丁寧な手入れの行き届いた和の庭園。さらさらとした木漏れ日をうけ、苔むした大地の緑が、きらきらと光っている。それは見る者の心を落ち着ける美しさだ。
だが、それを堪能する余裕もなく、佐隈は顔にわざとらしい笑顔を貼り付けていた。身に着けているのは、生涯二度と着ることなどないだろうン百万の振袖だ。
金糸の帯や真珠の帯止め、丁寧な細工の髪飾り。眼鏡はとられ、コンタクトをさせられている。そういったものすべてあわせたら、いくらになるんだろう。諭吉さん何人が私を包んでいるんだろう。依頼主が用意したものは本格的すぎて、眩暈がしてくる。
黒く磨きぬかれた机の向こう側にいる、見合い相手に適当な相槌をうちながら、笑みを絶やさず、佐隈は金勘定を続けた。
というか、そうでもしていないと、この空間に耐えられない。
かっちりとブランドもののスーツを着込んだ男の笑顔は一見するとさやわかだが、なんだか胡散臭い。話題は豊富で、途切れることなく話していることから、知識は相応にあるようだ。
女慣れしているその様子は妙な自信に溢れている。世間知らずのお嬢様なら簡単に騙されそうだが、なぜが佐隈にとっては癇に障る。この世で自分の魅力と金になびかない女はいないとでも思っているのがよくわかる。
慣れない着物、慣れない場所。そして、慣れない男。
何もかも嫌になってきた佐隈は、こっそりとため息をついた。
だが、これも仕事。仕事なのだ。耐えろ私。高額報酬ゲットまで!
「どうしました? どうもお顔の色がすぐれないようですが?」
「あ、いいえっ、あのっ……その……き、緊張してしまって」
まさか諭吉さんを脳内で数えていましたともいえず、佐隈は小さくなって当たり障りのないことを言った。
「ああ、なんて可愛らしい方だ」
それが初心な反応にでもみえたのか、そんなことを言った男が微笑む。
ぞわぞわと、薄ら寒いものを感じて、佐隈は斜め下を向いた。正直いって気持ち悪い。
ああ、これがあの悪魔であったなら。
――なに格好つけてるんですか?
――私はいつも格好いいでしょう?
そんなやりとりで、笑っておわるだろう。本人は怒るかもしれないが、そういう気安さと妙な安心感が、恋しい。
ふう、とため息をつく。
「やはり具合が悪いのでは?」
「いえ、だいじょうぶで、――っ?!」
するり、膝の上に置いていた手に何かが触れる。驚いて顔をあげると、そこに見合い相手がいた。
思わずでかけた悲鳴をなんとか飲み込む。
っていうか、音もなく気配もなく近寄るなんて何者?!
ひく、と、ついつい頬が引きつったのは、仕方のないことだろう。
「あなたのようなか弱い方が、無理をされるものではありません」
「ちょ、ちょっと……ひっ!」
手の甲を撫でられて、鳥肌がたつ。そこまでされても、突き飛ばしたりしないのは、すべてお金のためだという意識がどこかにあるからだ。すごいぞ、諭吉ストッパー。
「この辺りにくるときにはいつでも休めるよう、ちかくのホテルに部屋をとることにしているんです。いやぁ、ちょうどよかった。そこまで、私がお連れいたしましょう」
「え、あの……そ、そんなご迷惑をおかけするわけには……!」
「遠慮なさらず。もしかして着物がお苦しいのではないですか? 脱げば楽になりますよ……」
熱っぽい瞳の奥に、いかがわしい欲があるのがわかる。だてに淫奔の悪魔であるアザゼルと契約しているわけではないのだ。
大体、こんな風に気安く触ってきてもいいのは、たったひとりだけだ。あの、最強を自負する美しく強い悪魔だけ。
強引に引き寄せ、顔を近づけてくる男から逃れようと、手を突っ張るがあまり効果はみられない。
っていうか、アザゼルさんなにやってるのー!? この男のそういう気持ちを萎えさせるのが仕事でしょうー?!
