未来の種

 朝の陽射しは、世界のすべてを眩く照らし出す。
 夜を追いやり、眠りを覚まし、一日の始まりを告げるにふさわしい清廉さで、フレイが生きる大切なこの町を輝かせている。
 ふわり、清清しい風に長い髪をあそばせ、フレイは居住している城から北東に位置するとある館へと向かっていた。
 手塩にかけて育てている畑の手入れは、すでにおわっている。
 いま、フレイの全身に満ちるものは、恋しい人に会いたいという一念だ。
 半年ほど前、フレイから告白したことで想いを確かめ合い、晴れて結ばれた人。不器用で、口が悪くて、後先考えないところがあって。でも、すごく照れ屋で、とっても優しくて、誰よりも可愛い人。
「ふふっ」
 走りながら、フレイは顔を綻ばせる。その姿を、声を、仕草を思い出すだけで、こんなにも幸せな気持ちになれるなんて。
 そんな人が自分の恋人なのだ。浮かれてスキップでもしたいくらいである。
 でも、町をゆけば当然ながら知り合いや友人と顔をあわせることにもなるので、それはやめておく。
 雑貨屋の前で伸びをしていたダグに挨拶をし、友人であるマーガレットの家を右手に眺めながら北上する。
「あれ?」
 そうして、館兼レストランであるポコリーヌキッチンの前にきて、フレイは声をあげた。

 ――本日、貸切――

 扉に、そんな札がかけられている。
 そういえば、ポコリーヌの料理の素晴らしさを知った美食家の一団が訪れる予定だ、とかディラスがいっていたような気がする。
 会いたい気持ちばかりが先走って、すっかり忘れていた。
 だからといって、そこで諦めて回れ右をするようでは恋する乙女失格である。
 フレイは向かって右側の扉へと足をむけた。そこは、アーサーの営業所兼執務室になっている部屋へと続いている。
 ドアノブに手をかけようとした瞬間。向こう側から扉が開いた。
 驚くフレイの前に、一風変わった衣装を身に纏った青年が姿を現す。彼は、扉の前に立ち尽くすフレイをみて、相好を崩した。
「おや、フレイさん」
「アーサーさん、おはようございます」
「はい。おはようございます。お会いできて嬉しいですよ」
 ちょうど外出しようとしていたアーサーと出くわしたフレイは、元気よく挨拶をする。
 にこり、と眼鏡の奥でアーサーが柔和に瞳を細めてくれた。それが、ふいに悪戯めいたものになる。
「ディラスくんなら、二階で支度しているところですよ」
「えっ」
 なんでわかったんですか、と言う前に、アーサーがくすくすと笑った。
「そんなに楽しそうな顔をしておられればわかります」
 ぱ、とフレイは自分の顔をおさえた。むにむにと押してみるが、鏡がない以上、どんな顔をしているかまではわからない。
「……そ、そんなに楽しそうでしたか?」
「ええ、とっても。朝から可愛いものがみれて、気分がよくなりました」
 ぱちん、と片目を茶目っ気たっぷりに閉じられて、フレイは頬を赤くする。そんなにあからさまだったとか、恥ずかしい。
 ディラスと恋人になったことは、いつの間にか周囲に知れ渡っていた。というか、城前の広場であんなことをいわれれば、誰がきいていてもおかしくはない。
 アーサーにまでからかわれるとは、気恥ずかしくてしかたがない。
「では、商談があるので、私はこれで失礼します」
「はい。がんばってくださいね!」
 上品に会釈をするアーサーを見送って、フレイは今度こそ館へと足を踏み入れた。
 奥にある階段へ向うために部屋を横切ったとき、厨房のほうから今日の準備に余念がないポコリーヌと、手伝いにきているらしいマーガレットの会話が、賑やかに聞こえてきた。
 ほんとうに仲いいなぁと笑いながら、フレイは階段を踏みしめる。
 三人いる住人のうち、二人が不在である二階は、静かだった。フレイは、一番西にあるディラスの私室へ、迷うことなく直進する。
「ディラスっ」
