悪魔のカレーは恋の味

 ついつい鼻歌が零れそうになる。
 魔界の貴族として、紳士として、みっともないところをみせるべきではないと頭でわかっていても、身体が反応しそうになる。
 それもこれも、いま目の前にある、罪深くそれでいてそそる香りをはなつ品のせい。
 だから私は、ちっともこれっぽっちも、まったくもって悪くないのです!
 そう心の中で断言したベルゼブブは、鼻から胸いっぱいに空気を吸い込み、堪能し――ゆっくりと吐き出して、目を細める。
 その姿を愛でるのも、紳士たるもの怠ってはいけない。
 いまにもほろりと崩れれそうなくらい煮込まれたビーフ。数種類の香辛料を巧みに配合した芳しい匂い。それらが生み出す調和のとれた辛みを想像するだけでたまらない。きっと、煮溶けた野菜がもたらす複雑な甘みもよい隠し味となっているだろう。ころりとしたニンジンとジャガイモが、褐色の衣をまとってベルゼブブを誘っている。
 一見すればシンプルなカレーだが、見えぬところでの手間がかかった一品である。
 ブブブ、とせわしなく翅が動くのをとめられない。じゅるり、くちばしの合間から涎が滴りそうになるのだけは、貴族の矜持でなんとか堪えた。
「はい。ベルゼブブさん、どうぞ」
「ありがとうございます、さくまさん。すばらしい出来です。褒めて差し上げます。この最強の悪魔ベルゼブブの掛け値なしの賛辞ですよ。死ぬまで光栄に思いなさい」
「はいはい」
 ことり、と事務所の机の上に置かれた皿の上には、白い炊き立てご飯+さくま特製のカレーという黄金コンビのイケニエである。
 さらにせわしなく動いた翅のせいで、若干浮き上がったベルゼブブに、おざなりな返事をしていた佐隈が笑う。
「でも、そういっていただけるなら、頑張ったかいがあります。はい。お水、ここにおいておきますから」
「ええ。ではさっそくいただきますとしましょう」
 いそいそと、銀のマイスプーンに手を伸ばしたベルゼブブは、佐隈がエプロンを外し鞄を手に取ったことに気付いた。
「おや、でかけられるのですかな?」
「はい。近くの文房具屋さんまでいってきます。コピー用紙がなくなったので」
「……そうですか」
 ひとりで食べるのは寂しいのですが――そういいかけた口を、ベルゼブブはつぐむ。
 なにを甘えたことを言おうとしたのか。子供でもあるまいし。
 いくら契約関係を逸脱した関係にあるとはいえ、それを言葉にするのはベルゼブブのプライドが許さない。
 つーか、それっくらい察しろよ、このビチグソ女ァ!
 そう心中で罵ったところで、鈍感な佐隈が気づくわけもない。
「お留守番お願いしますね、ベルゼブブさん。帰ってきたら書類作成手伝ってくださいね」
「……おまかせを。お気をつけて、さくまさん」
 軽やかな足取りで事務所をあとにする佐隈の小さな背を、やや憮然としながらも見送り。
 ベルゼブブは小さく息をついて、カレーを再び見下ろした。そうすれば、ちょっと心に涌いた嫌な気持ちが吹っ飛んでいく。
 じゅるるる、と涎を啜る。が、それでもあふれた一滴が、ぽたりと机の上に落ちていく。だが、とがめるものは誰もいないのだから、別に知ったことではない。
「では、今度こそ――!」
「おい」
