蠅の王が涙する日

 魔界の空というものは、おおよそ曇天である。ときおり、分厚いそこから眩い雷の龍が姿を見せては、鮮烈に舞っている。
 生まれたときからそうした空模様ばかりみてきたので、別に不思議とは思わない。暗かろうが、悪魔の瞳は闇を見通せるし、不都合もない。むしろあんなに鮮やかな青が広がる人間界のほうが、特異なのだとさえ思う。
 透明な羽を震わせ、そんな空を優雅に飛んでいたベルゼブブは、ある地点に向かって降下を始めた。
 そこには鬱蒼とした森が広がっている。
 近づくにつれ、ざわり、と木々がうごめく。次の瞬間、空中にいるベルゼブブに向かって一斉に延びてくる枝葉――否、食肉植物の触手を、手刀で斬って捨てる。
 餌にありつこうとする貪欲な手をすべて切り刻み、ベルゼブブは地面に足をついた。
 と、同時に、わずらわしさを軽減するため、己の魔力の一部を開放する。その圧倒的な圧力に、この獲物は捕らえられないと判断したのか、植物はするすると森の奥闇へと戻っていく。
 生きるものを食べつくそうとする植物が生い茂るそんな森を、ベルゼブブはゆっくりと進みはじめた。
 目指す場所はひとつ。迷うことはない。上空で確認した方向へ、躊躇うことなく足を出す。
 いくばくか行ったところで、横手の植物が、唐突に吹き飛んだ。
「お、べーやん! やっぱきたか」
「アザゼルくん」
 現れたのは、アザゼルだった。手には彼の得物である三叉の槍がある。彼の来た道は、食肉植物の残骸だらけだ。どうやらそれで、植物を吹き飛ばして道を作りつつ、ここまで来たらしい。
「なんや、えっらい久しぶりな気ぃするわー」
 相変わらずのにやけた明るい笑顔に、ベルゼブブは微笑んで会釈を返す。
「そうですね。そちらもお元気そうでなによりです」
 顔をあわせるのは、一年ぶりだった。互いに別々の悪魔使いと契約してからは、近況報告がてらに飲みにいくくらいしか、接点がなくなってしまったのだ。
 槍を肩に担ぎ上げ、アザゼルが顎で暗い森の先を示す。
「いつもの場所、いくんやろ? 一緒にいこーや」
「そうですね」
 男二人で歩くというのは、なんとも色気がないけれど、致しかたない。目的の場所は一緒であるし、どうせそこで顔をあわせることにかわりはないのだから。
 襲ってくる植物を切り捨て、下級魔物も蹴散らして、二人は森を抜けていく。
 木立をかきわけると、ごう、と強い風の音が耳朶を打った。
 みえるのは、ぽっかりとひらいた大地の裂け目。不定期に強い風がそこから上空に吹きあげるせいで、飛んでこられないのが面倒な場所。ただ、そのおかげで、魔界であるのに雲がなく、空が見える場所。
 この虚が、どこに繋がっているのか、その先なにがあるのか、誰も知らない。興味に駆られて飛び込んだものは、もどってくることはなかった。
 森から、一歩、二歩と離れる。
 崖の淵までは距離があり、そこを埋め尽くすように、小さな花が揺れている。そう大きくはない花園だ。
 細い茎の先端にある花びらは透明で、月と星の光を蓄えて淡く光を灯している。蛍のように、明滅を繰り返すその様は、可憐で儚い。とても魔界とは思えない幻想的な風景が、ここにある。
 ベルゼブブは、目を細めた。
 かつてここで、花を摘んだ。遥か昔のことだ。
 病床に伏せる女への、最後の贈り物だった。
 魔界には、おどろおどろしい花しかないんだろうと、そんな軽口を笑って言う生意気な女の鼻をあかしてやりたくて、アザゼルと共に探し回ってみつけた、貴重な花。
「べーやん、こっちこっち」
 アザゼルが呼ぶ。そのそばには、腰掛けるには丁度よい岩がふたつ。いつもの、彼らの指定席だ。ベルゼブブは、ゆっくりとそこに座った。
 心落ちつく芳香漂う花園の中、男と二人きり。ほんとうに、色気がない。だが、不思議と嫌な気分ではない。
 それは、隣にいる男もまた、自分と同じような感情をもって、ここにいるということを知っているからだ。