 ひょい、と覗き込めば、なにやら難しそうな顔をして、手にした鏡とにらめっこをしているディラスがいた。
「フ、フレイ?!」
 館の主も、同居人もいないため油断していたのか、ディラスがひどく驚く。
「おはよう! なにしてるの?」
 ととと、と近づいてディラスの手元を覗き込む。だけど、そこにあるのは、ほんとうにただの鏡だ。
 なぜこれを熱心にみつめていたのだろう。訊いてみようと横を向けば、ふわり、ディラスのにおいがフレイの鼻腔をくすぐる。
「おまっ……ち、近いだろ!」
「近くにこなきゃみえないもん」
 急接近されたことで顔を赤らめ仰け反るディラスに、フレイは首を傾げて笑う。
 恋人になる前なら、嫌われているのかと思うくらいの反応だが、それが照れ隠しであることを、フレイはもう知っている。
「ぐ……、そりゃ、そうだが……。はあ……おはよう」
 もっともなことをいわれて押し黙ったディラスが、諦めたように溜息をついて、挨拶を返してくれた。
「うん! で、なにしてたの?」
 高い位置にある顔をみあげて問えば、うっと呻いたディラスが眉間に皺を寄せた。
「な、なんだっていいだろ」
「……教えてくれないの?」
 うるり、と瞳を揺らせばディラスがあからさまにうろたえた。
「うお、ちょ、……な、泣くな!」
 仕掛けたこちらが可哀相だと思うくらいに焦りまくったディラスが、がしがしと頭を掻いてそっぽを向く。
「今日、団体の客がくるから、その」
「うんうん」
 うまくディラスをひっかけることに成功したフレイの視線の先で、ディラスの横顔が、しゅんとしたものになる。
「え、笑顔の練習でも、しておこうかと……フレイのおかげで、前よりはマシになったと思うが、いちおう、な」
「どうして? ディラスはいつも素敵だよ?」
 ぼそぼそと呟くようにいわれたことに対して、フレイは即答した。
 と、ディラスが一瞬で顔を真っ赤にして、大きく震えた。
「っ、な……!?」
 思わずといったように後ずさるディラスの右手を、逃がさないといわんばかりに、きゅっと握り締める。
 その満月のような瞳をひたと見据えて微笑む。この胸にある『本当』が、ディラスへとそのまま届けばいいのに。せめて、少しでも伝わるようにと、言葉にする。
「ディラスは、ちゃんと笑ってくれてるよ? 私、ディラスの笑顔大好き」
 いつもとはいえないが、ときおり浮かべてくれる満面の笑顔が、フレイには愛しくてたまらない。
「だ、だだだだいす、き……とか! 恥ずかしいこというな! 誰かきいてるかもしれねーだろ!」
「……ポコリーヌさんはキッチンだし、アーサーさんは商談にでかけちゃったよ?」
「……」
 んー、と少々頭をひねってみたが、どう考えてもこの会話を聞くような人物はいないだろう。朝早くからディラスを訪ねたフレイでもあるまいし。
 そもそも、フレイにしてみたら聞かれたところでたいして恥ずかしいことでもない。ディラスの笑顔に太鼓判を押しただけだ。
 ディラスもそう思ったのか、声を荒げたことにばつが悪そうな表情を浮かべた。
「……俺が、笑っているのはおまえの前だからだろ」
「そっか」
 自分にとってお前は特別だといわれている気がして、フレイはくすぐったくて顔を綻ばせ――あっと声をあげた。
「じゃあ、私がいると思えばいいんじゃないかな」
 フレイの前でなら自然と笑えるというのなら、そう思って対応してみればよい。旅芸人などがお客の前であがらないよう、観客はジャガイモやカボチャと思えというあれと一緒だ。
 むう、とディラスが口元に左手を当てる。
「なるほど……。フレイに接客しているつもりでやればいいのか……よし、それでいってみるか」
「うん!」
 我ながら名案だったと頷けば、ディラスがほのかな笑みを浮かべた。
「そういや、どうしたんだ。なにかあったのか?」
 綺麗な金色に心配そうな色を滲ませ、ディラスが問う。それに、フレイは頭を振った。
 えへ、と照れくさい気持ちで笑いながら、ディラスにもう少しだけ近づく。