 目を光らせ、胸の前で交差した手に捧げ持つスプーンを繰り出そうと意気込んだベルゼブブの、心を砕く声が響いた。
 びくー! とベルゼブブの体が本人の意思とは関係なく、強張り跳ね上がった。それは反射だ。自分より絶対的な上にたつものへの、ありとあらゆる恐怖がそうさせた。
「っ?!」
 慌てて声がした方向を見遣ると、さきほど佐隈がでていったばかりの扉を開き、芥辺が立っていた。
「な、なななな、なんですかな?! アクタベ氏! お、おおおおかえりなさいいい?!」
「仮眠をとっていただけだ」
「そ、そそそ、それはし、し、失礼しました……!」
 何をされたわけでもないのに、呼吸が乱れ、鼓動が速まる。嫌な汗が噴出し、がたがたと手足が震える。
 ただそこに立っているだけなのに、最強の悪魔たるベルゼブブをここまで萎縮させる芥辺恐るべし。
 ちらり、不機嫌そうではないが、小さな子供ならその一睨みだけで泣き喚かせるだけの眼光が、ベルゼブブへ――否、ベルゼブブの前におかれたカレーに注がれる。
「イケニエか」
「は、ははははい! さ、さきほど用意していただいたばかりでして!」
 ベルゼブブの声が、みっともなくひっくりかえる。だが、芥辺の恐ろしさをしっている悪魔なら、概ねこうなるはずだ。だから、自分が不甲斐ないとかいうわけではない。決してない。
「まだ食っていないのか」
「え、ええ」
 さっさと食べやがれといわれているものだと思ったベルゼブブは、慌てながらスプーンをカレーへと突き立てようとして――ぞわ、と背筋を這いずり回る悪寒に硬直した。
 じっとりと、火山から流れる溶岩のように重く熱く、それでいて南極の突き刺さる氷のような冷たさも孕んだ芥辺の視線が、ベルゼブブの呼吸すらもその場に縫いとめる。
「すこし待て」
「――っ、は、はっ……!」
 そろそろ窒息して死ぬ、と頭の片隅で考えた頃、ふいに芥辺が視線をはずした。どっと汗が噴出す。ベルゼブブが全身で呼吸をしながら、緩慢に視線をあげると、かつかつと靴音を鳴らし、芥辺が炊事場へと入っていくのがみえた。
「……??」
 訝しく思いながらも、呼吸を整える。
 と。
 ベルゼブブの座っている場所からはみえないが、ガタガタバタンバタンと棚を開け閉めするような、何かを探しているような物音がきこえてくる
 そしてほんの一分もたたぬうちに、ぬ、と芥辺が再び姿を現す。ピッ、と小さく悲鳴がクチバシの合間から漏れるのは、どうにも止められなかった。
 闇色のスーツに包まれた腕が、空気を真横に切り裂く。
「?!?!」
 べしべしと二連打で、ベルゼブブの顔に飛来した四角いもの。
 顔に角がめり込んでいるその物体を、ピギャァ……と悲鳴交じりに引き剥がし、ベルゼブブは確認するべく見下ろして――またもや身体を強張らせた。
 どこかレトロチックなデザインと色合いの、平べったい紙製の箱がひとつ。
 もうひとつは、ぴっちりと中のものを封じた、赤と白のデザインがほどこされたプラスチック製の、これまた平べったい箱。一部が透明になった上蓋から、規則正しい形をした楕円形の穀物がみえる。
 ベルゼブブは両の手にそれを一つずつ持ちながら、叫ぶ。
「こ、これは、レトルトカレー?! それに、パックごはんではないですか!」
 まさか!
