後ろから抱きしめる

 紅に、黄金にと山装う季節。
 空は澄み、高く。赤く色づいた蜻蛉が賑やかに行き交っている。
 豊かな実りに感謝しつつも、忍び寄る寒さに冬支度を急かされるとある日、橿原宮の一角では明るい笑い声が響いていた。

「ははは! なんだ、あいつ姫さんに好きだって言ったことねーのか! てっきり相思相愛で付き合ってるとばっかり思ってたんだがな」
 なんでそんなに楽しそうに、きらきらした瞳で笑うんですか、サザキさん。
「まあ、忍人ですから。予想できることではありましたね」
 お年寄りよろしく豆茶をのんきにすする仕草としみじみした口調が妙に様になっています、風早さん。
「なんで、僕があんたたちと女子高生みたいな話をしなくちゃいけないんだよ。カリガネからのお土産があるっていうからついてきたのに」
 お菓子をつまみながら、本気で呆れ果てた目をしないでください、那岐さん。
 思わず心の中で敬語を使いつつ、千尋は小さく息をついた。
 女王陛下付きの従者である風早の部屋で、南からの貿易品を携えて丁度豊葦原に戻ってきていたサザキと、宮に張られた結界の点検・補修にきていた那岐をカリガネのお菓子を餌に捕まえて、千尋は政務の合間のわずかな休憩時間を楽しんでいた……の、だが。
 いつの間にか四人の話題は、千尋と忍人の恋の話になってしまっていた。はじめは照れて戸惑っていた千尋も、すっかりと相談という名目で愚痴を零している。
 だから、那岐の指摘は間違っていない。これはまるで、異世界で放課後に同級生の女の子たちと交わしていた会話そのものだ。
 女の子同士ならもっとよかったのかもしれないけれど、千尋の周囲にはあいにくとその手のことを話せる同性は一人もいない――岩長姫がいたような気もしたが、まったくもって相談にならないことは間違いない。
「でもね。嫌われてはいない、と思うの」
 胸の前でもじもじと手をすり合わせ、千尋は呟く。
 もし嫌いであるのならば、春の日に一緒にでかけてくれることなどなかったはずだ。
 しかしあれ以来、二人の仲が深まったかというとそうでもない。二人っきりで視察という名目で出かけたり。なんとなくいい雰囲気になったりはしたけれど。それだけだ。
 進展するようで、進展しないこの現状が千尋の不安を煽っていることは事実だった。千尋としては、かなりあけすけに好意を表しているのだが、空回りばかりしている。実は、ストレートに「好き」といってみたこともあるのだが、お礼を言われただけで終わったりもしている。あれはさりげなく会話に織り交ぜたのが失敗だった気がする。きっと通じなかったに違いない。
 乙女の心境を汲み取ってくれたのか、風早がうんうんと頷いた。
「大丈夫です。むしろ千尋は好かれていると思いますよ」
「そ、そうかな!」
 風早のおっとりとした肯定の相槌に、千尋は顔を輝かせた。
 くるくると変わるその愛くるしい表情に、サザキがまたも笑い声をあげている。恋する女の子はみていて飽きないものらしい。
「言われてないなら、大してかわらないと思うけど」
「ううっ」
 ばっさりと切り捨てるような那岐の容赦のない言葉に、千尋の浮き上がった心が沈む。
「まあまあ。男にもな、いろいろとあるもんなんだよ」
「いろいろって何」
「心の準備」
 腕組みをして、さも俺はわかっているというようなもっともらしい口ぶりで発言したサザキに対し、はっと鼻で笑った那岐が目を細める。
 決して同意などしていない。むしろ馬鹿にしている。それがありありと態度にでていて、サザキが眉を跳ね上げた。
「那岐、お前、男の純情ってもんがわかってねーなぁ!」
「そんなものわかりたくもない」
 あー、やだやだといわんばかりに片手を振って、那岐はお茶を口にする。
「男の純情かどうかはわかりませんけど、忍人にも何か考えがあるのかもしれませんし」
 あまり悪いほうに考えることはないと思いますよ? そういって微笑む風早は、春の陽だまりのような柔らかな空気をあたりに振りまいている。サザキより若いはずなのに、なんだろうこの安定感と安堵感。
