恋の病で愛の罰

 己の手が感じる、ひりりとした違和感に、ベルゼブブは眉間にわずかな皺をよせた。
 四本の指、長い爪、人のそれとは明らかに違う皮膚に包まれては――いない。
 当然だ。
 今は、忌々しい芥辺によるソロモンリングによって、ぷりちーな姿にかえられているのだから。
 魔界にいるときとはまったく違う手を見下ろし、首をひねる。
 ひりひりとした痛みのような痒みのような、妙な感覚は続いている。
 これはどうしたことだろう。
 何かあっただろうか。
 何かしただろうか。
 ふむ、と自分の行動を振り返っっていると。
「どうしたんですか、ベルゼブブさーん? 約束の時間に遅刻しちゃいますよー」
「いくでー、べーやーん」
 わずかに離れたところで、ベルゼブブの契約主である佐隈と、友人であるアザゼルが声をかけてくる。
 じっとりと二人と数秒眺めたあと、ベルゼブブは翅を震わせそちらへと飛んだ。
「さくまさん、あなた……」
「?」
 ようやくやってきたベルゼブブに睨むようにみつめられ、佐隈がわずかにひく。
「あなた、妙な病気でももってるんじゃないでしょうね。変な皮膚病とか……」
「はあ?!」
 唐突するぎた言葉に、佐隈が顔色をかえた。
 花も恥じらう女子大生としては当たり前の反応だろう。
 女らしい滑らかな曲線を描いた頬を引きつらせる佐隈の足元で、盛大な笑い声が弾けた。
「ぶっ、うははははは! あらへんあらへん、こんなドがつくような処女が性病なんて! なあ、さくぅ? ――ぶぐふっ!」
「悪かったですね、ドがつくくらいで! っていうか何で性病なんですか! ベルゼブブさんそんなこといってませんよ!」
 問答無用で落とされたグリモアを脳天で受け止め、賽の目状に体が崩れたアザゼルに、いずこからから湧き出したグンタイアリがたかりだす。ひとつひとつ肉片が、強靭な顎に挟まれ、つれていかれる。どこかは知らないが、楽園などではないことは確かだ。
「なんなんですか、急に!」
 目を吊り上げる佐隈に対し、ベルゼブブは冷静に応える。
「いえね、あなたに触れたところがどうにも痛いというか痒いというか」
 そう、その感覚に気付く少し前に、ベルゼブブは佐隈に触れた。ほんの少しのことだったけれど。
 身だしなみにあまり頓着しない佐隈の頬に、いつのまにか落ちていた睫毛を払った。ただ、それだけであったのに。
「え?! だ、だいじょうぶなんですか?」
 慌てた佐隈に詰め寄られ、ベルゼブブは驚く。
「どうしましょう、アクタベさんにきいたほうがいいですか? 私じゃ悪魔の病気はわかりませんし……」
 心なしか青い顔で、おたおたと鞄から携帯電話をとりだす佐隈を、ベルゼブブは押しとどめる。
「いえ、ご心配には及びません。もう治りました」
 芥辺などに連絡されてたまるものか。ベルゼブブは咄嗟に嘘をつく。
「そうですか?」
 ほ、と佐隈が息をつく。
 だまされやすい女で助かった。内心嘲笑っていると。
 よかったという安堵の言葉が、ささやかにベルゼブブの聴覚を擽る。
 たったそれだけのことなにに、わずかに鼓動がはやくなる。それにあわせて、手の違和感が増した。痒みや痺れなどではない。明確な『痛み』として。
 これはなんだろう。
 靄のような輪郭のない感情が、胸一杯に広がる。
 気持ち悪くはない。ただ、今まで知らないものに、ベルゼブブは戸惑う。それが全身にまわっていけば、痛みがさらに鋭くなった。
 ぎゅう、と手を握る。
 未知のものをすべて潰したいのに、それはかなわぬことだった。
「とにかく、私は病気じゃないですから。皮膚科にもかかってません。異常だってありませんよ? ほら」
 そういいながら、佐隈が頬を突き出してくる。
 確かに、若い女らしいハリのある肌には吹き出物もない。変色するなどのおかしな点もない。
「まあ、確かにそうですね。ですが、たしかに……」
 この感覚は、幻ではなく現実。
「じゃあ、ベルゼブブさんの異常はなんでしょうね?」
 うーん、と一人と一匹は同じように腕を組み、頭を傾げる。とはいえ、その原因がこれで判明するなら苦労はしない。
 また調べてみればいいと結論付けて、ベルゼブブは佐隈の瞳をみつめる。
「ところで、急がなくてもよろしいのですかな? そろそろ依頼主との約束の時間なのでは?」
「あああっ!」
 うっかり街角で話し込んでしまっていた佐隈は、ベルゼブブの言葉を受けて、はっと今の状況に気付いた。
 足元にいたはずのアザゼルは綺麗さっぱりアリ達に持ち去られていて、影もかたちもない。
 まあ、勝手にベルゼブブと佐隈の仕事についてきただけなのだから、いてもいなくても正直なところ問題ない。
「いきますよ、ベルゼブブさん! あの依頼主、時間に厳しいんですから!」
「はいはい」
 そういって駆け出した佐隈に離れることなくついていく。
 ひりりとした痛みは、まだ続いている。

 

 

