手を伸ばす

 すべてが炎で照らしたように、染め上げられている。その燃えるような色彩が、揺らぐ太陽の光に照らされた世界が、豊葦原を脱したあの日を思い起こさせる。あれからまだ、半年もたってはいない。
 影を色濃く持ち始めた家々が、積み木を並べたように規則正しく立ち並んでいる。豊葦原とは違って土ぼこりもたたず、衣の裾を汚すような泥もない道が、迷路のごとく続いている。そこをさ迷い歩けば、いつしか世界の狭間を越えていけそうな空気が漂う。
 そんな幻想的な雰囲気をぶち壊しにするような、二人だけの世界が繰り広げられている目の前の様子に、那岐は無意識のうちに短く息をつく。
 道の上には、伸びた影がふたつ。
 大きな影と、小さな影は手の先が溶け合い、ゆらゆらと揺れている。
 視線で影をなぞり持ち主を見遣る。それらの持ち主は、踊るように軽やかに歩く少女と、その手を取って歩く背の高い少年だ。どちらも、おなじ屋根の下に暮らす同居人。その名も、千尋と風早。
 彼らとて自分と同じ異質なものであるはずなのに、この世界に驚くほどしっくりとおさまっている。
 少年というには歳に不釣合いなほど、どこか達観した瞳をしている長い影の主を思い、那岐は眉を潜める。いつも間の抜けた笑みを浮かべている彼は、なんでも知っているような底深さがあって、それがちょっとだけ不愉快だからだ。
 その隣を歩いている宵闇を寄せ付けぬ少女の金色の髪が、暮れゆく陽射しの中で一層輝いている。白いワンピースを纏い、その裾を金魚の尾ひれのようにひらりひらりと風に遊ばせて、千尋は楽しげに笑い声をあげている。
 彼女の言葉に優しく頷き、問いかけには的確な答えを返し、導くように道を行く風早も楽しげだ。スーパーの特売で買った肉その他をいれた袋から、長ネギをぴょこんと覗かせて歩いているその様子は、やけに所帯じみている。馴染んでいるし、本人がそれでいいなら、いいのだが。
 こうして三人で買い物にいくのも、もう幾度あっただろうか。特売のチラシを並べ、買い物表を作っている二人を呆れた目で眺めるのも数え切れないほどあった。
 そして思う。

 なんでそんなに馴染むのはやいんだよ!

 千尋はわかる。あの体験のせいか、記憶をほぼ失っていたから、なんら不思議に思うことなく受け入れられたのだろう。だが、風早はどうだ。自分よりも長く異世界で暮らし、生活のあり方も習慣もまったくといっていいほど異なるというのに。ご近所のおばさんたちともあっという間に仲良くなっている。どういうことだ。
 というか、今の家もどうやって用意したのかとか、生活費はどうしているんだとか。いろいろ問いただしてみたい。しかし聞いたところで上手いこと誤魔化されるのが目に見えている。癪だ。
 その順応性の高さが決して羨ましいというわけではないが、どこでも己のまま生きられるというのは評価に値するのではなかろうか。
 だって、自分はまだ慣れていない。
 はぁ、と今度は深々と息を吐く。
 便利なものに溢れた世界。争いに巻き込まれることのない場所。穏やかに過ぎていく時間。緑の少ない景色。どこか淀んだ大気。
 豊葦原に未練などこれっぽっちもないけれど。あの水清く流れる小川、緑鮮やかに滴るような山々、高い肩に乗せられて見た荘厳な橿原宮を忘れることはない。
 育ての親の大きな手。優しい瞳。そのぬくもり。自分のすべてを託すように、熱心に指導してくれた鬼道も忘れることはない。
 生まれながらの霊力を制御するために習いだしたものだが、今はそれがあの人の形見と呼べるものになってしまったから。

