いい天気だ。
爽やかな風の中に、ほんのりと花の香りが混じっている。どこにあるのかわからないが、きっとこの近くで、可憐な風情で花弁を揺らしているのだろう。
見上げる高く澄んだ青い空には、白い雲。ゆったりと、優雅にいずこかへと風によって運ばれていく。
さまざまに姿を変えるそれは、子供ならばそのありあまる想像力を膨らませ、なんの動物だなどと、たとえ遊びができそうだ。
ああ、なんて穏やか。
レオンは、平和な日常のありがたさを噛み締めながら、ちらりと隣を見遣った。
そこには、真面目な表情でセルフィアの街なかを流れる水路に釣り糸を垂れる青い髪の青年――ディラスがいる。
街一番の腕を自負するディラスにとっては、このような水路であっても、暇つぶしなどではなく真剣勝負なのだろう。浮きの動きを見逃さないよう、熱のこもった琥珀色の視線を向けている。
なにか釣れれば幸運、とその程度のレオンとは真逆な、真摯な態度である。
と。
ぴくり、とわずかにディラスの浮きが震えた。
「きた……!」
だが、そこで焦って引くことはなく、しっかりと食いつくのを待ち――ぐん、と浮きが深く沈みこんだ瞬間、ディラスの腕が釣竿を大きく引いた。
魚が水面から水とともに飛び出してくる。きらきらと、大小さまざまな飛沫の合間で、釣り上げられた魚が、その身体をくねらせた。大物だ。
「よし!」
手ごたえどおりの魚を釣り上げて、いつもは仏頂面なディラスが、子供のように顔を輝かせる。
「おお、さすがだな」
すばらしい手際をみせて、大きな魚を釣り上げたディラスを褒めれば、ほんの少しだけ、照れくさそうな顔が向けられる。表情が素直に表に滲むようになったのは、じつにいい傾向だ。
手早く針をはずし、釣果を水を張ったブリキのバケツにいれたディラスが、つぎの仕掛けの準備をはじめたのをながめっつ思う。
いまなら話しかけても大丈夫だろう。さきほどまでのような釣りの最中だと、熱中しすぎていて聞き流されることもあるのだ。
「――ところで、ディラス。どうだ?」
にやにやと、レオンは口元に意地の悪い笑みを貼り付けながら問いかける。
「なにがだ?」
どの餌を使おうかと吟味していたディラスが、餌の入った箱の前にしゃがんだまま、顔だけをこちらに向ける。
自分より背の高い男に見上げられるのは、なんとも不思議な感じだと思いつつ、レオンはその瞳をまじまじとみつめる。
ほんとうに何をきかれているのかわかっていないのだろうか。
じっと真意を読みとろうとしていると、気味悪そうに目を逸らされた。そこまで熱視線を送ったつもりはないのだが。
まあいい。不器用なディラスには直球が一番効果があると、レオンは知っている。
「なにって、フレイとの新婚生活に決まっている」
「ぶっ?!」
餌をえらび、浮きのほうも付け替えようとしていたディラスが、噴出した。
勢いよく再び向けられたその顔は真っ赤である。見開かれた瞳。薄く開いた唇が、わなわなと震えている。なんとも間の抜けた顔だ。
そうそう、こういうのがみたかったのだ。レオンは、にやりと口の端をもちあげた。
「なんだ、新婚にはこういうことをきくのが礼儀ってものだろう」
くそ、とディラスが悪態をつきながら、立ち上がる。照れくさそうに青く長い髪を乱すように、頭をかいている。どうこたえればいいのか、考えあぐねているようだ。
その初々しい様子に、レオンは喉の奥を震わせる。
つい先日、この街の姫ことフレイと、ディラスは結婚した。
それはそれは盛大で、住民たちすべてに祝福された、とてもよい式であった。
まあ、そこまで辿りつくには紆余曲折あった。
最初は、ディラスはフレイを邪険にしていたし、興味のかけらすら抱いていなかった。それでも、フレイは諦めずに声を掛け続け、いつのまにやら頑なであった心を融かしてしまった。
いつしか、笑いあう二人を街角でよくみかけるようになり、そうして彼らが恋人同士になったことを知った。
交際は順調に進み、皆、いつ結婚するのだろうかと、二人に知られぬようこっそり賭けまでしていたくらいだった。ちなみ余談であるが、その賭けの胴元はバドで、それを知ったフォルテに怒られていた。
だが、ディラスの不器用さのせいで、プロポーズの際にはひと悶着あった。フレイに対しての態度は、ひどいものだった。理由がわかれば、なるほどと思うが、それでも許されるようなものではなかった。
そのときのことを、レオンはよく覚えている。真剣に、ディラスを埋めてやろうかと思ったのだから。なにせ、あのフレイを泣かせたのだ。それくらいはしかたのないことのように思えた。
それは、他の住民達も同じ気持ちだったのだろう。
ありとあらゆる力ずくの説得、もとい、愛情溢れる説教を受けたディラスは反省し、フレイへとありったけの想いをこめた言葉を届けた。
指輪を受け取ったフレイは、それに頷いた。
かくして、二人は親友であり神竜であるセルザウィードの前で、永久の愛を誓ったのだった。
と、なれば。
誰しもが気になるのが、彼らの新婚生活であろう。
「お、おま……おまえもかよ……! くそ……!」
どうやら、さんざんに周囲からきかれていることらしい。
だが、苦々しくディラスが吐き捨てた言葉にも、レオンはめげなかった。こんなに愉しいこと、そうそうやめてたまるものか。
「で、どうなんだ? 幸せか?」
さらに問いかければ、ディラスが言葉につまった。琥珀色の瞳をあちこちに泳がせたあと、一度唇を引き結ぶ。
「ああ……幸せだ」
しぼりだされたような苦しげな声だったが、そこに宿る感情はこのうえない喜びに彩られているように、レオンには感じられた。きいているほうが、よほど幸せになれるような。
このディラスが、と妙な感慨深さを覚えながら、レオンは微笑みながら頷く。
「それはよかった」
心からの笑みだった。フレイとディラスが、幸せでいてくれて素直に嬉しい。
それが伝わったのか、ディラスが緊張に強張っていた顔を緩めた。からかわれるのはいやだが、祝福は嬉しいといったところか。
「朝、目覚めると、すぐそこにフレイがいるんだ。そうして、その日最初の笑顔を、俺にくれる。幸せじゃないはずがない」
「フレイは、可愛いか?」
「そ、それは……! もちろん……いつだって、か、可愛いと思ってる……」
「新婚夫婦にはヤボな質問だったか。ごちそうさま」
くくく、とレオンは喉の奥をさらに震わせながら、釣竿をひいた。
これ以上、糸を垂れていても釣果を得られそうに無い。それよりも、もっといいものを得られそうであるし――今日はここまでにしておくことにする。
仕掛けを片付けながら、レオンは核心にせまる。
「まあ、仲がよいのはいいことだ。それで――肝心なほうはどうなんだ?」
なるべく警戒心を抱かせないように、さらりと一番訊ねたいところに触れる。怒り出すかとも思ったが、ディラスの感情は揺れ動かなかった。
「肝心なほう?」
