恋人である少女の家は、いつも綺麗に掃除が行き届き、整理されている。
そして家主の気質のせいもあって、心地よい柔らかな穏やかさに満ちている。
装飾華美な館や城より、ずっと心穏やかに過ごせるこの家を、ヒースはとても好ましく思っている。
だが、今は違う。
椅子に座った己の膝の上、手にした分厚い本をせわしなくめくりながら、しかめっ面で悩んでいる少女から発せられるなんともいえないこの空気。
いかにして、ヒースにチョコレートを食べさせるか。
その大いなる目標に挑む少女を後ろから抱きしめたまま、ヒースは苦笑した。
「そこまで悩まなくとも、オレは別にどんなものでも構わないぞ?」
助け舟を出したつもりであったのに、とんでもない! といわんばかりにティアは頭を振った。
「ううん! だって、甘いもの嫌いなんでしょう?」
たしかに、あえて食べたいとは思わない味ではあるが、食べられないわけではない。そう何度もいっているのに、それではティアは納得できないらしい。
「でも贈りたいの! チョコレート……ううん、チョコレート風味のお菓子でもいいから、贈りたいの!」
そう、真剣な眼差しで語る。
ティア曰く。
贈りたいけど苦手なものでは迷惑である。好きな人に迷惑をかけたくはない。
ならば互いに歩み寄って、双方納得できるようなものを用意すればいい。
だから何がいいのか、一緒に考えよう。
いいたいことはわかるのだが、お菓子にとんと興味のないヒースに「これがいい」というものが思いつくわけもなく。
結局、ファナから借りたお菓子の本とティアだけが、睨めっこを続けている。
めくられていくページを、ティアの肩越しに覗き込みながら、ヒースはこっそりため息をついた。
決して、ティアに付き合っているのが嫌になったわけじゃない。
こんな風にあれこれ自分のために悩んでくれる少女に対して、幸せな気分に浸りきっているがゆえの、幸福なため息だ。
だが、ティアはそれに気付くことなく、頭をひねり続けている。
「うーん、これなら……。あ、でもこっちもいいかも……」
ぶつぶつと呟くティアの髪に、ほんの少し唇を触れされてヒースは零す。
「本当に、なんでもかまわないぞ?」
君が、オレにくれるものならば。
そういわれて、ぽっとティアは頬を赤らめた。一瞬だけ、「いいのかな……?」という表情を浮かべるが、すぐさま頭を振る。
「うう……、だめだめ! ちゃんと決めるのっ」
そしてまた、真剣に悩みはじめる少女に、ヒースはもう一度苦笑した。
そしてバレンタインデー、当日。
テーブルの上に、小さな音をたてながらティアは皿を置く。そして、椅子に腰掛けたヒースへと笑いかけた。
ぱっと、掛けられていた綺麗な布を取り外す。
「じゃーん、甘さ控え目に作ってみたよ!」
「ほう。すごいな」
綺麗に皿に盛られたこげ茶色のお菓子たちに、ヒースは顎に手を当てた。
どれも店で売っているのと見紛うような出来である。無造作にひとつ手にとって口を付ける。味わうように、ゆっくりと口を動かす。
さくさくとした食感で、思ったよりも甘くない。上に散らされていた木の実が、香ばしい。チョコレートを単品で食べたときのような、絡みつくような甘さも残らないあっさりさ。
どきどきと胸元で手を組み合わせて、じっと感想を待つティアへとヒースは笑いかけた。
「うまい! これなら大丈夫だ」
「いやったぁ! やっぱりブラウニーにしてよかったぁ」
喜んで飛び跳ねるティアをみながら、手にしていた残りを口に放り込む。
それにしても、ほろ苦く美味しいこのブラウニーとやらを作るために、ティアがずっと悩んでいてくれたことに、頬が緩んで仕方がない。
きゃっきゃと自分の感想に喜ぶ姿も。
ああ、もう。ほんとうに可愛い。
「――ティア」
だから、引き寄せる。抱きしめる。
ひょい、とこの前のように自分の膝の上に座らせて、顔を覗き込む。
一瞬だけ驚いた顔をして、ぱちぱちと目を瞬かせたティアだったが、視線を交わすと自然に顔が綻んだらしく、可愛らしい笑みを浮かべた。
自分のことが大好きだとその存在全てで、高らかに世界へ宣するこの少女が、愛おしい。
ティアの小さな額に、ヒースは己のそれをそっとあわせた。
「ありがとう。今日ほど、この日があってよかったと思ったことはない。正直いうとな、バレンタインデー自体が苦手だったんだ。帝国でも、あまりいい思い出がなくてな」
実際、帝国の将としてヴァルドの手足となり、平和な世界を作るべく尽力していた頃は、興味もないのにやたらと女性にまとわりつかれ、あれやこれやとお菓子を贈られ辟易したものだ。しかも返事がないと泣くし、断ればまた泣くし。つくづく女というものの恐ろしさを味わった。
どうしたらよいかわからず、右往左往としていた昔の自分を思い出しつつ、喉の奥で笑い声を転がしながらそう言えば。
ぴくっと、肩を震わせたティアが、身体を離してそっぽをむいた。
わずかに不機嫌さがにじみ出るその表情に、ヒースは「ん?」と声を漏らしたが、すぐに思い当たるところがあって、噴出しそうになった。
ティアの考えていることがありありと伝わってくるようだ。
「そうだよね……ヒースなら、たくさんもらえるよね」
僅かに唇を尖らせて、ほんの少し棘のある言い方。
それすらも愛らしく思えるのだから、自分はよほどこの少女に骨抜きにされているな、とヒースは思う。
「まあな、処分に困ったもんだ」
否定するわけでもなく、あっさりとヒースが頷いてやると。むむむ、とティアは眉をひそめた。
そんなことない、と言うのは簡単だ。だが、申し訳ないとは思うがヒースはティアに嘘をつくようなことはしたくないのである。たとえそれが建前といわれる類のものでも、だ。
偽ることなく真摯に接すれば、ティアは必ずわかってくれると知っているから。
小さなやきもちをやくティアを宥めるように、頬を撫でる。
「だが、チョコレートにこめられた想いも一緒に受け取ったのは、初めてだぞ?」
「えっ……?」
そう小さな耳に囁くように落としてやれば、ティアが薔薇色に頬を染めた。
ゆっくりと夕焼けのように耳も首も色づかせながら、おずおずとティアはヒースの首に腕をまわしてくる。視線を絡ませ、潤んだ瞳で請うてくる。
「じゃあ、じゃあね。……これからもずっと、私からのものだけ、受け取ってくれる?」
「ああ、約束しよう。オレは、君から以外のものはいらないからな」
そんなこと願わずとも当たり前だというのに。それでも確かめてくるティアに微笑んで、ヒースは頷いた。
「うん! 絶対だよ?」
ぱっと先ほどの憂いなど吹き飛ばして、ティアは大輪の笑みを花開かせる。
「ああ」
そうして微笑みあった恋人たちは、どちらからともなく唇を寄せる。
それは、チョコレートのほろ苦さをぬぐうような甘さで、互いを満たしていく。
でもそれは、ヒースが唯一好ましいと思える、甘さ。この世界で、ティアだけがもっているもの。
この、自分を捕らえて離さない可愛らしいお菓子が、決して失われることのないように。何かに奪われてしまわぬように。
生涯かけて守りぬく事を改めて誓いながら、ヒースはティアを抱く腕にそっと力をこめた。