遠夜は、殯宮へと通じる回廊がみえる庭で、月を見上げて歌っていた。今ここに聴くことのできる者はいないけれど、歌わずにはいられない。
ゆったりと哀切に満ちた死者への手向け歌が、大気を震わせる。
それを乱すように大きく風を打つ翼の音に、遠夜は視線をあげた。
明るく輝く月と星を背負い、空から橿原宮に侵入してきた日向の海賊は、遠夜と視線が絡み合うと同時に口を開いた。
「よう、遠夜。姫さんはどうしてんだ?」
ふるふると、サザキの問いに頭を振った遠夜は顔を伏せた。
「そうか、あいかわらずってことか」
その様子に、千尋が殯宮から出てきていないことを察して、サザキは溜息をついた。
日向の一族で海賊ということもあり、早々に橿原宮から追い出されたサザキは、夜にこうして空から訪れて千尋の様子を誰かに尋ねている。
遠夜も退去するようにいわれたものの、その癒しの力は千尋のためにも必要だという岩長姫の進言もあって、彼はここに留まることを許されている。
サザキは、苛苛と赤い髪をかきあげる。この身体の奥から湧き上がる感情は、同情でも、哀情でもない。ただひたすらに、理不尽だと思う。はらわたが煮えくり返るよう。
「なんでこんなことになっちまったんだろうな……」
あの二人はこれから幸せになるはずだったのに。どうして。そんな想いが心の中で幾度も幾度も木霊する。
「なあ、おまえさんの薬じゃ、あとどんくらい……姫さんはああしていられる?」
変若水の効力で、忍人の遺体は腐敗が進んでいない。流れる血を抑えても死は免れなかった忍人をはじめてみたときも、まるで眠っているかのようだったことを思い出す。
だが、いつまでもそうしていられるわけもない。千尋自身だって、そろそろ限界がくるころだろう。
遠夜が動いた。すっと伸ばされた指の先、濃紺の空には散りばめた宝石のごとく瞬く星たち。東の向こうからゆるゆると西の端へと航海を始めた月の船は真円だ。
指で月を形をなぞり、つつつ、とその行く先を辿るように動かしていく。一番高い位置に指先が到達したとき、なにかをかき消すように手のひらを泳がせた。
そして、ひどく悲しげにその手を胸元へと引き寄せた青年の瞳に落ちた翳りに、サザキはもう一度溜息をついた。
「この満月が昇りきったら、効力が消えるってことか?」
こくり、と遠夜は頷いた。
「もう、時間はないんだな」
サザキがそういうと、遠夜は何か訴えるように口を開こうとしたが、どうすればいいのかというように表情を曇らせた。
「どうした?」
サザキの問いかけには答えず、遠夜はひょいとしゃがみこむ。足元におちていた小枝を拾う。
この土蜘蛛の青年は、想いを言葉にすることができないけれど、その表情・仕草で様々なことを伝えてくる。最初仲間になったときはさっぱりわからなかったが、千尋が皆の縁を引き寄せたように、仲間たちと彼の仲をごく自然にとりもってくれたおかげで、今はおおむね意思疎通が図れる。
それでもなお伝えたいことがあれば、遠夜は文字をつづるようになっていた。千尋に教えてもらったという、たどたどしいけれど彼の思いをカタチにする文字。
じゃりじゃりと、土を引っ掻く音にサザキは遠夜へと近づく。小さな枝を筆代わりに書かれた言葉にサザキは眉を潜めた。
月光に照らされた大地にはこう、書いてあった。
――神子の力になれない。忍人も助けられない――俺は、役に立てない――
「……ばぁか、お前さんは今までも、今も、ずっと姫さんの力になってるよ」
悲壮な表情で顔を伏せる遠夜の頭を、元気付けるように少し乱暴に撫でる。くしゃくしゃとされるがままの遠夜のすぐそばで、サザキは夜の空を見上げる。
海原で針路を示す星が、瞬いている。
自分だってなにもできない。なにもしてやれてない。大切な仲間であるというのに。
愛する者を失えば、人はあんなにも弱くなるのか。
繊細な造りのお宝を前にしたときさえも、指を伸ばすことをためらわない自分なのに、この翼を動かしただけで掻き消えてしまいそうな儚い千尋の傍にいくのは、恐ろしく思えてしまう。
でも、なにかしてやりたい。少しでも、落ちる涙をとめてやりたい。
その手をひいて、あんたがいくのはこっちだと明るい場所に連れ出したい。あの星のように、行く道を教えてやりたい。
それが自分にできるかどうかはわからないが、こんなところで延々と悩んでいるよりは傍にいるほうがきっとマシだ。
サザキはそう自分に言い聞かせ、ぱん、と己の頬を叩く。
もう、忍人とともに過ごせる時間の猶予も、あまりないのだから。
「よし――姫さんに、会いにいくか」
ぐい、と遠夜の腕を掴んで強引に立たせると、サザキはその背をひとつ叩いて橿原宮へと歩き出す。
その後を、遠夜は静かに追いかけた。