 そんなことがあってから、痛みは消えることなくベルゼブブの体を苛むようになっていった。
 はじめは大したことはなかった。佐隈に触れれば、そこに妙な感覚が宿る程度だった。
 しかし、時間がたつにつれて、それは堪えがたい痛みに変わっていった。
 今では不用意に触れることがためらわれるくらいだ。
 イケニエであるカレーのスプーンを受けとうろうとして、ほんの少し指先が触れただけで、身体が硬直するほどの痛みが全身を駆け回る。
 ゆえに、ベルゼブブは細心の注意をはらって、佐隈に接するほか手がなかった。
 これでは仕事にさえ支障が出てくる。もし、天使に襲われたとき、佐隈を守れないかもしれない。
 佐隈がもつベルゼブブのグリモアが天使の手に渡れば、自分は死ぬ。そして、悪魔使いたる佐隈も無事ではすまないだろう。
 そんな事態、この超エリート悪魔たるベルゼブブが容認できるわけがない。
 早急な原因究明が必要だった。
 そうして、ベルゼブブは仕事の合間をみつけては、家にある貴重な古い蔵書の数々をひもといていった。じいや召使に命じることもできたが、プライドがそれを許さなかった。こんな状態を知られたくはない。
 ここ最近は、浮気調査が立て込んでいたために進んでいなかったが、今日は完全オフの日だ。
 なにかあれば呼び出しがあるだろうが、基本的に仕事はない。ゆっくりと資料に目を通すことができるだろう。
 じいに書庫にいることを告げ、ベルゼブブは本の保管のために薄暗くしてある室内へと足を踏み入れた。
 これまでに目を通した棚を素通りし、ここからと決めていた場所にたち、手を伸ばす。
 素早く視線を動かし、ページをめくっていく。
 一冊がおわり、次。
 有用な情報がなければ次。
 大量の本を前に、ベルゼブブは黙々と戦いを挑んでいく。
 しかし、収穫はない。
 数十冊に目をとおし、一息ついたベルゼブブが顔をあげると――黒い背表紙の本が、本棚の上にあるのがみえた。
 タイトルはみえない。
 なんの本かもわからない。
 あんなところに置き捨てられたような本が、ベルゼブブを導く答えを持っているとは、思えないが……妙に、気になる。
 ふわり、ベルゼブブは浮かび上がって手を伸ばした。掴んだそれは、ずっしりと重い。
 ゆっくりと床にもどりながら埃を払い、表紙を見下ろす。そこには、なにも記されてはいない。
 確かめるべく、ベルゼブブは本を開いた。
 そうして、ベルゼブブは目を見開いた。素直に驚いた。
「これは……。どうして、このような場所に」
 本だと思ったものは、何代も前の『悪魔ベルゼブブ』の日記であった。
 ただし、輝かしい一族の中、唯一の汚点として口にすることも許されぬ愚かな当主の、である。
 伝え聞いたところによると、契約主を殺され、グリモアを奪われ、そうして消滅してしまった、最低の『悪魔ベルゼブブ』。
 現当主たるベルゼブブも、話だけは聞き及んでいる。その後、グリモアが復活するまでの間のことは、ベルゼブブ家の秘されるべき歴史としておおやけに語られることはないけれど、一族ならば知っている者は知っている。
 だが、外部のものでそれを知るものはもはやいない。すべて、次代のベルゼブブがくらってしまったという。一族の栄光を、守るために。
 そんな最低の悪魔が書いたもの。たいしたものではないはずなのに、抗えぬ何かに導かれるようにベルゼブブはその日記を読み始めた。
 最初のページは、はじめて召喚された日のことだった。
 黒髪のちんくしゃな女であったなどと、さんざんにこきおろした内容だ。
 まあ、悪魔にとって人間への認識などその程度のものだ。
 この『悪魔ベルゼブブ』が失敗するのはいつだろうかと、安易な気持ちで読み進めていくうち、ベルゼブブの眉間に少しづつ皺が寄っていく。
 女への悪態はいつしか失せ、気づけば抑えられぬ恋心が綴られていた。甘く、苦しく、切なく、悲しい。そんな言葉の羅列に、ベルゼブブは愕然とした。
 なんだこれは。
 悪魔の中の悪魔たるベルゼブブが、人間に恋をしただと?
 ありえない――だが。
 悪魔が人に心を奪われる事実以上に、そう断言する判断の陰にそれも仕方ないと認める己がいることに、ベルゼブブ優一は焦る。
 ありえない。あってはいけない。これ以上、読むべきものではない。そんな価値はない。やはり、この『悪魔ベルゼブブ』は長い一族の歴史の中の汚点中の汚点だ。唾棄されるべき存在だ。
 そう思うのに、視線も手もとまらない。
 やがて、気になる一文が目に飛び込んできた。

 ――彼女に触れられなくなった。手が、唇が、痛くて仕方がない。これはどうしたことだ。だが触れたい、触れたい。針の山を歩く心地であったとしても、この気持ちは抑えられない。彼女に、触れたい――

 そこから慌てて読み進めた先でわかったことは、恋心を募らせるたびに痛みは鋭く重く、『悪魔ベルゼブブ』を苛んだということだった。
 契約主たる女と、その『悪魔ベルゼブブ』は、これはグリモアの罰なのだろうと結論付けていた。
 つまり『悪魔ベルゼブブの狂おしいほどの恋心は、契約主に危険なものである』と、グリモアが判断したのに違いないと。
 その考えには、納得できた。
 グリモアに触れなければ、悪魔に超常現象的な罰はくだされない。だけれど、グリモアは契約主を守る絶対のもの。なにがあろうと守るもの。
 本に悪魔が触れずとも、主を守るために悪魔に罰を下す方法が必要になった。
 ゆえに、悪魔の恋心が募れば募るほど、グリモアは保護の力を増し、最終的に契約主に触れるだけで罰がくだるようになっていったに違いない。
 だがその頃には、女も悪魔を愛していた。
 報われることなどない、誰に祝福されるでもないとわかっていても、互いの気持ちはとめられなかった。
 契約に感情はない。ただ、取り決められた内容を、厳正に粛々と守り通すだけだ。

 悪魔の人への愛は――害である。

 そう互いに認識しあった一人と一匹は、それでも愛していくのだと、彼らなりの愛を貫くと決めたと、古びた紙面に記していた。
 悲しい恋の結末が綴られたページをめくる。
 それからは、何事もない穏やかな日常が続いていた。触れることはできずとも、言葉と笑顔を交わす幸せな日常がそこにあった。
 だが、すぐに何もないページにいきあたる。先を確かめてみたが、日記はそこを最後に途絶えているようだった。
 ああ、おそらくこの後だと、ベルゼブブは理解した。
 天使の襲撃を受け、この時代の『悪魔ベルゼブブ』が、愛する女と共に死んだのは。
「……っ、」
 乱暴に、ベルゼブブは日記を閉じた。きつく挟み込んだ両の手が震えている。
 いつしか呼吸を忘れていたらしく、酸素を貪るような呼吸を繰り返す。全身から血が抜かれたような寒気に体が震える。
 耐えられなくなったベルゼブブは日記を床に叩きつけ、書庫から飛び出した。
 途中、お茶を用意してきたらしい、じいとすれ違う。「ぼっちゃま?」という穏やかな呼びかけに答えることなく自室へと向かう。
 扉に鍵をかけると、大きな寝台へまっすぐに歩み寄った。上着を脱ぎ棄て、タイを外し、どさりと音をたてて寝転がる。
「冗談じゃねぇ……」
 手の甲を目もとに重ねる。
 あの日記の内容が真実であるとするならば。
「まさか、この私が、あんな女に惚れているとでも?」
 嘲笑するように馬鹿にするように、ベルゼブブは言葉にする。
 だが。
 そう自分で口にした瞬間。
 是、という気持ちしか、胸の内には湧きあがらなかった。
 その事実に、泣きたい気持ちを抑え、唇を噛む。
 自信作だとカレーを差し出しながら笑う佐隈。アザゼルとふざけているときに怒ってきた佐隈。モロクがグリモアを奪われ消滅したときに泣いていた佐隈。
 あれもこれもどれもそれも――どうしてこんなにも輝くように記憶に焼き付いている? どうしてこんなにも、溶け落ちるくらいに甘い心地になる?
 それは、最も愚かな『悪魔ベルゼブブ』が辿った道筋をなぞり、最後に行き着いた感情とおなじもの抱いていることに他ならない。
「ビチグソ女の分際で……!」
 いつ、この心に住む許可を出したというのか。
 悔しくて、悔しくて、どうしようもない激情に身を任せ、ベルゼブブは寝台から跳ね起きる。
 テラスに続く窓を壊れるくらいの勢いで開け放ち、一歩一歩進みながらその姿を変えていく。
 魔界の空を統べるもの。そう呼ばれるにふさわしい真の姿をあらわにしたベルゼブブは、力強く翅を震わせ、雷鳴轟く暗い空へと舞い上がる。
 あてもなく、どうしたいかという考えもないまま、ベルゼブブは独り彷徨う。
 ただ、むしょうに、なにかをこわしてやりたいとおもった。

