芥辺、サラマンダーとともに、仕事にでかけていたベルゼブブは、次の依頼には必要ないということで、一人で事務所へと戻ってきていた。
道草するな。変なものに足止めをくうな――という芥辺の厳命を受けて、戦々恐々としてベルゼブブは帰ってきたものだ。
途中でみかけた黄金は、泣く泣く我慢した。芥辺にバレたら死ぬよりひどい目にあわされるのは、わかりきっていたからだ。
あれが出したてのものたったなら、やばかったかもしれないな……などと考えつつ、事務所があるビルへと入る。暑いことにかわりはないが、日陰はやはり心地よかった。
「ただいまもどりました――って、暑ッ?!」
ドアノブをまわし、事務所に入り込んだ瞬間、むわっと押し寄せた熱気に、ベルゼブブは声をあげた。
あの悪魔のような男から開放されて、やっと一息つけると思ったのに。事務所がくつろげるような状態ではないとか、どういう仕打ちだ。
湿気と熱気が充満した部屋の片隅にあるエアコンが、弱過ぎる冷房を申し訳なさそうに吐き出している。ガラス窓越しの日差しと、それに照らされているビル全体からの熱気に、供給される冷気が追いついていない。つけている意味があるのかと問いたい。
「チッ、あの馬鹿女はどこいきやがったんだ……!」
苛々と舌打ちをして、羽を震わせ、ソファセットのローテーブルの上にあるクーラーのリモコン目指して一直線に飛ぶ。
確か、佐隈が留守番をしていたはずなのに、どうなっているのか。
ソファの上を通りすぎた瞬間、ベルゼブブはぴたりと止まった。
「このクソが……」
ギチギチと歯を鳴らし、呪うような声音で罵倒しながら、ベルゼブブは寝こけている女を見下ろした。
入り口からは、ソファの背があってみえなかったが、そこには佐隈が横になっていた。吐息にあわせ、上下する丸い肩。
「こっちがクソ暑い中仕事してたっていうのに、昼寝とはいいご身分だな、てめえはよォ……おや?」
尻でもひっぱたいて起してやろうかと近づいたところで、佐隈の息が睡眠時のような穏やかなものでないことに、ベルゼブブは気づいた。
「……ふむ」
熱中症にでもなりかかっているのだろうか。人間とは脆弱だ。
クーラーの設定温度を下げ、冷風がこちらへ向くように調整する。
次いで、ベルゼブブは炊事場へと飛んだ。水を出し、ハンカチを塗らしてもどる。佐隈の額にそれを押し当てる。
そういえば、と思い出し、また炊事場へ。
冷蔵庫の中から、先日、ケーキを差し入れてもらったときにいれられていた保冷剤を探す。野菜と肉のせいで奥に押し込まれいたそれを、ふたつ取り出してもどる。
細い首へ、呼吸の邪魔にならないよう、よく冷えた保冷剤を乗せる。もうひとつは、脇の下へと無造作に押し込んだ。
そうしてしばらくすると、体温が下がってきたのか、佐隈の呼吸が楽になったような気がした。
「まったく、妙なとこで頑張るひとですねえ……」
昨日、テレビでやっていた対応を鮮やかにこなし、ベルゼブブは一息ついた。あまりにも具合が悪いようなら、救急車を呼ばなければいけないかとも思ったが、この分なら大丈夫そうだ。芥辺に連絡するという最悪の事態を避けられて、ほっとする。
まったく、暑くて具合が悪くなったなら、クーラーの温度くらい、さげればいいものを。
ハンカチに含ませた水のせいで、ぺったりとはりついた髪をはらってやる。
そのまま、なで、なで、と佐隈の頭の上で、ベルゼブブは手を往復させた。いつも、佐隈が自分に、そうするように。
これは仕返しだ。普段、この最強の悪魔である自分をぬいぐるみ扱いする女へ、同等のことを報復しているだけ。だから、何も問題はない。
少しだけ、胸の奥の鼓動が速くなったも、なれないことをしているせいだ。心配したわけじゃない。ほうっておいたら、芥辺に殺されかねない懸念があったからだ。
自分にそう言い聞かせながら、手を動かし続ける。
じ、と佐隈の顔を改めて観察する。
さらりとした黒髪、白い顔。壊れないようにと取り外されたのか、眼鏡はない。いつも、レンズの向こうにあるはずの瞳は、長い睫に縁取られている。
すぐに気づかないが、佐隈は顔の造作はそれほど悪くはない。プロポーションだって、アザゼルがセクハラをするほどには、十分に魅力的だ。
ただ、いかんせん色気がない。だが、細い呼吸を吐き出す唇は、具合が悪いせいか青ざめてはいるが、目が離せない。どうしてか――と、そんなことを思ったとき。
「ん、べるぜぶぶ、さん……」
ふいに、佐隈が身じろぎして、ベルゼブブはピギャッと悲鳴じみた声をあげた。
悪魔のくせに、何もしていないくせに、なんだか居た堪れない気分がこみ上げた。いたずらや、隠し事をみつかった子供はきっとこんな風だろう、
「ッ、さ、さくまさん……」
あわてて引っ込めようとした手が、やわらかに捕らえられるる。いつも仕置きをしてくる力はなく、逆にこちらが心細くなるような力のなさに、ふりほどくことはできなかった。
「ベルゼブブさんですよね……? 帰ってきたんですか……? アクタベさんたちは……?」