 大切だった。あの人が。あの人との時間が。
 幸福だった。穏やかに二人過ごした日々が。

 過去に思いを馳せ、遠くにいきかけた那岐の意識を、千尋の澄んだ笑い声が現実へと引き戻す。
 先を行く二人の後姿に、わけのわからない焦燥がこみ上げる。押さえつけるように、ぎゅ、と胸元の服を掴んだ。
 この二人は、師匠のようにはならない。させない。
 自分が大切に思うことがなければ、大事にしようとあがきさえしなければ、きっと大丈夫。
 また、あんな目にあうくらいなら、これ以上立ち入るなと線を引いて高い壁を築いてしまえばいい。離れていればいい。
 だけど優しい同居人たちは、ほうっておいてはくれないだろうという確信がある。
 自分のことを、家族だといってはばからないお人よし達なのだ。
 そして、それをほんの少しだけでも嬉しいと思ってしまう瞬間があることが、余計に那岐の心を追い詰めていく。
 家族だと認めてしまったら、終わりがみえるような気がする。取り返しのつかないことになるような気がする。
 ああ、石を積み上げるように心を何にも侵されぬほどに、固められたらいいのに。
 そんな願いが寂しいものであるという事実に気付くことはまま、那岐は歩みをとめて二人を眺める。
 幸せそうなその景色に目を細めた那岐の視線の先で、くるりと千尋が振り返る。ふわりと舞ったスカートが、花びらのようだ。光で出来た薄絹のように、髪が軽やかに風に乗った。
「那岐!」
 ほら。思ったとおり。
 当たり前のように、自分の名前が呼ばれる。傍にいるのが、かけた声に応えがあるのが、自然なことだと信じきっているその音色。
 放っておいてくれれば、いいのに。そのほうが、楽なのに。何も考えずにすむのに。
「那岐ってばー!」
 どこか暗い気分で輝くものから目を背けたくなって押し黙る那岐に、痺れをきらしたのか、千尋がもう一度声を張り上げる。
 心に作りかけていた壁が、根元からさらさらと崩れていくような気がした。
「何回も呼ばなくたって、聞こえてるよ」
 わざと、うんざりとした口調でこたえる。いつものように、聞こえるように。
 那岐の言葉に満足気に笑って、夕陽を背負った千尋が手を伸ばす。
 見慣れたその仕草に、那岐は呻いた。
 手を繋ごう、繋ぎたい、と無言のままで千尋が願っている。
 この年にもなってなんで、と思う。しかし、断ると千尋が泣きそうな顔をすることを、これまでのわずかな経験で知っている。それは困る。泣き顔はもっと苦手だ。
 それに、千尋の小さな手のひらが、振り払われることなど考えもせず、受け入れられぬことがあるなど疑いもせず、眩暈がするほどの真っ直ぐさで握り返されるのを待っている。
 振り払うことは、ひどい罪を犯すことのように思えるほどに、それは真っ白で純粋だ。
 逆光に翳った笑顔を直視できない。まるでその姿が、光でできているよう。あまりの目映さに那岐は瞼を伏せた。
 あたたかくて、やさしくて。人が求めてやまないものがそこにあると、ぼんやりと思う。
 ふらりふらりと足が向く。
 湧き上がっていたさまざまな気持ちが、霧散していく。離れなければ――何もかも面倒だ――どうでもいい――そう考えていたことさえ綺麗な風に拭われていくように、澄んでいく。
 ただ、その後ろで笑いを堪える風早に、さきほどとは異なる苛立ちが募る。すべて見透かされているようでいやな気分になる。
「おうち、もうすぐだよ」
 優しい声、誘う言葉。差し伸べられたままの手。
 千尋が、確かに自分を待っている。その事実を、どんなに押さえつけようとしても嬉しいという感情が出迎えてしまう。
 その存在が心を占めてしまう前に、離れろと囁く虚ろささえも、包み込むように千尋は笑っている。
 こんなのは駄目だ。わかっているのに、身体はいうことをきいてはくれない。不幸にしたくないと思うのに。
「――うん」
