どこからか、よく知っている風が吹いてくる。
そう感じ取った風早は、ゆっくりと顔を上げた。
誰も近づかないで欲しいという千尋の命令を伝え、そのくせ自身は殯宮へ向った柊はまだ戻ってこない。いつの間に、こんな刻限となっていたのか。
殯宮へ向う回廊の片隅で、壁に背を預けたまま、風早は視線をめぐらせた。
もうすでに、夕暮れというにはあまりにも夜の気配が満ちている。
橿原宮の中央に通じる回廊の奥は、すでに闇色だ。その黒い色彩が、僅かに揺らいで形をとった。宵闇から滲み出るように一人の青年が歩いてくる。
それは、常世の皇子アシュヴィンだった。
「アシュヴィン、こんばんは」
「呑気なものだな」
ばさり、と外套を一払いし、アシュヴィンは風早を一瞥した。もはやそれは睨んだといってもいいくらいの厳しさだ。はあ、と呆れたような吐息がアシュヴィンから漏れる。
だがそんな様子には慣れている。風早はほんの少し微笑んだ。
「千尋の様子をみにきてくれたのですか」
「まあな」
三日前の即位の儀終了後、本来ならアシュヴィンは常世へと帰還するはずだった。豊葦原よりもなお荒れ果てた故国である常世の再建のため、皇に即位するはずだった。
だが、忍人の一件があったことで出立できないでいる。あからさまではないが、疑いをもたれているのだ。もちろん、仲間たちはアシュヴィンがそんなことをするはずがないことはわかっている。そして、アシュヴィン自身も、堂々とした立ち居振る舞いをもってして疑惑の目を正面からはねつけている。
「貴様知っているか? あの存外食えない老女が、面白いことを企んでいるぞ」
「なにかありましたか」
風早の脳裏に、優雅に微笑む狭井君の姿が浮かぶ。
アシュヴィンの唇が、ほんのわずかな嘲りの色を滲ませながら、開いた。
「狭井君が女王の夫選びをはじめている。当然、こちらにも声がかかった」
いつも穏やかな風早の瞳が、さすがに驚きに見開かれた。
「ほんとうですか。いや、しかし、何もこんなときに」
「将軍が一人死んだところで、国はいつまでも止まってはいられないだろう。国を再興し、力をつけ、諸侯をまとめ、民を導く――そのためには女王に然るべき伴侶が必要だと考えたのだろうな。まあ、順当にいけばあいつで間違いなかったんだろうが予定が狂った。だからその代わりを探しているんだろう。王族に縁を結びたいものなどごまんといる。有力な豪族と婚姻関係を結ぶというのもよくある話だし、他国の王族を迎え入れて人質にすることも珍しい話ではない」
「そうですね。あのお方はそう考えるでしょう。豊葦原のことを第一にしておられるのですから、十分予想されることでありましたね。しかし、常世の皇となるあなたにまで話が及ぶとは思いませんでしたが」
風早が少し考えながらそういうと、アシュヴィンがどこか不愉快そうに目を眇めた。
「誰が俺といった」
「は?」
「その話がきたのはシャニ、だ」
しん、と空気が静まった。
常世との関係を結び不可侵の条約とするには、たしかに政略結婚が妥当かつ有効な手段だ。しかし、相手国の皇に女王を嫁がせては意味がない。皇がこちらに婿入りすることも不可能だろう。ならばどうするか。相手国の王族で動ける立場のものに、この国に来てもらえればいい。そうすればこれ以上の人質はなく、豊葦原の常世に対する憂いは、幾許かは払拭されるだろう。だがしかし。
「ですが、シャニ殿はまだ……」
風早の言いたいことがわかるのだろう。アシュヴィンはみなまでいうな、というように口を開いた。
「ああ、だからシャニが成人してから、という話だ。なんとも気の長い話ではあるな」
だが、と目を眇め、からかうような視線を流して、アシュヴィンが不敵に笑う。
「おもしろい話ではある。上手く事を運べばこちらにとっても悪いことはない。先に婚約だけもというのでな、非公式だが俺が話を聞いてきた。こんなふざけたことをしでかした奴らのことも伝える必要があったからな」
「首謀者が、わかったのですか?」
「ああ、ここしばらくはおとなしかったのだがな」
アシュヴィンは千尋の即位式に出席した後、橿原宮にとめおかれながらも忍人が死に至った事件の首謀者を探っていたのだという。
「あの者には、どんなことをさせても償ってもらうさ。ヴィシュバカルマンも、軽率なことをしたものだ。命をもらうだけでは済まさん」
端正な笑顔の奥に、わずかに滲む狂気。だがそれを否定することは、風早にはできない。その気持ちが、わかるから。
「そう、でしたか」
「まあ、現時点では婚姻に関しては条件がいささか悪い。こちらにも相応の利がなければ、わざわざ王族を手放す理由はない。この事態を引き起こしたのは常世の統治不足といわれれば多少不利ではあるが……まあ、引き出せるだけ引き出してやるさ。話がまとまるまで、いましばし時間はかかるだろうな」
語られる内容に、風早は目を瞬かせた。
「アシュヴィン、あなたは……もしかして、千尋のために?」
「別にあいつのためじゃない。俺は常世の皇として、常世の利益にならぬことはしないだけだ」
アシュヴィンはそれ以上語ることはないというように、口を閉ざす。
それでも。それは千尋が王として前を向けるようになるまでの、猶予であることは間違いなかった。
この男も以外に不器用だ。
小さく笑みを漏らした風早を、いささか不機嫌そうな顔で一睨みして。
アシュヴィンは風早の真向かいにある回廊の柱に背をつけて、ふっと視線を遠くに送った。
同じように、風早も目を向ける。
きっと、想うものは同じだ。
この暗い路の先で、たった一人で泣いている少女は、いつ――笑えるようになるのだろう。
幾度も同じ結末をみてきた白麒麟である風早であっても、それはわかりかねた。
伝承の細部が変わることはよくある。前がそうだったからといって、今回も同じ道を辿ることはない。
だが、確かにいえるのは、なにがあっても伝承の結末は変わらぬということだ。
惹かれあう二人を死が引き裂いて、忍人は逝き、千尋は残される。千尋は良き王となり、国を統治し、やがて死ぬ。その後に国は荒れ、乱れていく。
そうしてまた、世界は無限の始まりに引き戻される。そこからまた繰り返していく。
神とは、残酷ですね。
人としての心を知ってしまった神は、千尋の泣き顔を思い出しながら、きつく目を閉じた。