おやすみダーリン

「遅くなっちゃったな……」
 ひとり呟きながら、フレイは新緑の髪をなびかせ、足取り軽く夜の街を駆け抜けていく。
 シアレンスの迷宮に朝からこもったせいで、大切な畑の世話が夜になってしまった。
 外にある畑をめぐり、ようやく帰ってきた街は、昼の活気の名残もなく、ひどく静かだ。住民は、そろそろベッドに入っている頃だろう。もしくは、もう、夢の中だろうか。
 城の一角を我が家とするフレイは、無理をいってお風呂に入らせてもらった小鈴から続く飛行船通り半ばで曲がり、瑞々しい野菜が生る畑の横を通りすぎて、そーっと家へとはいった。
「ただいま~……」
 聞こえるか聞こえないかくらいの声でそういいながら、そろりそろりと進む。
 人の気配はするが、物音はしない。まだ室内の明かりは灯されているが――――そうして、部屋の片隅にあるダブルベッドを覗き込み、フレイは微笑んだ。
 すう、と穏やかな寝息をたてて、最愛の夫であるディラスが眠っている。
 昼の間はシアレンスに付き合っていてもらったのだから、疲れていたのだろう。それに、ポコリーヌキッチンで働いているのだから、睡眠・休養は必要である。
 フレイとしては、起きて待っていてくれるのも嬉しいが、ちゃんと自分の体を気遣って眠ってくれるのも嬉しい。なので、ほっと胸を撫で下ろす。
「よかった」
 上機嫌に呟いて、なるべく大きな物音をたてないように気をつけ、増築した部屋へと移動したフレイは、手早く寝間着に着替える。
 抜き足差し足で、フレイはディラスのもとへともどり、ダブルベッドに腰掛けて眠る夫を再び覗き込む。
 やっぱり、ディラスは格好いい。顔立ちが、とても端正だと思う。笑うと、もっと素敵だ。
 顔だけが好きとかそういうことは決してないが、これもまたディラスを形作る魅力のひとつ。
 枕とシーツに流れる長く青い髪をとって、こちょこちょと頬をくすぐってみる。
 ふと、左頬にある傷が目に付いた。髪の先でつつきながら、いつできたものなんだろうと考える。
 そういえば、守り人になった経緯はプロポーズを受けたときに教えてもらったけれど、このことについては、なにも言われていない。
 よし、明日約束しているデートのときにでも訊いてみよう! とフレイは顔を輝かせる。
 彼のことで知らないところがあると思うと、わくわくする。ひとつひとつ、どんなことでもいい、ディラスのことをわかっていけるとなら、とても楽しい。すごく夫婦っぽい。
 そのときのディラスの反応を思い浮かべつつ視線を動かせば、薄い唇に目がとまった。
 指を伸ばして、触れてみる。温かい。すやすやと穏やかな寝息が、薄く開いた唇から伝わる。
 ディラスは、散々フレイに無防備なことをするなといっているけれど、ディラスだって十分すぎるくらいに無防備だ。
 夫婦そろってそうなのだから、お互い様とか、似たもの同士、ということかもしれない。
 そんなあどけない寝顔に、おなかの底からどうしようもないほどの愛しさがこみあげる。
 溢れそうになるものを零したくなくて、フレイはディラスに吸い寄せられるように体を傾け、ちゅっと唇を重ねた。
 そのまま、頬に額に鼻先に、また唇に――なんども、羽が触れるようなキスを落としていく。
 好き。大好き。
 どうか、夢の世界に一足先に旅立ったディラスに、この想いが届きますように。
 愛しい夫へ満足するまで口づけて、フレイは顔を離し、あっと息を飲んだ。
 ディラスが真っ赤になって震えている。おまけに、ぎゅうう、と掛け布を握り締めている。
「……」
 フレイは無言で、ぱちぱちと大きな目を瞬かせる。
 どうやら、キスしている途中で起きてしまったらしい。それでもこうやってバレバレの寝たふりを続けるということは、恥ずかしくて目があけられないというところだろう。
 相変わらず照れ屋だなあ――ふふっ、と笑っていることがばれないように気をつけて、フレイは顔をほころばせた。
 かわいい。どうして私の旦那様はこんなにもかわいいんだろう。
「愛してるよ」
 そう囁けば、びくっとディラスの全身が震えた。
 これで、寝ている風を装っているつもりなのだから、ほんとうに可愛い。