 ベルゼブブの嫌な予感というか、嫌な未来予想というか、確実に訪れるだろう想定結果を裏付けるように、芥辺が近づいてきて――ひょい、とベルゼブブの前におかれたカレー皿を無情にも攫っていった。
「みりゃわかるだろうが。おまえはそれでも食ってろ」
 死刑宣告に等しい言葉に、たっぷりと数秒その絶望を味わい、ベルゼブブは仰け反った。
「――な、なななな?!?!?!」
 うまく感情を言葉にできず、怪鳥のような悲鳴交じりにただ叫ぶ。
 そんな悪魔の悲鳴など静かな森に可愛らしく響く小鳥の囀り程度にしか感じないだろう芥辺は、さっさとソファに座った。そして、ちゃっかりと炊事場から持ってきたのだろうスプーンを、無造作にカレーへとのばす。
「い、いいいいい、嫌です! 断固拒否いたします! そのカレーこそ、私へのイケニエ! たとえ氏であろうとも……! ゆるっさぁぁぁぁん!!」
 そんな外道で非道なことさせてなるものかと、ベルゼブブは目を光らせながら飛び掛る。手を刃のように魔力で変形させ、その命を屠らんと肉薄する。
 しかし。
「あ”?」
 ぎちぎちと、空気というか、空間を歪ませるような、絶対の死を脳裏に思い描かせる芥辺の視線に晒されて――
「申し訳ありませんでした」
 ベルゼブブは、魔王のように悠々と座す芥辺の足元で、土下座して謝った。これで、イケニエの交換は成立してしまったわけである。
 ベルゼブブの背中が踏みつけられなかったのは、おそらく佐隈のカレーが美味しいからであろう。無言で食べはじめた芥辺の足元から、よろりとベルゼブブは飛び立つ。
 そのまま炊事場に向かい、パックご飯とレトルトカレーを温める。
 ほかほかと湯気のたつそれらを皿にうつして事務所内にもどると、至高のカレーはすでに半分ほどになっていた。
 それを無気力に横目でみながら、己の席に腰掛けた瞬間、ベルゼブブの脳裏に、遠い昔の言葉が蘇った。

 ――この世は何でてきていると思います? それはね、『理不尽』ってもので、できているんですよ――

 そう言ったのは蠅の王。すなわちベルゼブブ本人である。
 かつて、ベルゼブブを召喚した人間がいた。
 人の身には分不相応な望みをかなえたベルゼブブは、イケニエを要求した。当然だ。対価があってこその契約なのだから。
 だから、その者にとってもっとも大切な価値あるもの――『この世でもっとも愛する者の命』を要求した。あの頃は今より若干やんちゃだったので致し方ない。それに、なんでも差し出すといった、召喚者の意思を尊重したまでのことだった。
 そのときの、絶望の表情を愉快だと見下ろした瞬間は、すこぶる気分がよかったと記憶している。
 そういえば、あの男は最後にはどうしただろう。自らの手で女を殺したのだったろうか。はてさて、イケニエを用意できずに、契約違反の罰として虫になったのだったろうか。  まあ、愚かな人間の末路などはどうでもいい。
 今、重要なのは自分がそのときに口にした台詞である。
 まさか身をもって、認識を新たにすることがあろうとは……。
 考えれば考えるほど、激情が小さな身体の中を暴れ狂う。本性を晒すことができたなら、感情のままに、このあたり一帯は死の匂い漂う地獄にしてやったところだ。
 理不尽だ。ああ、理不尽だ。
 まったくもって、世界は理不尽というものでできているといわざるをえない!
 一週間前に頼みに頼み込んでようやく作ってもらえることになったカレーを、奪われなければならないのか!
