「さくちゃぁぁん、そろそろ別のもの寄越してもいいんとちゃうかなって、おっちゃん思うんやけど~?」
本日もアクタベ探偵事務所の召喚の間へとその姿を現した悪魔が、にやにやと目を細めていやらしく笑う。
いそいそと、みかん箱と幼児用椅子という組み合わせの、自分のために用意された席につき、本日のイケニエ――先日要望したとおりの、チーズたっぷりの焼きカレーだ――に、手をつけようとしていたベルゼブブは、いまだ魔法陣の上に陣取る友人に向かって、首を傾げた。
「は? これ以上なにが欲しいというのですか、アザゼルくん」
すー、とカレーの芳しい香りを胸いっぱいに吸い込む。ベルゼブブは、うっとりとしながら息を吐き出した。友人の戯言はとっとと終わらせて、はやく食べたい。
「違うものがいいんですか? 今から用意できるものですか?」
氷の入ったグラスに水を注いでいた佐隈もまた、アザゼルの言葉を受けて、首を傾げた。みかん箱の上に置かれたその中で、かろんと氷が涼しげな音をたてる。
「おうおう、余裕のよっちゃんで用意できまっせ~」
「……」
わきわきと手を動かすアザゼルに、佐隈は何かを感じ取ったのか、あからさまに嫌そうな顔をする。
それに気づいているだろうアザゼルは、床を踏み鳴らし一歩前進した。
「処女や、処女! さくの処女寄越せや!」
下卑た叫びが部屋内の響いて弾ける。
「……」
「ちょ、ちょっとアザゼルくん……」
す、と佐隈が立ち上がる。その細い身体からじんわりと滲み出ているものに、ベルゼブブは本能的な恐怖を感じた。
しかし、今日は一体何のスイッチがはいってしまっているのか、アザゼルはとまらない。
「ええかぁ! だいたいおかしいやろ、イケニエが豚足だのザクの足だの、カレーだの! あ、さくちゃんのカレーはいっつもおいしいで。これ、ほんまな」
かつん、こつん、と靴の踵を鳴らしながら、佐隈がゆっくりとアザゼルに近づいていく。アザゼルは、カレーに対するフォローを入れつつ、さらに自分の意見をぶちまけていく。
「だけどなぁ! こちとらの職能好き放題して仕事やってるちゅーのに、扱いがひどすぎやないか!? ワシがいるから金稼いで飯くえとんのとちゃうんか! だから、ワシはとびっきりのイケニエを要求するで! これは当然の権利や! さっさと、さくのしょ、」
おそらく処女と言いたかったのだろう台詞は、最後まで発せられることはなかった。
手にしたグリモアを、佐隈が問答無用で、右から左へと振るったからだ。
オブフゥ! などど、意味不明な悲鳴をあげて、アザゼルの頭が吹っ飛んでいく。飛びながら、脳髄が撒き散らされる。べちゃびちゃと、湿った汚い音を立てながら、アザゼルの頭部は壁にぶつかって、ずるりと床へと落ちた。
「いったぁぁぁ! なにすんねん!」
首から上を吹き飛ばされたアザゼルが、ぎゃあぎゃあと頭だけで叫んでいる。幸いにも口は動くようだ。
佐隈は無表情で、倒れたアザゼルの体に近寄ると、それを掴んで引きずっていく。無造作に、アザゼル用幼児椅子に座らせる。
そしてそのまま――みかん箱の上にあったカレーを手にし、食道に直接流し込みはじめた。いや、スプーンを駆使して詰めはじめたと表現したほうが、正しいか。
「ぎゃぁぁぁぁ?!?! ちょ、さくちゃんなにするん?! やめ、さくちゃんやめてぇぇぇ!」
咀嚼もできず、直接食道を押し広げられ、胃に熱々のカレーを押し込まれたアザゼルが、悲鳴をあげる。
ヒィ、とベルゼブブは目の前で繰り広げられる光景に、震えながら小さく声をもらした。
「ふざけたことぬかすからです。さ、今日はアクタベさんのお仕事手伝ってもらいますからねー。アクタベさんが、事務所でお待ちですよ。さっさといってくださいね」