頭の上に疑問符を浮かべるディラスに、レオンは探るように目を細めた。
「ほら、新婚ならやることあるだろ? どうだ、フレイは」
下世話な話題だが、こうすればディラスはきっともっと慌てふためくだろうと、レオンは予想していた。
どちらかといえば、レオンは質問内容に答えが返ってくるよりも、ディラスのそういう姿がみたかったりする。できれば、それをふまえたうえで、フレイをからかうことができればなおよい。
が、ディラスはますますわからないといった顔をしたあと、「あ」と声を漏らした。
「料理か? フレイは何をつくってもうまいぞ。おかげで、俺も作れるものが増えた。俺のレシピも教えてやれるしな」
……この料理好き夫婦め。
レオンはなかば呆れつつ、そんなことを思った。
「いやいや、そうじゃない。わかるだろう?」
言葉を濁すが、ディラスには思い当たるところはないらしく、ほんとうになにもわからぬ子供のように、きょとんとしている。
その真っ直ぐな琥珀色の瞳は、レオンのほうが照れるくらいに無垢であった。うぐ、とレオンはさきほどのディラスのように言葉に詰まったあと、咳払いをした。それはもう、わざとらしく。
そして。
「……こ、子作りのほうは、どうなんた?」
レオンはそうそうに観念して、わかりやすい言葉にした。
素直には素直で対抗するしかないのである。なんだか、気恥ずかしい。と、いうか、恥ずかしがらせたかったのに、なぜこちらが恥ずかしくならなければいけないのか。
むう、と眉をひそめるレオンの前で、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「ああ、そのことか」
だが、思った以上にあっさりと、照れた様子もなくディラスが頷く。
おや? と、レオンが眉を動かした次の瞬間。
「がんばっているぞ」
「!?!?」
あまりにも真剣な顔でそんなことをいわれて、レオンのほうがあからさまに動揺してしまった。
いや、ディラス、おまえはそういう奴じゃないだろう!
思わぬ事態に、心の中で突っ込みをいれるレオンをよそに、ディラスの子作り話は続く。
「毎日、いろいろと工夫してやってみている。というか、俺というより、フレイがよく頑張ってくれているんだが……」
ふ、と幸せそうにディラスが淡く微笑む。
「フレイが?! 毎日か?!」
それはすごい。
レオンは、思わずフレイが頑張っている姿を想像してしまった。
明かりを落とした部屋の寝台で、しどけない姿をしたフレイが、夫を誘う――ごくりと喉が自然と鳴った。顔が熱くなる。鼻血がでそうだな、と、どこか冷静に思った。
「俺も手伝ってはいるんだが、なにせ慣れていないからな……ほとんどフレイにまかせっきりだ」
これはまた意外な……。
レオンは、ディラスのことをむっつりすけべだと思っている。それが、あんなに可愛いフレイと結婚できたのだから、夜の生活はある程度はじけているのではないかと想像していた。
若い夫婦であることだし、ディラスがフレイにがっついてもおかしくない、と。
それは勝手な妄想であったが、どうやら事実は大幅に違っていたようだ。むしろフレイがディラスにがっついている、と。ほうほう、とレオンは至極真面目な顔をしながら、脳内にそのことを刻み込んだ。
しかし、フレイが頑張っていて、ディラスはそれにほとんとまかせっきりということは、だ。
「……おまえ、マグロか?」
「いや? ここでマグロを釣ったことはないな」
そうじゃない。
思わず、レオンはディラスに再び突っ込みをいれそうになったが、ディラスにボケている様子はない。
「「……」」
さらさらと、清らかな水流れる水路の前で、男二人の間に妙な沈黙が訪れる。
これは天然なのか、それともわざとなのだろうか。
レオンが判断しかねていると、ディラスが目を伏せた。
「……なあ、どうしたらいいと思う?」
「?」
何のことかわからずにいるレオンにかまうことなく、ディラスはいう。
「フレイにばかりまかせているのは、どうかと思っていたところだったんだ。やはり、そういう知識も得るべきかと思うんだが……。お前は、そういう本とか読んだことありそうだし、もっていそうだし……どうしたらいいか教えてくれないか」
「――いやいやいや」
たらたらと、レオンは背に汗を流した。
なにをいっているんだ、この男は。
確かに読書は好きではある。今の仕事も、翻訳業が主なわけであるから、必然的に読まなければいけない。
が、子づくりに関する本などはない。そもそも相手がいない。用がない。
世の中には、そういうことに関する古代の本に興味がある者もいるかもしれないが、いまのところ仕事でおめにかかったこともない。
それとも、自分はそういう趣味があるとでも思われているのだろうか。それならば由々しき事態である。健康的な一般男子として、ある程度、下世話な本を持っていないわけではないが……、それを見透かされていたりするのも正直怖い。
ここはひとつ誤魔化すべきだろうと、レオンは判断した。
「俺はこの世界に目覚めてからそんなにたっていない。あまり荷物をもつのは好きではないし、貸せるような本もないな――ああ、そうだ。アーサーなら持っているんじゃないか? 商売をしていることだし、そういうものの需要もあるだろうからな」
ひっくりかえりそうな声を努めておさえ、レオンは交易を営むアーサーの名をあげた。
「それもそうか。今度きいてみるよ。ありがとう」
素直に礼を述べられるようになったのは、どう考えてもフレイのおかげだろう。あのディラスをここまで変えるとはな、とレオンは感心する。今の話の内容が内容だから、ちょっとあれだが。
アーサーすまん――レオンは心の中で、彼の本体であろう眼鏡ごとアーサーに向かって謝った。
「それにしても、いつ子供を授かれるんだろうな……。フレイが毎日楽しみにしてるんだが、なかなかうまくいかん」
「そればかりはな。いろいろなものが絡む話だろうから、焦ってもしかたがない」
「そうだよな」
「まあ、気負わずに気楽にいけばいいだろう。それほど頑張っているのなら、きっと健康で可愛い子を授かるだろうさ。祈っておいてやるよ」
「……ああ。そうだと、いいな」
とろけるように、ディラスが笑う。
きっと、フレイとまだ見ぬ子供の幸せな姿でも、思い浮かべているのだろう。未来の親馬鹿っぷりが垣間見えた気がした。
「毎日様子をみにいって、今日もだめだったと帰ってくるフレイがかわいそうだったんだが、そう励ましてみる。サンキュな、レオン」
に、とディラスが笑うので、つられて曖昧に笑ってみたものの、突然、胸がもやもやしだした。
「いや、別にたいしたことを、いったわけ、では……」
歯切れ悪い言葉を発しつつ頷きつつ、レオンは首を傾げる。
なんだこの違和感――
と、いうか、毎日様子を見に行ってるって、フレイはどこになにをみにいっている?