 マイナスイオン。
 豊葦原ではついぞ聞くこともないだろう言葉を脳裏に浮かべつつ、千尋は目を伏せた。
「そうかなぁ。そうだといいなぁ」
 そんな様子を眺めながらサザキが笑う。人を食ったように楽しげで、興味が尽きない玩具を見つけた子供のような、その表情。
「じゃあ、もしもの話だが。おそらくというか、万に一つもないと思うが」
 小さく首を傾げた千尋だけではなく、風早と那岐もサザキを注視した。
「忍人が姫さんのこと、好きじゃないっていったらどうするんだ?」
 それは、考えたことがなかったわけじゃない。
 この想いが一方通行で実ることはなく、忍人が別の誰かを選ぶという未来も想像したことがある。
 でも。
「うーん。ああ、そうなんだって思うかな」
「何、随分あっさり諦めるんだね」
 意外、というように那岐が目を軽く見開く。
「え、諦めるわけじゃないよ? だって、好きじゃないとはいわれても嫌いだっていわれるわけじゃないでしょう?」
 おお、とサザキが千尋の言葉に感嘆したように声を漏らした。風早が噴出して、那岐が「そうくる?」と苦笑いしている。
「だったら、そこから私を見て欲しいっていうしかないわ」
 小さく拳を握り締め、千尋はうんうんと頷く。出発点はどこでも構わない。そこから、はじまるものがあるのなら。
「それでも、もし、忍人が千尋を想うことがなかったら?」
 風早の穏やかな問いかけに、千尋はちょっとだけ考えた。そして、答えはわかっているよ、とでもいいたげな見守る者の優しい瞳に、微笑む。
「それは仕方ないわ。たとえそうなったとしても、私は忍人さんのこと大好きだから」
 はにかんで、千尋は幸せそうに答えた。
 叶わなければ、きっと悲しい。寂しい。だけれど、誰かを想う優しくて暖かなこの気持ちが、胸を満たす心地よさと幸せと教えてくれたから。だから、大切な思い出にすることができる。想い人の幸せを祈ることができる。
 でも。ちょっとだけ泣いてしまうかもしれない。そうなったら、またこの三人にいろいろ聴いてもらえばいい。きっと、笑うことができるように盛大に慰めてくれるだろう。
「っかー! 忍人のやつ幸せモンだなぁ、オイ!」
 同意を求めるその言葉に、風早は笑って頷いて。那岐はぐったりと顔を伏せた。
「惚気ならよそでやってよね」
「そんなんじゃないもん」
 幼馴染の言葉に、わずかに唇を尖らせた千尋を、風早とサザキが笑いながら宥める。
「まあ、なんだ。こんなに可愛い姫さんに、こーんな可愛いこと言われて心が動かなかったら、男じゃねえよな。大丈夫、ちゃんと応えてくれんだろ! な!」
「ええ。サザキのいうとおりです。それに告白されたら、千尋は嬉しくてきっと天にも昇る心地になるでしょうし」
 二人の言葉に、ちょっと考える。
 もし、好きだといってもらえたなら。
「うん、きっと幸せすぎて死んじゃうかも」
 ほんの少し想像しただけなのに、ふわりと千尋の笑顔が花開く。それをみて、男三人はちらりと顔を見合わせる。
 そして、サザキは心底楽しそうに、風早は口元に手を当てて、那岐はため息をつきながら天を仰いで――三者三様に、笑った。
「あーあー、まったくもって羨ましいことで。どうやったらこんなに一途に想ってもらえるのかねぇ」
「なんだか、こっちの方が恥ずかしくなってくる。やってらんない」
「ははは、千尋がこんないい子に育って鼻が高いですよ、俺は」
 口々にそういいながら、がたがたと席を立ち始める相席者たちを、千尋は椅子に腰掛けたまま見比べた。
「え、皆どうしたの?」
 まだ、休憩時間はあるはずだ。いつもなら戻って政務の準備をしているような頃合だが、もうちょっとお話したい。唐突なお茶会の幕引きに、きょろきょろと視線をめぐらせながら、千尋は困惑したように問うた。
 最後のお菓子を口に放り込んで飲み込んだ那岐が、千尋を見下ろしながら言う。
「ま、今日はこれでお開きってことで。せいぜい頑張って」
「へ?」
 豆茶の入っていた湯のみを手早く片付けて風早が続く。
「そうですね。では、ここ俺の部屋ですけどちょっと空けますから。頑張ってください」