 ―― 一時間後、不運な魔界のとある地域が、瘴気に底に沈んで消えた。

 

 

 泣き叫びたい気持ちを抱え、何度、愚かだと自分を嘲笑っただろう。
 こんな感情捨ててしまえと、幾度、心から追い出そうとしただろう。
 いっそ、この原因となった佐隈を殺してしまえば楽になるかと思ったが、手折ろうとした花はどうしようもなく恋しくて、それはかなわなかった。
 向き合うたびに、もう少し、もう少しと見逃して――ベルゼブブは、戸惑いながら恋心を育ててしまった。
 自分でもどうしようもできないくらいに大きく花開かせてから、ベルゼブブは絶望した。
 どこかで甘く思っていた。本気になればいつだって、切り捨ててしまえると高を括っていた。
 否。
 それはきっと強がりだった。
 手放したくないという願いを覆い隠す皮。恋の病にかかった自分を、直視できないがゆえの愚かな仮面。
 もう、どうしたらいいのか――ベルゼブブは、出口の見えない迷宮に放り出されたような暗澹たる気持ちで、ソファに深く腰掛けた。
 芥辺事務所のものは安物ではあるが、身を休めるくらいはできる。どちらかといえば、回復させたいのは精神のほうだったが、それは難しいとわかっていた。
 ゆるゆると、ベルゼブブは瞳を閉じる。
 今日は、静かだ。
 芥辺はグリモアの情報を得て、海外出張中。佐隈はアザゼルをつれて仕事にでかけた。光太郎はグシオンとともに友人の悪魔使いのもとへ遊びにいってしまった。
 つまり、ベルゼブブの主な仕事は留守番だ。
 高位悪魔であるベルゼブブにこんなことをさせるのは、あとにもさきにも佐隈くらいなものだろう。
 ふふ、と口元が緩む。
 本来なら腹立たしいことこのうえない仕事のはずなのに、それでもいいと思うあたり、哀れなくらいに絆されている。
 欲しい。
 どうしようもなく、佐隈が欲しい。
 だけど、触れれば身を裂かれるような痛みがベルゼブブを襲う。この腕に抱くことすらできない存在を、自分はどうするつもりだ?
 疲れきった精神に引きずられるように、身体がまどろみの泥の中へと沈み込んでいく。
 佐隈が帰ってくるまでのわずかな休息に、ベルゼブブはすべてを委ねた。
 グリモアに、この心は届かない。
 愛しいのに。
 こんなにも、愛しいのに。
 人の身を滅ぼすような想いかもしれない。でも、止める方法も、捨てる方法も、もうわからない。
 悪魔はなにかに祈ることなどない。でももし、今のベルゼブブを救う何かがあるのなら、生まれて初めて祈ってもいいと、そう思う。
 それは神か。それとも魔王か。
 あるいは――自分のすべてを変えてしまった忌々しい女か。

「――……――……」

 ふいに、なにか呼ばれたような気がして、ベルゼブブは薄く視界をあけた。
 ぼんやりとした意識で、目の前の存在を認識する。
 眼鏡の奥にある少しつりあがった瞳が、優しい視線をベルゼブブに向けている。
 ふわり、なにか柔らかなものが身体に触れる。かすかに鼻を動かせば、感じるにおいに息が零れる。
 神でも魔王でもなく、この心を捧げるならあなたがいい。
 ああ、ああ、やはり、どうしようもないくらいに――あなたを、