母となった兆候は、そうすぐにでるものではない。つきのものがないとか、具合が悪いとか、そういったことがあってはじめて「もしや……?」と思い当たるのが普通だ。
それとも、自分が守り人として長い時間眠っている間に、毎日妊娠したかどうかを確かめる方法でも確立されたのだろうか。
うむむ、とレオンが悩む横で、ディラスが息をつく。
「フレイが丹精こめて育てているから、できるものはいいものばかりなんだがな……。あとは子供か……」
「……?」
はあ、ともうひとつ溜息をつくディラスの横顔を、レオンは凝視した。それこそ穴が開くくらいにみつめた。
丹精こめて育ててるって、なにを。いいものができているって、なにが。
小さな違和感が、大きな不協和音となって、レオンの身の内で警鐘のように鳴り響く。
ごくり、と乾いた口内を潤すために唾を飲み込み、レオンはおそるおそる問う。
「なあ……子作りの話、だよな?」
「そうだ。お前が言い出したんだろうが」
なにいってんだ? というディラスに、だよな、とレオンは頷いた。でも、違和感は消えない。むしろますます大きくなっていく。なんだか頭が痛くなってきた。
種、畑、フレイが毎日丹精こめて育てている――そうした単語は、どうきいても子作りには直結しない気がした。むしろ農業だ。一種の隠語かとも思ったが、ディラスにはそんなことをいっている様子が微塵もない。
まさか――!
天啓を得たかのごとく、レオンの脳裏に稲妻が走った。
「――なあ、ディラス」
「ああ?」
自分の声が震えているのがわかる。まさかまさかと思うものの、そのまさかが拭えない。そうであって欲しくないと願いつつ、だがそれが大当たりしているというとてつもなく嫌な予感がした。
「お前……子供の作り方、知ってるか?」
「はあ?」
意を決したレオンの問いかけに、世間の一般常識を問われて不愉快だとでもいわんばかりに、ディラスが顔を顰める。まるで、トイレの使い方がわかるか、とでもきかれているような、そんな感じだ。
「そうだよな、知らないはずが――」
ほっと、レオンが胸を撫で下ろそうとしたとき。
「キャベツ畑で授かるんだろうが」
きっぱりはっきり、なんの疑問も抱いてないというように、ディラスがいった。
やっぱりかー!
ガン! と、頭を鈍器で殴られたような衝撃に、レオンはしばし硬直した。
いやまて、おちつけ。まさかフレイまでそんなことをいうはずが……。きっとディラスをからかっているに違いない。そうに違いない。存外、アホなところのあるディラスでもあるまいし――!
ぐるぐると、思いっきり失礼なことを考えるレオンをしりめに、ディラスは続ける。
「だからフレイが城裏の畑すべてにキャベツを植えてくれている。フレイが育てているから、質のいいキャベツができるんだ。出荷すれば売り上げもいい。それに、食堂でも使わせてもらっていてな、評判いいぞ」
そういうことをきいてるんじゃない。
あまりのことに停止しかける思考を、それでも懸命に働かせるレオンであるが、言葉がでない。
「しかし、やはり子供が……。きっと夫婦で世話をするべきなんだろうな。あとでアーサーのところで、農業の本を借りてみるさ」
ぼうぜんとディラスの言葉を聴くレオンの頭のなかで、ばらばらであったピースが綺麗にはまっていく。
そういえば、ここ最近の畑は一面にキャベツが植わっていておかしいと思っていたのだ。ディラスと夫婦になったのだから、てっきり全部ニンジン畑にでもなるだろうと思っていた。
それに食堂でキャベツを使った料理が増えていた。どれも美味しいからさして気にも留めていなかったが、メニューの八割がたキャベツ料理とか、あからさまにおかしいだろう。
そして、ディラスが求めていたのは、レオンが想像した子作り本の類ではなく、キャベツ畑を世話するためのノウハウを記した農業関係の本だったのだ。
そっちの意味の世話とは予想外にもほどがある! 普通はあの流れなら、そういう本だと思うだろう! ちょっと焦ったあの心をかえせ!