「ちょ、風早どこいくの?」
 すちゃ、と片手をあげたサザキがにやにやと笑っている。
「そろそろオレもいくわ。また面白いモン手に入ったら持ってくるから、これからも贔屓にしてくれよな! じゃ、頑張れよ!」
「え、え?」
 そういいながら、軽やかに衣をさばくように大きな翼を引き連れて扉へ向かう。
 何がなんだかわからずに、ぽかんと口を開けて三人を見送る千尋の視線の先で、風早が慣れた仕草で扉に手をかけた。
 ゆっくりと開かれたその先に。
 豊葦原が誇る四道将軍、葛城忍人その人が。
 立っていた。
 四対の瞳の、それぞれの思惑を乗せた視線を一身に受けたせいか。忍人はなんともいえない表情で、僅かに斜め下に視線を落とし、髪をかき上げた。
 その瞬間、千尋の小さな体中をめぐった感情はなんと名づければいいのか。もし、その心象を万人が目にすることができる画にしたならば、見る者たちすべてが酷い天災が来たときの風景を描いたものだと思うことだろう。
 心の中で千尋が悲鳴をあげている間に、廊下にでたサザキが忍人の背中を豪快に叩いた。
「つーわけだ! しっかり姫さんのお願いきいてやれよ、忍人!」
「馬鹿な話にこれ以上つき合わされないで済むようにしといてよね」
「形にできない想いでも、言葉にすることはできるはずですよ、忍人」
 部屋に押し込まれるような形で、よろけつつ数歩前進したその背へと盛大な応援の言葉を押し付けて。男三人の姿は、無情に閉じられた扉の向こうに消えていった。
 何事か言い合いながら遠ざかっていく彼らの会話も、千尋の耳には届かない。
 取り残された格好の千尋は、右へ左へ青い瞳を巡らせて。最後にゆるゆると俯いて手を握り締めた。
「ど、どうして……」
 そこにいるんですかー! どこからきいていたんですかー!
 か細い声は問いかけをできるほどの力はなく、尻すぼみに口の中で意味のない音となった。
 そんな様子をじっと見つめながら、忍人は口を開いた。
「軍に関する協議書提出のために陛下の執務室にお伺いしたのですが……。いつもならすでに席についておられる頃合なのに、陛下が戻られないと文官たちに訴えられましたので、こちらに参った次第です」
 将軍の、女王陛下に対する礼をわきまえたいつも通りの言い回し。どうやら、普段とは違う自分の行動が、今回の事態を招いた一因であるらしい。自業自得か。
 だが、焦る千尋にはその声音が僅かに熱を帯びていることに気付かない。
「あ、ああ、そうですか! 迎えにきてくれたんですね! すみません、忍人さんの手を煩わせちゃって!」
 声が上擦る。元気に声を張り上げて、千尋は席を立った。ぎくしゃくと手足を動かして、歩き出す。
「千尋」
「わ、わかってます。すぐに戻ります! お仕事します!」
 顔をみることができなくて、深く俯いたまま忍人の右側をすり抜けて扉へ向かう。だけど。
「……ん?」
 ぴたっと足を止めて、聞こえた音を反芻する。
 千尋。
 それは女王に即位して以降、彼から呼ばれることの少なくなった、じぶんのなまえ。
「お、忍人さん、今……ひゃっ!」
 驚いて振り返ろうとした千尋の左手が後ろから掴まれる。するりと腰に回った大きな手が、華奢な体を難なく引き寄せる。抗うことなど考えられない、瞬きひとつほどのわずかな時間が過ぎて。
 ――ぽすん、と千尋は忍人の胸に落ちた。
 忍人に後ろから抱きしめられたその瞬間、千尋には世界を回す時間がひどくゆっくりと流れたように感じられた。
 靡いた金の髪が一拍遅れで頬に戻ってくる。女王の衣装の裾が翻り、ゆらりと舞う。装身具がしゃらんと澄んだ音をたてて。
 触れ合った背が、手首を掴む指先が、抱き寄せる手の平が、熱い。それはゆっくりと千尋の肌を蝕んでいく。
 ――あれ?――
 どうして、自分がこうなったのかわからずに、目を瞬かせていると。耳を柔らかな吐息が掠めた。
「っ」
 未知の感覚に思わず喉を引き攣らせ、千尋は首を竦ませる。
「千尋」
 そうして、か細くとも確かな言葉が紡がれる。それは、彼女が望んでいたもの。

