扉を開けた佐隈りん子は、頬を引きつらせた。
今の事務所内の空気を色としてあらわすならば、ピンク。それも、ゲスい感じのピンク。夜のネオン街とかラブホテルとかがふさわしいような、どぎついピンク。
こんなところにお客さんがやってきたら、この事務所で働く佐隈の精神状態が疑われそうな惨状に、手荒く扉を閉める。
だって、今ここにいる人間は自分ひとり。悪魔は仕事の状況によるが常に数匹いるけれども、あのプリチー姿は普通の人間には見えないのだ。花も恥らう女子大学生が、ピンクの空気をこれでもかと発しているもの――すなわちエロ本に埋もれるようにしてアルバイトしているなんて、かなりヤバイ。
もしかしたら、佐隈の趣味と思われかねない。まあ、今日に限ってはそんなことはないだろうが。
「もー! アザゼルさん?! またこんなに散らかして!!」
まったくもう、買い出しから帰って早々、叫ぶことになろうとは。
佐隈は、こめかみに青筋をたて、こんな部屋に仕立て上げただろう悪魔相手にブチギレた。
足音荒く進み、自分のデスクに荷物を置きつつ、室内をキツイ視線でみまわす。
が、あっはんうっふんと豊満な体を惜しげもなく晒した女たちの写真が視界を掠めるだけで、諸悪の根源の姿はない。
「おかえりなさい、さくまさん。ふむ、所望したカレーまんも、ちゃんとあるようですね、結構」
極上のベルベットようになめらかな声が、事務所内にこだまする。
ぎ、と睨みをきかせてそちらを向くと、美しい金の髪を揺らし、青い瞳を満足げに細くした青年と視線が絡んだ。
散らばったエロ本を気にもせず、ソファに悠々と腰かけたベルゼブブ――今日は仕事に必要とのことで結界を解かれ、人と変わらぬ姿である――が、読んでいたとおぼしき本から顔をあげ、優雅に手をひらめかせている。
どうやら、ここまでもってきなさい、ということらしい。
まったくもって、この貴族のおぼっちゃん悪魔も、存外手間がかかる。まあ、アザゼルよりは全然マシなのだが。
それにしても、エロ本に囲まれていても絵になるとか、美形ってズルイ。男なのだから、エロ本の持ち主と判断されるだろうとかちょっと思ったけど、そんな疑いは王子様スマイルひとつで霧散するに違いない。やっぱりズルイ。
「ベルゼブブさん、アザゼルさんはどこにいったんですか?!」
つかつかと近づいて、苛立ちを隠さぬままカレーまんの入った袋を突きつける。
「やつあたりしてくんじゃねぇよ、ブス。アザゼルくんならほら」
袋をうけとった手とは逆の手が、しなやかにひらめく。ひょい、と長い指が指し示す方向をみて――
「うわっ」
佐隈は小さく声をあげて、嫌そうに顔を歪める。
そこには、血の花が盛大に咲いていた。ソファの影になってみえなかったが、床が真っ赤に染まっている。その上で、ぐずぐずになっている物体は、肉片だろうか。
「いつものように氏の不興を買いましてね。散々に打ち付けられたあと、外に投げ捨てられて星になりましたよ」
カレーまんを取り出し、ぺりぺりと底についている紙をはがすベルゼブブの嬉しそうな様子とは正反対の凄惨な内容に、佐隈は肩を落とした。
つまり、アザゼルはここにいないということだ。
グリモアをちらつかせて後片付けをやらせようと思ったのに!
