恋する悪魔と呪いの指輪

「もどりましたー……って、あれ、誰もいない」
 離婚調停を有利に進めたいという依頼を受け、不倫の事実をベルゼブブとともに探ってきた悪魔探偵見習いの佐隈りん子は、事務所のドアを開け放ったまま、目を瞬かせた。
 てっきり、いつもの黒スーツ姿の所長がいるとばかり思っていたのだけれど。
「ふむ。アクタベ氏は仕事にでもいかれたのですかね」
 恐怖の対象である芥辺がいないせいか、こころなしか浮かれた口調で後ろから聞こえた言葉に、首を傾げる。
「おかしいなー、そんなこと聞いてなかったんですけど――っ、」
 後ろに控えていたベルゼブブが、すい、と佐隈の横を通り過ぎ、事務所へと滑り込む。背の高い男が横を通り過ぎると、ふわりとやわらかな風が佐隈の頬を撫でた。
 その瞬間、妙なむずがゆさを覚える。今日は仕事の都合上、結界を解かれたベルゼブブは、人間とかわらぬ姿をしている。
 ちなみに、人間の前に姿を現すとあって、臭い対策及び消毒はばっちりだ。出掛けに使った香水がその後を追いかけていく。すばらしい王子さまっぷりだ。
 そんなベルゼブブを、一日中変に意識してしまって、佐隈は随分とぎくしゃくとした対応をしていたと思うのだが……。ベルゼブブの態度は、いつもとなんら変わらなかった。自分の様子に気付かれなかったのならば幸いだ。
 少し前なら、ベルゼブブが人間の姿をとっていようがいまいが、こんなふうにはならなかった。その理由は、わかりきっている。

 ベルゼブブさんが、あんなこといったからなのに――

 むう、と佐隈は唇を引き結ぶ。自分ばかりがこんなでは、不公平というか悔しいというか。それともあれはたちの悪い夢だったのかもしれないと、ぼんやりと過去の記憶に思いを馳せかけたところで。
「では、急な来客があったのでは?」
 ベルゼブブからの、もっともな可能性に、佐隈は意識を現実へとひきもどした。
「――そういうこともありえますね。あ、ベルゼブブさん何か飲みます?」
 ひっくりかえりそうな声を気合でおさえ、問う。
 暦の上では夏も終ったが、気温はまだまだ暑い。歩いて汗をかいたこともあるし、冷たい飲み物を欲しても、それは当然のこと。
 ベルゼブブが振り返る。細い顎の下に手を添えて、ふむ、と青い目を細めた。
「ではさくまさんの黄金水を」
「麦茶でいいですね」
 却下するまでもなく、ベルゼブブのたわごとは綺麗さっぱり無視をして、佐隈は歩き出す。
「チッ」
 ついで、背後から浴びせられる苦々しい舌打ち。魔界の貴族のくせに舌打ちするとか下品とは思わないんだろうか。まあ、悪魔にそんなこといったって仕方ない。
 ひょい、と自分のデスクに鞄を置いて、佐隈は冷やしてあるお茶をとりにいく。
 グラスに氷をほうりこみ、綺麗な茶色の麦茶を注ぐ。自分の分とベルゼブブの分を手に持ったまま、事務所内にある来客用のソファに移動して――そこにある小さな黒い箱に気付いた。
「あれ? これ、なんでしょうね」
 見慣れぬものを不思議に思いながら、グラスをテーブルの上に置く。
「あけてみればよろしいのでは?」
「いいのかな……」
 ベルゼブブと隣り合ってソファに座り、佐隈は無造作に箱へと手を伸ばした。
 滑らかな箱の表面は、一体何で出来ているのか。布なのか、革なのか、それすらよくわからない、えもいわれぬ心地よい手触り。見た目よりやや重いそれを、手のひらの上において、上蓋らしきところに手かけ、そっと持ち上げる。
 とろり、漏れ出でる金色の光。
「わ、あ……!」
 思わず、佐隈は声をあげた。
 そこには、複雑な模様の掘り込まれた金の指輪がひとつ、黒い布の上に鎮座していた。光をはじき、ほのかに輝く指輪の表面を覆う模様は、文字のようにもみえて興味深い。
「すごい、綺麗! 純金ですかね?! 今、金って高いんですよね……!」
 佐隈とて女。装飾品の類は嫌いではない。まあ、もっぱら、身を飾るためというよりは、諭吉さん何人ですか、という意味が九割を占めるのだが。
 値踏みしている間に、その輝きから目が離せなくなる。そのままみつめていると、くらり、意識が揺れた。その指輪に触れたくて、指を通してみたくて、たまらない衝動が全身を駆け抜ける。
 つい、引き寄せられるように、吸い寄せられるそれに、指輪に触れようとして――触れてきた大きな手に、押し留められた。
 邪魔されたことに、かっと意識がわきたつ。
「なにするんですか!」
「おちつきなさい」
 静かな声とともに、佐隈の顎を掴み、強引に視線を指輪から外させたベルゼブブの顔が、視界を覆う。目の前いっぱいに広がる秀麗な悪魔。
「私をみてください、さくまさん」
「え、っと……、あ……?」
 深く青い海のような色をしているのに、どこか黒くて暗
い、底の見えない眼をみていると、噴出しかけた怒りが消えていく。  怖いのに綺麗だと思う。なにが潜んでいるかわからないのに、いや、それだからこそ、その先を覗いてみたくなる。
 ゆらゆらと揺れる水面に似て、ベルゼブブの瞳の色がわずかに、だが確かに変化する。

