足元の向こうには黒い馬体。
 強烈に、今朝方みていた夢の光景が、ディラスの脳裏に蘇った。
 あのときも、たしかに自分は『ここ』にいた。
 ならば。
 近づく何者かの気配に顔をあげれば、ディラスの前に燐光を纏ってほのかに青白く光る大きな馬が一頭、いつの間にか存在していた。
 ぎ、と目元を険しくしながら、拳を握りしめる。

 ――ライデン!

 思わず身構えたディラスに、落ち着けといわんばかりにライデンが長い尾を振った。

 ――ルーンも尽きた。どうやら、ここまでのようだ。ご苦労だった

 のんびりとしていて、だがどこか居丈高な言葉が、耳でなくディラスの脳裏を直接揺さぶった。
 それがライデンからの語りかけだと理解したとき、元来気の短いディラスのどこかが、ぶつりと音をたてて切れた。

 ――ふざけんな! 人の身体で散々好き勝手なことしやがって、タダですむと思ってやがんのか……! っ、?!

 こめかみに青筋をたて叫びながら、飛びかかろうと一歩足を踏み出す。
 しかしそれを妨げるように、ごう、とライデンの後方から突風が吹いた。
 反射的に腕をあげて顔をかばう。腕と腕のあいまから、ライデンの姿を捕えようと試みるが、それもままならない。
 ふわり、つま先が浮く。世界を形作る闇に引きずられ、飲み込まれるような感覚が、ディラスの全身を襲う。
 今までに味わったことのないものに、ぶれそうになる意識を気合で持ち直す。
「う……ぐ……!」
 だが、気持ち悪い。どうしようもなく、気持ち悪い。
 込みあがる吐き気を堪えるように、口元に手をあてて――はた、とディラスは気づいた。
 それは間違いない、長い五本の指がある自分の手だ。目の間で、何度も開いたり閉じたりしてみる。懐かしささえ感じる、自分の感覚。
 気づけば世界の色も、鮮やかなものへとなっていた。なにもしらぬ無垢な小鳥のさえずりが、ディラスの鼓膜を優しく震わせる。

 もどれた……のか……?!

 喜びに、胃の腑が掻き回されるような不快感が、一瞬にして吹き飛んだ。
 俯かせていた顔を勢いよくあげて――うっ、とディラスは呻いた。
 目の前には、ディラスをあらんかぎりの力で睨み付けてくるフレイがいる。
 慌てて視線を走らせれば、すぐそこで黒馬が一頭、静かに立ち尽くしている。
 まずい。
 たらり、とディラスの背をいやな汗が滑り落ちる。
 ルーンが尽きたとかなんとか、ライデンがいっていたが、つまりなんというか、またもや原理がわからぬが、ディラスとライデンの意識は元の身体に戻ったようだ。
 だがそれは、喜ばしいことであると同時に、フレイをさんざんに貪ったあとのライデンの後始末を押し付けられたということではないだろうか。
 ひくっと、ディラスは喉を震わせる。
 どうやって、フレイに説明する? どう説明すれば、わかってもらえる?
 難題を突き付けられたことに気付き、全身を強張らせかたまったのを好機とみてとったのか、涙目のフレイの身体が跳ねた。
「ディラスを返してー!」
「フレイ、お、おちつけ……って、うおおおお?!」
 うわぁぁぁん、とフレイが泣きながら飛びかかってくる。
 どうやらフレイも混乱しているらしい。
 ボスモンスターさえも一撃で黙らせる正拳突きをかまされないだけましだが、ばしばしぼこぼこと、容赦なく小さな拳がディラスを叩いてくるのはなかなか痛い。というか、かなり痛い。
「やめろって、いって……! げふっ?!」
 さすがはルーンプラーナさえも一人で闊歩する猛者である。宥めようとした隙に、うっかり炸裂したフレイのみぞおちへの一撃は鋭い。
 ディラスが痛みに身悶えていると、その向こうで静かに立ち尽くすライデンが、ふふんと鼻を鳴らした。どうみても、笑われたようにしかみえない。

 あいつ、いつかぜってぇぶっとばす!