まったく、余計な仕事ばかり増やしてくれる悪魔である。
「もー、この床を掃除をするの私なのに……!」
これっぽっちもその身を案ずることなく、やることが増えたことだけを佐隈は嘆く。
しかし、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。どうせアザゼルは放っておいても勝手に戻ってくるのだし。正直、どうでもいい。
なかなかひどいことを考えているがその自覚もあまりなく、佐隈は腰に手を当て、再び辺りを見回す。
とりあえず、この本をどうにかするのが先だろう。掃除はそれからだ。
佐隈は手近にあるものに手を伸ばしながら、言う。
「ベルゼブブさん、片付けるの手伝ってください。ほら、そこの本、集めてください」
はむはむと、幸せそうにカレーまんを頬張っていたベルゼブブが、至福のひとときを邪魔するなと言いたげな視線を佐隈に向ける。
「なぜ私が、そんな汚らわしい本に触らなければいけないのです? ふざけたこといってんじゃねぇよ、クソが」
ケッ、と唾こそ吐かぬものの、あからさまに嫌そうな顔をされて佐隈は腰に手をあてて、顔をぐいと近づけた。目を眇め言う。
「カレーまん、ちゃんと買ってきたじゃないですか。召喚のイケニエとは別なんですから、その分くらい働いてください。それともグリモア制裁のデザートでもおつけしましょうか? その姿で弾けていただいてもいいんですよ? どうせもう床は汚れているわけですし?」
グリモア、という単語が効いたらしい。うぐぐ、と怯んだ様子はなかなかいい。胸がすくような気分になる。
「ったく……この魔界の名門貴族ベルゼブブをなんだと思っているんだこのビチグソ女」
ぶつぶつとぼやきながら、カレーまんを名残惜しげに平らげたあと、ベルゼブブがソファから立ち上がった。
美青年が黙々とエロ本を集めていくのは、なかなかにシュールな光景のように思えた。が、それを笑ったら機嫌を損ねるのは火を見るより明らかである。
黙々と、同じように本を拾い集めながら、ふと佐隈は思い立つ。
「そういえば、ベルゼブブさんってこういうのに興味ないんですか?」
手にしたエロ本と、ベルゼブブが読んでいたものを見比べる。ソファの上に置かれているのは、カレー特集が乗っている雑誌だ。こういうもの以外にも、佐隈にはとんとわからぬ学術書や小難しい言い回しの小説などを読んでいることもある。
「は? こんなものをみてどうしろっていうんですか? まったくもって品のない女ばかりではありませんか」
手にした本を、心底嫌そうに見下ろして、ベルゼブブがはき捨てる。
その視線に好色じみたところなどひとかけらもない。むしろ軽蔑とか侮蔑とか、そういう類のものである。
ああー、と佐隈はひとり納得する。
「そうですよね。ベルゼブブさんって、性欲っていうより食欲って感じですしね」
悪食を通り越している彼いわく「高尚な趣味」を思い浮かべながら、佐隈は曖昧に笑った。
きっとベルゼブブは、彼の好物と裸の絶世の美女を並べたところで、好物のほうへと迷うことなく突き進むだろう。悪魔の本能って恐ろしい。
そんな考えが滲み出ていたのか、それとも暴露の悪魔の洞察力か、ベルゼブブがため息をつく。
「……あなたね、私のことをなんだと思ってるんですか?」
え、と小さく声を零したあと、佐隈は目を上に泳がせる。
「えーっと……ベルゼブブさんはベルゼブブさんですよね」
それ以上、どう思えというのか。
「それは私を悪魔と認めているがゆえの発言だと、ひとまずとっておきますがね」
はーっと、ベルゼブブは芝居がかった様子で頭を振る。
「私は男。男ですよ。わかってるんですか、さくまさん」
「それは知ってますよ」
いまらさベルゼブブが女性だといわれても困る。あんなものを食べる美女とか泣ける。
自分の想像にぞっとしながらも、エロ本を集めていく。
「知ってる、ってだけでわかってるわけじゃないでしょう。このクソ処女」
心底呆れ返ったような口調に、へえ、と佐隈は感心する。どうやらこの悪魔にも、そういったものへ裂く心は多少なりともあるようだ。意外。
「じゃあ、ベルゼブブさんもいっぱしにそういうことに興味あるんですね」
「……マジコロスぞ、このブス」
それなりに言葉を選んだつもりだったが、お気に召さなかったらしい。
ピギィ……、ペンギン姿のときと似たような声をあげながら、ベルゼブブが額にかかった髪をかきあげる。