 ……あれ? なんで、怒ったんだっけ――?

 はた、とそう思う。ほんの一瞬で、佐隈は落ち着きを取り戻していた。酔いが回ったかのような体が、すっきりとしていくのがわかる。
「ふむ、これくらいでいいでしょうかね」
「ベルゼブブさん、なにを……」
「未熟な我が主を守っただけのこと。心から感謝なさい」
 そういいながら、ベルゼブブが佐隈から離れていく。
 佐隈の目に、また手の上においた指輪がみえるようになったが、さきほどのような強烈な魅力を、それに感じることはなかった。
「あれー……? いたっ?!」
 それでも、金は金。また指を伸ばしたが、べしっと今度は勢いよくベルゼブブにはたかれた。
「なにするんですか!」
「学習しねぇ女だな! やめろっつってんだよ、このビチグソ!」
「そんなこといったって、理由がわかんないですよ!」
 救いがたいアホだな、と吐き捨てたベルゼブブが、ひらひらと手を振る。
「とにかく、触るのはおよしなさい」
「だから、どういうことなんですか?!」
「いいですか、さくまさん。それは――」
 淡々とした、だけれど真剣さを帯びたベルゼブブの声に、思わずその顔をみつめる。伏せられた宝石のような瞳が、じっと黄金の指輪をみつめた。