「愛しています――さくまさん」

 とろけるような心地で、胸の奥底から吐露した告白は、世界へと確かに響いた。
 そう、思ったよりもはっきりと、くっきりと、現実にある自分の耳に届いた。
「……!」
 ベルゼブブは目をむいて、素早く身を起こす。
「ち、が……!」
 失態だ。
 今、自分がしでかしたことを理解すればするほど、ベルゼブブの口内がからからに乾いていく。血の気が引く。
 どうやら、ほんのわずかな間に寝入ってしまっていたらしい。
 夢と現実の区別がつかなくなるなど、不覚!
 くらり、と眩暈がした頭を、軽く振って正気をとりもどす。
 そんなベルゼブブに向かって、言葉の弾丸が襲い掛かった。
「ああ、やっぱりそうなんですか」
 けろり、とした顔で、やはりそうなのかと頷く女が、地球外生命体のようにみえた。
「……は?」
 たっぷりとした間を置いて、ようやくそれだけ発することができたベルゼブブの前で、佐隈が首を傾げる。さらりと流れた黒髪に、胸の奥がざわめく。触りたいと叫ぶ心をなんとか抑えるだけで精一杯だというのに、そんなことはおかまいなしに佐隈がいう。
「え? ベルゼブブさんが私のことが好きなんでしょう?」
 なぜ、私に問い返すのか意味がわからないというように、訝しげに寄せられる眉。
 その瞬間に、全身を走った衝撃といったら。
 恥ずかしいやら、腹立たしいやら、悔しいやら――とにかく、これまでに味わったことのない感情の渦がベルゼブブの中で嵐のような激しさとともに生まれた。
「ちがう!」
 悲鳴のように否定して、翅を震わせて飛び上がる。その拍子に、ベルゼブブにかけられた佐隈の膝掛けが、床へと落ちた。
 そうして見下ろした佐隈は、驚いたように目を見開いていた。
 アザゼルをつれてはいないが、事務所から数時間前に見送ったときと同じ姿。時計に素早く視線をおくれば、すでにそのときから数時間経過していた。
 帰ってきたことに気づかぬくらい、意識が佐隈へのことでいっぱいになっていたのか。
 ぞっとする。
 これでは、あの『悪魔ベルゼブブ』の二の舞になる。
 恋に溺れて、愛に飢えて、死ぬ。
「私が、そんな、こと……!」
 そんなことになって堪るか。
「あのですね、ベルゼブブさん、私――っ、」
「うるせぇ! ――ぐ、あ……!」
 伸びてきた手を払いのけた瞬間、脳天から雷の直撃を受けたような鋭い痛みが、ベルゼブを襲った。
 激昂するあまり忘れていた。
 今、佐隈に触れればどうなるかということを。
「ベルゼブブさん?!」
 翅を使うことも出来なくなり、ぐらりと落ちかけたベルゼブブに、佐隈が手をのばす。助けようというその甘さが、嬉しくて憎らしい。
「触るなってんだよ! 汚らわしい!!」
 なんとか気力を振り絞り、ベルゼブブはその手をかわした。ほんとうなら触れたいはずのものから、大きく距離をとる。
「なんなんですか、もー」
 面倒くさいなぁ、といわんばかりの顔で、佐隈がいう。
「恥ずかしいんでしょうけどね、これにちゃんと書いてあるんですよ?」
「!?!」
 そういって近くにおいてあった鞄から取り出してくるのは、ベルゼブブのグリモアだった。
「ほら、グリモアって悪魔の弱点とかいろいろ……ええ、まあ、ほら、いろいろと書いてあるじゃないですか」
 一瞬垣間見せた遠い目は、あまり個人のプライバシーを覗き見するのはよくないという佐隈の良心がさせたものかもしれない。だが、一番ばれて欲しくない部分をみたのならば、ベルゼブブにとってその配慮はないも同然である。
「弱点の項目に書いてあるんですよ。『佐隈りん子』って」
 ひく、とベルゼブブは頬を震わせた。
 というか。

 すっかり忘れてたァァァ!

 このベルゼブブがなんたることか。人間との契約で一番重要となるグリモアの性質を失念していた。
 グリモアからの罰にばかり目がいっていた。落とし穴もいいところである。
 なんかもう、床の上に四つん這いになって項垂れたい。
 絶望に黄昏つつあるベルゼブブの前で、ぽん、とグリモアの表紙をたたき、佐隈がいう。
「もし、苦手とか嫌いとかなら、そっちの項目にあがりますよね。でも弱点の項目にあるってことは……」
「テメェが未熟で弱っちい悪魔使いだから気をつけろってことだろうが!」
「えー……まあ、それはたしかにそういう意味でも弱点でしょうけど……」
 取り繕うベルゼブブを、佐隈が納得いかないというように不満気な声をもらす。
「というか、」
 すう、と細くなる瞳。ぞわり、とベルゼブブの背中を滑り落ちたのは悪寒。人がするような目ではない。
 それすらも、いとおしい。
「最近、私のこと避けてますよね。ベルゼブブさん、なにがしたいんですか?」
「なっ……!」
 まさか、ばれているとは思ってなかったベルゼブブは、一瞬言葉につまる。
 馬鹿だ阿呆だ間抜けだとばかり思っていたが、そこまでではなかったらしい。
 この反応に、さらに佐隈の目がつりあがる。
「わかってないと思ってたんですか? いつもさりげなく距離とってたじゃないですか。 それとも私、なにかしました? 不満があるならはっきりいってください」
「そ、それは……!」

 テメーが私の心を引っ掻き回してるからでしょーが!

 とはいえず。
 ベルゼブブがくちごもると、佐隈が床を踏み鳴らすようにして迫ってくる。
 思わず、避けようと身を翻したら、上着の裾をすばやくつかまれた。
「なにしやがる!」
「なに逃げようとしてるんですか! もう、さっさと認めちゃえば楽になりますよ!」
「ふざけんな! この悪魔ベルゼブブが逃げるなど……!」
「嘘!」
 ずい、と顔を近づけられて、息を飲む。