隣室に控え、こちらの様子を伺っているはずの悪魔を罵るが、男がとまる気配はない。つまらなくてどこかに遊びにいってしまったのかもしれない。あとでシメル。
ああ、もう限界。さようなら諭吉さん。
幾百人の諭吉に別れを告げて、佐隈が今まさに手を振り上げようとした時。
荒々しい足音が遠くから近づいてくるのがきこえた。
それが、この部屋の前で止まる。ん? と思った瞬間、何かが潰れるような音と悲鳴が耳に届く。
そして。
スパーン! と小気味よい音をたてて、ふすまが左右に開かれた。
ぎょっとして、男と一緒にそちらを見た佐隈は、さらなる驚きに目を見開いた。v そこにいたのは、金髪青目の美男子こと、人の形をとった悪魔ベルゼブブ。
どこから調達したのか、品のよいグレーのスーツに身を包んでいる。
しかしながら、足元は汚い。ぐちゃぐちゃになったアザゼルらしき残骸が転がっている。きっと力いっぱい虐げられたのだろう。芥辺並に。さっきの妙に湿った音の源はこれに違いない。
「……さ~く~ま~さ~ん?」
呪詛をかけるようなおどろおどろしい声音で、名を呼ばれた。
座りきった瞳、歪んだ口元、全身から発せられる殺気に、ただの人間では為すすべをもたない。案の定、男の体が恐怖に強張ったのが、近くにいる佐隈には手に取るようにわかった。
しかし、佐隈は違う。
ベルゼブブを使役する悪魔使いにして、最強を自負する悪魔に恋された人間。そのありえない肩書きにまけることなく、佐隈は心の中に沸きあがる感情に、胸を破裂させそうになった。
「ベル……!」
嬉しげにその名を口にしようとした瞬間、つかつかと近寄ってきた長い足が、空間を切り裂いた。
「ひとの女に気安く触ってんじゃねーぞ、オラァ!」
「げふっ!」
佐隈の顔の横ギリギリを、ベルゼブブの長い足が一閃した。すぐそこにあった男の顔を足の裏がとらえ、踏みつけ、後方へと勢いよく押しやる。
濁った悲鳴をあげて吹っ飛んだ体が、無様に畳へと寝転がる。なんとか体を起した男が、噴出した鼻血をおさえるように鼻に手を当てて、ベルゼブブとその腕に抱き寄せられる佐隈を睨む。
「誰だおまえは!」
「テメーのような三流男に名乗るなど家名を貶めるだけだろうが!? お断りだ、このクソがっ!」
「なっ……?!」
見合いをぶち壊され、せまっていたところを台無しにされ、あげくに蹴られ、罵倒された男が絶句する。というか、佐隈も絶句した。
「ちょ、ちょっと、落ち着いて……! ベルゼ「キッタネェ手で勝手に人のものに触りやがって……万死に値する! 身をもって己の愚かさを悔いやがれェ!」
ベルゼブブに向けた言葉は、ベルゼブブによって遮られた。
「う、うわ! 痛……! ちょ、やめ……! ごめんなさ、すみません! だからやめ、ぐふっ!」
軽々と佐隈を抱き上げたベルゼブブが、ガスガスと男に蹴りを見舞う。佐隈は、慌ててベルゼブブの肩や頭をたたき、止めようとするが効果がない。
このままでは、見合い相手が死ぬ。っていうか殺される。正直なところ、生きていようが死んでしまおうがどうでもいいが、そうなったらすべて終わりだ。
いや、すでにもう終わっている。少なくとも、娘の身代わりを果たせなかった佐隈に、報酬は見込めないだろう。
覚悟を決め、泣く泣く諭吉さんと別れを告げて、佐隈はベルゼブブの顔を両手で挟み込んだ。
「ベルゼブブさん!」
「ああ?! っ、ん――」
鋭く名を呼べば、凶悪な顔でベルゼブブが佐隈をみる。その瞬間、ベルゼブブへ唇をよせ、有無を言わせず口付ける。
やわらかに触れ合わせながら、大きく開いていた男の口内を、おそるおそる、ぺろりと舐める。