 好きだ

 一瞬で世界に溶けていった言霊。千尋の身体は、その優しい響きをいつまでも忘れぬように、刻み込むように、ひとつ大きく慄いた。
 たった一言、欲しかったもの。
 望み続けていたそれは想像していたよりも甘く、耳の中でいつまでも木霊するよう。言われたことを理解して、止まっていた血潮がものすごい勢いで千尋の全身を巡りだす。
「あ、あ、ありがとう、ござい……ま、す……」
 もっと、気の利いた返しはないものか。これではいつぞやの忍人と同じではないか。そうどこか冷静に考えつつ、赤くなっていく頬を自覚しながら、千尋は俯いた。
 恥ずかしくておかしくなってしまいそうだ。いや、もしかしたらもうおかしいのではないだろうか。身じろぎひとつできず、これまでにないくらい近くにいる忍人の気配に、呼吸さえもままならない。
「どうした。俺の言葉が、欲しかったんだろう?」
「う……」
 忍人は、意外にいじわる。
 喉の奥で低く転がる忍人の笑い声に、千尋はそう確信する。そして、その声音は千尋のごちゃ混ぜになった感情の中にいたたまれなさを加える。
「やっぱり……聴いてたんですね……」
「そうするつもりはなかったのだが。もう少し、声は控えめにしたほうがいい」
 穴があったらはいりたい。というか、埋まりたい。
 彼らとの会話はいったいどこから聴かれていたのだろう。怖くて確認できない。羞恥に身体全体を真っ赤にして、ぷるぷると震えている千尋は泣きたくなってきた。
「だが君以外は、俺が部屋の前にいることに気付いていたぞ」
 ようやく、彼らが去っていく際の「頑張れ」コールの意味がわかった。
 忍人が聴いていることに気付いていて。
 千尋の気持ちを発言させるように誘導して。
 忍人が逃れられないように挑発して。
 そして、二人っきりにして。
 こんな進退窮まる状況に放り込んだあの三人を、次に会ったらどうしてくれよう。
 もう、自分の迂闊さを呪えばいいのか。見事な連携プレーをみせたあの三人の手腕に感心すればいいのか。
 深く俯く千尋の頬に、その左手を捕らえていた忍人の手がかかる。するり、と顎にかかった指先の力に抗することができず、顔を上げた。
 振り仰いだ視線の先に、静かに笑っている忍人がいる。
 ほんのりと白い肌を染め、しっとりと潤みを帯びた瞳が千尋を見つめている。
 忍人の熱に浮かされたような、そんな表情を見るのは初めてで。千尋は息を飲む。
「わかってくれていると、思っていた。君からの好意が俺だけに向けられていることに、安心しきっていた」
 せつなげな微笑はどこか儚くて綺麗だ。薄い唇が滑らかに動いて、千尋の心を絡めとるような言霊が生まれてくる。
「だが、それが君を不安にさせているとは考えもしなかった。すまない。俺はどうやら君の優しさに甘えていたようだ」
 千尋の、目じりに浮かんだ涙をぬぐうように唇が触れてくる。思わずぎゅっと目を閉じる。視覚を閉ざしたためか、聴覚と触角が敏感になった気がする。
 耳から直接、心へと吹き込まれるような、言葉。逃がしてくれない忍人の腕は、やけに優しく感じられて、離して欲しくないと思う。
「他人の手の上で踊らされるのも、なにもかもお膳立てされるのも好まないが――言葉で伝えるべきときは、確かにあると俺も思う。だから、伝えた」
 こくこく、と千尋は頷く。忍人からの気持ちを表す音は、今も耳に残っている。
 見えない視界の先、忍人が確かに笑うのがわかった。
「俺には、君だけだ」
 千尋は答えない。答えられない。もっと強く目を瞑ってただ震えた。その様子にさらに忍人は言葉を重ねる。
「千尋、君だけなんだ」
 硬く凍っていたような千尋の、細い肩がわずかに跳ねる。その反応を確かめるように、忍人は千尋の身体をさらにきつく抱き締めた。
「そんなにいわなくても、いいです……」
 色づいた首筋から、ほのかに鼻腔をくすぐる香りを漂わせながら千尋は呟く。火照った体温が、衣に焚き染めていた香の香りを引きだしたのか。
 そっと、忍人の手に華奢な指先を乗せて、ようやく目を開けた千尋は恥ずかしそうに身を捩った。
「そうか? 俺の想いは、もういわなくていいのか?」
 どこかからかうような響きの問いに、忍人の瞳から目を離せない千尋は、ますます泣きたくなった。
 だって、それは困る。本当なら、いつでも言って欲しい。呆れるくらい、受け止められぬくらい、この身から溢れるほどに言って欲しい。
 でも、そんなことされたらきっと心臓がもたない。今でさえ、この状態だ。死ぬ。
 だから。
「適度に、その、私の心臓が壊れない程度に、いってください……」
「ああ、そうすることにしよう」
 優しく微笑んで忍人が千尋の頬を撫でる。その仕草が彼の想いを如実に現しているような気がして。千尋はうっとりとその身を預けた。
 あの三人に今度会ったら――お礼を言うことにしよう。
 覆いかぶさるように唇を寄せてくる忍人に対して、そっと伸び上がるようにして応えながら、そんなことを思う。
 この、幸せのお裾分けだ。
 嫌がられても、今度は本当の惚気話を聞いてもらおう。
 甘く蕩けるような口付けを交わしながら、千尋はそう心に決めた。

 

 

「いやぁ、若いってのはいいことですね」
「おお、まったくだ! なあ、那岐もそう思うだろ」
「あんたたちと僕を一括りにするな!」
 ぎゃあぎゃあと青空の下を騒々しく行く彼らの思うことは同じだ。

 どうかどうか幸せに。
 大切な、大切なお姫様が、想う人と輝かしい未来を歩めますように。
 この晴れ渡る空のもと、いついつまでも仲睦まじくありますように。

 この後、盛大な惚気話を延々と聴かされることを思いもせずに、彼らは楽しげに笑いあっていた。