そんなことを怒涛のように考えたレオンは、はっと我にかえると、ディラスに詰め寄った。
「――いやいやいやいや、ちょっとまてディラス!」
「な、なんだ?!」
急に勢いよく距離をつめられて、ディラスが目を見開いて退いた。
「おまえ、それじゃあいつまでたっても――!「ディラス!」
レオンの言葉にかぶさるように、可憐な声が突如として響いた。
声のしたほうをに顔を向ければ、優しい緑色をした長い髪をふたつにくくった、愛くるしい少女――これでも人妻――の、フレイがいた。
花開くように顔をほころばせ、頬を染めながら、ディラスに向かって駆け寄ってくる。
「フレイ! どうした、なにかあったか?」
釣り竿をほうりだしたディラスが、慌ててフレイを迎え入れる。
ぽすん、とその広い胸へと飛び込んだフレイが、小動物のように首をかしげながらディラスを見上げる。
「ううん。畑仕事終わったら、急にディラスの顔、みたくなっちゃったんだ」
えへ、とフレイがはにかめば、「ばっかやろ……」と悪態をつきながらも、ディラスがとろけるような笑顔を浮かべた。
「ごめんね、もしかして釣りの邪魔しちゃった、かな?」
わずかにフレイが顔を曇らせれば、ディラスがゆるりと頭を振った。
「んなわけあるかよ。……お、俺も、フレイの顔、みたいって思ってた」
「ディラス……!」
そうして、二人は瞳を潤ませながらみつめあう。ぶわっと、あたりの空気が薔薇色になった。
寄り添うフレイにおずおずと腕をまわし、さらにひきよせたディラスが、ちゅ、と前髪の間からのぞく綺麗な額に唇を押し当てる。
それがくすぐったいのか、フレイが幸せそうに笑って、首をすくめた。そのあと、お返しといわんばかりに、精一杯に背伸びをしてディラスの頬に唇をのせる。ディラスが、息を飲んでさらに真っ赤になった。
おいおい。
目の前で、砂糖何杯分だといいたくなるような甘さでいちゃいちゃとしだした二人に、レオンは疎外感を感じながらこめかみに指先をあてた。
甘い。甘すぎる。なんだこの空気。
わかっていたけど、突然そんな空間を作られても、独り身にはつらいだけである。
というか、自分、ここにいるんだが、二人にちゃんと見えているのだろうか。
ああ、飛び交うハートの幻がみえる。
スコン! と、そのうちのひとつが頭にあたったような心地になりながら、レオンはそれでも前に進んだ。
死地に向かう心境で、ハート飛び交う新婚夫婦という名の結界へと一歩踏みこんだレオンに、フレイが笑いかけてくる。
「こんにちはレオンさん! レオンさんも釣りですよね。なにか釣れました?」
「ああ、こんにちは。まあ……それはさておいて、だ。その……」
頑張れレオン。負けるなレオン。
ここで目を背けたら、いつまでたってもこの二人に真の幸せは訪れない。
それはだめだ。この二人には幸せになってもらいたい。このセルフィアの平和と幸福の象徴のような二人には、いつも笑っていて欲しい。
ぐっと羽扇の柄を軋むくらいに握り締め、レオンはくわっと口をあけた。
「なあフレイ――アンタ、子供の作り方を知っているか?!」
直球だった。それはもう、ど真ん中を射抜いて大穴をあけるくらいのド直球だった。
事情を知らぬ者がきいたなら、昼間からなにを大声できいているんだと眉を潜められる危険性もあるくらいの、剛速球だった。
近くにフォルテがいたら、「フォルテさんこいつです」とつきだされるかもしれない。もしくは、真面目騎士であるフォルテに、大剣をもって追い掛け回されるだろう。
それくらいの、自分の評判が下がる恐れを度外視したレオンの問いに、フレイは大きく頷いた。
「はいっ! キャベツ畑で授かるんですよね!」
いい笑顔だった。やたらと眩しく、これまでにないくらいの輝かしい笑顔だった。
そのあまりにも神々しい純真無垢な断言に、レオンは眩暈を覚えた。そして思った。
だめだこの夫婦ー!!!!
がくり、とレオンはその場に崩れ落ちて、膝をついた。
「レオンさん?!」
「おい、どうした、具合が悪いのか?! すぐ病院に……!」
いきなりのことに、おろおろとしだした心優しい夫婦に、ちがうんだとレオンは首を振った。
ああもう、なんだか泣きたい。結婚もした年頃の男女がそろってこれとか、世の中おかしい。いや、この二人おかしい。助けて神様!
自分の友人が神とあがめられる存在であることはさておいて、レオンは願った。だが助けはなかった。当たり前だった。
「アンタたち、どうしてキャベツ畑で子が授かると思うんだ……」
傷がつくのもかまわず、レオンは石畳の上に、手入れした孔雀色の爪をたてる。
しゃがみこんでこちらの様子をうかがうディラスとフレイを、のろのろと見上げる。
「え? だって」
「それは……」
血が滲むようなレオンの声に、きょとんとフレイとディラスが同じように目を瞬かせる。
「「セルザがそういっていたから」」
美しい和音を生み出しながら、夫婦揃って同じことを言う。こんなところまで、仲のよいところをみせつけなくともいいのに。
それを遠のく意識でききながら、レオンは燃え尽きた。
だが、こうしてばかりはいられない。
ここは、セルザの真意をたしかめたうえで、二人の知識を訂正する必要があった。
このまま、間違った知識をもった夫婦を放っておくわけにはいかない。聖職者として!
「なるほど、わかった。俺はいまからいくところができた。これで失礼するよ。じゃあな」
燃え尽きた灰から復活した不死鳥のように、レオンはさっと立ち上がると、早口で二人にそう告げた。
「え、レオンさん、大丈夫なんですか? 急に、しゃがみこんじゃったのに……」
「フレイのいうとおりだ。無理するな。最近、仕事が大変だっていっただろうが。少し休めよ」
「いや、ほんとうに大丈夫だ。ではな」
心配するフレイとディラスを水路のそばに残して、レオンは走り出した。
突然雨が降りだして、雨宿りする場所を求める必要もないくらいの晴天の下、全力疾走するレオンに、すれ違う住民達が目を丸くしている。
それらをきれいさっぱり無視をして、レオンはセルフィア城へと駆け込んだ。
「邪魔するぞ、セルザ!」
人に対して、礼を失することのないように、と幼い頃にしつけられていたレオンであるが、元神官の威厳であるとかそういうものをかなぐり捨てて、足を踏み入れたと同時に叫んだ。
「なんじゃ、レオン。騒々しいのう」
のんびりとして、どこか鷹揚な声が、それに応えた。
みれば、セルザのそばにテーブルセットを設えて、二人の少女が優雅にティーカップを傾けている。
同じく守り人の役目についていた、コハクとドルチェ。そしてドルチェに憑いているピコ。ふわり、とこの世ならざるものの動きで宙に浮いている。
どうやら優雅な午後のティータイムを過ごしていたらしい。セルザの前には小さな塔のように、大好物のホットケーキが積み上げられていた。
女の園に突入したことにいささかたじろいだが、ここでひいてはなんの解決にもならない。
「いらっしゃ~い。お茶のむ~? ハチミツもあるよ?」
「まったく、一体なんなのよ。もっと静かにできないの?」
コハクの誘いには、ハチミツは飲み物ではないから結構だと丁寧に断りをいれ、ドルチェの抗議には、騒がしくしてすまないとやんわり謝り、レオンはセルザの前に立った。
「セルザ、ひとつきかせてくれ」
「なんじゃ?」
セルザが、その大きな瞳をゆっくりと瞬かせる。大好物のホットケーキを食べていたせいか、口のまわりにはべったりとハチミツがついている。その姿に神竜の威厳なんてまったくないが、セルザがありのままですごせるようになったことは、喜ばしいことであった。
それはさておき。
レオンは、わずかに目を細めた。
「なんで、フレイたちにキャベツ畑で子が授かる、なんていったんだ? 違う知識を持ったままでは、あの二人にはいつまでたっても子ができないだろう?」
いつのまにか、語調が問い詰めるようなきついものになってしまっていた。それに気づいたのだろうセルザが、不満げな顔をする。
「そちに責められるのは心外じゃな。レオンが、わらわにそう教えたんじゃろ。忘れたか?」
「……!」
セルザの言葉に、レオンは記憶の扉が押し開けられる。枯れていた泉に水が再びよみがえるかのように、脳裏にまだ小さかったころのセルザと、守り人になる前の自分の姿が溢れた。
そう、あれは、神竜であるセルザへと謁見をした女性のお腹が、ふっくらとしていたことから始まった。
――今の人間、ずいぶんと腹まわりが大きかったが、病気か? 大丈夫なのか?