付き合い始めたときの約束どおり――消毒・口臭対策を万全にしているせいか――ほのかに、ミントの味がした。
とたんに、ぴたりと暴れるのをやめたベルゼブブの顔がみたくて、ちょっと離れて覗き込み――ふ、と佐隈は薄く微笑んだ。
僅かに頬を染め、佐隈の紅を唇に移したまま呆けているその顔が、可愛くて愛おしいと、思ってしまったのだ。状況を鑑みればそんなことを考えるような余裕は、まったくないはずなのだけれど。
それはベルゼブブも同じだったようで。
「ああ……さくまさん、あなたってひとは――」
「あ、ちょ、だ、だめですってば!」
とろり、すべてを溶かすような甘い声で、吐息混じりに囁いたベルゼブブが、さらなる口付けを求めるように唇を寄せてくる。佐隈は、慌ててその口元を手で覆い、阻止する。
遮られたベルゼブブが、はっと覚醒する。顔を赤くして、視線を泳がせる。
「ふ、ふざけるなよ、ビチグソ女がァ! こ、こんなことで、私の機嫌をと、とろうなどと、あま、あ、甘いんですよ!!」
「いや、あからさまにうっとりしてましたよね」
っていうか、思いっきり動揺してらっしゃるようですが? そう言葉にはせず、ちらりと上目遣いに視線をあわせると、ベルゼブブが横を向いた。
「してねぇっつってんだろ、クソブス!」
「あー、はいはい。そうですね」
「聞き流すんじゃねぇぇぇ!」
「もう、私にどうしろっていうんですか」
まったくわがままな王子様だと思いつつ、下をみる。ぼろ雑巾のようになったこの男のことを、依頼人にどう話したらいいのか。
「はー……どうしよう、これ……」
現実に立ち返った佐隈は頭が痛くなってきた。
「いい度胸してんじゃねーか、あ? 私の腕に中にいながら、ほかの男のことを考えるなんざよォ」
ぎちぎちと歯をきしらせるベルゼブブに身を任せたまま、佐隈はため息をついた。
「この人のことっていうか、依頼人のことどうしようかなって――、あれ?」
そして、ここでようやく気付く。
近くの部屋に控えているはずの、依頼人がこないことに。そして、店の人が誰も来ないことにも。しんと静まり返っているのはなぜ。
「そういえば……こんな派手なことしでかしたら、ふつうは人がくるんじゃ……」
「ああ、それなら私が全員トイレ送りにしましたので、誰も来ませんよ」
「なるほど――って、ええええ?!」
呪いを振りまいてきたことを白状されて驚愕する佐隈を抱え、男のことなど一切省みず、ベルゼブブが歩き出す。廊下でいまだ横たわっているアザゼルを踏むのも忘れないところが、ベルゼブブらしい。
「ど、どういうことですか?! ちゃんと説明してください!」
「うるせえ! クソはクソらしくおとなしくしていなさい!」
ぎゃんぎゃんと騒がしくやりとりしながら、高級料亭の磨かれた廊下を進んでいく。
と。
「あ、べーやんさーん。さくまのねーちゃんも!」
「終りましたか、クソガキども」
「えっ、コータローくん!? それに、小山内クンまで!」
「こんにちは、さくまさん」
廊下の向こうから現れたよく知る中学生二人に、佐隈は目を見開く。堂珍 光太郎はお腹が膨れたグシオンをつれ、小山内 治は足元にオセをつれている。オセが礼儀正しく頭をさげてくれた。
「こんにちはー。うわぁ、着物、よくお似合いですね」
「あ、ありがとうござます、オセさん……って、そうじゃなくて」
どうしてここにいるのかを尋ねようとした佐隈をさえぎり、光太郎が瞳をきらきらと輝かせ、ベルゼブブをみあげた。
「べーやんさん、あとは見合い相手の記憶をグシオンに食わせればいいんだよな?」