「私のこと、好きなんでしょう?!」

 そのとおりだ。
 人でないくせに、人を、佐隈を愛している。
「――うぬぼれんな、ブスが!」
「うわっ!?」
 激しく身をよじり、佐隈の手から上着の裾をふりほどくと、どうあっても手の届かない天井付近まで急上昇する。
「ちょっと、ベルゼブブさん!?」
 ぴょん、ぴょん、と跳ねながら手を伸ばしてくる佐隈の指先を見下ろしながら、ベルゼブブは息を整える。
 やがて、佐隈の息がすっかりあがり、ただ下から睨みつけることしかできなくなった頃には、ようやくベルゼブブの痛みもひいていた。
「おりてきてください」
「お断りですよ」
 無言で、佐隈がグリモアのページを開く。す、と指を揃えた手のひらを向けられる。
「じゃあ、落っことします」
 そういって、仕置き用の呪文を口にしはじめる佐隈に、ベルゼブブは青くなった。かつて路地裏で爆散させられた記憶が脳裏を過ぎる。
「っとに容赦ねぇな、テメェはよ!」
 そのことに加え、ここ最近のアザゼルへの仕置き方法をよく見ていたベルゼブブは、顔を引きつらせた。
 逸らすことなく視線を注いでくる佐隈の顔は本気だ。真っ黒こげになるくらいの雷程度では済まないかもしれない。
 ピギィ……、とベルゼブブは声をあげながら目を眇める。
「……条件があります」
「なんですか」
 じりり、と相対しながら、ベルゼブブはこれは譲れないことだと、佐隈に言う。
「私には、近づかないこと。触れないこと。この二つを守っていただきたい」
「……わかりました」
 軽い音をたて、グリモアが閉じられる。
 佐隈は、基本的に約束を守る女だ。それを破ることはまずありえない。
 ベルゼブブは一定の距離を保ちながら、ふたたびソファへと降り立つ。
「そちらへどうぞ」
 自分の正面にあるソファへ座るよう促すと、佐隈がどこか警戒したそぶりをみせながらゆっくりと腰掛けた。
 ベルゼブブが、すべてを正直に話すと思っていないのだろう。悪魔探偵になってから身についた、さぐるような瞳が、ベルゼブブを映している。
 ああもう。
 ベルゼブブは腹をくくった。
 すう、と一度大きく息を吸い、同じような勢いで吐き出して、言う。
「私、あなたに触れないんですよ」
「は?」
 なんですか、それ、といわんばかりに、佐隈の顔がわずかに歪む。
「あなたに触れる、もしくは触れられると、すごく身体が痛むんです。ですから、私からあなたに触れることはできないし、あなたからの接触も避けなければいけないのです」
 これで避けていた理由がおわかりいただけましたでしょうか、と努めて冷静に現状を説明する。
 黙って耳を傾けていた佐隈が、口元に軽く握った拳をあてて首を捻る。
「それって、私のことが好きだからですか」
「……っ、」
 ド直球である。妙に聡いところはある女であるが、こういうところで発揮しないでほしい。
 ギチギチと歯を鳴らし、ベルゼブブは顔を歪める。
 そのとおりだといってやりたい。おまえのせいだとあらん限りの言葉で罵倒してやりたい。このベルゼブブに恋の呪いをかけたのはおまえだと、責任をとれと詰め寄って、そうして地獄の底へと引きずり落としてやりたい。
 だが、そうすることはできない。それではあまりにも、自分がみじめなような気がした。悪魔の矜持とか、男の意地とかいわれる類の感情だ。
「――そうです。あなたへの想いは罰せられるにあたるものだと、グリモアが判断しているようです」
 だから、ベルゼブブは毅然と顔をあげて、事実を告げた。
「そうですか。やっぱり私も絡んでるんですね」
 これで、佐隈の中では、ベルゼブブが自分のことを好きであるということは確定事項になっただろう。
「むしろ原因だろーが、ビチグソ女が」
 ひとつ舌打ちして、ベルゼブブは目を伏せる。
「いずれにせよ、あなたは悪魔とどうこうするおつもりはないでしょう?」
 暗澹たる気持ちで紡いだベルゼブブの言葉に、佐隈の表情が一瞬かたまる。
「私はあなたが欲しい。それが偽りのない気持ちです。が、そう想えば想うほど、痛みは増す。さきほどの私をみたでしょう? 少し触れただけでも、自分の意識では体をコントロールできなくらいになる」
 ベルゼブブは額に手をあて、自分の現状を嘆くように頭を小さく振った。
「ですので、気をつけてください。私はもちろん細心の注意を払います。あなたも、私に安易に触れたりなさらぬよう」
 そこまでいって、ベルゼブブは息をつく。
 もうここまで白状してしまえば、いっそ清々しいというものだ。心が、いささか軽くなった。
 暴露の悪魔が暴露させられるなんて、しゃれにもなっていないし、笑えもしない状況だ。でも、これでよかったのかもしれない。
「いずれ、この気持ちも消えるでしょう。それまでは、悪魔に懸想されてあまりいい気分ではないでしょうが、どうか我慢を――」
「なんですか、それ」
 感情の宿らぬ低く冷たい言葉を発言中に重ねられ、ベルゼブブは目を瞬かせる。
「はい?」
 それがどういう意味と意図をもっているのかわからず、顔をあげ、思わず問い返す。
「ベルゼブブさんの気持ちって、そんなにすぐなくなっちゃうくらいのものなんですか?」
 仕事の進捗状況でも尋ねてきているような淡白さで、佐隈が訊ねてくる。
「私に対する気持ちって、その程度のものなんですか?」
 呆れたような、突き放すような物言い。
 ベルゼブブは全身から血の気が引き、それでいて頭に血が昇るという稀有な感覚に襲われた。口の中が、砂漠のようにからからに乾いていく。
「なに、を、いって……」
 そんなはずはない。
 悩んで苦しんで、焦がれて求めた。この恋情を認めることですら、どれだけ神経をすり減らし消耗したと思っている?
 佐隈を手に入るならどんなことでもしてもいいと思う。でも、罰が重くなればなるほど、触れることはできなくなる。下手をすれば、どちらかが命を落とすことになるかもしれない。
 もう佐隈のカレーを食べることができなくなるくらいなら、もう佐隈の笑顔を向けられることがなくなるくらいなら、気持ちを押し殺して離れたところからみつめていたほうが幾分かマシだろう。
 そんな悲愴な想いで決意したことを、その程度などと、いわれたくはない!
「ふざけるな! んなこといわれるくらいの軽い気持ちなら、こんな目になんざあってねーよ! 謝罪して撤回しろやコラァ!」
「そうですか。すみませんでした」
 あっさりと、佐隈が謝罪を口にする。気持ちがこもってないのがまるわかり。
 というか、はめられたのだと、ベルゼブブはすぐに気づいた。
 だって、佐隈が柔らかに笑う。
「だったら、どうにかしましょう?」
「……!」
 なにを、といわずとも、佐隈のいわんとしているところが、わかる。
「できるわけ、ないでしょう……!?」
 グリモアから罰せられることは、恋心を抱き続ける限り逃れられはしない。
 ベルゼブブの気持ちを本物だと認めたうえで、どうにかしようというのなら、それは佐隈が、悪魔の恋を認めたということにほかならない。
 しかし、認めたからといって、受け入れられたとは限らない。佐隈は、なにもいっていない。
 そんな不安定な基盤のうえでの提案に、はいそうですかと乗れるわけがない。
「やってみなくちゃわからないじゃないですか! あきらめちゃだめです!」
「テメーはどこの熱血テニスバカだ?! 無理だっつってんだろーが! 悪魔にとってはなあ、グリモアってーのは絶対のものなんだよ!」
「そこはほら、アクタベさんに相談したら、きっといい方法が……」
「やめんかァァァ!」
「じゃあ、どうしろっていうんですか!」
「ほんとにクソだな、このビチクソビッチがァァ! 氏に知られたら殺されるってんだろーが、ちったあ頭使え!」
「だって、触れないままなんて困るじゃないですか!」
「それは私が痛いだけでてめえには関係ないでしょうが!」
「だから、それが困るっていってるんです!」
 双方、バン! バン! と音をたてて目の前の机に手をついて、顔を勢いよくつきあわせて叫ぶ。
「はあ?! てめーは一ミリだって困らねえだろうが!」
「ひとのこと頭悪いとかいうわりに、ベルゼブブさんも察しが悪いですね!」
「この悪魔ベルゼブブを馬鹿にするんじゃねぇぇぇ!」
「馬鹿になんかしてません! 心配してるんじゃないですか!」
「そーいうのを余計なお世話ってんだよ!」
「はあ?! なんですかその言い方?!」
「うるせええええ!」
「うるさくしてるのはベルゼブブさんのほうです!」
 バシベシと机を互いに連打して、唾を飛ばすよう奇声をあげて、ぎりぎりとそのまま睨みあう。
 先に視線を逸らし、顔を背けたのはベルゼブブのほうだった。
 佐隈はどうしたいのか、どう思っているのかいいもせず、夢物語ばかり語るところにへどがでる。
「――しばらく召喚しないで頂きたい。頭の悪い女の顔などみたくないのでね」
 拒絶を前面に押し出して、ベルゼブブはそう吐き捨てる。
「……~っ、」
 それを受けて、真っ赤になりながら顔をしかめた隈が、つん、と顎をあげてそっぽを向く。
 このわからずや、とその顔にかいてあるように思えた。
 腹立たしい。
 こんなにも、自分を自分でなくしてしまう佐隈に、腹が立つ。簡単にそんな状況に陥った自分自身にも、腹が立つ。
 ベルゼブブはソファから飛び上りながら、心に決める。
 この世界から魂が解き放たれた瞬間、奪いにいってやろう。グリモアのつながりが途切れたところで、喰らってやろう。
 そうすれば佐隈は自分のものだ。今、手に入らずとも、そこからは未来永劫自分のもの。もう、笑いかけられることがなくとも、私だけのもの。
 ほの暗い希望を胸に抱いて、ベルゼブブは扉に向かって飛ぶ。
 ベルゼブブは事務所を横断し――廊下に続く扉に手をかけてノブをまわす。開いた先には、暗く寒い廊下が続いている。
「とっととくたばっちまえ、クソ女」
 まるで呪うようにそう告げて、ベルゼブブはそちらへ進み、強く強く扉をしめた。嵌め込みのガラスが、悲鳴をあげる。
 クソ、とさらに毒づいて、ベルゼブブは召喚の部屋へと一人、向かった。