「なあ、べーやん」
「なんですか、アザゼルくん」
 どかっと岩に座り込んだアザゼルが、ベルゼブブをみることなく口を動かす。
「ワシなあ、あの頃はまあ、それなりに楽しかったと思ってんねん」
 もう遠い昔のことに思い馳せる横顔を、ベルゼブブはじっとみつめた。やれやれと、肩をすくめる。
「アクタベ氏に虐げられた、あの日々がですか? 君、とんでもないマゾですね。知りませんでしたよ」
「ちがうわっ!」
 くわっとアザゼルがくってかかってくる。
 その様子に小さく笑えば、からかわれたのがわかったらしく、アザゼルはバツが悪そうに唇を少し尖らせ、ばりばりと頭をかいた。
「あー、なんちゅーか、あの場所が居心地よかったっていえばええねんかな」
 そんなことをいう顔が、優しげなものになっていることに、アザゼルは気づいているのだろうか。
「クソのアクタベがおって、アホのさくのやつがおって、べーやんとゲームしたり、うまいカレーくったり。面倒な仕事もあったけど、なんだかんだで職能を活かして仕事してたやんか? 殺しなんか絶対なかったし」
「……そうですね」
 そう、手ひどく虐げられても、殺されかかっても、悪魔に最後の一線を越えさせることは決してなかった。
 一人の人生が、悪魔の能力で見るも無残なものになっても、それは大半が自業自得のものとされた。そんなことを平気でやってのけるくせに、最後のときまで、命を奪う命令は、一度たりとて下されたことはなかった。
「――なあ、今日、さくのやつが死んだ日やんか」
「ええ」
 アザゼルとベルゼブブは、毎年、必ずここを訪れる。示し合わせたわけでもないが、必ずここで会う。
 なぜならば、ここは、この二匹の悪魔が、最後に佐隈によばれた場所だからだ。
 驚かせてやろう、目にものみせてやろう、そう言い合いながら、花を摘んでいたときに呼ばれたのが、最後だった。
 あまりたくさん摘めなかったけれど、それをみて、佐隈は微笑んでくれた。
 痛みに苛まれ、笑うのも苦しいだろうに、微笑んでくれた。
 ありがとうございますという掠れた声が、今まさに耳朶に染み入ったように、思い出される。
 その三日後だ。
 彼女が、ゆるりと閉じた瞳を、二度と開かなかったのは。
 胸の奥に生じた痛みに、ベルゼブブは眉根を寄せる。
「さくのこと、覚えとるか?」
 ちらり、とベルゼブブは視線を投げる。わずかに瞳を伏せたアザゼルは、遠い場所をみている。
 今しがた、つい昨日の光景のように蘇った思い出に、心から浸っていたことを見透かされたような気がした。
「もちろんです。脳みそが拳より小さな君こそ、覚えているんですか?」
 当然だと頷きながら、そういうそちらはどうなんだと問いかける。
「正直なあ……ぼんやりとしかさくの顔、思い出せへんのや」
 逞しい腕を組み、アザゼルが空を見上げる。
「さくがいたこと、楽しかったこと、イケニエのカレーがうまかったことは覚えとる。でもなあ、どんな笑顔やったか、どんな声でわろうとったか、どんな味のカレーを作ってくれとったか――そういうのは、もう思い出せへん」
 悪魔にとっての一瞬が、人間にとっての一生に等しい。あれから随分と時間は流れた。そうであっても、誰も彼を責められない。
「そうですね。だけれど、それくらい覚えていられればじゅうぶんなんじゃないですか? 君の頭ではね」
 上出来です、と褒めているのか貶しているのかわからぬ言葉をかけてやる。
「べーやんは?」
 成り行き上、当然なアザゼルの台詞に、ベルゼブブは目を細める。
「……覚えていますとも」
 忘れるわけがない。
 鮮やかに思い出せる。
 初めて会ったときのこと。なにかと失敗していた佐隈の尻拭いをしたこと。容赦のないグリモアでの仕置き。イケニエのカレーの味、におい。
 なんだって、なんだって思い出せる。
 小さくなっていく背も、細く枯れてゆく手も。皺だらけの笑顔も――人として死に逝く彼女を、看取ったときのことも。