いってらっしゃい、がんばってー、と、アザゼルの身体と頭を、佐隈が召喚部屋の出口から放り出す。
階段を落ちていく鈍い音と、アザゼルの悲鳴が遠ざかって、消えた。
ぱたん、と扉がしめられる音が、虚しく響く。
淡々とアザゼルを処理した佐隈に、ベルゼブブは戦慄した。
そこには、もはや怯えも戸惑いもみえやしない。悪魔使いとしては成長し、人としては外道に落ちていっている。それでいいのか、佐隈りん子。
「――ベルゼブブさんは、どうしますか」
「ヒッ」
眼鏡の下の瞳が、「手間かけさせるな」と言っている。
あんな目にあわされてはたまらない。ベルゼブブは、あわててスプーンをとった。
「いいえ、いただきます、いただきますとも! このベルゼブブ、さくまさんのカレーは一滴もらさずいただく所存!」
「よかった」
にこ、と佐隈が笑う。
このアマ、だんだんアクタベに似てきやがった……。やっかいだな……。
内心冷や汗をかきながら、ベルゼブブはスプーンを動かす。
ひと掬いして、口に運ぶ。ふわり、口内に広がる旨味。その、先ほどまでの恐怖も吹き飛ばすような美味しさに、ベルゼブブは五体満足でよかったと、つくづく思った。さっきのアザゼルみたいにされたら、せっかくの味もわかるまい。もったいない。
「それにしても、なんか定期的にあんなこといいだしますよね、アザゼルさんって」
「こりない男ですからね、彼は」
あきれた佐隈のため息まじりの言葉に、ベルゼブブは頷きながら返した。
「ですが、アザゼルくんのいいたいことも、わからないでもありません」
へえ、と佐隈がわずかに目を見開く。
「ベルゼブブさんが、そんなこというなんて意外です」
「そうですかな」
食事をとる自分の前で体育座りをした佐隈に、スプーンを持っていないほうの手を振る。
「古来より、悪魔にとって処女というものはそれほど意味のある――というより、捧げられるべき価値のあるものとみなされるということです」
その人間にとって、初めてのものを貰う。
それはつまり、一番純粋で穢れていない記憶の最初に、自分を刻むということだ。
そうすれば、その人間の一生で、悪魔は忘れ去られることはない。その人間が死ぬまで、影は常に付きまとう。
とくに女として生まれた人間が、同種の男と交わる前に、その純潔を悪魔に奪われれば、その鮮烈さはいかばかりか。
悪魔は、そんな人間の嘆きや悲しみが、大好物である厄介な存在なのだ。
「ベルゼブブさんも、ですか? 私の処女をイケニエに差し出されたら嬉しいですか?」
「ふぅむ……」
そうですね、とベルゼブブは思案する。佐隈がそんなことをいいだすとは。
「嬉しいかといわれれば……はて、そうなってみないとわかりません。ですが、もし、いただけるならいただくでしょうね。断る理由がありません」
ふぅん、と佐隈が鼻を鳴らした。
そこで、言葉が途切れる。佐隈の視線が斜め下に向けられる。これでこの話は終わりなのだろうと推測し、ベルゼブブは食事に専念することにした。
かちゃかちゃと、食事をとる音だけが、その後しばし続き。
「――ベルゼブブさんは、それでいいんですか」
五口目を飲み込んだとき、ぽつりと佐隈は言葉を落とした。
「どういう意味ですか?」
「召喚のイケニエとしてさしだされるものでいいんですか?」
ベルゼブブは、その言葉の裏を読みながら、ゆっくりとスプーンをおろした。
「さくまさん、あなたつまり、嫌々差し出される自分の処女をもらって嬉しいのかと聞いておられるのですか?」
こく、とさくまが頷く。
「そうですねぇ……」
想像してみる。泣き叫び、嫌だ嫌だと泣く女の、すべてを暴く。
そういう趣向は悪くない。むしろ好ましい。胸の奥が熱くなる。
抱きしめて、繋がって、揺すって、ただ啼かせる。それはなんて、甘美なひとときだろう。
