ローアンの街西部に位置する占い横丁の片隅、古びたレクスの家の前。
まだ朝の清々しい気配が残った太陽の光の中、にこにこと屈託のない明るい笑顔で立つティアが差し出す小さな箱に、レクスはあからさまに眉を顰めた。
そんなレクスにはお構いなしに、ティアはずい、とそれを押し付けるように一歩前にでた。思わず、レクスは半歩後退する。
「レクス、はい!」
「……なんでだ」
低くそうつぶやけば、ティアは「あれ?」と小さく零してわずかに頭を傾げた。そして、彼女の中で何か答えが出たらしく、ふんふんと頷く。なんだか嫌な予感がした。
「レクスってば、知らないんだね? えっとね、今日はバレンタインデーっていう日なんだよ。あのね、バレンタインデーって言うのは……」
予感的中である。
どうやら、レクスが今日この日が持つ意味と、催される行事を知らないと解釈したらしい。天然気味なティアらしいといえば、ティアらしい。
違う。そうじゃない!
思わず、レクスは心の中で頭を抱えた。
「だあああ、今日が何の日かくらい知ってるっての! そうじゃなくて、なんで親友のオレにくれるんだって訊いてるんだ!」
そんな言葉が投げかけられるなど思ってもいなかったらしく、ティアはきょとんと目を瞬かせて口を噤んだ。
その綺麗すぎる目を直視できなくて、レクスは目をそらす。
視線を合わせたままでは、この速い心音さえも聞こえてしまいそうな気がした。じんわりと熱をもっていく、己の頬がとても鬱陶しくて仕方ない。
ぼそぼそと、ぶっきらぼうにレクスは続ける。
「別にオレじゃなくてもいいんだろうが。他にプレゼントしたい好きな野郎くらい、いんだろ……?」
口からでた言葉は、そんなひねくれたことだけ。
カレイラの英雄として名を馳せ、老若男女に好かれるティアのこと。きっと自分よりもっと仲のいいやつだっているだろう。昔のようにレクスだけのティアじゃなくなったことは、もうわかっているのだ。ちょっと納得はできていないが。
そんなことを考えるレクスの不機嫌そうな色の滲む声に、それでもティアは黙ったまま。
まんじりとした空気が、重く流れていく。
さすがに傷つけてしまっただろうと思いながら、レクスは落としていた視線をティアにちらりと向けた。
だが、ティアは予想したような憂い顔ではなく、ただ静かに笑っていた。思ったものと違うティアの表情に、レクスは少々鼻白む。
言葉に詰まってしまった少年の前で、少女は思わず触れたくなるような淡く色づいた唇を開いた。
「私はね、レクスにあげたいんだよ」
「っ!」
まっすぐにレクスの赤い瞳を貫きながら言い切って、ティアは手にしていた箱をレクスへと押し付けた。
思わず受け取ってしまったレクスは、かけられたその言葉を反芻しながら、ぎゅ、と箱を握り締める。
「ど、どうしてだよ?」
このままでは、確信もないというのに妙な期待をしてしまう。きっとこんなの自分の思い違いだと思うのに、喜ぶ心が抑えられない。みっともない。
だが、もしも。
もっと、もっと決定的な言葉がもらえたならば。この腕で、抱きしめることだってできるだろう。
ぼんやりと熱に浮かされたような、おぼつかない意識でそんなことを考える。
だが、ティアは唇に指をあてて、白い雲の浮かぶ空を見上げるような仕草をして。
「んー……。さあ、どうしてでしょう?」
くすくすと、悪戯っぽい笑顔を零した。
それを見て、レクスはかっと頬を赤らめた。
「お、おまえ……!」
からかっているのか、と言いかけたレクスから、ティアはするりと離れていく。
なんだか、ティアがいた空間が急に寒く寂しくなってしまったと思う感覚に、レクスが戸惑っている間に。
「レクスが意地悪なこというから教えてあげないっ。じゃあね!」
そう言って、ひらりとスカートを靡かせ、ティアは蝶々のように身を翻した。
「お、おい待てよ、ティア!」
「あ、そうだ」
レクスは自分の制止の声に止まってくれたのかと思ったが、そうではないらしい。
ティアは何か思い出したかのように、くるりと振り返った。後ろで手を組んでレクスに微笑みかける。
「あのね。私が作ったチョコレート、それだけだから」
「!」
どういう意味なんだ!
意味深な言葉を投げかけるだけ投げかけたティアが、凍りついたレクスを見て、くすくすと笑う。
「じゃあ、またね!」
手を振りつつ、るんるんと浮き足立ったように去っていくティアを呆然と見送って。
申し開きもできないほどに顔を赤くしたレクスは、歯軋りした。
すっかり、踊らされている。はまってしまっている。
「ちくしょう……」
妹みたいな存在だったのに。守らなければ何もできない庇護するだけの存在であったはずなのに。
いつの間に、こんなにも心を占拠されてしまったのだろう。
どうして、好きだと、恋しいと、愛おしいのだと、そんな感情しか浮かばないようになってしまったのだろう。
しかも力関係がすっかり逆転してしまっているではないか。預言書の出来事があったとはいえ、まだまだ自分に優位なところもあると思っていたのに!
なんだかもう、覆せそうにない。
ティアへの恋心とそんな事実を認めるしか、レクスに残された道はない。
自分の意思とは関係なく、ばくばくと激しく躍る胸に、ティアの想いがこもったチョコレートの入った箱を押し抱いて。
レクスはもういちど――ちくしょう、と。
口元を覆って、呟いた。