夕暮れの光も消えかけた廊下にたったまま、岩長姫は眉を潜めた。入ろうとしていた部屋から漏れる声を不思議に思う。
なぜ今、彼奴の声がここから聞こえるのだろう。
まあ、そんなこと中にはいってから問いただせばいい。そう思って勢いよく扉を開ける。
「ちょいとお邪魔するよ」
いちいち互いのことを慮るような生易しい関係ではない老女の部屋へ、岩長姫は有無を言わさず上がりこむ。
突然の訪問者に、部屋の持ち主である狭井君がわずかに目を眇めた。先客が、とくに驚いた様子もなく目を動かして視線だけを送ってくる。
「まあ、相変わらず乱暴ですこと。今は客人がいらしているのですよ、遠慮をするということは考えないのですか」
「うるさいねぇ。どうせまた、くっだらない謀でもしてたんだろう?」
「そのような恐ろしいこと。私は常に、この国の未来を案じているというのに」
「はっ、しらじらしい」
静と動という言葉がまさに相応しい老女二人の苛烈な視線と言葉の応酬に、同じ部屋にいる男――アシュヴィンが、おもしろそうに口の端を歪めた。
「いやはや、豊葦原を支えるお二人の仲は相変わらずよいとお見受けする」
「嫌味いってんじゃないよ。大体、なんでこんなところにアンタがいるんだい?」
岩長姫の言葉に、アシュヴィンは小さく笑った。
「なに、少々世間話をしていただけだ。そろそろお暇することとしよう」
外套を捌いてアシュヴィンが席を立つ。常世を支配する者の血筋であることを示すような優雅な所作で、入り口へと向かう。
出がけに足を止め、肩越しに振り返ったその表情は、もはや皇の名にふさわしい威厳さえ宿しているように、岩長姫の目には映った。
「さて、狭井君。さきほどの話、よく考えさせてもらおう」
「よい返事をお待ちいたしております」
深く腰を折って礼をする狭井君を、うさんくさいものでもみるように岩長姫はみつめた。なんだか、嫌な感じがする。
「ああ。では失礼する」
退室したアシュヴィンを見送った後、ぎろりと狭井君をねめつけた。
「そのように親の仇をみるような目をせずともよろしいでしょう? それで、何かありましたか」
そんな視線など慣れているせいか、いつもの感情を読ませぬ柔和な笑顔が、狭井君に浮かぶ。それに苛立ちながら、岩長姫は口を開いた。
「ああ。例のやつらについてだが――。即位式の警備手配は万全を期した。もちろん、あの場にも一部隊常駐するはずだったんだが……何者かがその命令をすり替えたようだね。つまり、だ。こっち側に手引きした奴がいる」
ぽい、と懐に入れていた竹簡を机の上に放り出す。これまでの経緯や判明した事実を記したそれを手にとり、ざっと目を走らせた狭井君は深くため息をついた。
「なんと嘆かわしい。この豊葦原において陛下の御身を害そうとする輩が身近にいるとは……」
「内通者については、おおむね検討がついたところだ。こっちはあたしに任せてもらおう。なに、逃がしゃしないよ。今頃、小さくなって震えてるだろうさ」
「ええ、荒事に関してはあなたにお任せいたしましょう。あの晴れの日を汚した罪は重い」
低くつぶやく狭井君に、こればっかりは同感だと、岩長姫は頷いた。そして、ゆっくりと腕を組む。その様子にただならぬものを感じたのか、狭井君が笑みを消した。
「さて。そっちはどうなんだい?」
「どう? とは」
空とぼける口調に、眉をわずかに動かす。自然と、声が低くなる。
「常世の皇子と……なんの話をしていたんだい?」
わずかな沈黙の後、狭井君はゆるりと口の端をあげた。いつもの本音を隠す笑顔の仮面に、岩長姫は辟易してくる。
「豊葦原と常世の両国が末永き平和と繁栄をともにするために、アシュヴィン皇子にご相談を申しあげていただけのこと」
「誤魔化すんじゃないよ。そんな白々しい台詞が、あたしに通じると思ってんのかい」
殺気にも似た感情を込めて、岩長姫は狭井君に言い切った。対する老女は観念したのか小さく息をつく。
「――姫には王としての自覚を持って、できるだけはやく政に関わってもらわねばなりません。また王家復活を世に知らしめるためにも、王にふさわしい相手と婚姻関係を結んでもらわなければなりません。ですからその件で、アシュヴィン殿下にご相談をしていたのです。よきお相手の心当たりはありませぬか、と。できる限り早急かつ大々的に、国内外へと女王の婚約を知らしめねばなりませんからね」
「それは……」
常世と豊葦原の二国間における、政略結婚。
狭井君が言外にそういっていると理解した瞬間、岩長姫は自分の血液が沸騰したかのように、身が熱くなるのを感じた。
それもいいだろう。国とは綺麗事ばかりいっていてもどうにもならない。王族としての勤めとして、それは古よりおこなわれてきたことでもある。そんなこと、この大国の将たりえる己が知らぬはずもない。
両国が疲弊している今、復興への協力体制を整えること、戦という憂いの芽を摘むことは急務だ。手を取り合う国の姿を知らしめるには、婚姻関係による同盟の強化は最適だろう。
だが、それは今すぐすべきことか!