暴露を職能とするベルゼブブにとって、隠されるべきもの、隠したいとされるものを、白日のもとに晒すのは心躍る行為だ。
ただ。
その瞳に自分が写らず。名を呼ばれることもなく。柔らかな腕は抱きしめかえしてくることはない。かけられる言葉は拒絶、罵倒や非難しかない。
そこまで脳裏に思いえがいた瞬間、ぞわりと背がざわついた。
それは、嫌だ。
確かに、身体の快楽は満たされるだろう。愉悦を覚えるだろう。だが、それらだけでは足りはしないことに、ベルゼブブは気づいていた。心を満たすには、足りない。
佐隈が、ゆるりと首を傾げながら、ベルゼブブを覗き込んでくる。
「私は……、私だったら、欲しいです。全部が欲しいです」
それは、身体でなく心も、魂さえも欲するという、強欲で熱烈な愛の言葉だ。
しかし、笑うでもなく、頬を染めるでもなく、冷めた顔でいうことではない。色気がない。
だが、だからこそ。確かな本気が垣間見えて、ベルゼブブの全身が甘くしびれるような感覚に戦慄いた。
それは、幾万回の愛を囁かれる以上の悦びを、感じさせるものだった。
「さくまさん。あなたは、悪魔より悪魔らしい人間ですね――この、クソ女が」
だが、そういうあなただから。自分は、あなたを欲しいと、思うのだろう。こんなにも、強く。
ベルゼブブは、瞳を閉じて頷いた。
「ま、とりあえずその考えには賛成ですな。木偶のような女を抱いたところで楽しくともなんともありません」
能面のような張り付いたものでなく、いろんな顔と感情を、佐隈には見せてほしい。
愛情は好意がなければまず成り立たないが、それを味わいつくしてから、憎悪や恐怖をみせてもらうことだってできるのだから。
正から負へと落ちるのは――否、落とすのはいつでもできる。容易いことだ。
その瞬間を思い描いただけで、陶酔のため息がこぼれた。
「じゃあ、私のことその気にさせてください。そうしたら、喜んで差し出してもいいですよ」
ふふふ、と笑った佐隈に対し。
「ったく、処女のくせに威勢だけはいいよな、てめえはよォ――覚えとけよ、その言葉。ぜってぇ後悔させてやんぜ」
ケケケと、歯をむき出してベルゼブブは嗤う。
悪魔である自分と恋の駆け引きをしようとは、処女の思考はどうなっているのか。だが、挑戦されたならば、全力で応えてやりたい。
佐隈が、あとで逃げ出そうとしても、許さない。
「そうですか。でもとりあえず、あれを食べるのをやめないと、キスするのもお断りですからそのつもりで」
「!?!?」
しかし、佐隈がさらりと強烈な言葉を言い放ったので、さすがのベルゼブブも椅子を倒す勢いで立ち上がざるをえなくなる。
「そうですねー、とりあえず一ヶ月ぐらい控えていただければ、大腸菌とかもいなくなるでしょうし、まずそこからですよね」
「ピギィ?!」
がんばって! と、佐隈が両手を握り締める。
胡散臭さを感じるくらいの、きらきらと輝く笑顔と、ガッツポーズで励まされても!
「な、なななな! 黄金を一ヶ月も我慢しろと?! 鬼ですか、あなた! いや、この悪魔!」
バンバンとみかん箱をたたくと、一転して佐隈の顔は氷の女王のようになっていく。なにいってるんですか、という声は絶対零度の響き。
「そこが最低のラインです。私人間なんですから、へんなもの食べちゃったら大変なことになるんです。だから、そこがクリアできたら、その気にさせるように努力を開始してくださいね」
佐隈は、さも当たり前のように要求しているが、ベルゼブブにとってはそんなものあっさりと受け入れられるわけがない。
黄金だ、黄金。ベルゼブブ家のものにとっては、この世の甘露すべてを集めたような至高の一品。
それが、一口も食せないだと……?!