――いや、あれは病気とか太っていたりするわけじゃない。妊娠しているんだ
――ニンシン? なんじゃそれは
――そうか、セルザは神竜だしな。わからないか
――うむ。教えてくれ
――あれは子供を授かっているんだ。十月十日後には、赤ん坊が産まれる
――ほう? なるほどそれはよいことじゃな!
――セルザは、子供が好きだしな
――うむ、赤子はなんとも可愛いものじゃ! しかし、どうして子供をさずかると腹が大きくなるのじゃ?
――それは……、キャベツ畑で授かった子を、腹に宿すからだ
――なんと! 人はキャベツ畑で生まれるのか?!
――そうだぞ。ひとつ賢くなったなセルザ
――なっ……! ええい、馬鹿にするでないわ! そ、それくらい知っておったわ! そちを試しただけじゃ!
――ははは、そうかそうか。そいつは悪かったな。怒らないでくれ
そういえば、そんな会話、したな……。
セピア色の懐かしい思い出を、まざまざとよみがえらせたレオンは「あー……」と間の抜けた声をだしながら、片手で目元から額を覆う。
「どうやら思い出したようじゃな。なんじゃ、若ボケでもはじまったか?」
「違う」
からからと笑うセルザの言葉を即座に否定しながら、レオンは頭を抱えたい気分に陥っていた。
つまり、ディラスとフレイの夫婦があんな認識をもってしまったのは、もとをただせば自分が悪いということではないか。
なんであんなこといったんだ自分!
レオンは己を罵った。まさか、遠い過去の日の悪気のない嘘が、こんなことになろうとは思ってもいなかった。かといって、いまさら過去の発言を訂正することはできない。
ううむ、と悩むレオンの前で、セルザが首をかしげた。
「ほれ、フレイは記憶喪失じゃろ? ディラスもディラスで、そういう知識はあまりないというのでな、わらわがレオンにいわれたとおりに教えてやったまでじゃ」
「……」
レオンはこめかみを揉みながら考える。
フレイはこの街に来る前に、帝国兵士の襲撃にあい、それまでの記憶のほとんどを失ったという。日常生活を送るのに支障はないが、そういう知識だけが抜け落ちていても、別段おかしくはない。
ディラスは、まあ……人との触れあいをせぬままに、守り人となったというのだから……、まあ、まあ……。いやさすがにそれはどうなんだ。あいつだって男だ。いろいろと溜まるだろうし、どうやって処理をしているんだ。
もんもんと、どうでもいい方向にまで、レオンが悩みを深めていると。
「それにしても、それが間違った知識というならば、ほんとうはどうやったら赤子はできるんじゃ?」
どうやら、自分の知識不足という点について、セルザは素直に認められるようになったらしい。これも時間の流れが成せる業なのだろう。
「そ、それは……」
今まで黙って会話を聞いていたドルチェが、頬を染めて目を伏せる。もじもじと口ごもるその様子は、とても愛らしい。その後ろで、「るーちゅわんかわいいいい!!」と、ピコが身をくねらせて悶絶しているが、レオンは意識的にそれを視界からはずした。
と。
「セルちゃん知らないの~?」
のんびりとした声の持ち主――コハクが、セルザを見上げてそんなことをいう。
「おお、コハクは知っておるのか?」
「うん!」
期待に満ちたセルザの視線に応えるように、にこーっと、コハクが満面の笑みを浮かべる。
嫌な予感がした。とっても、嫌な予感が。
え、ちょっと待ってくださいコハクさん――
思わず敬語を心のなかで呟きながら、レオンが「待て!」と声を発する前に、コハクはその小さな唇から言葉を紡ぎだす。
「あのね、男のひとのおちん「うわぁぁぁ?!」しておっきくなったら、それを女の人の「きゃあああ?!」にいれて、そのなかで動かしてね、とっても気持ちよくなったらせいえ「まてまてまて!」――んん? どうしたの~?」
発言の途中を、レオンとドルチェの叫びと悲鳴にかき消されたコハクが、きょとんと目を瞬かせて首を傾げる。
きゃらっ、とした様子で笑っているのはとっても可愛いのに、なんでもないことのように言葉したもののえげつなさといったらない。
「いやいや、なんてことをさらっといおうとしてるんだ……」
レオンは、この小柄で幼げで、可憐な容姿をしたコハクを、はじめて心底怖いと思った。
予想の斜め上をきりもみ回転していく事態に、レオンの心臓が大きな鼓動を繰り返す。胸をを内側から叩かれているようで痛い。
ドルチェなど、顔どころか耳までも真っ赤にして震えている。ぎゅっとスカートを握り締めた様子は、いつもの澄ました顔とはかけ離れていて新鮮だ。
その足元には、悶絶を通り越して萌え死したピコがいるが、もともと死んでいるので、レオンは気にしないことにした。
「なんじゃ、うるさいぞレオン、ドルチェ。コハクの言葉がようきこえんかったではないか」
むすーっとするセルザに、なんといったらいいのやら。
「いうのがだめならしかたないねえ~。あのね、セルちゃん、ここにこういうのがあるでしょ~? 男のひと足の間についてるのがね、こんな感じになったら……」
そういいながら、コハクが長い形をした黄色い果実を手に取り、皮を上から下にむいていく。そして、テーブルの上にあるお菓子に乗った生クリームを、その先端ですくいあげたコハクに、レオンは手を伸ばした。
「いやいや、やらせないからな!?」
つい先日、南の交易路を開拓したアーサーが、そちら方面の商人から買い付けたという南国の果物――たしか、バナナといった――を例えに用いて説明しようとするコハクから、レオンはそれをとりあげた。
ぷう、とわずかに頬を膨らませたコハクであったが、それもわずかのこと。すぐさまいつものように、春の日溜りのような笑顔を浮かべると、セルザに向かって手を伸ばした。
「じゃあ、内緒話しよっか、セルちゃん」
「おうおう、二人だけの秘密の話じゃな、よいぞ」
「うん!」
きゃっきゃ、と仲の良いところをみせつけながら、セルザがコハクへと長い首をまげて顔を近づける。
その大きな耳に小さな手を添えて、こそこそとコハクが囁く。セルザも小さな声につられたように、声を落としながら「ほう、ほう……なんと! そうなのか……して、そのあとはどうなるんじゃ……?」などといっている。
その中身については、言及する気が起きない。大体、さっきみたいなことをいっているに違いないからだ。
自分は混ざれないわけではないが、ドルチェにはなかなかきついだろう。ちらっと横をみれば、さきほどよりも顔が赤い。レオンが思っていた以上に、どうやら純情なところがあるようだ。
やがて、一通り説明が終わったらしく、疑問が解消されたことですっきりした表情をしたセルザが、コハクから離れた。
「なるほど! ようわかった! ありがとう、コハク」
「ううん。いいの~。セルちゃんのお役にたててうれしいの!」
セルザに礼をいわれたコハクが、きゃっ、とはにかんで笑う。
なんて微笑ましい光景だろう。レオンは、なんだか悟りを開いたような気持ちで、薄く微笑む。
内容はあれだけどな!!