 金に執着激しい佐隈を頷かせるために、宥め、脅し、甘言を弄したというのに。
 あの努力を無駄にされ、ベルゼブブは、コロスコロスと精一杯の呪いを心中で呟く。
 そのくらいで殺せるならば、なんにも苦労しなくていいことぐらい、強い力を有するベルゼブブはよくわかっている。が、呪詛を繰り返さないと自我が崩壊しそうなので、意味がないとわかっていてもやってしまう。
 そんな、嵐と地震と火山噴火が一斉に起こった心境でありながらも、性質の悪い王侯貴族のような傲岸不遜さでカレーをたいらげていく芥辺を前にしたベルゼブブは、小さくなって震えるしかできない。
 いまできることは、イケニエの代わりにだされたレトルトカレーを口に運ぶことのみだ。
 マイスプーンを動かしながら、ベルゼブブは遠い目で中空を眺める。
 ほんの数分前は、幸せだったのに――と。
 悪魔が幸せなどに浸っているんじゃねえという突っ込みが入りそうだが、幸せだったものは幸せだったのでしょうがない。だがそれは、とりもどせない過去へと流れていった。
 厳しすぎる現実にうちひしがれながら、ベルゼブブがレトルトカレーを平らげた頃。
「もどりましたー」
 何も知らぬ佐隈が、腹が立つほど暢気で平和そうな顔をして、事務所へと帰ってきた。
「あ、綺麗に食べてくれたんですね。味のほうはどうでした? 結構自信あったんですよ」
 どさり、とコピー用紙の束を自分のデスクに降ろした佐隈が、ベルゼブブの前にある皿をみて屈託なく笑う。
 ぎりりり、と歯を軋らせ、八つ当たりという罵詈雑言を吐き出そうとしたベルゼブブの気勢を殺ぐように、芥辺が立ち上がる。
「ああ、うまかった。ごちそうさま」
「ありがとうございま――って、え?」
 飾り気のない賛辞に、ぺかぺかとした笑顔で頷いた佐隈であったが、顎を引ききったところで、「ん?」と眉をひそめた。
 そして、ぱ、ぱ、とベルゼブブと芥辺に、交互に視線を送る。不思議そうな、理解できなさそうなその様子に、苛立ちが募る。
「氏が、その……、食べられたのですよ」
 かといって、叫んで暴れれば、芥辺からの折檻が容赦なく加えられる。やすやすと想定されることに自ら飛び込むほど、愚かではない。友人の悪魔と違ってそのくらいの分別はある。ベルゼブブは阿呆ではない。
 懸命に自分にそう言い聞かせ、ぷるぷると震える手でスプーンをおろす。
「え、じゃあ、ベルゼブブさんの前にあるのは……」
 佐隈の言葉に、ベルゼブブはさらに震えた。
 無言のまま目元を厳しくし、口を閉ざしたその様子に察するところがあったのだろう。
「あー……」
 なんともいえない声を、佐隈がもらした。
 とはいえ、彼女も雇い主である芥辺にはそうそう逆らえない。よほど自分の身に難が降りかかるようなことでなければ、佐隈は芥辺に従う。
「じゃあ、仕事にいってくるから。今日はもどらないから戸締りよろしく」
 カレーによって胃が満たされたせいだろう。いつもより心なしか機嫌よく、芥辺はそうひとこと言いつける。
「あ、はい! お気をつけてー」
 手をひらりと振った佐隈であったが、ふと、その手を止めて遠い目をする。
「……アクタベさんが気をつけることって、なにかありますかね……」
 扉が閉まり、足音が遠ざかったことを確認したあと、ぽつりとつぶやかれた言葉に、ベルゼブブは即座に頭を振った。
「そのようなもの、ないでしょうな」
 送り出した佐隈が自分の発した決まり文句にすら疑問をいだきたくなるような存在は、そうしてこの場から消えた。
 ふつり、切れる緊張の糸。
 人間一人分と、悪魔一匹分の安堵のため息が、事務所にかすかに響き渡った。
 小さな靴音とともに、ベルゼブブに近づいてきた佐隈が、しゃがみこむ。
 見上げると、佐隈は苦笑していた。しょうがないですね、という声がベルゼブブに降る。
「アクタベさんにカレーをとられちゃったんですか? まさか、ベルゼブブさんが自分から譲るわけないですもんね」
「……はい」
 あのときの恐怖と悔しさを思い出したら、また身体が慄いた。震えながら頷くベルゼブブの頭に、ぽん、と乗せられる柔らかく温かなもの。
 丸い目を見開いて、ベルゼブブはそれを凝視する。とはいえ、見えるのは佐隈の華奢な腕なのだが、その先にあるものを考えれば、今自分が何をされているのかは容易に想像できる。
「よしよし」
「……なにしてんだテメェは……」
 子供をあやすように頭を撫でてくる佐隈を、ベルゼブブはぎりりと睨みつける。が、そんなものには当の昔に慣れきったらしい佐隈は、楽しそうに笑うだけ。