ひとつめのハードルが、チョモランマ並みの高さではないか。
「ふっざけんじゃねぇぇぇぇ!」
ちゃぶ台をひっくり返すように、みかん箱をひっくりかえしたい衝動に駆られるが、佐隈のカレーを台無しにしたくない心が、それを抑えた。ただ、これまでになく強く叩いた衝撃のあおりで、スプーンが落ちていく。
そんなベルゼブブの魂の叫びもなんのその、うるさそうに佐隈が眉間に皺を寄せる。
「さっき賛同してくださったじゃないですか。あーあー、そんな不誠実なひとには、あげられるものもあげられないなー」
棒読み過ぎる。ベルゼブブの反応など、予想の範囲だったのだろう。それをわかっていながら、あんな思わせぶりなことを言った佐隈が怖い。
「っ?! さくまさん、あなた……!」
ベルゼブブは、どっと冷や汗をかいた。まさかまさか。
「ああ、残念。すっごく残念です。ベルゼブブさんになら『貰ってください……』、っていってもいいなぁ、くらいには思ってたのに。ああ、残念だなあ」
頬に手をあて、悲しげな様子を見せながら、わざとらしい口調でそうのたまう佐隈に、謀られたのだと気づいて、ベルゼブブは体を震わせた。
あんなこんなを想像させるだけさせておいて、それらしき言葉も言っておいて、だが結局は与えられない。
目の前にぶら下げられた人参を延々と追いかける馬の気分とは、こんな感じなのかもしれない。
「私をはめたんですか!?」
欲しいという欲望に火をつけるだけつけておいて、なんたる仕打ち。
あげく、そんな風にいわれたら、余計に煽り立てられる。手に入らなそうな、でもあと少しで捕まえられそうに思えるものほど、躍起になって手を伸ばしたくなるのは人間も悪魔も変わらない。
「いやだなあ、人聞きの悪い。ようはベルゼブブさんの心がけ次第じゃないですか。ね、魔界の紳士さん」
くふ、と佐隈が笑う。
「私、本当にそうなったらいいなって思っているんですから」
そのまさしく悪女な笑みに、ぐぐぐ、とベルゼブブは息をのんで黙った。ぶるぶると、怒りに身体の震えがとまらない。
「……マジで覚えてろよ、このアマ……、その時がきたら床に額こすりつけて謝罪しても、ぜってぇ許さねえ。三日三晩は犯しまくってやっからなァ?!」
ギチギチと、歯を鳴らして威嚇するが、佐隈はもう慣れてしまっているらしい。効果なし。
「はいはい。そうできるように、頑張ってください。ほら、早く食べちゃってくださいよ。依頼の待ち合わせに遅れちゃいます」
先ほど、床に落ちたスプーンを拾って、佐隈がそっと差し出してくる。
「わーってるっつの、黙れビチクソ女!!」
そう唾を飛ばす勢いで返答し、ベルゼブブはスプーンをひったくって、カレーにがっついた。
クッソウメェ!! と叫びながら、もしもそうなったらと、ベルゼブブは考える。
もしも、佐隈から処女を捧げられたなら――きっと自分は、言ったこととは裏腹に、真綿にくるむようにして彼女を愛してしまうだろう。欲しかったものを得られた喜びに、胸を高鳴らせるだろう。
ああ、腹立たしい。
だけれども、にこにこと食事風景を眺めている佐隈をみていると、そんな未来予想図もそれほど悪くないと思ってしまうあたり、もうどうしようもない。
自分はいつのまに、こんなにも愚かな悪魔に成り下がったのだろう。
至高のカレーを貪りながら、ベルゼブブは嘆いた。