 

 

「……」
 ベルゼブブは無言で、きゅっと口元を拭った。
「今日もいっぱい食べましたねー。たくさん作ったのに、お鍋の中すっからかんですよ」
 どこか嬉しそうな声が、頭上から降りてくる。白く華奢な手が、ベルゼブブの前におかれた皿を取り上げ持ち去っていく。
「さくまさん、あなたね……」
 盆にカレー皿と氷だけが残されたグラスをのせた佐隈を、ベルゼブブはぎりぎりと睨みあげた。
 バン! とテーブルがわりの木箱を叩く。
「私、しばらくよぶなっていったでしょーが! 昨日ですよ、昨日! そう言ったのはよォ! その頭は飾りか?! 脳みそはいってんのか?! 記憶力はミジンコ以下か?! アア?!」
 ベルゼブブの恋を知ったうえ、あれだけ言い合ったというのに、昨日の今日でその悪魔をよびだすとかどんな神経だ。普通なら、かかわろうとしないだろう。まあだからこそ、佐隈は悪魔使いにふさわしいのかもしれないが。
 ふ、と佐隈がカレー皿を見下ろして言う。
「そういうわりにはきれいにカレー食べたくせに」
「……」
 そのとおり。
 ぐ、とベルゼブブは押し黙る。
 突然、メールでの連絡もなしに魔方陣が出現したとき、これでも、そこに吸い上げられる召喚の力にあらがったのだ。あらん限りの力で、抵抗したのだ。
 その際に自室を半壊させてしまったというのに、そのことを怒鳴り散らす前に、美味しそうというか確実に美味しいことがわかっているカレーを差し出されれば、すべてを忘れて飛びつくのは仕方がない。あまりの美味しさについつい理性を吹っ飛ばしてがっついてしまったのも、仕方がないことだ。
 数秒前まで味わっていた幸福を思い出しながら、ベルゼブブは顔を顰める。佐隈の手のひらのうえで転がされているようで気に食わない。
「さて」
 ベルゼブブの前に、佐隈が座る。
「お話があります」
 表情を引き締め、佐隈が真正面から視線を送ってくる。
 ああ、欲しい。その瞳も、その愚かな魂も、欲しい。
 じわり、心に滲む欲望に、やはり自分はこの女を愛しているのだと実感する。
「なんですかな」
 その瞳に自分だけがうつるようになれば、その視線が求める先にあるのは自分だけになれば、その手が縋るのは自分だけになれば、いいのに。
 そんな悪魔の思考には、到底たどりつくことのない人という生き物である佐隈が、ぐ、と前のめりになる。
「ベルゼブブさんとの契約を、アクタベさんに譲りたいと思います」
「?!?!?!」
「ついては、ベルゼブブさんの同意をいただきたいんですけど……」
 ベルゼブブの動揺に気づいた様子なく、いそいそを契約書とおぼしき紙をとりだす佐隈が、天使のように見えた。
 悪魔に絶望をつきつけ、死を与える憎らしい天使。
 そのあと、契約書をしめしながら、佐隈が続けて何事か言っているが、それがどのようなことなのか理解できない。いや、理解するつもりがないから、わからない。
 ベルゼブブにとって大切なことは、佐隈との繋がりが、佐隈の手によって断ち切られようとしているという、その一点のみ。
「――だからですね、そっちのほうがいいんじゃないかなって……、ベルゼブブさん? ちゃんときいてます?」
 目を開き、口を閉ざし、がたがたと小刻みに震えるベルゼブブを、佐隈が覗きこむ。ひらひらと目の前で手を振ってくる。
 ハッ、とベルゼブブは乾いた笑いでそれを出迎える。
「こちらのことを考えているようなふりをして、なんて残酷なことをいう女なんでしょうね――このビチグソ!」
 ブチブチと、脳裏でいろんなものが切れていく音がする。ベルゼブブを抑制するべきものが、綺麗さっぱりなくなっていく。

 よびだしたと思ったら、これ以上ない衝撃をくらわせやがってこの女……!