ああ、どうしてこうなった――というか、俺が原因だった。
もうこの際、セルザとコハクはほうっておくことにする。問題はディラスとフレイなのだから。
ようやっと結婚した二人であり、あんなにも想いあっていて、どちらも子供を切望している。それなのに、その方法を間違えている。こんなに笑えない話があっていいのだろうか。いや、むしろ笑える話なのだろうか……。
とはいえ、誰かが正さなければならない。誰かが、正しい知識を教えなければいけない!
適任を模索するレオンの脳裏には、人妻である女性の顔がふたつ、人生の大先輩である老女の顔がひとつ浮かんでいる。
彼女たちのいずれかならば、うまく二人に説明をしてくれるのではないだろうか。もしくは三人がかりでもいい。
よし、これだ……!
いつしか沈思黙考していたレオンは、己の脳がはじき出した最高の手段を誇るように、閉じていた目を見開いた。
「うわっ?!」
そして、目の前にセルザの鼻先があって驚きの声をあげる。いつの間に迫られていたのか。まったく気付いていなかった。
「のう、レオン」
「な、なんだ?」
にこにこ、とセルザが笑う。それが悪戯を思いついた子供のようにみえて、レオンは半歩あとずさった。
「すまんがちょっとみせてくれんか?」
「……なにをだ」
話の流れ的に、なにをさしているかを察しつつも、確認せずにはいられない。
じいっと、性的なものなんてかけらも含まない、ただただ純粋に興味があるという視線を下半身に注がれて、レオンはさきほどより大きく一歩下がった。
「そちについているものをじゃ。わらわはみたことがないのでな。コハクにはついておらんというし、いいじゃろ?」
それは笑顔でいうことじゃない――
とんでもないセルザからのおねだりに、レオンは顔色を変えた。その命を繋ぐため、すべてを捨てる覚悟で守り人となるほどに大切な友からの頼みであっても、そればかりは無理だった。というか、そんなことをしたらただの変態だ。
「いいわけあるか! 断る!」
「なんじゃ、ケチじゃのう。みせたところでへるようなものでないとコハクがいうておったぞ」
「そういう問題じゃない……!」
「なんじゃ、つまらん」
あからさまにむくれてみせるセルザの傍らで、にっこにことコハクが笑っている。ああ、やっぱりコハクという少女について認識を改めなければいけないと、レオンは強く思った。
「それより、わらわがそちにきいていたものと、ずいぶん違っておったぞ。人の赤子はそういう行為を経て産まれるのじゃな」
「それは、まあな……」
レオンはばつが悪い思い抱きつつ、目をそらした。適当にいってしまったことへの罪悪感が、ちくちくと胸に刺さる。
「じゃが、このままではそちのいうとおり、フレイたちに子は望めまい」
「ああ。だから、あの二人に教育をするべきだと思っていたところだ」
ついさきほど候補として考えていた三人を再び脳裏に浮かべながら、レオンはセルザをみあげる。ぱあ、とセルザは顔を輝かせた。
「おお、それはよい考えじゃ!」
「そうだね~。そうするのがいちばんかもねえ~」
「あのふたり、ほうっておいたらずっとキャベツの世話、してそうだものね」
そうだろうそうだろう、とレオンが頷くと、セルザだけでなくコハクやドルチェもまた頷いた。
では、ナンシー、リンファ、ブロッサムの誰が適任かということを相談しようとした矢先。
「で、それはもちろん、そちがやるのじゃろ?」
「っ?! なんでだ?! いや、俺じゃなくとも……!」
さらっといわれたセルザの言葉に、レオンは間髪いれずに叫んで返した。
あせるレオンに対して、じっとりとした視線が注がれる。半分ほど目を据わらせたセルザが、そちこそなにをいっているんじゃ、と呆れたようにいう。
それに続くように、ドルチェがずいっと前にでた。
「セルザのいうとおりよ。もとはといえば、あんたがセルザに嘘ついたのが悪いんじゃない」
「うっ」
守り人となるには、セルザと心通わせた存在であることが、条件のひとつとして求められる。つまり、はじまりの守り人であるレオンと同じ、もしくはそれ以上にドルチェはセルザに思い入れがある。女の友情とはこういうとき結束がかたくなるものだ。
「そうだよ~。最初にちゃんとほんとうのことをセルちゃんに教えてあげてたら、フレイちゃんたちもあんなにキャベツ育てなくてもよかったの」
「ぐっ」
たじろぐレオンに救いの手はさしのべられない。コハクにまでたたみかけられて、肉食獣に取り囲まれて追い詰められる草食動物の気分に陥ったレオンは、額にじっとりと汗を浮かべた。
すいっと宙を軽やかに移動してきたピコが、そんなレオンのかたわらで腰に手を当て、人差し指をふる。
「そうですわ! 自分の犯した罪は、自らあがなわなければいけませんわ! でもまあ、おかげで、あんなに可愛いルーちゃんをみれたのですから、感謝しないといけませんけれど……ぐふふふ!」
「……」
もはや、うめく気力すらなくなったレオンの目の前で、ドルチェお手製のお札を素早く打ち付けられたピコが、くぐもった悲鳴とともに床へと落ちていく。
コハクは有無を言わせぬ妙な迫力をもってひたすら笑っているし、ドルチェは真っ赤になってピコに札を投げているし、それを苦しげに受け止めながらも、ピコはどこか嬉しそう身をくねらせている。
あまりにも混沌とした状況に、魂までもが抜けていきそうなレオンへ、セルザが再び顔を近づけて笑った。なんだか笑っているようにみえないけど、まちがいなく笑っている。
ああ、これは――嘘を教えられたあげく、それをフレイたちにさも当たり前の知識のように披露してしまったことにたいして、ちょっと怒っているんだな――と、レオンはようやく察した。
「まあ、わらわをからかった罰じゃな。誰かにまかせることなく、そちがフレイたちに説明するのじゃ。そして子を為すよう手助けせよ」
「……」
それでも、素直にわかったと了承できるわけがない。青ざめたまま、小さくレオンが肩を震わせると、四つの視線が一斉にレオンを射抜いた。
「「「「全部、最初の嘘が悪い」」」」
綺麗に四人そろってそういわれ、レオンはがくりと項垂れたのだった。
ふう、とレオンは瞳を閉じたまま、息をついた。ゆっくりと、意を固めながらまぶたをひらく。
光を得た視界には、いささか緊張した面持ちの若い夫婦がうつる。
セルフィア城にあるフレイの部屋、すなわち彼らの居住スペースで、テーブルを挟んで向かい合って座ったまま、レオンは二人の顔を交互に見遣った。
「さて、準備はいいか?」
「はい、よろしくお願いします!」
「ああ、世話になる」
元気いっぱいに頷くフレイと、心からありがたいと思っているらしいディラスに、レオンは頷いた。