「ええ、さくまさんの晴れ着姿など、やつの記憶に残すのも腹立たしい。見合いの申し込みがあったあたりから、綺麗さっぱりお願いしますよ。むしろ、いままで生きてきた記憶根こそぎでもかまいません。もちろん、トイレにこもった依頼人のほうは済んでいるんでしょうね?」
「おうバッチリ! あとは、見合い相手のほうだけだぜ! それ終ったら、わかってるよな?!」
さらっと恐ろしいことをいっているベルゼブブに、これまたさらっと了承の意を返す光太郎。まさに悪魔と悪魔使いのやりとだ。自分の都合しか考えない、傍若無人さ。
「ベルゼブブの名に恥じることはいたしません。報酬は、ちゃんとお支払します。あとでなんでもお好きなものをおっしゃい」
「よっしゃー! いくぞ、グシオン!」
喜色満面、グシオンをつれて光太郎が駆けていく。ばたばたと騒がしい足音が遠ざかっていく。
「ええっとー」
「さくまさん、きいていないんですか?」
小山内の言葉に、そろそろ展開についていけなくなってきた佐隈は、素直に頷く。
ちら、と小山内がベルゼブブを見遣る。どうぞ続けなさいというように、ベルゼブブが横柄に頷く。どうやら、話してもよいということらしい。
「数日前、オセを召喚したときにベルゼブブさんがついてきまして」
「あ!」
そうか、その手があったと佐隈は目を見開いた。その悪魔自身への召喚だけでなく、他の悪魔の召喚に便乗してくる手があった。まさか、オセにくっついていくとは思わなかったけれど。
「さくまさんが見合いをするから、阻止するために手を貸せといわれたんです。オセへの報酬も別にあるということでしたし、おもしろそうなので手伝うことにして、ソロモンリングを解きました。さすがにアクタベさんの結界は厄介で、数日かかってしまいましたが……いい経験になりました」
「す、すごいね……」
さすが天才、小山内 治である。佐隈にはまだまだできそうにないことをやってのけるとは。
「まあ、そんなアクタベさんには、ベルゼブブさんが事の顛末を話すらしいですし……」
「えっ」
驚いて、ベルゼブブを見あげると、顔を青くしてガタガタと震えていた。そんなになるくらいなら、格好つけてそんなこといわなきゃいいのに。
だが、そうしてまで見合いをだめにしたかったのだと思えば、佐隈のなけなしの女心であっても嬉しいものだ。
「いただくものはまた考えておきます。ではよろしく」
「みてみて、小山内クン! この陶器とかすごいよ!」
そういった小山内は、オセをつれてそこいらの部屋にはいっていく。どうやら高価な調度品の類に興味があるらしい。またオセと一緒にコピーでも作るつもりなのだろうか。空恐ろしい子供たちだ。
「いきますよ、さくまさん」
「うわっ」
ぐ、と抱きかかえなおされて、より密着することになった佐隈は声をあげる。そんなことはまったく気にせず、ベルゼブブが歩きだす。もう少し話が聞きたくて、佐隈はベルゼブブの肩をたたいた。
「待ってください! ベルゼブブさん、何をしたかわかってるんですか? アクタベさんに殺されますよ?!」
「うるせーな、このビッチが! んなもんわかってるに決まってんだろうがッ!」
「じゃあ、なんで――」
ギ、と強い眼差しが佐隈を射抜く。
言葉を飲み込ませ、押し込めるにはあまりある強い意思のこもった悪魔の視線。
「わかってても、胸糞悪ィもんは悪ィんだよッ! へらへらと処女の分際で男に媚びへつらいやがって、吐き気がする! あなたは――私のものだ!」
まさに吐き捨てられた台詞に、一瞬だけ対応が遅れる。
あんな男に迫られて気分が悪かったこちらのことなど思いやりもしないで、なにを勝手なことを!