「――私とて興味はありますよ」
静かな言い方をされて、佐隈は調子にのった。もっと怒り狂うかと思ったのに、予想外な穏やかさで返されたせいだろう。
「へえー。たとえば?」
わくわくと問う。だがそれは、なんとなく尋ねただけのこと。深い意味はない。
たとえば、金髪の女がいい。青い瞳がいい。胸は大きめがいい。腰がくびれているほうがいい。尻は大きめ。でも、足は細いほうがいい。そんな「好み」を何気なく尋ねたつもりだった。
わずかに考えるそぶりをみせて、手をとめてしまったベルゼブブの、その足元に落ちている最後の一冊を手に取ろうと佐隈は歩み寄る。
ひょい、としゃがんで何気なく伸ばした手のうえに、ベルゼブブの手が重なる。ひやりとしていて、温かみはない。だけれど、心地よい、そう思う手。
いつのまに、と訝しく思いながら顔をあげると、同じようにしゃがみこんだベルゼブブの顔がすぐそこにあった。
近いなぁ、とぼんやりと思いながら僅かに首を傾けると、ベルゼブブの薄い唇が動いた。
「さくまさん」
「はい? なんですか?」
わざわざ名前を呼ばずとも、この至近距離ならば何を言われても自分に対するものだと判断できるのに。
ベルゼブブの顔が、どうしようもねぇなコイツ、とあからさまに歪んだ。
「呼んだわけじゃねぇよ。阿呆ですか? ああ、失礼。馬鹿でしたね」
そこまでいわれる筋合いは、さすがにない。
「……は?」
顔を強張らせ、いつもより一段階低くい声を出す佐隈をみて、やれやれとベルゼブブが折れる。
「あなたの質問に答えているんですよ。そういった興味があるといっているんです」
えーっと。
とられたままの手と、ベルゼブブを交互に見遣る。
興味のたとえを自分は訊ねた。それに対して、ベルゼブブは『さくまさん』と応えた。
それはつまり……――なんというか……、佐隈りん子に、興味がある、と……聞こえる……ような……。
まさかねー! と笑い飛ばそうとする前に、ベルゼブブがずいと顔を近づけてくる。
「固まっていると不細工がさらに不細工になりますよ」
「あいたっ」
トン、と額を突かれて、佐隈はわずかにのけぞる。倒れるかと思ったが、手を掴むベルゼブブが微動だにしないので、そこを頼りになんとか無様な姿をみせることは免れた。
一方をベルゼブブに絡めとられ、もう一方にはエロ本を抱えているせいで、熱と痛みを訴える額をおさえることもできず、佐隈は叫ぶ。
「だ、だって、それじゃあ、まるで、――っ、」
言いかけた言葉が、自意識過剰だと笑われそうな予感がして、唇を引き結ぶ。
だがそうせずとも、ベルゼブブにはわかったらしい。珍しいものをみたというように、瞳が動く。
「おや、思った以上にものわかりがよい。今日の思考回路は正常以上に働いておられるようで。結構なことです」
にっこりとほほ笑むベルゼブブに、何もかも見透かされているようで腹がたつ。
「な、なに、いって……!」
何を? と、訊ねるのは簡単だったが、なんだか嫌な予感がして、佐隈は逃げようともがく。しかし、ベルゼブブの手は離れない。
悪魔ということもあるのだろうが、圧倒的な力の差に、男であるということは知ってはいたが、やはり男というものをわかっていなかったのだと痛感する。
佐隈の様子を楽しそうに眺めながら、ベルゼブブが青い目を細める。
「一体あなたは何で形作られているのか、なにを隠しているのか、秘めているのか――興味深い」
にぃ、とベルゼブブが口元を歪める。
「きっとあなたは、この心が満ちたりるような顔を見せてくださるに違いないと、そう思っているのですよ」
「あ、悪趣味……!」
エロ本をベルゼブブの手に叩きつけ、戒めが緩んだ隙に己が手を胸元へと引き寄せる。ばさばさと、せっかく重ねていたエロ本が、床に散らばる。
ふん、それをため息をついて拾いながら、ベルゼブブが言う。
「人の隠しているものを暴くのは心が躍るもの。おわかりいただけないとは実に残念」
アザゼルの職能である淫奔が彼の性質・行動原理でもあるように、ベルゼブブもそうであるらしい。
ぞぞぞ、と肌を粟立たせながらわずかに後退する。
「な、なんかそれって私の質問の意図と違うんですけど!」
「?」
握られていたところを撫でながら、憮然と零した佐隈に対し、ベルゼブブが不思議そうな顔をみせる。それが妙にあどけなくて、怒るつもりだった気持ちが僅かに綻びる。