 どんなに歳を経ても、ベルゼブブにとって佐隈は佐隈だった。
 弱く、脆く、愚かでどうしようもない、いとしいひとだった。
 だから、忘れられるわけがない。
「そうかー、じゃあ、さくはまだ生きとんやなあ。ここん中に」
 とん、とアザゼルの指が、ベルゼブブの胸を突いた。驚いて、アザゼルの顔をみると、にしし、と少年のように笑っている。何千年も生きているくせに。
「……悪魔のくせに、なにセンチメンタルでロマンチックなこといってるんですか。女という幻想に夢見て生きてる童貞でもあるまいし、気色悪いですよ、アザゼルくん」
 ぺいっとそれを無慈悲に打ち払う。
「ひどいわ、べーやん!」
 よよよ、とわざとらしく泣き崩れるアザゼルが、あまりにもアホらしくて、突っ込みを入れる気も起きない。
 やがて、顔を覆った指の間から、ぽつりと声が漏れてくる。
「あんな……ワシな、いまでもたまに思うんや」
「なにをです?」
 かすかに震える声を、ベルゼブブは気づかないふりをする。
「空に魔法陣が現れたとき、さくのやつがよんでくれとるんやないかーってな……」
「……そんなこと、あるはずないでしょう」
 そう応えた自分の声が震えていることも、ベルゼブブは気づかないふりをする。
「わーってるって」
 ぱっと手を離したアザゼルが、一転して、あっけらかんという。
「でもそうやったらええなあて、思うねん。あーあー、もう一回、さくに会いたいわー」
 遠く懐かしむようなその顔を見て、ベルゼブブは思う。
 そんなことを言いながらも、この男の中では、すべてが綺麗な思い出となっていて、やがて消えていくのだろう、と。
 世界の時間は勝手に進んでいく。けれど、ある意味あのときで止まってしまった自分には、えられないものだ。
 忘れる幸せ、忘れない幸せ。忘れる不幸せと、忘れない不幸せ。
 どちらがよりよいなどと判断することは、意味のないことだろう。
「君がそんなに、さくまさんに未練があるとはね。あんなにも、処女だのブスだのといっていたのは誰でしたっけ?」
 だが、思ったこととは真逆に、ベルゼブブは皮肉気にそんなことをいって、口の端を持ち上げる。
「なぁにいうてんの! さくに未練タラタラでいまだに独身貴族きどっとるべーやんに言われたないわ! べーやんとちごうて、ワシには可愛い嫁はんとチビどももおるし!」
 えっへん、と胸を張るアザゼルが、こんなにもうらやましいと思ったことはない。だがそれは、絶対に言ってはやるものか。
 首をすくめて馬鹿にしたように、鼻を鳴らしてやった。
「なぁにいってるんですか。飲んだくれて避妊気にせずやりまくったあげくに、八方塞になって出来婚するしかなかったくせに。淫奔の悪魔がきいて呆れます」
「それはいわんとってー!」
 事実を突きつけると、うわぁぁぁん、とアザゼルが泣いた。その頃の修羅場を思い出したのだろう。あのときは、ベルゼブブも巻き込まれて大変なことになったものだ。
 こっちのことは、できれば思い出したくない。できれば忘れたい。女という生き物は、悪魔であっても人間であっても、厄介なものだと痛感した事件だった。
「でもまあ、ほんまに悪くない思うてる。実際チビども可愛いしなぁ」
 へら、とやにさがった顔で、アザゼルが言う。ベルゼブブの想定外なくらい、子煩悩な父親になったらしい。
「浮気しまくりで、いつもこっぴどく怒られてると聞きましたが? この前はちょん切られかけたとか」
「それもいわんとってー!」
 妻の怒りが蘇ったのだろう。がくがくと哀れなくらいに身を震わせて、アザゼルが自分の股間を押さえ込んだ。
「それで幸せとは、片腹痛い」
「ほっとけ! ウチはこれでええねや!」
 きーきー、とアザゼルの情けない訴えに耳を傾けるのも嫌になってきた頃、場違いなくらいの明るい歌が、あたりに響いた。
「お?」
 それは、アザゼルの携帯だった。着信を知らせるそのメロディが、数秒後にふつりと途切れる。