「いやー、ベルゼブブさん泣きそうなんで、慰めてあげようかなと」
「……泣いたりしませんよ、失敬な!」
「きゃっ!」
 ベルゼブブは佐隈の手を払うと、そのまま飛んだ。押し倒すような勢いをつけたせいか、驚きの声があがる。
「わわ、っと……!」
 思わぬ衝撃によろけた佐隈が、しりもちをつく。ベルゼブブはそのまま、腹あたりに顔をうずめた。
 擽ったそうに身をよじり、色気のない笑い声をあげた佐隈だったが、すぐにベルゼブブを抱きとめるように腕をまわしてくる。
 くすくすと、全身で笑う佐隈の振動が、ベルゼブブに伝わる。
「何を笑っているのですか! このベルゼブブを笑って許されると思ってンのか、このビッチ!」
「す、すみません……! だ、だってなんだか……ふふふっ」
 ぷんすかと手足をばたつかせて怒ってみせるが、佐隈は楽しそうに笑うだけだ。そうしているうちに、手が背に触れる。優しい動きが心地よくて、苛立ちが解けるように消えていく。
 が。
「それにしてもベルゼブブさん、すっごく楽しみにしてたのに、残念でしたねー。もったいないなあー、すっごく美味しくできてたのになー」
「さらっとトドメさしてきてんじゃねーよ! ビチグソ女がァ!」
「あっははは!」
 そんなこと、食べられなかったベルゼブブが一番わかっているというのに、改めて言ってくるとか鬼だ。癒されかけていたというのに、なんという仕打ち。
 ベルゼブブは、ぎゅっと目を閉じ、笑う佐隈の服を掴む。
「だから――その、今度また、作ってくださいよ……」
 小さく小さくプライドの隙間をぬうようにして願った言葉を、佐隈はちゃんと掬いあげてくれた。はい、と素直に応えが返ってきて、ほっとする。
「今度は、とられないようにしてくださいね」
 まったくもって他人事のように言ったと思ったら、佐隈がベルゼブブの頭を突いた。
「それにしても、ベルゼブブさん、もっと頑張れなかったんですか?」
「それ、私に死ねとおっしゃっているのと同じことですよ?! わかってんのか、オラァ!」
 勢いよく顔をあげ、形相を変えて食ってかかると、佐隈は朗らかに笑っていた。その表情に、冗談だったのだと瞬時に理解する。
「あはは、それもそうですよね。すみません、無理いっちゃいました。ただ……やっぱりベルゼブブさんのために作ったものだったから、ひとくちくらいは食べてほしかったなーって、そう思って」
「……すみません」
 視線をあわせながら頭を再び撫でられて、ベルゼブブはすんと鼻を鳴らした。手間暇かけたことは想像するに難くない。ベルゼブブも残念だったが、佐隈もまた残念なのだ。
 そう気づいたら、危うかった涙腺がさらに危うくなった。
「しかたないですから。よし、よし」
「悪魔なんだと思ってやがるんだ、てめぇはよ!」
 ピギャァ! とわめきながらも、ベルゼブブは優しい手を受け入れる。
 え? と佐隈が間の抜けた声をこぼしながら、わずかに首を傾げた。
「ええっと、ベルゼブブさんはカレー大好き悪魔ですよね?」
「……」
 そのとおりだが、身も蓋もない。魔界のプリンスと称されるベルゼブブをつかまえてこの言いよう。
 まったく、師弟揃ってこれなのだから、自分の現状は不遇と断じるには余りある。だが、嘆くもののことよりも、得るもののほうが大きいのもまた事実。
 そのひとつである存在が、にっこりと笑う。
「ちゃんとまた、作りますから。ね?」
「……はい」
 とうとう零れた悪魔の涙を、細い指先が拭う。ぐす、すん、とベルゼブブは顔を伏せて、佐隈の膝の上で丸くなる。
 こんな姿、友人にはとてもみせられたものではないが、いないのならばかまわない。しばらくでいい。この心が癒えるわずかな時間でいい。ベルゼブブは、佐隈が嫌がらないのをいいことに、そっと頬を摺り寄せる。
 そうしていると、なにか思いつたのか「あ」と佐隈が声をあげた。不思議に思ったベルゼブブが、怠惰にも佐隈の膝の上で身をよじると、見上げる位置にある佐隈の顔が、いつになく愛らしく笑みを形作る。いつぞやの、苺の戦士を思い出させるそれ。
「次のイケニエで作るのはもったいなさすぎるので、こんどの材料は全部ベルゼブブさんもちでお願いしますね! ……私、今月ピンチですし」
「この守銭奴のクソブスー!」
 うふ、とわざとらしいしなを作ってそんなことをいう佐隈に対して、ベルゼブブは思わず叫んだ。
「そのかわり、私の家に招待しますから」
「……!」
 思いやりが足りないだの、これだから貧乏人は! などと続けようとしたところで、さらりと告げられた誘いに、ベルゼブブは固まった。

 な、な、な、なんですとー?!