「呪いの指輪ですよ」

 一瞬、いわれたことが理解できなかった。
「……、えええっ?!」
「おっと」
 わかった瞬間、思わず取り落としたそれを、ベルゼブブがうまく空中でキャッチする。
「それにしても物騒ですね、どうしてこのようなものがこんなところにあるのか」
 佐隈の手から離れた黒い小箱の中身をしげしげと眺め、ふぅむ、とベルゼブブが唸る。
「ど、どういう呪いなんですか、もしかして死んじゃうんですか?!」
 ずりずりとベルゼブブと指輪から離れ、ソファの隅から佐隈は悲痛な声をあげた。もし、みただけでも呪われる類のものなら、自分はどうなってしまうのか。
「キッタネェツラを晒すんじゃありません。ただでさえブサイクなんですから」
「ほっといてください! で、どうなんですか?!」
 確かに、いつもプリチーな姿に隠されたベルゼブブの本体は、いま目の前にいるような麗しい貴公子なのだから、そういわれても仕方がない。だが、それは今はどうでもいい。
「まあ、死にはしません」
 必死な形相の佐隈を哀れっぽく一瞥し、ベルゼブブはもう一度、黄金の指輪を見下ろした。その言葉に、ほっと佐隈は息をつく。
 ベルゼブブも悪魔なので、もちろん嘘をつくし、平気で騙してくるし、しれっとした顔で奈落の底に突き落としてくるのだが――こういうとき、つまり、その豊富なベルゼブブの知識の一端を佐隈に与えてくれるとき、彼は嘘をつかないことを知っている。
 なんだかんだで、佐隈が契約している悪魔のうち、もっとも信頼できるのは、ベルゼブブなのである。
 そろそろと、離れたときと同じように、隣へと戻ってきた佐隈をちらりとみあげ、ベルゼブブは言う。
「これは縛る指輪ですよ」
「縛る、指輪……?」
 ええ、とベルゼブブが頷き、ぱこ、と小さな音を立てて小箱の蓋を閉じた。
「恋しい相手を、相手の意思に関係なく傍にとめおくための、ね。くだらないが、強力な呪いです」
 佐隈を見上げ、ベルゼブブは言う。
「さきほど、この指輪に触れたくてたまらなかったんじゃありませんか?」
「そういえば……」
「それも呪いの一環です。この表面の魔術文字がそういう効果を生み出すのです。そうして、自分の手で指輪をはめさせ、本来の呪いを発動させる」
「じゃあ、さっきやばい状況だったんですか?!」
 さーっと、佐隈は顔を青ざめさせた。どこの誰が用意したものかしらないが、どこかの誰かの虜になるなんて、絶対嫌だ。
「ですから、さきほど呪いを破り、防ぐために、さくまさんに私をみるようにといったのです。瞳から私の魔力を注いだんですよ」
「あ、なるほど。ということは、ベルゼブブさんには呪い効かないんですか?」
「愚問! この最強の悪魔たるベルゼブブを縛るにはこのような小賢しい呪いなどでは意味をなしません!」
「……そうですね」
 自信たっぷりなその台詞に、佐隈は頷いた。
 そうだ。普段は丸く可愛らしい姿、魔界での姿は麗しい王子。魔界でも人間界でも有名な悪魔であるベルゼブブの魔力の前では、こんな呪いは風の前の塵だろう。一吹きで消えてしまう。
「ありがとうございました、ベルゼブブさん」
 ひとまず助けられたことに間違いはないので、佐隈は笑いながら感謝を伝える。ふん、と当然だといわんばかりに、ベルゼブブが鼻を鳴らした。
「それにしても、呪いの指輪かー。まあ、恋慕の情は強いっていいますもんね」
「そうですね、愛情にも殺意にも成り代わる、恐ろしいが、甘く美しい感情です」
 ベルゼブブのいいように、佐隈はちょっと驚いて、その顔を覗き込んだ。
「なんですか、じろじろと」
「あ……す、すみません」
 ぱ、と視線をそらし、佐隈はほんのりと熱を帯びた頬を自覚する。
「さくまさんは、信じられないのかもしれませんが、悪魔であっても愛情はあります。人間のそれとはまた違うものでしょうがね」
「そ、う……ですか」
 そんなことをいうベルゼブブの手から、そそくさと小箱をとりあげ、佐隈はテーブルの上に戻す。いくら呪いにかからぬとはいえ、ベルゼブブが手にし続けるのもよくないと思ったのだ。
 と。
「っ!」
 引き戻そうとした佐隈の手が、横から伸びてきた長い指に絡めとられた。
 なにを、という前に、それはベルゼブブのもとへと連れ去れていく。
 さすがに慌てて顔をあげると、ベルゼブブがすいと顔を寄せてくる。
「わかっているのですか? 先日、あなたに伝えたのは、その愛情なんですが?」
「うっ」
 びし、と佐隈は体を強張らせた。
 そう。
 少し前に、佐隈はベルゼブブから愛を告げられている。
 今日のように、結界を解かれていたある日、雰囲気もなにもない、事務所の廊下で、突然言われた。
 しかしそれは、彼なりの、悪魔なりの、精一杯の言葉だった。茶化すのも、冗談にするのもできないくらいの、それは、精一杯だった。
 そのときのことを思い出し、佐隈の小さな心臓の鼓動が駆け出す。
 あの日以来、ベルゼブブとはなんとなく、顔をあわせづらかったのだが、愛くるしい姿であればなんとかなった。だが、ああいわれたときと同じ姿でいられれば、意識するなというほうが無理だ。
「そうした私が、あなたの指に、どこの馬の骨ともわからないものが用意した指輪を通させるなど許すはずがないでしょう」
「ちょ、ベル、ゼ……!」
 ちゅ、と薬指の上に、柔らかく落とされた唇に、佐隈は一息で真っ赤になった。
「この指を許すのは、私から贈ったものだけにしてくださいよ、ねえ……さくまさん」
 甘ったるい声に、肌がざわつく。気持ち悪いわけではないが、慣れぬ感覚に佐隈は戸惑う。
「な、な、何言って……! 離してください……!」
「お断りだ、このクソ処女」
 佐隈の抗議を受けようが、その顔に空いた右手を突っ張ろうが、ベルゼブブは止まらない。
 ひたすら優しく、指の付け根を唇で嬲られて、佐隈は泣きそうになる。
 涙目でグリモアを捜し求めるが、さきほど自分のデスクに置いてきた鞄の中だと気付く。

 ああああ、しまったぁぁぁぁ!