今度は、佐隈が目を吊り上げる番だった。ベルゼブブのものという点に異存はないが、そのほかのことは見逃せない。
「なっ――! 誰がへらへらしてましたか、誰が?! 大体、私が処女なのは、肝心なところでベルゼブブさんがヘタレるからでしょう?! この童貞!」
付き合い始めてから、そういう雰囲気なったことは、一度や二度ではない。だが、その度ごとにうまくいかないのは、どう考えても童貞をこじらせているベルゼブブのせいだと、佐隈は思っている。
「そういうことをデカイ声でいうんじゃねぇぇぇぇ!」
「!」
顔を真っ赤にして叫びながら、行儀悪く足で控え室のふすまを開いたベルゼブブが、佐隈を放り出す。
「いた……! 何するんですか!」
ふかふかの座布団の上だったとはいえ、衝撃は体に響く。苛立ち紛れに声を荒げながら立ちあがると、さっと後ろに回りこまれた。
「いいからさっさと脱げ!!」
「きゃあああ?!」
時代劇の悪代官に手篭めにされる哀れな町娘のように、帯を解かれくるくるとまわされ、襦袢までも剥かれたあげく、髪飾りはむしりとられ、足袋もとっぱらわれて――最終的に、ここまで着てきた安物の自前のワンピースをすぽんと着せられた佐隈は、その手際のよさに唖然とするしかない。
「っとに、すっとろい女だな、てめーはよ!」
「あれだけの報酬、棒にふらせといてなんですかその言い草はっ?!」
ぎゅむう、とベルゼブブの口元を捻り上げる。
「いひゃ、いたっ……! やめんかァ!」
手ひどく払われることはなく、ぎゅっと握り締められて手が引き剥がされる。そんなところは紳士的で優しいのだから、たちが悪い。
じと、と青い瞳を見つめると、まけじと見つめ返された。
「――さくまさんは、そんなにあの男と見合いがしたかったんですか……?」
「そんなわけないでしょう。お仕事だから、ここにきただけです。何回もいったじゃないですか」
「……それでも、私は、」
ゆら、と青が揺れる。いつもは自信たっぷりなくせして。やっぱり肝心なところでヘタレ。
佐隈は、ため息とともに肩から力を抜き、そっとベルゼブブを抱きしめた。
「本気なんかじゃ、ないですから。ほんとは、わかってるくせに」
「……」
ぐり、と佐隈の肩に額を甘えるようにこすりつけてくるベルゼブブなんて、魔界の誰も、あのアザゼルだって想像できないだろう。
「わかってます。さくまさんが、私のことをいかに愛してくださっているのかぐらい」
「私、そこまでいってませんけど」
むしろ、ベルゼブブの愛のほうが深くて重い。こちらが困るくらいに大事にされているのだと感じながら、よしよしとベルゼブブの背を撫でる。
「ごめんなさい、ベルゼブブさん」
「!」
がば、とベルゼブブが顔をあげた。
「なんでそんなに驚いているんですか」
「……いえ、あなたが素直に謝罪するとは、思っていませんでしたので。お金のこともありますし」
「ああー、報酬……」
さようなら借金返済の近道。
「ま、仕方ないじゃないですか」
こんなに嫉妬深い恋人をもってしまったのが運のつきだ。あとでなにか埋め合わせでもしてもらう。必ず。
そんな守銭奴魂はおくびにもださず、佐隈は笑う。
「だって、これからベルゼブブさん大変な目にあうわけですし」
ぐ、とベルゼブブが言葉に詰まる。顔色がだんだん悪くなり、冷や汗をかきだす。
きっとこのことを芥辺に報告したときの、いっそ死んだほうがマシと思わせられるだろう数々の仕置きに思いを馳せているのだろう。