 もう、グリモアからの制裁のことなどどうでもいい。ベルゼブブは佐隈の胸元に飛び込んだ。
「うわっ、ちょ、ベルゼブブさん……!」
「ふざけんな! 契約破棄したいなんざ、一度もいってねーだろうがァ!」
 ぎゅうう、とその胸に縋りつき顔を埋め、ベルゼブブは叫ぶ。触れた瞬間に全身に走る強烈な痛みさえも、もうどうでもいい。
「だめ、だめですってば! ベルゼブブさん、痛いんでしょう……?! ってうわっ?! 血、血がでてますよ?! あああ、シャツが汚れるじゃないですか!」
 どうやら、この行動はかなり危険なものだと判断されたらしく、とうとうベルゼブブの体から血が流れだしたようだ。
 だが、そんなことも、どうでもいい。ぎゅうう、と佐隈にしがみついたまま叫ぶ。
「うるせええええ! 発言を撤回しろ、絶対にみとめねェェ!」
「ぎゃあああ! 血、血が噴水みたいに……?! は、離れてください!」
「おことわりだ!」
 悲鳴をあげる佐隈に引きはがされまいとするベルゼブブに業を煮やしたのか、ひゅっとなにかが空気を切り裂く音がした。
「もう!」
「ピギャアアア!?」
 ゴス、と鈍い音と、ベルゼブブの悲鳴が、ほぼ同時に響いた。
 容赦なくグリモアをもってして殴られたベルゼブブは、さすがに手を離すしかない。そのまま、床へと落ちる。
 ぐちゃ、べちゃ、びちゃ、と湿った音がベルゼブブの耳の奥で響いた。真っ赤に染まった視界に、シャツの胸元を同じ色に染めあげた佐隈がうつる。
「ちゃんと話を聞いて下さい!」
 おそらく見るも無残な姿になっているだろうに、気にするそぶりなどなく、佐隈が傍らにしゃがみこむ。
 そして、じりじりと体が回復する間、こんこんと諭すように佐隈が語る。
「いいですか、グリモアがあるからいけないんですよ。だから、ベルゼブブさんは痛いわけです」
 んなこたーわかってる。
 そういいたいが、ベルゼブブの体は動かない。
「グリモアが私を守るのは、私がグリモアを通じてベルゼブブさんと契約を結んでいるからです」
 それもわかってる。
 だからこそ、これまで過ごしてこられた。
「だったら、契約を破棄すれば、ベルゼブブさんに罰はくだらないってことでしょう?」
 そうかもしれない。でも、それは嫌だ。佐隈とのつながりをなくすのは、嫌だ。

 私は、さくまさんの悪魔でいたいのに――

 ほろり、潰れたままのベルゼブブは、涙をひとつ零す。
 それに、と佐隈が続ける。
「契約がなくなったって、ベルゼブブさんは私のものでいてくれるでしょう?」
 見透かしたような言葉に、びくりと全身が震えた。
「契約譲渡をしたって、私がベルゼブブさんをよべなくなるわけじゃないでしょう?」
 それは、喚んでくれるということか。グリモアなしに悪魔を対峙する危険を、おかすということか。
「契約がなくなっても、ベルゼブブさんは私をまもってくれるでしょう?」
 そうして傍らにあることを許してくれるなら、ありとあらゆるものから佐隈を守ってもいい。
「だったら、いいじゃないですか。契約がなくたって大丈夫です」
「……!」
 そうするということは、佐隈とベルゼブブは契約を結んだ悪魔使いとその悪魔という関係ではなくなる。
 ただの悪魔と、ただの人。
 そして、ただの男でただの女になる。
 ゆっくりと、ベルゼブブは体を起こす。ほとんど体は回復している。痛みはあれど、思うとおりに動いてくれる。
 ゆるゆると、ベルゼブブは丸い瞳で佐隈をうかがう。
 その関係になってもいいということは、すなわち――
「では、つまり、その、あなたも、と思ってよろしいのですかな?」
「はい?」
 なにがですか? と、わざとかといいたくなるくらいに、わからないといった表情をみせる佐隈に、苛立ちが募る。でも、ここではっきりした言葉をもらわなければ、頷けない。
「私は、期待させるような言葉ばかりが、欲しいわけではありません」
 ベルゼブブの察しが悪いわけがない。
 暴露の悪魔は、表情だけで人の心を読み取れる。だけれど、いま感じ取っている佐隈の心は、自分の都合のよい妄想のような気がして怖い。
 恋が、目を曇らせる。恋が、強気を弱気にさせる。
「なにいってるんですか」
 それを杞憂だとぬぐうように、優しく伸びてきた佐隈の手が、ベルゼブブの頬に触れるか触れないかの距離をとってなぞっていく。
 すぐそこにあるぬくもりに、ベルゼブブは泣きたくなった。
「期待してくれて、いいんですよ」
 ならばこそ。
「……いただけませんか?」
 言葉がほしい。気持ちがほしい。この不安を消しさる一言がほしい。
 ああ、と佐隈が声をもらす。ようやく気づいたらしい。
 こほん、とわざとらしく咳払いをした佐隈が、わずかに居住まいを正す。ほんのりと、頬が紅色を宿していく。