結局、セルザや守り人二人におまけと四人がかりで詰め寄られ、レオンはフレイとディラスに性知識を教えることを了承した。
なんでこんなことに、と思う。しかし、いわれるとおり自業自得なので、レオンはあきらめることにした。
たいしたことではない。たいしたことではない。人類がいままで、どのようにして命をつなげてきたか、それのための行為がどのようなものかを教えるだけだ。
よし、とレオンは居住まいを正した。一番にいわなければならないことがある。
「まず最初にいっておく」
「「?」」
不思議そうな顔をする二人の、努力や夢を壊すことに、胸が痛んだ。だがここからはじめなければ、なにも進まない。
かっ、とレオンは声高らかに宣する。
「キャベツ畑で子は授からない!」
「ええっ?!」
「なにぃ?!」
揃って驚愕の表情を浮かべるフレイとディラスに、レオンは思う。
いや、もう、ほんとに信じきっていたんだな……――
おろおろと慌てだした二人に、思わず遠い目をした。
ばん、とディラスがテーブルに手をついて立ち上がる。険しい顔で身を乗り出してきて、少し怖い。
「セ、セルザが嘘をついたとでもいうのか?!」
ひっくりかえった声に、ほんとうに申し訳ないとレオンは思った。
ディラスも、セルザに対する友情と信頼が深いのだ。そうでなければ、守り人になどなれるわけもないのだし。
それが覆されて混乱するディラスの肩を、そっとレオンはおさえた。ゆっくりと席に座らせなおして、頭を振る、
「ディラス、そうじゃない。そうじゃないんだ」
すべては、自分の罪深い行為ゆえ。悲痛な表情を浮かべるレオンに、フレイがおずおずときりだす。
「どういうことなんですか……?」
「じつは、な」
そうして、レオンはディラスとフレイに語った。
レオンが守り人になる前に、なにもしらないセルザへと他愛のない嘘をついたこと。
騙すつもりはなかったが、それが結果として記憶を失ったフレイに伝わり、迷惑をかけてしまったこと。
だからこうして、正しい知識を伝えにきたこと。
黙って最後まできいていたフレイが、うるり、とその大きな瞳に涙を浮かべた。
「そんな……せっかく、頑張ってたのに、それが、間違いだったなんて……」
「フレイ……」
くすん、と鼻をすするフレイの丸い曲線を描く肩を、ディラスの大きな手がそっと覆った。引き寄せられるまま、フレイはディラスに身を寄せる。
「ごめんね、ディラス。私が、もっとちゃんと調べていれば……ううん! 記憶をなくしたりなんかしなかったら!」
「いや、俺もフレイにまかせっきりだったのが悪い。あんなにしてくれていたのに――すまない……!」
「とりあえず、抱き合ってみつめあうのはあとでたっぷりやってくれ」
またしても薔薇色に部屋を染め上げはじめたフレイとディラスを、レオンは制した。
無情というなかれ。ほうっておいたら、また甘い空気におぼれさせられるはめになることは明白だったからだ。
「こほん。とにかく説明をする。まずは俺のいうことを素直に聴いていてくれ。いいな?」
「はい!」
「わかった」
そう言えば、二人ともきちんと居住まいを正した。
なんでこんな純粋無垢な夫婦に、俺が保健体育の授業をしなければいけないんだ。
心の中ではらはらと涙を流しながら、レオンは丁寧に説明をはじめた。
わかりやすいよう、アーサーに頼み込んでとりよせた、そういう本の初級編を参考に提示しながら。
とりあえず、男と女の身体の違い、どうやって子はできるのか、そのために男女でする行いについて――と、ごくごく一般的な性知識を訥々と極めて事務的に二人へと語ってきかせた。
ああ、恥ずかしい。
これから性を覚えていく見も知らぬ少年少女に、大人という立場から教えるならまだしも、知り合いですでに夫婦というフレイとディラスに、初歩の初歩から教えるとか、なんて苦行だ。
からかえればまだ気がまぎれるが、それは知識があること前提で行われるものだ。何も知らないまっさらな状態に、あれこれ言葉をかけたところで、おもしろい反応があるわけもない。綺麗すぎてなにもいない川に石をなげたところで、魚が逃げる姿をみることができるわけがない。つまらない。
そんなこんなで、時間にすれば小一時間もたっていないが、講義が終わる頃にはレオンは疲れきっていた。
「――と、いうわけだ。つまり、アンタたちがそういう行為をすれば、子を授かることが出来る。わかったか?」
「「……」」
沈黙のまま、フレイとディラスは瞬きもせずに固まってしまっている。
「あー……。質問、あるか?」
意識を取り戻せというように、ひらひらと眼前で手を振ると、はっと我を取り戻したらしいディラスが、真っ赤になった。
「な、なななな、なんっ……?! こ、こんな……、そんなこと、するのか?!」
「そうだ。というか、自分についているものがなんのためにあると思っていたんだ」
「こ、これは……普通にトイレとか……あとは、いらないものを出すため、とか……」
「なるほどな」
どうやらディラスも溜まることは溜まるらしいが、その処理は不必要なものを対外に排出するためのもので、いつもの排泄行為となんらかわりない行為だと認識していたようだ。誰か教えてやれよ。
しどろもどろに答えたものの、自分の言葉にダメージを受けたのか、ディラスがテーブルに突っ伏す。純情にもほどがある。
ディラスの横で、まだ固まっていたフレイがぎこちなく動き出した。感情の読み取れなかったその面が、じわじわと赤くなっていく。頬だけでなく、耳、首筋まで綺麗に。秋の紅葉もここまで鮮やかではないだろう。
そっとテーブルの上に広げられたままの参考本を、フレイが震える手で撫でた。
「あ、あの……、こうすれば、子供、できるんですね……?」
うむ、と重々しく頷けば、フレイがその愛らしい顔を引き締めた。漂う決意。それを証明するように、ぎゅっと小さな手が握り締められた。
「わかりました……! 私……が、がんばります!」
「フレイ?!」
いきなりの宣言に、ディラスが勢いよく顔をあげた。
なにを、といいたげなディラスの手を、フレイは両手で包み込む。
「私だって、恥ずかしいよ……? でも、私、ディラスの赤ちゃん、ほしいんだ……」
「フ、フレイ……!」
途中から、長いまつげを伏せ、聞き取れないくらいの小さな声でいじらしいことをいうフレイを、感極まったらしいディラスが力強く抱きしめた。
「ふ、二人で一緒に、が、が、がんばろう、な……。あせらずに、ゆっくりと」
「うん……。私、ディラスと結婚して、ほんとうによかった……」
夫からの優しい言葉に、瞳を潤ませた妻が寄り添う。
ああなんて綺麗な夫婦愛に満ち溢れた光景だろうか――みているほうは、ダメージ半端ないけどな!