眼鏡がないせいか、あまりよく周囲が見えていないのだろう。佐隈が、焦点のあわない瞳だけをゆっくりと動かしながら、聞いてくる。
「アクタベ氏とサラマンダー氏なら、次の依頼にいきましたよ。私は、出番が終ったので先に帰されたのです」
「そう、ですか……」
ほーっと、佐隈が息をつく。安心したのか、するりと甘えるように手を撫でられて、ベルゼブブはぴくりと肩を動かした。
「さくまさん。あなた具合が悪いのですね? まったく、馬鹿だ馬鹿だとは常々思ってましたが――なぁにやってんだよ、このクソが! このベルゼブブ様の手を煩わせるんじゃねぇ!」
いい年をしていて、自分の体調管理もできないなんて、と努めて冷静になじってやる。語気は荒いが。
「すみません、ちょっと……、お買い物に行ったら、暑気あたりしたみたいで……めまいがしちゃって……」
ああ、とベルゼブブは合点がいったように、声を漏らした。
このクソ暑い中、冷蔵庫いっぱいになるような材料の買出しに、一人でいったのか。先ほど保冷剤を引っ張りだしたときの光景を脳裏に描いて、「……馬鹿が」と吐き捨てる。
たかだか自分たちの、食事のために。
「……ちょっと遠くですけど、大安売りしてるってきいたスーパーへ、いってきたんです。カレーの材料、たくさん買ってきましたから、いっぱい食べてくださいね」
本人にあまり意識はないのかもしれないが、ひどく優しく佐隈が目元を和ませる。
「……」
与えられた経費の中で、アザゼルや自分のために、精一杯のことをすしようとする佐隈の行動理由が、ベルゼブブには理解できなかった。
なぜならば、彼女は主なのだ。契約主として、悪魔を道具のように使役するべき側のものなのだ。それこそ芥辺のような自己中心的なくらいが、悪魔使いにはちょうどいい。
それなのに、佐隈ときたら師事する芥辺に似てきて容赦ないところもあるけれど、基本はお人よしだ。
馬鹿に付ける薬はないと古来からの言葉を胸中でつぶやきながら、ベルゼブブはため息をついた。
「もしかしてあなた、出かけるからって、クーラーきっていったんじゃないですか?」
「……えへへ、電気代、もったいないなぁと思って」
ばつが悪そうに、佐隈が笑う。どうしようもない。つけっぱなしにでもしていったなら、多少ましにはなっただろうに。
「でも、買い物に行く前と、温度設定とかは変わらないですよ」
「どれだけ暑いところで仕事してたんですか、あなた……」
ぎゅ、と少しだけ、佐隈の手を、ベルゼブブは握り返した。
そんな仕事場で書類と格闘したあと、炎天下を歩いて買い物にでかけるなんて、具合が悪くなりたかったのだろうと邪推したくなるくらいの、自殺行為ではないか。
「だって皆さんでかけちゃいましたし、私ひとりだからいいかな~って」
「いくらもったいないといっても、身体を壊したら意味がありませんよ。あなたは脆い、人間なのですから」
ん、と青白い顔が、顎を引いた。ほんとうにわかっているだろうか、このアホは。
「ほんとそうですね、失敗しちゃいました。帰ってきてクーラーをつけたけど、そのあとリモコンに手を伸ばすのも、億劫になるなんて」
少しだけ、佐隈の口調がはっきりしてきた。先ほどよりも、幾分かましになってきたらしい。
「あの、さっき、頭を撫でていてくれましたよね?」
ピギャー……と、ベルゼブブは唸る。てっきり眠っているものとばかり思っていたのに。
「――起きてたのかよ、クソアマ。あなたがあんまりにも馬鹿面してたから、哀れになっただけです。この慈悲深いベルゼブブに感謝しなさい」
なんだか気恥ずかしくなって、ベルゼブブはいつにも増して早口で、悪態をついた。
ふふ、と佐隈が笑う。
「すごく、気持ちよかったです」
「……ケッ」
「保冷剤まで持ってきてくれてるし、すごいです。……ありがとうございます」
佐隈の言葉は、しっとりとベルゼブブの聴覚に染み入った。身体の中心が、震える。
ぎゅ、と繋いだ手に力がこめられた。本当に、嬉しそうに、佐隈が笑っている。
ぞわぞわと腹の底からこみ上げる、得体の知れない感覚が気持ち悪くて、むず痒くて、ベルゼブブはそれを追い出すように口を大きく開けた。
「うっせーな、ビチグソ女がっ! 感謝してんなら、黄金のひとつでもよこせってんだよ! オラオラァ!」
「いたっ、いたたたっ!」
手を振り払い、ベルゼブブは佐隈に踊りかかった。佐隈の胸の上に陣取り、ぺしぺしと手を振るう。
「やだ、やめてください、ベルゼブブさん! やだ、もー!」
あはは、と笑い、くすぐったそうに佐隈が身を捩る。
「なぁに、笑ってんだよてめーはよォォ! このブサイクがァ!」
「いひゃひゃひゃ!」
ぐにー、と柔らかな頬を両側から挟み込み、押し上げる。だが、佐隈は笑うだけ。痛がるそぶりもない。
なぜかといえば、理由はひとつだ。
ベルゼブブの手に、佐隈を痛めつけるような力なんて、こもっていないからだ。契約主に危険な真似はできないという契約もあるけれど、それを差し引いたって、本気でどうこうできるわけが、ない。
自分たちのために、暑い中、買い物にいった佐隈に、できるわけがなかった。
クッソ……!