 そう心に誓いながら、ディラスは泣くフレイの顔を両側から強引に掴むと、すう、と息を吸い込んだ。
「フレイ!」
「っ?!」
 大きな声をあげれば、びくんっ、とフレイが震えて動きを止めた。
 その隙を逃さず、ディラスは唇を重ねる。
 いつもしているように、やわらかに許しを得るように触れあわせてから、ゆっくりと深く重ねる。
「ん、ん……」
 そうすれば、ぎゅっとフレイの手がディラスの服を掴んだ。
 勢いをなくしたフレイが、おとなしくなったことを確かめながら、ディラスは微かな音をたてて唇を離す。
 はふ、と息をついたフレイが、ぽうっとしながら濡れた唇を動かす。
「……ディラス、だ……よかったぁ……」
「な、なんでわかるんだ……? さっきは、違うっていってただろ……ん、」
 ちゅ、ともう一度唇を重ねながら、ディラスは呟く。
「だって、あのときのディラスの、違ったんだもん……」
「……?」
 顔を少しだけ離した距離を保ちながら、フレイの言葉の先を待つ。
「全然、違ったから、」
 あのね、とフレイが大きな瞳に涙を溜めて、いう。
「唇の重ねかたとか、角度とか……舌の動きとか……。あとね、いつも気持ちいいところを優しくね、舐めあげてくれるのに、「だああああ! もういい! もう喋んな!」
 自分のキスの方法を逐一言葉にされてはたまったものではない。ディラスは顔を真っ赤にして叫んだ。
 黙らせるように安心させるように、フレイの顔を自分の胸へと押し付けて抱きしめる。
「とにかく、俺じゃないってわかったんだな?!」
 口を押えられたまま、ふごふごとフレイが頷く。
「……なら、いい。悪かった、その、怖かっただろ……?」
 決して自分が悪いわけではないが、ディラスは侘びるしかない。
「ううん……、だいじょうぶだよ」
 ほーっと、フレイが安心したように身体の力を抜いてディラスにぴったりと寄り添ってくる。
「でもやっぱり、ディラスだけど……ディラスじゃなかったんだね」
 もとに戻ってくれてよかったー、と、フレイが背に腕を回しながら笑ってくれて、ディラスもほっとする。
 俺も戻れてよかった、と心の中で零しながら、ディラスはフレイの額に唇を寄せた。
「あれ? じゃあ、さっきのは誰だったのかな?」
「……あいつだ」
 くすぐったそうに首を竦めるフレイの純粋な疑問に、ディラスは顎をしゃくって、すぐそこで草を食むライデンを示した。
 わずかな沈黙のあと、フレイの驚愕の声が、ヨクミール森に響き渡った。

 

 