 世間一般ではイイ関係とされる自分たちであるが、色っぽい雰囲気になったことは数える程度、佐隈の家にいけるなど生涯ありえない夢幻かと思っていたところでの、魅力溢れる言葉。ベルゼブブにとって衝撃以外の何物でもない。
 アザゼルだって、あの芥辺だって、いったことのない場所だろう。なぞに包まれた佐隈のプライベートを垣間見るチャンス! あわよくばもっとこう、親密になれるやも……!
 気づけば、ベルゼブブは佐隈の膝の上で正座をしていた。
 コホン、と動揺を気取られれぬように、自分を落ち着かせるために、咳払いをひとつ。
「――わかりました。それで手をうちましょう。この魔界の貴族たるベルゼブブが訪れるにはあまりにも貧相な家だとは思いますが……氏の魔の手から逃れるにはそれしかなさそうですし。普段は脳の動きが鈍いあなたにしては、よい考えだと思いますよ」
 にや、と口元を歪めながら褒めてやったというのに、佐隈の瞳が糸をはったように細くなる。
「……そんなこというと、また事務所で作りますけど?」
「ヒッ! そ、それだけはやめてッ!」
 トラウマになりつつあるさきほどの光景を再び繰り返してなるものか。血相を変えて、ベルゼブブは全身を跳ねさせる。
 すると。
 ぷ、と佐隈が噴出した。
「ほんと、ベルゼブブさんてカレーがお好きですね!」
 必死の訴えが通じたのか、くしゃり、佐隈が笑う。わが子の我侭を受け入れる母親のようなその雰囲気に、ベルゼブブはなんだかくすぐったくなる。
 男として微妙な心境を味わいながらも、気が変わられても困ると、口をつぐむ。
 ころころと笑いながら、ベルゼブブを片手で抱き上げ、佐隈がカレー皿に手を伸ばす。後片付けをしようというのだろう。
 それを眺めながら、ベルゼブブは目を眇める。
 この女は、わかっていない。
 ほんとうに、このクソはわかっていない。
 自分がカレーを好きだと思うのは、それはもちろん嗜好の範疇であるからなのだが、ここまで固執するのは、それは――『佐隈が作るカレー』だからなのに。そこにたまらない、中毒性のある恋の味を見出しているからなのに。
 いつになったらそこまで理解するのだろうか。
 もしかしたら、死ぬまでわからないんじゃなかろうか。
 ただひたすら、カレー大好きな悪魔だからと思われるのだろうか。
 そんな妙な不安を覚えるものの、理由を教えてやるつもりはない。
 人の生は春に咲き綻び散る桜のように短く、悪魔の生は遠い夜空の星を掴みにいくほどに長いけれど、それでも重なる程度の時間の猶予はあるのだから。
「まあ、いつか気づいてくだされば僥倖といったところでしょうか――」
「え? なんですか?」
「なんでもありませんよ、さくまさん」
 ベルゼブブは、二人分のカレー皿を手に炊事場へと向かう佐隈の肩に、抱きしめるように張りついた。