 万事休す。
 命の危険は感じないが、別の危険はひしひしと感じる。このままぺろりと食べられてしまいそうな、そんな草食動物が抱く恐怖に、身が竦む。
「やめてくださいって、いってるじゃ……ないですかぁ! ひっ」
 悲鳴交じりに訴えるが、とろりとした光を宿す青い瞳は、獲物をいたぶる捕食者のそれに似て、佐隈を離すつもりはないと暗に伝えてくる。
「人間たちは、愛の証として指輪をするのでしょう? ならば、私からのもの以外は身に着けないと誓いなさい」
「なんでそんなことベルゼブブさんにいわれなきゃいけないんですか?! も、や……! いっ?!」
 いやいやと子供のようにぐずる様子に苛立ったのか、かり、と皮膚に歯を立てられて、佐隈は痛みに顔を顰める。
「学習能力もなければ、記憶力もゼロか、てめーはよ。もう一度いってやろうか、ああ?」
 ぎらり、とベルゼブブの瞳が光る。ひう、と佐隈は息を飲み込んだ。

「あなたが好きだから、欲しいのです。心も体も、魂も――すべて」

 赤い舌先が、噛んだ場所を癒すように辿る。濡れた音が響いて、佐隈は声もでない。
「だから、あなたを縛るものは、私からのものでなければいけない」
 佐隈は、まだベルゼブブを受け入れたわけではない。だから、ベルゼブブのものではない。それなのに、どうしてそんなふうに言われなければならない?
 かっとした佐隈は、手を勢いよく胸元へ引き寄せようと試みながら、鋭い目でベルゼブブを睨んだ。
「ふざけ……!」
「ふざけてなどいない!」
 逃がすものかといわんばかりに、佐隈をベルゼブブが引き寄せる。そんな男から少しでも逃げようと、上体を逸らしたのがまずかった。
「わ、きゃ……!」
 ソファに倒れこんだ佐隈の上に、ベルゼブブが圧し掛かる。
「ま、まって、ちょ……!」
「待てとあなたはあのときも言った!」
 確かに、そういったのは自分だ。考えるから、とその場しのぎで返答を引き伸ばした。
 血が滲むような悲痛さを乗せた叫びに、佐隈は耳をふさぎたくなった。でも、できない。できるのは、ただ、自分を見下ろす美しい悪魔を見上げることだけだ。
 何かを堪えるように歪んでいたベルゼブブの顔が、くしゃりと崩れる。
「もう、一ヶ月も経つんですよ……?」
 か細い震える声に、胸が締めつけられて苦しい。
「いつまで待たせんだよ、このクソ女……」
 泣きそうな声。泣きそうな顔。そんなせつなそうな表情を、佐隈はこれまで会った誰のうちにも、みたことがなかった。つまり、ベルゼブブだけが、佐隈を狂おしいほどに欲してくれているということだ。
「今日だって、あなたは私に対してぎこちなかったじゃありませんか。そうやって意識しているくせに、いつまでたっても何もいってはくれない!」
 暴露の悪魔たるベルゼブブの目を、誤魔化せるわけなどなかったのだ。緊張で短くなった呼吸を繰り返しながら、佐隈はベルゼブブをみつめ続ける。
「私の気持ちを弄ぶのは、楽しいですか? 悪魔の心は、なにがあっても傷などつかないとでもお思いで?」 「っ、」
 違うという言葉がでなくて、佐隈は懸命に首を振る。
「ならば、こたえをください。今日だって、仕事の間中ずっとずっと――こうしたくてたまらなかった……」
 熱っぽい囁きが、鼓膜を震わせる。脳に直接送りこむように、悪魔はその愛を伝えてくる。
「……ぁ」
 ぞく、と背骨が痺れる。味わったことのないそれに、自然と体がしなった。
 あ、まずい。流される。
 そう思い焦る心がある一方、穏やかに受け入れる心もあった。こんなにも、自分という存在を求められたことはないから。
 相反するものを抱えながら、近づいてくるベルゼブブの唇が触れるのを許すように、佐隈はゆっくりと瞼をおろしていく。
「さくまさん、さくまさん――」
「ベル、ゼ、ブブ……さ、ん……」
 吐息が混じり、鼻先が触れ合う。
 きゅ、と佐隈は瞳を閉じる。それに満足したような、ベルゼブブの吐息が頬にかかる。他者の熱をすぐそこに感じた――次の瞬間。

 ぽん!