 噴出しそうになるのを懸命にこらえ、フレイはもう一度、ディラスの唇に、唇を押し当てる。
 今度は少し長めに、でも呼吸を妨げない程度に。
 離れても、まだディラスは耐えていた。どうしてそこまで頑張るのか、フレイにはよくわからない。
 だが、ひとつだけわかることがある。それは、これ以上すると怒られてしまうということだ。それが照れ隠しであることはもちろんわかっている。
 それはそれでまたかわいいけれど……今日は、ここまでにしよう。本音は、もっとしたい! であるが、ここは自分がひくべき、とフレイは一人納得して頷いた。
「おやすみ、ダーリン」
 結婚したときに決めた呼び方で、甘く甘く挨拶を贈る。
 眉間の皺をいっそう深くしたディラスの隣に、笑みを深くしたフレイは寝転がり、掛け布を引き上げる。
 石のように強張った腕に擦り寄い、目を閉じる。
 なんだか、とってもいい夢がみられそうな気がする。
 朝一番にディラスがいて、眠る前にもディラスがいてくれる。それがどんなに、フレイに活力を与えてくれることか。
 結婚してよかった、と幸せいっぱいで深く息をつく。
 そこで、ふと、明かりを消していないことを思い出し、起き上がろうとした次の瞬間。
「――?! きゃあっ」
 肩を強くつかまれた。
 驚いて目を見開くと、ぐるりと景色が反転する。
 部屋の天井を認識する前に、ディラスの顔が視界いっぱいに広がった。
 どうやら、強引に仰向けにされて圧し掛かられたようだ。もう何度も経験したディラスの重みと熱が、フレイを心地よくシーツへと押さえ込む。
「おまえな……!」
「ディラス?」
 首筋まで真っ赤に染めて、ディラスがフレイを睨みつけてくる。
 出会った頃のような昔ならいざ知らず、ディラスがどういう性格かを熟知したフレイにとっては、それは何の効果もない。
「好き勝手しやがって、覚悟できてんのか……!?」
 搾り出すようなその声音から、よほどの忍耐を強いられたことが読み取れる。
 それなら素直に起きればよかったのに。フレイは、ディラスに組み敷かれているにもかかわらず、暢気に心の中で突っ込みをいれた。
「起こしちゃった?」
 ごめんね? と、そらとぼけていってやれば、苦虫を噛み潰したようにディラスが顔を歪めた。
「あんだけされたら、誰だって起きるだろ! つーか、わかっててやってただろ!」
「そう? そのわりには、目も開けてくれなかったじゃない」
 うふふ、とディラスが起きていたことはわかっていたよ、と暗に伝えるようにすればディラスが口ごもる。
「そ、それは……う、うるせーな! だ、だってよ……その……、ああもう! 嬉しかったんだよ! 悪いか!」
 どうしようもなくなって、悪態をつくように叫ばれたディラスの心が愛しい。フレイもまた、ディラスに触れることができて、嬉しかった。
「ふふっ」
 ぎゅう、とフレイはディラスを抱きしめる。
 フレイの腕には余るくらい大きくて逞しいのに、その内側はとても繊細なディラスを、精一杯、優しく包み込む。
「で?」
 ちゅ、とディラスの耳に口づけながら、フレイは続きを促す。
「あ、なんだ……?」
 くすぐったいのか、わずかに首を竦めるディラスの顔を、しょうがないなぁ、とフレイは覗き込む。
「私はなんの覚悟を決めればいいの?」
「……! お、おまえ……そ、それは、その、あー……」
 自分で言ったくせに、ことさら真っ赤になってうろたえるディラスが、ほんとうに可愛い。
 その表情の移り変わりを、ひとかけらさえ見逃したくない。
 じっーと何も言わずに見つめていると、ディラスの表情が少しずつ険しくなっていく。もともとなかった余裕が、残らず消えていく。
 かわりに滲み出てくる男の色香に、ぞくり、とフレイの背筋が本能的に震える。金色の瞳の奥底が、炎がともったように煌いてみえた。
 しゅるり、と寝間着の肩紐が解かれる。
「――いまから、教えてやる」
 フレイの首元に顔を埋めたディラスが、低く、呻くように囁く。
「……うん」
 言葉よりも行動で想いを語る夫へ、フレイはもう一度「愛してる」と口にする。ディラスの想いも、自分の想いも、二人分のすべてをこめるように。
 はかないけれど、間違いないその真実の音は、重なりあう二人の熱に溶けて消えた。