すでにいちゃいちゃとしはじめた夫婦に、心を無にしつつレオンは本を差し出した。
「アンタたちの努力を無駄にしてしまって、ほんとうに悪いと思っている。侘びといってはなんだが、これはやるから、あとは二人でがんばれ」
「はいっ!」
「ああ、ありがとう、レオン」
ぎこちなくはあるが、ようやくいつものような笑顔を浮かべてくれた二人に、レオンはほっと胸をなでおろした。
これで自分の役目は終わった。
そのうちこれをネタにからかうことも、笑い話ができることにもなるだろう。我ながらよくやった。
じゃあ、あとは若い二人に任せて……といわんばかりに、レオンはそそくさとその場をあとにする。二人の愛が溢れて周囲を侵食していくのに飲み込まれないように、と城から出れば、たまらない解放感を覚えた。
「はあ、やれやれ……」
妙にこわばった肩をほぐすように、思わず撫でさする。はやく住処にしている宿にかえって、熱い風呂にはいりたかった。
でも。
ちら、と今しがた出てきたばかりの部屋をみて、レオンは笑った。
自業自得はといえ、二人の手助けをできたことが、うれしいと思った。あの二人は、いろいろと周囲に嵐をもたらすけれど、それは決して悪いものではない。過ぎ去れば、こんなにもあたたかな気持ちになれる。
ふふん、と鼻を鳴らし、尾を揺らし――レオンはゆったりとした足取りで帰路についたのだった。
そして、レオンによる保健体育からしばし時間は流れ――
「レオンさん!」
「?」
いつぞやディラスと肩を並べて釣りをしていて、衝撃の事実を知った思い出深い場所で、のんびりと釣りに興じていたレオンは、声をかけられて振り返った。
そこには、手を振るフレイと、その横にたつディラスがいた。
「ああ、フレイにディラス。こんにちは」
「よう」
挨拶すれば、二人は手を繋いだままレオンのもとへとやってくる。
「あの、今日はご報告に」
「報告?」
なにか頼んでいただろうかと首を捻るレオンに、フレイがいままでにないような、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
思わず目を見開くレオンの前で、優しく優しく、フレイが自分の腹を撫でる。ほんのりとした紅色が、やわらかな頬を彩る。
「はい。あの、おかげさまで、私たち子供ができたんです」
「……!」
今度は息を止めるしかなかった。
「レオンには感謝している。ああして教えてくれなかったら、こんな幸せずっと知らなかったんだからな」
くしゃり、と照れくさそうな笑顔を浮かべるディラスをみて、レオンはゆるゆると息を吐き出した。
「……アンタたちが親に、なるのか」
感慨深くそう言葉にすれば、フレイが頭をさげた。さらりと長い髪が揺れ踊る。
「ありがとうございました。レオンさん。一番に報告したくて探してたんですよ?」
ふふふ、とからかうようにそういわれて、レオンは苦笑した。どうやら、妊娠がわかってから、いの一番に自分のところへときてくれたらしい。俺だけじゃなく、報告したいやつらが、たくさんいるだろうに。
みんなに愛されるこの夫婦には、子供の誕生を心から願ってくれる心優しい友人達が数多くいる。そのなかで自分を、二人で選んでくれたことが、たまらなくうれしかった。
人はこうして、命と想いを未来へと繋いでいくのだ。それはなんて尊く、美しいのか。
「それは悪いことをしたな。そうか……、いや、よかったな」
目頭がわずかに熱くなる。だが泣いてなどやるものか、とレオンはぐっとそれをこらえた。
どうやらその努力は実ったようで、フレイはなにも気付かぬ様子で、にこりと笑った。
「身体を大事にしろよ。もう、一人の命じゃないんだからな」
「わかってます!」
「いいや、あやしいもんだ。どうせまた畑仕事とか、モンスター退治とか、あぶないところへ採集にいったりとかするんだろ?」
「うっ」
図星だったのか、フレイが可愛らしく呻いて、顔をそらした。
「やれやれ、とんだ妊婦だな。おい、ちゃんと見張ってろよ?」
「わかっている」
すでに過保護になりそうな雰囲気をかもし出したディラスが、心得ているとばかりに重く深く頷いた。それをみたフレイが、もう、と頬を膨らませている。
くつくつと、レオンは笑う。
「まあ、それでもなにかあれば、俺のところにこい。でかけるのなら、いつでも付き合ってやるよ。お目付け役くらいはできるだろうしな」
そうして、フレイとディラスを促す。この良き知らせを知りたい者は、自分以外にもたくさんいる。この喜びをこの街全体で共有したかった。
「ほら、もういけ。ほかにも報告したいやつらがいるだろう?」
「はい。じゃあお言葉にあまえて。いってきますね!」
「またなレオン」
幸せいっぱいの笑顔を浮かべたフレイとディラスは、そう言って身を翻した。しっかりと繋いだ手を決して離すことなく――微笑みあいながら、二人は去っていく。
その後姿に、レオンはまた笑みを深くした。
さらさらと流れる川へ、ゆっくりと向き直る。ふわり、あのときとはまた違う、花の香りが風にのって届く。
ああ、今日はいい日だ――
そんなことを思いながら、レオンは高く青い空を晴れ晴れとした気持ちで、見上げた。