「あんたっ……! 今あの娘がどんな状態かわかってんのかい! 大体、なんであのとき千尋に忍人のことを知らせなかった!! 死に逝くものをなぜ見捨てた!」
高ぶった感情をぶつけるように声を張り上げても、狭井君は揺らがない。
「王にはこれから豊葦原をまとめあげ、より豊かで強大な国を作っていただかなければなりません。なれば、あの場にいかず諸侯の前にその姿をみせ、豊葦原の女王に対し絶対の忠誠を誓わせるべきだと思ったからです」
年経た女の目はどこまでもまっすぐだ。前だけを見据えるその冷静さが、恐ろしくなるほどに。
「もうすでに国は動き始めている。本当なら、姫のお相手は葛城将軍がもっともふさわしいと……私は思っていましたよ。家柄、将軍としての功績、姫とともに橿原宮を取りもどし、失われた故国を復活させた立役者です。誰しもが祝福したでしょう。国内の結束を強固にすることを考えた場合においては、あれほどまでにふさわしい方はいなかった。でも、もう――あの方は、いないのです」
発する言葉は自分に言い聞かせるようにも聞こえた。
「死人では、生者の国を動かせない」
狭井君のいうことは正しい。だけど。そんなもの、理解できても納得などできるものか。ぎりぎりと歯をかみ締めていた岩長姫は、口を開く。
「だが、もしそうしたら……あの子が生きたまま死んじまうよ。アンタ、それでもいいのかい」
千尋の心には忍人が深く刻まれている。今の状態では、国のためとはいえ伴侶を得たとしても千尋が混乱するだけだ。忍人への想いと、夫になった者への想いの狭間で、心を砕いていく姿が目に浮かぶよう。
人が心の傷を癒すには、多くの時間が必要なのだ。
それがいつになるかはわからずとも、そっと見守ることも肝要なはず。
「私は、二度とこの豊葦原という国を滅ぼすようなことだけはできません。王にはどんなことがあっても、生きていてもらわねば。それにあの方は、それぐらいで心が折れる方ではないと、私は信じています」
ぴりぴりと、大気を震わせ己の気を打ち付けあう両者は一歩も引くことはない。
「あたしは認めないよ」
「四道将軍ともあろうものが。そのようなことでは困りますね」
「なんとでもお言い。あの子は、今まで頑張ってきた。護らねば壊れる今このときに、師として放っておくことなんてできないね」
将軍として兵の上にたち、女としての幸福をすべて切り捨ててきた岩長姫。
審神者の君と呼ばれ、女としての幸福すべてを国と神に捧げてきた狭井君。
国のために尽力してきたということではよく似た立場の二人だが、彼女たちは決定的に違う志のもと、生きてきた。
人あってこその国と思う前者と、国あってこその人だと思う後者では、そのやり方が異なるのは当たり前なのだ。
そして、そうだからこそ相手の思惑がよくわかる。立ち居地が違いから、客観的に相手を眺めることができる。一見、水と油のようなこの二人が、長い時間付かず離れずの絶妙な距離と関係を保てたのはそのためだ。
しかし、互いの気持ちがわかるからとはいえども、今回ばかりは譲るつもりは微塵もない。
苛立ちのまま、どん、と岩長姫は拳を振り下ろす。繊細なつくりの机が嫌な悲鳴を上げた。
「あんたにゃ悪いが、思うようにはさせないよ。大将軍を任せたときから、あたしは千尋のやりたいようにさせてやるって決めてんだ」
吐き捨てるようにそういうと、返答を聞く必要などないとばかりに、岩長姫はわざと荒々しい足音をたてて部屋をでていく。
大きな音とともに扉を閉めて、金の髪の少女を思い浮かべる。
「だが、ほんと……どうしたもんかねぇ」
ばりばりと頭を掻いて、思わずそう零す。
自分が何かしてやれることはないかと思うものの、浮かぶ言葉は陳腐なものばかりだ。
「ま、とりあえず顔でも見にいこうかね」
わずかな思案の後、殯宮へ足を向ける。
その先に、奇跡が待っているとも知らずに。
勇ましく去っていった岩長姫の気配も消えた頃、狭井君は小さく息をついた。
「ほんとうに、素直でうらやましいこと」
僅かに頬を緩め、あんな風に感情をあらわにすることは許されなかった老女がひとり呟く。
その傍らで、ぴしぴしと小さな音がたつ。やがてそれは重なりあって、大きな音となり。
岩長姫の全力の拳を受け止めた哀れな机は、その形を崩した。