「ええっと、その、どんな女性が好みか、きいたつもりだったんです」
それを悟られまいと、顔をことさらしかめる。
青い瞳が、見開いた。
「おや」
だが、それはすぐに三日月のような弧を描く。
「私の好みが知りたいとは、いじらしい」
ゆるり、緩慢すぎるように思える仕草で、テーブルの上に本を置きながら、ベルゼブブが小さく笑う。
「はあ?」
そんな言葉で返されるようなことをしゃべったつもりはない。
屈めていた背をただし上品な立ち姿をみせるベルゼブブが、吊り上った口元に手を添える。
「まあ、あなたが私好みのレディになるとも思えませんが、いやいや、努力をするというのはよいことですよ。報われないとわかっていてもね。そういう無駄な努力をするのが凡人というもの。どうせあなたに私の希望を申し上げたところで、あなたの生涯すべてかけてもその域に達することはないでしょうが――精々頑張りなさいな」
高みの見物をするにはちょうどよい。そんな様子でさらに楽しげに笑うベルゼブブに、佐隈は食ってかかる。
「だ、誰がベルゼブブさんの好みの女性になりたいなんていいいましたか!? しかも、私じゃレディになれないって確定してるんですか?!」
「無理でしょう?」
呆れるまでもなく、馬鹿にするでもなく、ただの事実を確認するがごときベルゼブブの淡々とした静かさに、佐隈は唇をかみしめた。
「……」
くやしい。が、そのとおりである。
あいにくと、人間であるうえ、庶民すぎる庶民の家庭で育った佐隈にはそんな素養なんて一欠けらもないだろうし、どこをどうしたらレディとなれるのかも、とんと見当がつかない。
「もういいです!」
ぷいっ、と顔を背けた佐隈は、ベルゼブブがまとめてくれた本たちを、テーブルから手荒くひったくった。
「おや、私の好みが知りたいのではなかったのですか? この私のために」
「そうじゃないっていってるじゃないですか!」
怒りを振りまき、どかどかとはしたなく足音を立てて歩き出す。
「さくまさん」
「なんですか?! ――っ!?」
しつこい! と怒鳴りつけようと振り返ったその先に、ベルゼブブが迫っていた。
ひくっと息を飲む佐隈へ、大きな手が伸びてくる。
髪がひとふさ、男へと流れていく。
「私に、暴かれてみませんか?」
そんな言葉とともに、やわらかに、佐隈の髪へとベルゼブブの唇が落ちる。
その瞬間、男の長い指に絡められた髪に、ぴりりとした電流が駆けた気がした。
「あなた自身も知らぬあなたを、私なら引き出せる。特別に、やさしくしてさしあげます」
歌うように囁かれ――そうして、にやりと嗤われて、はっと佐隈は我を取り戻した。
「!」
真っ赤になった顔を覆う余裕もなく、慌てて身を翻す。
這う這うの態で逃げ出した佐隈を見送り、残念がるようすもなくベルゼブブがまた嗤う。
「ああ、そうした恥らう姿は、そうですね、さくまさんにしてはまあ、悪くはないですねえ――ねえもっと、みせてくださいよ」
伸びてくる手から、逃れ後ずさる。
絶対嘘だ。やさしくするなんて絶対嘘だ。
そう思わせるだけの、綺麗でいてひどく悪魔的な笑顔。ああ、悪魔なのだから当然か。
「~~~っ!」
口付けられた髪を押さえ、ぷるぷると震えていた佐隈は、口を金魚のようにあけしめした後、部屋を飛び出した。
悪魔らしい哄笑が、追いかけてくるように響くのを振り切るように。
そうして、事務所の片隅にある新聞や雑誌を置いてある場所に突進して――へたりこむようにして、しゃがみこむ。
はあ、とようやく息をつく。いつの間にかとめていた呼吸を繰り返す。頬が、溶けていくように熱い。
わかっている。あのタチの悪い悪魔に、からかわれたのだ。
恋愛経験皆無の処女だと思って、ちょっかいをかけてきたのだ。
あんなの、ベルゼブブの本気じゃない。というか。
本気だったら――こまる、よ。
ふわり心の奥底から泡のように浮かび上がった甘い感情を弾けさせるように、佐隈は自分の頬を叩いた。
「あー、も~~……心臓に悪い……」
この歳までそういう色恋に慣れてこなかったほうが悪いといわれればそれまでだ。もっとそういう経験があったなら、さらりと躱すことができたのだろうか。だがそれは、考えたところで埒が明かない。
とりあえず、顔の熱さがひいたら、事務所にもどろう。
そう思いながら、自分の膝を抱えた腕に顔を押し付ける。
きゅ、と無意識のまま握り締めた自分の髪に、あの悪魔の冷めた熱が灯っているような気がした。