 手馴れた様子で操作して、アザゼルが立ち上がった。どうやらメールらしい。
「悪い、べーやん。ワシ、帰るわ」
「仕事の呼び出しですか?」
 いんや、とアザゼルは首を振る。
「嫁はんとウチのチビどもがよんどる」
 その言葉に、ベルゼブブは形のよい眉を動かし、一言いいかけたが――結局は、それを飲み込み苦笑した。
「……そうですか」
「たまの休みには遊んでやらんとなあ。はよ帰って来いってうるさーてかなわんわ」
 やれやれ、仕方ないといっているが、顔は満更でもなさそうに見える。
「じゃあ、べーやんは、ゆっきりしていき」
 アザゼルに、ひどく優しい声でそんなことをいわれて、ベルゼブブはわずかに唇をかみ締めた。
「ほなまた! 今度は景気よく酒でも飲みにいこーや!」
 幼い頃、ともに遊び、その別れの際にしたように、笑いながらアザゼルが言う。
「ええ、また」
 軽い挨拶を交わし、アザゼルが歩き出す。ベルゼブブは、それを見送るでもなく、ただ花園をみつめた。
「べーやーん!!」
「?」
 遠いところから、大きな声で呼びかけられ、ベルゼブブは振り返る。
 みれば、森と花園の境目で、アザゼルが大きく手を振っていた。
「ぜったい、ぜったい、悪ぅなかったよなー?!」
「……!」
 言われた言葉に、ベルゼブブは目を見開いた。
 芥辺探偵事務所でのこと。彼女と出会ったこと――アザゼルがいうように、悪いはずなど、ない。
「つーか、楽しかったやんなぁー?!」
 友人の言葉に、ベルゼブブは静かに微笑み、頷いた。
 ほんとうに、そのとおりです、と。
 それを満足そうにみたあと、アザゼルはまた大きく手を振って、そして森へと消えていった。
 友の姿が見えなくなって、ひとりになったベルゼブブは、暗い魔界の空を見上げた。
 ここに描かれた最後の魔法陣は、長い時間を生きた中でみたものの中でも、一番の美しさだった。
 日が経つにつれ、年が経つにつれ、魔力を増し、技術を重ね、そうして一流の悪魔使いとなった佐隈の魔法陣は、どこにも乱れはなく完璧で、穏やかな魔力に満ちていた。
 いつしか、このベルゼブブを使役するに相応しい実力を、備えていた。
 そのくせ、いつもどこか抜けていて、肝心なところで甘いあの女を――気づけば、心から、愛していた。
「さくまさん」
 その名を呼ぶ。いらえはない。ただ、風が吹き、花が揺れただけだった。
 ベルゼブブは、佐隈と結ばれたことなどない。結ばれたいと口にしたこともなかった。
 わかっていたから、それでも別によかった。
 生涯、伴侶をもつことがなかった彼女もまた、自分を愛してくれていたことを知っていた――終ぞ、その言葉をくれたことは、なかったけれど。
 そうして、どちらも一言たりとも伝えることなく、ただ寄り添い、ただ時間を共有し続けた。最後のときまでそうだった。
 あのときの自分は、まるで悪魔ではないようだった。もしかしたら、今もそうなのかもしれない。
 胸にこみあげるものが、熱く、重く、ベルゼブブの身体を侵していく。喘ぐように、唇を微かに動かす。
 ここへ来る前から、ひたひたと心のなかに嵩を増してきていたものが、決壊しそうに震えている。その危うさに、ひ、と喉が戦慄いた。それが、合図となった。
 くしゃりと、顔が歪む。溢れる涙が勝手に、頬をぬらしていく。
 ベルゼブブ家の当主としてあるまじき失態だ。たかだか人間の女のことで泣くなど、悪魔としてありえない。だがここならば、誰も見咎めない。
 この儀式めいた行いを、彼女が死んでから、ベルゼブブはずっと重ねてきた。
 その度ごとに、涙は枯れることを知らぬように、生まれ続けた。こらえることを、諦めるしかないくらいに。
 だからこの日だけ、一年のうちこの日だけ、泣こうと決めた。愛しい女を想って泣こうと、決めた。
 だから、ベルゼブブは遠い場所を見上げ、子供のように、泣いた。
 手を伸ばしても、よばれなければ人間界にはいけない。だから、ただ泣くしかできない。