 間の抜けた音が響き。
 何事かと目を見開いたその先には、愛くるしい姿のベルゼブブ。
 お互い、何が起こったのかわからぬ間に、その丸い体は、佐隈の腹の上に落ちた。
 目を見合わせ、そして同時にゆっくりと――事務所入り口に視線を向ける。
 そこに黒く渦巻く魔力の塊に、両者ともに別の理由で体を強張らせた。
 がたがたとベルゼブブの体が恐怖に慄くのを、腹に感じる振動から察しつつ、佐隈は顔を真っ赤にした。

 見られた。キスされそうなところを見られたー!

 しかもそれが職場の上司とか、恥ずかしくて死にたい。
「ベルゼブブ……どういうことだ……? あ? さくまさんの身辺警護をさせるために結界を解いてやったんだぞ? それをてめぇが襲ってるとか意味ねえだろうが」
「ヒッ、ヒィィィ?!」
 カツカツと靴音も高らかに、ソファへとやってきた芥辺が、有無を言わさず、ベルゼブブの顔面を掴んだ。ぎちぎちときしむ音をたてて、芥辺の指先が、ベルゼブブに食いこむ。ピギャァァァ! と、ベルゼブブの悲鳴が響き渡った。
「ち、ちがっ! 違うのです、アクタベ氏! それは誤解というものです! いたいいいたいいいいい!」
「ああ?! 何が違うってんだ、この糞蠅が!」
 佐隈が羞恥に身悶えていると、ベルゼブブの悲鳴が、段々とか細くなっていく。 「……あっ?! ま、待ってください、アクタベさん!」
「なに」
 ぷらーん、と両手足をぶら下げ、死にかけているベルゼブブにようやく気付いた佐隈は、慌ててソファから立ち上がった。
「いや、ええっと、あの……! そ、そう、ベルゼブブさんが助けてくれたんですよ!」
「あ?」
「ほ、ほら!」
 そういって、佐隈はテーブルの上から、例の呪い指輪の小箱を手に取り、芥辺に差し出した。
「間違ってあけちゃったから、ベルゼブブさんが魔力をわけてくれて、その、ひっかからないようにしてくれて、ですね……ええっと……!」
 迫られていたことは言わず、本当に助けてくれたことだけ、佐隈はしどろもどろに伝える。
「ああ、あの魚が持ってきた指輪か」
「え、これアンダインさんが?」
 佐隈は、妙に納得した。きっと、なかなか振り向いてくれない芥辺に、この指輪を渡し、呪いでもいいから離れられないようにしたかったに違いない。
 ぶん、と芥辺が腕を振るうと、死体になりかけていたベルゼブブが壁に勢いよくぶつかり、ぽたりと落ちた。まったくもって動かないところをみると、気絶でもしてるのかもしれない。
「ちょ、ベルゼブブさん?!」
 小箱を芥辺に渡し、佐隈は床の上に転がるベルゼブブに駆け寄った。
 白目を剥いてるベルゼブブを揺さぶるが、反応はない。まあ、灰にされようが、やがては復活する悪魔なのだから、これくらいは大丈夫だろう。
 よいしょ、と抱きかかえ顔をあげると、芥辺が無造作に小箱を開いた。
「わああああ?!」
 ずざーっと佐隈は後退した。
「どうしたの、さくまさん」
「だ、だって、呪いが……!」
「ああ、この程度の呪い、オレに効くわけないだろう」
 ニヤリ……と、わらう芥辺に、「あー……」と漏らしながら、佐隈はなんともいえない顔をした。
 さすが芥辺。どうやらあの強烈な魅力も、芥辺には効果がないらしい。ベルゼブブの呪いすら片手で跳ね返すのだから、当然といえば当然か。
「とりあえず、さくまさんがひっかからなくてよかった。そういう点ではベルゼブブをつけておいたのは正解だったか」
「そ、そうですねー……」
 芥辺が小さく頷く。確かに、ベルゼブブがいなかったら、今頃自分はアンダインの虜だったのだ。それは嫌すぎる。
「これはすぐに処分しておく。これからは、おかしいと思うものには、この事務所内に置いてあるものでも、不用意に触らないこと」