「ううん、なにもないよ。ただ、ディラスに会いたいなって思ったから」
「っ、……そ、そうか」
 そうして、握り締めていた手が、そっと握り返される。壊れものを扱うように、丁寧に肌をなぞられて、心地いい。
「俺も、会えて……嬉しい」
 そうして、ひどく優しい笑顔とともに甘く囁かれ、フレイは頬を染める。胸が、大きく速い鼓動で満たされる。
 アーサーにも同じようなことをいわれて嬉しかったけれど、こんなにどきどきしなかった。
 やっぱり、自分の恋の花はディラスに向かって花開いている。成長を促す光のように、その枝葉を潤す水のように、根ざして生きるための大地のように、フレイにとってディラスは必要不可欠なものになってしまっている。
 ずっとこうしていられたらいいのに。ディラスにみつめられて、ディラスをみつめて、二人でいられたらいいのに。
 しかし、そんなことができないことはフレイはよくわかっている。お互いに、仕事と役目がある。
 ディラスが、申し訳なさそうに睫毛を伏せて眉を下げる。
「だけど、悪い。今日は、その……」
「うん、わかってるよ。お客さんたくさんくるんでしょ? がんばってね!」
 ポコリーヌの料理をいかに客の口に届けられるかは、ディラスとマーガレットの働きにかかっている。作ってすぐに食べようとするポコリーヌとの戦いは、はたしてどちらに軍配があがるのか。明日にでもその攻防の結末をきくことにしよう。
「それじゃあ、私もそろそろいこうかな。ディラスの顔みれたから、頑張れそう」
「ああ、ならそこまで一緒にいくか」
 うん、と頷いて、手を繋いだままディラスの部屋をでる。
 すぐそこにある一階へと続く階段を下りれば、ポコリーヌキッチンだ。
 手をひくディラスの横顔を盗み見て、フレイはちょっとだけ寂しいと思う。永遠の別れでないことはわかっていても、せつなくなるはしょうがない。
 離れがたくて、無意識に歩みが遅くなったフレイより歩幅が大きいディラスは、当然のことながら前にでる形となった。
 と。
 ディラスが、ふいにふりかえった。
 階段を一段先におりたディラスの顔が、いつもよりずっと近いところにある。胸が、それだけで高鳴る。遠い空に浮かぶ満月が、いまにも手に取れそうな不思議な高揚感に、頭の芯がしびれた。
 ああ、こうすればディラスにもっと近づけるんだ――そう思った瞬間。
 フレイは手を振りほどき、ぎゅっとディラスに抱きついていた。
 ディラスも、もしかしたら、同じ気持ちだったのかもしれない。
 きつく抱きしめ返されて、全部の酸素が肺から押し出されてしまう。
 それでもいい。苦しくても、もっとディラスの近くにいたい。
 酸素不足か、ディラスへの想いが深いせいか。くらくらとしてきたフレイの頬に、ディラスの唇が触れる。
「ん、ディラ、ス」
「……フレイ」
 ふ、と声を漏らして、視線を絡ませ――互いが吸い寄せられるように、唇を重ねる。
 深く、浅く、角度を変えながら、柔らかな唇と熱い舌先で愛しい人を追いかけあう。
 自身を支えられなくて、ディラスに完全によりかかってしまいそうになったとき、フレイの足先が床から離れた。
「……!」
 キスをしたままなのでよくわからないが、どうやらディラスに正面から抱き上げられたのだと察して、フレイは縋りつく腕にさらに力をこめた。
 転げ落ちたりしないよう慎重に、ディラスが二階に戻ってくる。
 フレイのつま先が再び床についたとき、ようやく二人の唇は離れた。
 名残惜しく互いをみつめ、フレイは震える吐息を漏らす。
 一緒にいて、と言葉を紡ぎかけたのがわかったのか、ぴくり、とディラスの唇が動く。
 たくましい腕にさらに引き寄せられて、また顔が近づく。受け入れるように、フレイもまた薄く唇を開いて――
「ディラスー! そろそろ開店だよー!」
「「!!!!!」」
 階下から響いたマーガレットの声に、二人揃ってびくりと体を震わせた。