 からからに乾いた口から、掠れた返事を吐き出して。
 那岐は、手を伸ばす。
 これは、千尋が泣いたら面倒だからだ。決して、自分が手を繋ぎたいわけじゃない――そんな誰に言うわけでもない言い訳を繰り返して重ねた指先が、白くて細くて小さくて柔らかい千尋の手が迎えてくれる。
 きゅ、とつたない力で那岐の指を捕まえた千尋が笑う。どうして、そんなに嬉しいのか。思わずそう問いかけたくなるような、満面の笑み。
 この暖かな感情をどうしたらいいのかわからない。かといって笑顔を返すことはできそうもない。
 上機嫌な千尋は、そんな那岐の様子には気付かずに、前を向いて歩き出す。
 くすくすと風早が笑っている。
 むっとして、那岐は緑の目を細めた。ありありと不機嫌さが滲み出る。
「何笑ってるの」
「ああ、いえ。那岐も千尋にはかなわないんだなーと思ったので」
「……うるさい」
「風早、どういう意味?」
 いつものとおり、疑問はすぐに口にする千尋が当然のように風早を見上げた。きょろり、と青い瞳をめぐらせている千尋に対して、風早は微笑んだ。
「那岐が千尋のこと大好きってことですよ」
「っ!?」
「那岐、ほんとう!?」
 あまりの一言に息を詰まらせ、続いて「違う!」と叫ぶ前に、千尋のやたらと期待に満ち満ちた輝く瞳を向けられて、那岐は言葉に詰まった。
「何勝手なこと……!」
「じゃあ、風早は?!」
 那岐の言いかけた言葉を綺麗に跳ね除けて、千尋の澄んだ声が風早に向けられる。すっかり否定する機会を失って、ぱくぱくと口を開けたり閉めたりしていると、千尋を挟んだ向こう側で風早がにっこりと笑った。
「ええ、もちろん。俺は二人のことが大好きですよ」
 風早の返答に、千尋は歓声を上げた。きゃらきゃらと本当に幸せそうに笑う。柔らかな白い頬を薔薇色に染めて、子供の時間をまだ少し残した少女特有の甲高く甘い声で、笑っている。
「あのね、私もね、二人とも大好き!」
 ぎゅ、と繋がれた手に力がこめられる。きっと、風早も同じようにされているだろう。
「だから、ずーっと、ずーっと、一緒にいてね!」
「はい、ずっと傍にいますよ」
 きらきらと、千尋本人が輝いている。まぶしくて、ほんとうにまぶしくて。那岐は視線を足元に落とした。
 この願いを叶えないといえるものは、きっと誰もいない。だって、那岐自身さえ抗えそうにない。
 作ろうとしていた心の壁は、もうない。あっというまに消えてしまった。
 ああ、また作らなきゃ。今度はもっと頑丈にしなければ。そんなことを思いつつ。空いている手で、頭を掻いた。
 彼女の願いのままに、三人で幸せな時が過ごしたい。
 でも、だめだ。
 ちらり、と星の瞬きほどに輝こうとしたわずかな願いを、那岐は無理やり押さえつけてなかったことにする。
 失うことへの恐怖が、なお大きい。そうそう簡単に捨て去ることはできない。
「……気が向いたらね」
 はっきりと言い切ることもできず、濁したような返答を返せば、風早が苦笑した。
 素直じゃありませんね、という言葉は聞こえなかったことにして、那岐は夜の帳が落ち始めた空を見上げる。
 いつの間にか、空は静かで落ち着いた紺色に塗り替えられつつあった。
 迫る夜を照らしだすため、街灯がひとつ、またひとつと灯ってゆく。
「今日はね、カレーなんだって。楽しみだね! ちゃんとお手伝いしようね!」
「はあ……もう、なんでもいいよ」
「じゃあ、今日は人参の皮むきでもしてもらいましょうか」
 はーい、というよい子のお返事を返した千尋の元気のよさに引き摺られながら、那岐は無意識のうちに――小さくとも、楽しそうに笑った。

 宵闇に溶け始めた長い影が、彼らの絆をありのままに世界へと落としている。
 それは誰がみても家族そのものカタチ。本当は、混ざりたいと思い眺めた暖かなカタチ。
 しかし、幼い少年は二度目の喪失を恐れて、それにずっと気付かない。