「はい」
 というか、そういう物騒なものを置いておかないで欲しいんだけど……。そんな不満を口にしたところで、どうにもならないだろう。
 佐隈は、よいしょとベルゼブブを抱えなおした。
「じゃあ、ベルゼブブさんには魔界に帰ってもらいますね」
「ああ」
 長居は無用とばかりに、そそくさと佐隈は事務所をあとにする。呪いの件でうやむやにしたが、口付けされかけていたことを掘り返されてはかなわない。
「あ、さくまさん」
「はいぃ?!」
 扉を開いたところでかけられた声に、肩を跳ねさせてぎこちなく振り返る。
 所長デスクの椅子に腰掛けた芥辺が、なんの感情も窺い知れないような、無表情でこちらをみている。ごくり、と佐隈は喉を鳴らした。
「うち、職場恋愛は自由だけど、仕事に支障をきたさないように」
「っ?!」
 やはり芥辺の目はごまかせないということか。
 真っ赤な顔で頭を下げて、佐隈は汗をかきながら事務所を飛び出した。
 そのまま召喚部屋へと駆け込み、バン! と扉をしめて、そこに背を預けへたりこむ。
「はー……びっくりした……」
 芥辺にあんなこといわれるとは思わなかった。恥ずかしすぎる。
 それもこれも、やはりすべての原因はこの脱力したままの悪魔のせいだ。
 とりあえず息をしているか確認しようと、ベルゼブブを膝の上で転がして、顔を覗き込み――それを見計らっていたかのように伸び上ってきたくちばしが、ちゅ、と佐隈の唇に触れた。
「?!?!?!」
 驚いて顔をあげる。だがそれは、勢いがありすぎた。
 ゴンと鈍い音をたてて、佐隈は扉に後頭部をぶつけた。二重の驚きと痛みに、呻きながら痛む箇所をおさえる。
 ブブブ、とそんな佐隈を置き去りにするように、震える翅の音が響く。膝の上からぬくもりと重みが消える。
「~~っ、ベル、ゼ……?」
 涙目でなんとか視界を開くと、魔法陣に向かうベルゼブブの姿が見えた。
 くる、と陣の上でベルゼブブが振り返る。
 いつの間に目覚めていたのか。多少ふらふらとしながらも、ベルゼブブは、ひたと佐隈を見据えている。
「今日はこれで許してさしあげます」
 ちょい、とベルゼブブは自分の口元に触れた。
「あなたの初めての口づけ、ごちそうさまでした。次にお会いするときには、色よい返事をいただけることを期待しています」
 そう言って、優雅に一礼したベルゼブブが、魔法陣へと身を投げる。
「ごきげんよう、さくまさん」
 人間界と魔界の揺らぎの向こうへその身を隠すベルゼブブを、佐隈は呆然と見送った。
 とぷん、水面に石を落としたように界の境界が波打った。その輪が少しずつ薄れ、何事もなかったように鎮まりかえる。
 静寂を取り戻した室内で、佐隈がようやくうごきだしたのは数十秒後。
「――……や、やられたぁぁぁぁ!」
 佐隈は真っ赤になり、手で顔を覆った。
 あんな状態からでも自分のやりたかったことを成し遂げて、さっと身を引いていくベルゼブブはやはり悪魔だ。
 自分の欲に素直でまっすぐで、相手のことをかえりみることなく、心をかき乱すだけかき乱していく。

 しかも、さっきのが私の初めてのキスだって、なんで知っているんですかー?!

 自分が処女であるということを知られていることをすっかり忘れ、佐隈は涙目で唇に触れる。
 それは思い描いていたようなものではなかった。柔らかく温かいものではなかった。
 だが、確かに自分に恋するものの心は、残された。人間では、ないけれど。
 もうどうしたらいいのかわからずに、佐隈は高鳴る胸をもてあましながら、ただただ、ベルゼブブが去っていった魔法陣をみつめていた。
 その顔が、恋する女のものになっているとは気づかずに。