 人間界で故人のためにあつらえられるという「墓」も、見たことがない。どんなところで佐隈が眠っているのかも、知らない。
 契約主たる佐隈が死んですぐに、別れを惜しむまもなく、魔界へと引き戻されたベルゼブブに、そんなことを知る機会はなかった。
 契約主である佐隈が死ねば、人間界に悪魔が留めおかれる理由はなくなる。だから、そうなるのは当然のことだった。
 それは理解していた。だけれど、誰かがすぐに、よぶに違いないと、そう思っていた。
 しかし予想は外れ、次に人間界へとよばれたのは、一ヶ月以上がすぎてからだった。
 あのクソガキ――その頃には一流の悪魔使いになっていた、堂珍光太郎――に呼ばれるまで、ベルゼブブには何一つできなかった。
 怒り狂うベルゼブブに対し、『お葬式にはきてもらわなくていい。お墓の場所も絶対に教えないで。なにもかもベルゼブブさんには知らせないで』という、佐隈の最後の願いだったと、彼は飄々とのたまった。
 ではどうして、今わの際に自分を呼んだのか、その最後を看取らせたのかと、問い詰めたかった。が、女はもう世界のどこを探しても、いなかった。答えを持ったまま、逝ってしまった。永遠の謎だけを残していなくなった。
 はらいせにガキを殺してやろうかとも思ったが、ベルゼブブにはそれすらも億劫だった。結局、何をすることもなく、魔界に戻った。
 だから、ベルゼブブの佐隈に関する最後の記憶は、静かに死んだ顔だ。苦しげだったのが、一瞬にして穏やかになったときの、あの絶望。あの安堵。感じた想いは、生々しくまだ残っている。
 ベルゼブブは顔を覆い、上半身を折っていく。
 白い病室の情景、そのときに感じたもの、すべてがはっきりと思い出されて、胸が苦しい。
 膝に額を触れさせるくらい、深く身を崩す。
 この場を去った友の気遣いを無にしないように、ありったけの涙を零す。いつもああして、なんだかんだと理由をつけて、アザゼルがふらりといなくなるのは、プライドの高い自分のためだと、とうの昔に気づいている。アザゼルだってばれていることくらいわかっているだろうに、そのことについてはなにもいわない。だから、ベルゼブブもなにも言わないし、遠慮はしない。
 悲鳴じみた泣き声が、あたりに満ちる。
「さく、ま……さ、」
 ベルゼブブは、アザゼルに示された場所に、そっと手をあてる。
 さきほどは馬鹿にしたけれど、実際のところまんざらでもなかったのだ。ああいわれるのは。

 ――さくはまだ生きとんやなあ。ここん中に――

 ふ、とベルゼブブは笑った。泣きながら、笑った。
 自分が忘れることがないうちは、佐隈が笑っていたことを覚えているならば、あなたは確かに生きている。
 そう、佐隈はいる。
 応えることはないけれど、「ベルゼブブさんが傍にいてくれて、幸せです――私」と、そういってくれたあのときの、笑った顔で「ここ」に在る。
 ぎゅう、と痛いくらいにベルゼブブは胸をおさえる。
 涙に塗れた瞳を閉じれば、きこえてくる心音。そんな自分の鼓動の影に、佐隈の鼓動もあるような気がして、ベルゼブブはまた笑った。
 自分も、随分とセンチメンタルな、ロマンチストだ。
 は、と息をついて、ベルゼブブは顔をあげる。涙はまだとまらないけれど、どうしようもない寂寥感は、いくばくか和らいでいた。
「さくまさん」
 いつだって、彼女はこの胸にいる。
 自分が死ぬまで、彼女は生きていられる。
 自分だけが、彼女を生かし続けられる。
 いつまでもちっぽけな人間を忘れないことを、嘲笑うものもいるだろう。蔑むものもいるだろう。
 だが、ベルゼブブにとっては、まぎれもなく、このうえない幸福だった。
「さくまさん、さくまさん……愛していますよ」
 伝えることのなかった言葉を囁きながら、魔界の片隅、淡い光放つ花園で、蠅の王は美しく泣き笑う。
 来年も、再来年も。幾百年、幾千年と経とうとも――ずっと。
 彼女と共に、いつの日にか、死ぬときまで。