 ほんとうに、今日一日はとんでもない日だった。
 ディラスは苦々しく朝からの騒動を思い出し、渋い顔をしながら帰路を辿る。
 あのあと、釣りをしたりフレイお手製のお弁当を食べつつ、ライデンの意識がディラスの身体を乗っ取った現象について話し合ったものの、結局はわからずじまい。
「ほんと、なんだったんだろうね」
「俺のほうがききてぇよ」
 釣竿とバケツをもった手と逆のほうをフレイと繋いだまま、ディラスはため息をついた。
 心身ともに突かれきったディラスに向かって、フレイがくすくすと笑う。
「だよね。あ、そうだ! レオンさんに訊いてみる? なにかわかるかも!」
「……やめてくれ」
 いい考え! と顔を輝かせるフレイには悪いが、ディラスにはからかいたおされる未来しか思い浮かばない。
「そっか。じゃあやっぱり……、あっちにきいてみるとか?」
 二人揃って顔を向けた先には、ライデン。夕焼けに染まった道に長い影を作りながら、ふり、と長く美しい尾を揺らして優雅に歩いている。
 ディラスは、ひょいと肩を竦めた。
「喋るとでも思うか?」
「……うーん、難しいかも? そもそも言葉がわかんないね」
 あははっ、とフレイが苦笑する。
「でもライデン、とっても機嫌よさそう」
「そりゃあ、あんだけ好き勝手やれば、楽しかっただろうよ」
 ディラスの脳裏に、朝から今までのライデンが引き起こしたことが駆け巡る。ポコリーヌやアーサーやマーガレットにも、なんていえばいいのか。
 だがそれよりもなによりも。
 こほん、とディラスはわざとらしく咳払いをして、フレイの意識を自分へと向けさせる。
「あ、その、な……。ライデンが、その、フレイにしたことだけどよ……」
「うん?」
「……俺以外が、フレイに触れるのは、嫌だったから、その……俺も気をつけるが、フレイも、なんだ……あやしいと思ったらもう少し警戒してほしいっていうか……」
 二度とあんなことがないようにと願わずにはいられないディラスの、歯切れの悪い言葉の意味を掬い上げてくれたのか、フレイが笑う。
「ふふっ、やきもちやいちゃった?」
「……悪いか」
 ずばり指摘され、恥ずかしさもあってぶっきらぼうに答えると、フレイが頭を振った。
「でも、ディラスだったし」
 仕方なくない? と可愛らしく首を傾げられても納得できない。
「身体だけだろ」
 むすっとディラスが指摘すれば、フレイが誇らしげに胸を張る。
「でも、ちゃんとわかったし」
 褒めて褒めてといわんばかりの笑顔に、ついついその頭を撫でてしまう。
「……お前、ほんとすごいよな」
 その点は、心から感心できる。
 と。
 フレイが「そうだ!」と呟きながら、ディラスを上目遣いで見上げてきた。いいことを思いついたような、素晴らしい悪戯を思いついたような、そんな小悪魔的な表情に、ディラスは一瞬たじろぐ。
「ね、ちゃんとわかったんだからご褒美ほしいな」
「ご、ご褒美って、」
 何を渡せばいいのかわからず、困って眉を下げれば、フレイがころころと笑いながら足をとめた。
 なにか欲しいものでもあるのかと、向き合うようにディラスも立ち止まる。すると。
「ん」
 瞳を閉じ、わずかに唇を尖らせるようにして、フレイがつんと爪先立ちする。
 フレイがなにを望んでいるか、ここまでされればさすがのディラスにもわかる。
「なっ、お、おい……!」
 すでにセルフィアの街へと続く城門は見えている。
 つまり、誰か見知った人間が通ってもおかしくはない場所である。
 そんなところでキスをねだるなんて、大胆すぎる。
「はやく」
 だが。
 ん、とさらに背伸びをして急かしてくるフレイの姿は、ディラスの理性を吹き飛ばすくらいに、魅惑的だ。
 あたりをきょろきょろと見回したディラスは、誰もいないことをしっかりと確認して――数度呼吸を繰り返す。
 フレイの長い睫毛が、夕焼けがもたらす金色の光を帯びて震えている。自分だけを、自分のぬくもりだけを待つフレイが、たまらなく愛しくて可愛くて。
 ディラスは高い背をかがめると、フレイへと唇を寄せた。
「……やっぱり、これがディラスのキスだよね」
 いつもどおりのキスを終えれば、薄く瞳を開いたフレイが、うっとりと微笑みながらそんなことをいう。ディラスは、思わず首を傾げた。
「俺には、よくわかんねーけど……」
 ふわふわと、とろけていきそうな様子で笑うフレイにとっては、何かが違うらしい。それが、ちゃんとわかるらしい。
 ディラスはする側なので、よくわからない。それに他の誰かと口づけた経験もないのだから、比較もできない。
 しょうがないなぁ、とフレイが笑う。
「ディラスのキスはね、すごく優しいんだよ? ……とっても、幸せな気持ちになれるんだ」
 だから、大好きなの。そんな風に続けられて照れない男がいないとでも思うのだろうか。
 ぶるぶると震え、何か言いたいけれど、上手く言葉にできないディラスは、口下手すぎる自分を少しだけ呪った。
 ぶっきらぼうに、フレイの手をとる。ぐい、と力強く引く。
 やっぱりフレイが、どうしようもなく、好きだと思った。
「……さっさと帰るぞ」
「うん!」
 そうして、ディラスはフレイの手をしっかりと握りしめたまま――二人で生きる大切な街への門をくぐった。

 

 

 数週間後――

 

 

『?!?!!!』
 またもやライデンと入れ替わったディラスの悲鳴が、モンスター小屋に馬の嘶きとして響いていた。

 

 物事はきちんと解決させましょう。