「テッメェ……! 人事だと思いやがって……!」
ぎりぎりぎちぎちと、ベルゼブブが顔を顰めて泣き言をいう。
「自分でそうするって決めたくせに。あ、光太郎くんたちとの約束、破ったりしちゃいけませんからね?」
「わかってます! ――それで、あの、さくまさん……?」
「なんですか?」
「ええと、その……」
もじもじ、そわそわと落ち着きがない様子で、ベルゼブブが口ごもる。はっきりとしないその様子に、佐隈は首をかしげた。
「どうしたんですか?」
「いえ、その……は、初めてだったなと思いまして。さ、さくまさんから、してくれたのは……」
はて、自分は何かしただろうかと思いつつ、ベルゼブブの顔を見つめる。佐隈は、その唇がやけに鮮やかな紅色をしているなと、ふと思い――あ、と声を漏らした。
「……そういえば」
さきほど、ベルゼブブをとめようとして、口付けて黙らせた。考えてみれば、そうだ、確かにはじめてだった。
自分がそんなことをしてしまったということではなく、自分からベルゼブブにしたことがいままでなかったという事実に、佐隈は驚いていた。
ぱ、とわずかではあるが、ベルゼブブの顔が輝く。それは、おさえきれない喜び。
ああ、ベルゼブブは嬉しく思ってくれているんだと、察する。
こんな顔をみせてくれるなら、もっと前にしてあげてもよかったなあ。
くすくすと、佐隈は笑う。
背が高くて格好よくて、王子様のような振る舞いで。そのくせ嫉妬深くて、自分を大好きでいてくれる悪魔が、たまらなく愛しい。
「なにがおかしいんですか」
「いいえ? なんにも、おかしいところなんてないですよ?」
ただただ、嬉しいだけだ。
ベルゼブブが、笑う佐隈をきつく抱きしめてくる。伸び上がるようにしてぴったりと寄り添いながら、言う。
「そういえば、部屋にはいってきたときのベルゼブブさん、すごく格好よかったですよ。まるでドラマか映画みたいでした!」
「そういうことは、そのときに言え。このクソタレ女」
「そのクソタレ女が好きなくせに。趣味悪いですよ、ベルゼブブさん」
体をわずかに離すと、馬鹿にしてんじゃねぇとその顔がいっていた。
「さすが我が主、いい度胸してますねえ、この私の趣味をけなすとは。覚悟できてんのか、ああ?」
「ええ。そりゃもうとっくの昔に。だって魔界最強の悪魔ベルゼブブの契約者で、恋人ですから」
睨まれてもなんのその。小さく笑った佐隈は、背伸びをして、ちゅ、と無防備な唇へと不意打ちくらわせる。
上品な顔を固まらせているベルゼブブを覗き込む。
「――もう一回、します?」
ぼうっとしているベルゼブブを、静かに誘う。
一拍の後、ぶんぶんと勢いよく頭を上下に振るベルゼブブに笑いながら、佐隈は今一度、自分からその唇へとキスをした。
このあともちろん、人間三人・悪魔四匹は料亭から逃げ出した。とはいっても、悠々堂々玄関から、なんにもやましいところなんてありませんがなにか? という顔をして。従業員+お客一同はトイレにひしめきあっていて、咎める者など誰もいなかったのだから当然だ。
そして、事務所にもどり、別の仕事から帰った芥辺は、事の次第すべてを知ることとなり。
想定していたとおり、仕事を駄目にされた芥辺からの無限に近い仕置きに、ベルゼブブは瀕死の状態になった。
しかし、機嫌のよい愛しい恋人に手厚く看護されて、その顔はまんざらでもなかったという。