「好きですよ、ベルゼブブさん」

 ああ。
 たったそれだけの言葉で、その微笑で、これまでの苦悩した日々が報われた気がする。
 現金なものだ。でも、悪魔だからそれでいいだろう。
 ふるふると泣き出したくなるのを必至にこらえる。ここでそんな姿をみられたが最後、完全にこの恋の主導権は佐隈に渡る。
「でもおかしいですよねー」
「は?」
 頑張るベルゼブブの目の前で、うーん、と佐隈がどうしてこんなことになったのか、といわんばかりに眉を潜めて首を傾げる。
「ベルゼブブさんて、あれは食べるし、口は悪いし……性格も最悪ですよね。貴族ってところを鼻にかけた高慢ちきなところあるし」
 オイ。
「なのに、なんで好きなんでしょうね?」
 そんなこときいてどうする。
「知るかボォケ!」
 バァン! とベルゼブブは床をたたき、勢いよくたちあがる。ぶんぶんと手を振りまわして抗議する。
 天に舞い上がるほど急上昇していた気持ちが、急下降だ。持ち上げて落とすなんて、佐隈らしい。だが、いまここでそんなことをしないでほしい。
「自分の気持ちくらい把握しろや!」
 ピギャッシャア! と喚くと、佐隈がころころと笑った。
「やだなあ、ちゃんとわかってますよ。ベルゼブブさんが、それでも好きだなって思うくらいには。ほんと……いつの間に、こんなに好きになってたんでしょうね」
 どうやら佐隈のほうが、一枚上手なようだ。
 殺し文句をいともたやすく告げられて、む、とベルゼブブは押し黙る。
「いつもいっしょにいてくれて、なんだかんだで助けてくださるし……私のこと、よく心配もしてくれるし。傍にいるのが、当たり前みたいに思ってるのかもしれませんね」
「……」
 ぶすー、とむくれて視線を下げると、くすくすと佐隈が笑う。
 そして、ぴらり、と再び突きつけられる紙。
 常人には読めぬ文字の羅列は、悪魔であるベルゼブブにはいともたやすく理解できる。
 ざっと目を通す。
 契約の譲渡に同意し、あらたな主として芥辺を据えるという内容の契約書。
「というわけで、いいですよね?」
 その向こうで、にっこりと佐隈が笑う。
「……しかたありませんな」
 しぶしぶといった様子で、ベルゼブブは木箱にもどる。
 芥辺との契約は死ぬほど嫌だが、佐隈が手に入るなら……と、差し出された紙とペンをもって、さらさらとサインを記す。
「それにしても、よく氏が了承しましたね」
 あの男なら、にべもなく断りそうなものなのに。
「昨日、ベルゼブブさんが帰ってから相談したんですよ。ベルゼブブさんがこういうことになってるのでどうにかする方法ありませんかーって。アクタベさんには、ほうっておけっていわれたんですけど」
 芥辺らしい反応だ。というか、普通の悪魔使いでもそういうに違いない。
 というか、やめろといったのにほんとに相談しやがったのか。
 ベルゼブブは、死んだ魚のような目で、遠くをみつめた。
「でも、途中で契約譲渡すれば大丈夫かもって気付いて、ベルゼブブさんと契約を結んでくださいってお願いしたんです」
「……あなた、あの氏に食い下がったんですか」
 はい、となんでもないことのように佐隈はうなづく。
「アクタベさんも、いま私に事務所をやめられると次の事務の人を雇うの大変だって思ってくださったのか、最後にはいいよっていってくれて」
「……」
 そうではないだろう。
 優秀な悪魔使いの資質を秘めた、使い勝手のよい手駒でもある佐隈を手放すのがもったいないと思ったに違いない。
 彼なりに、弟子でもある佐隈を大切にしているのは知ってはいたが、それを踏まえても、芥辺にしては甘い対応だ。なにか、裏がありそうだ。
「あ、これでいいですね」
 ベルゼブブが書きあげた契約書を嬉しそうにとりあげて、佐隈が笑う。
 そして、突き出される手と、小さな唇から洩れ出でる呪文。
 それがソロモンリングを解くためのものだと知っているベルゼブブは、目を見開く。
 ぽん、と音をたてて、ベルゼブブの体が戒めから解放される。
「!!」
 小さな椅子に座りこんだまま、ベルゼブブは目を瞬かせる。人間と同じ姿にされて、なんだか嫌な予感がしてきた。だってここで、ソロモンリングをほどかれる意味がわからない。
「じゃあ、よろしくお願いしますね!」
「……なにをですか」
 なんだかぞっとしてきた。この手の嫌な予感は、おうおうにして当たるものだ。
「ええっとー、契約譲渡の条件としてこれまでの借金を半年ですべて返すっていうことになってまして」
 えへ、とわざとらしいほどの笑顔で佐隈は続ける。
「だから、ベルゼブブさんにも頑張ってもらいたいんです! あ、ベルゼブブさんの財産を使ったら即アウトですから、やめてくださいね」
 ほら、ここにも書いてあるんですよー、と佐隈が指差した箇所には、まめまめしい小ささの文字。
 いろいろなことがあったせいで、意識が舞い上がり見逃していた箇所。
 さあ、とベルゼブブは顔を青ざめる。
 懸命に視線を送り、必死にそれを読み込んで――ベルゼブブは、ごくりと喉を鳴らした。
 たしかに借金返済のため、協力することを了承する旨の文言が、ある。
 問題は、働く場所については芥辺が指定するという点であろう。
「……つまり、あなたは私に、あのアクタベ氏が指定する店で金を稼いでこいと、そうおっしゃっているのですか……?」
 どこで、ということは怖くてきけない。
 震える指で確認するベルゼブブに、佐隈はここ一番の満面の笑顔を花ひらかせる。
「そうです!」
 何を言ってやがるんだ、このアマァ!
 この魔界の貴族がアルバイト? ふざけているにもほどがある!
 お断りだ、と叫ぶ前に、ぎゅっと佐隈がベルゼブブの腕をとった。
「……!」
 もう、痛くない。
 ほんとうに、ただの男と女のように、触れ合えるようになった事実を目の当たりにし、じーんと胸の奥を震わせるベルゼブブを、佐隈が引っ張る。
「きっとベルゼブブさんならあっという間に稼げます! 格好いいですし!」
「いや、それはいわれずともわかっていることですけど……って、どこに連れて行く気ですか?!」
 このまま流されてなるものか、とベルゼブブは足を踏ん張る。対する佐隈も足に力をこめる。
 ふぬぬぬ、と唸りつつ、互いに一歩も譲らぬまま視線をかわす。
「うわー、自信満々で素敵ですよー。とにかくいきましょう。もう先方には、アクタベさんがお願いしてくれているんです! 自給もとってもいいんですって!」
「まてまてまて、どんな仕事させるつもりだテメェ?!」
 泣き声に近いベルゼブブの叫びに、本日二度目、最高の笑顔で佐隈がいう。
「新宿二丁目にある、素敵なお店らしいですよ!」
「待てコラ! 嫌な予感しかしねえええええ!?!」
 ぶんぶんとベルゼブブは頭を振る。一度、芥辺の仕事でその界隈にいったこともあるが――正直、関わりたくない店ばかりだった。
 まさかまさか。そこで働かせようなどというのでは……!
「ベルゼブブさんは断れないんですよ? ほら、ここにちゃんと書いてあるし、サインしたじゃないですか。契約破ったら、大変なことになりますからね、ちゃんと守らないと」
「詐欺だああああ! クーリングオフ、クーリングオフを希望いたします!」
 はいはい、と佐隈が聞き流す。
「さ、いきますよー」
「ぎゃああああ! この鬼、鬼畜! 悪魔ァァー!」
 契約書をちらつかせられれば、悪魔は逆らえない。ずるずると引きずられながら、いやいやとベルゼブブは頭を振った。
 まさかそんなことはないと信じたいが、万が一、ということはあるものだ。なんかもうやばい方向で貞操の危機に直面している。
「覚悟を決めてください! 店員さんのお仕事なんですから、大丈夫です! 仮になにかあっても私はベルゼブブさんのこと好きですからね!」
「どんな妄想してんだ!?」
 ぞわわと肌をあわ立たせるベルゼブブの手を、温かな佐隈の手が包む。
 触れない頃は、こうして手を繋ぐというのも夢のまた夢かと思っていた。それが現実になったというのに、なんだろうこの恐怖。
「さー、完済目指してがんばりましょうね! えいえいおー」
「待て! 考えなおせ、このクソ女ァァ!」
 やる気があるのかなんなのかわからぬ佐隈の声と、ベルゼブブの悲痛で空しい悲鳴が、静けさを取り戻していく召喚部屋に儚く消える。

 ――なあ、べーやん……もしかして、だまされたと違うん?

 ぱたり閉じられた扉の、さらに向こう。
 召喚用魔法陣の奥底から、幼馴染かつ友人の、いつになく穏やかな問いかけが、聞こえた気がした。