出会った頃ならば、佐隈のことをこんなにも知る前だったなら、何も対処しなかっただろう。こうしてじゃれあうこともなく、横たわる佐隈を無視して魔界に帰っていただろう。
どうして自分の行動が変わってしまったのか。
その問いの答えはひとつ。
佐隈のせいだ。
アホ面で、馬鹿で、容赦なくグリモアを振るうけれど、基本は優しい――そんな佐隈に、感化されたせいだ。
この魔界のエリート、ベルゼブブ様が!
どうしてこんなことになったのかと思うが、そうなってしまったものは仕方がない。やっかいな女が、自分の主になったものだ。
もしかしたらこれもまた、魔力のひとつなのだろうか。惹きつけられて、やまない。
腹立たしい。忌々しい。自分は不幸だ。
そんな思いをこめながら、しばし佐隈の頬をむにむにと弄んでいると、やがて瞼がゆっくりと落ち始めた。
「オイコラ、なに寝ようとしてんだてめーは」
「だって……ベルゼブブさんの手、冷たくて気持ちいいです……」
熱中症になりかけた分際で、何をいう。
「さくまさんの体温が、高いせいですよ」
「ふふ……そう、ですね……」
「これに懲りたなら、今後このようなことがないように気をつけなさい。わかったか、この腐れ処女!」
「……はい……」
消え入りそうな声で答えた直後、佐隈は眠りに、落ちていった。
ぺちりと頬をたたくが、反応はない。具合が悪いために回復するべくとる睡眠から、単なる午睡に移行したようだ。
ベルゼブブは小さく舌打ちして、柔らかな頬から手を離した。
安心して眠る子供ように、すやすやと吐息を繰り返す佐隈の具合を確かめる。
このぶんならもう、大丈夫だろう。
「あとで起きたら、冷蔵庫の中にあったスポーツドリンクでも飲ませますかね……本当に、手間のかかる」
吐き捨てて、ベルゼブブは横たわる佐隈の頭近辺へと移動する。
自分とのじゃれあいでずれてしまったハンカチと、保冷剤をもとの位置に戻す。
そして、ぽん、と佐隈の頭へ、再び手を置いた。
ゆっくりと、撫でる。
ふと思う。
カレーの材料を買いに行った佐隈の気持ちは、見返りを求めることなく、ただ誰かのためにそうしたかったゆえのものだろう。それで具合が悪くなっても、責めることはしないのだろう。自分がそうしたかったからだと、佐隈はきっと笑うのだろう。
悪魔であるベルゼブブにとっては、それは目に痛いくらい綺麗なもの。嫌ではないが、眩しすぎるもの。
その対象が、どうしようもない悪魔や芥辺であるというのが、ひどく滑稽でつい笑ってしまう。普段は容赦ないくせに、こんなところで甘いのだから、意味がわからない。
でも、佐隈は、それでいい。対価がなにもなくても、自分の力を誰かのためにふるえるのは、人間の特権。
だが自分は、召喚された悪魔だ。誰かのために何かを為すなら、そのための対価が必要だ。
だから、あなたが起きたら絶対に言おう。イケニエを要求しよう。その心ごと、いただけるようなものがいい。
「さくまさん。とびっきり美味しい、あなたのカレーを所望しますよ」
ベルゼブブの言葉に応えるように、眠る佐隈の口元が、ほんのりと笑みを刻んだ。