 重く、甘ったるくその場に二人を留めていた空気が、すうっと消えていく。
 我にかえれば、なんてところでなんてことをしていたのかと、羞恥が大波のようにフレイに押し寄せた。誰がくるかもわからない、人の家の廊下ですることではない。
 おそるおそるディラスをみれば、ひどく驚いた顔をして固まっている。その頬が、眦が、朱色に染まっていく。
「ディラス……?」
「う……あ……、わるい、俺は、なんてこと……を」
「あ、ううん、わるいなんてこと、なにも、ない、よ……」
 互いに、しどろもどろに言葉を交わす。キスは何度もしたことがあるのに、なんだか今回は自分を見失っていたように思う。
 そしてどうやら、ディラスは自分自身がこんなことをできるなどとは思いもしていなかったようだ。たしかに、照れ屋なディラスにしてみれば、信じられない行動だ。
 ぎこちないまま、ゆっくりと身体を離す。
 普段はなかなか積極的に動いてくれないのに。いきなりこういうことをされると、いい意味で動揺する。仕掛けてたのは、フレイだというのに。
「……わ、私、あっちから帰るね」
 震える指先で、フレイはアーサーの執務室へと降りる階段を指さす。このままの状態では、ポコリーヌやマーガッレットの前に、とてもじゃないが出ていけない。
「お、おう」
 ぎくしゃくと、とうとう首筋まで真っ赤になったディラスが頷く。
 はやくいかなければいけないと思うのに、まださきほどの残滓が二人の足をその場に縫いとめている。
 動けぬまま見つめあう。せつなそうなディラスの瞳に、どうしたらいいのかわからなくなる。
 無意識のうちに手を伸ばしかけたところで。
「ディラスー?! あれー? いないのかな……?」
 かつこつ、と靴音があがってくる。近づいてくる。
 ひゃあ、と冷や水を浴びせられたように、フレイは小さな悲鳴をあげた。
 返事がないことを不思議に思ったマーガレットが、様子を見にこようとしているようだ。
「いいいい、い、いまいくから、こっちくんな!」
 慌てきったディラスが、声をひっくり返して叫ぶ。
「もー、いるならちゃんと返事してよー。ポコさんも待ってるから、はやくね! もうすぐお客様くるよ!」
 ポコリーヌの料理が認められたことがよほど嬉しいのか、いつになく弾んだマーガレットの明るい声が遠ざかっていく。
 ほーっと二人同時に息をつく。この場にこられたら、恥ずかしくて死んじゃう。すうはあ、と胸を押さえて深呼吸を繰り返す。
「じゃ、じゃあ、俺はいくからな」
「うん。お仕事、頑張ってね。いってらっしゃい」
 ようやく幾分か気持ちの落ち着いたフレイは、にこっと笑いながら、何気なく送り出す言葉を口にした。
「……!」
 それを受けて、一瞬目を見開いたディラスだったが、すぐに、ぎくしゃくよろよろと歩き出す。
 と思ったら、ぴたりと止まった。
 どうしたのかな、と不思議に思ったとき。
 振り返ったディラスが、大股で戻ってきて――
「んっ」
 頬を包み込まれて顔をあげさせられたと思ったら、もう一度口づけられた。
 今度はフレイが目を見開く番だった。限界まで視界を大きくしたまま固まっていると、ディラスの顔が遠ざかる。
「おまえも、気をつけろよ。――いってらっしゃい」
「……」
 ことさら真っ赤な顔で、ぶっきらぼうにそう言って。
 ふい、と身をひるがえしたディラスは、今度こそ階下へと姿を消した。
 見送って数秒の後。
 へなへな、と全身の骨が抜かれてしまったように、フレイは床へと座りこんだ。
 ああ、恋って、こんなにも人を変えるんだ、とフレイは思う。
 それは怖くもあり嬉しくもあり。そうして、どうしようもないくらい幸せなことで。フレイは、震える手で両頬をおさえる。

 いつか、こんな風にお互いを送り出すことが、あたりまえになる日がくるのかな?

 はちみつよりも甘い未来を思い描いて、フレイはとろり、笑った。