——越しに触れる

 常世を治める皇は常々思っている。
 自分の妃は変わっている、と。
 豊葦原という大国の元姫でありながら、炊事洗濯なんでも器用にこなす。さすがに広大な後宮のすべてをまかなうことはできないものの、夫婦の部屋はいつも妃の手によって綺麗に掃除され、整理整頓されている。采女たちが「仕事がない」とぼやくほどだ。
 最初はその行動に驚いたものの、咎める理由もない。一度何気なくきいてみたら、自分のことは出来る限り自分でしたいということと、それになにより夫である人の身の回りの世話がしたいのだと、頬を染めてはにかみながらいわれてしまったら、何もいえなくなってしまった。
 思い出すだけで笑みがこぼれる。そして、ことさら思う。
 自分の妃はなんと可愛らしいのか、と。
 うっすらと開けた視界の先、きらきらと目を輝かせて楽しそうに自分の手袋をはめている千尋を見て、その想いを一層強くする。
 どこか小動物を思わせる千尋の仕草に、勝手に喉の奥から笑い声がこぼれた。
「あ、起こしちゃった? ごめんね、アシュヴィン」
 てっきり眠っているとばかり思っていたのだろう。
 目を僅かに伏せて、千尋が身を小さくしながら謝罪してくる。ここ数日忙しくて、まったく二人の時間を持てなかった夫に、気遣いを忘れないなどなんと優しい妻だろう。
 身を横たえている長椅子の上でゆっくりと身を起こし、己の足元付近にちょこんと腰掛けている千尋に手を伸ばす。
 頬を撫で、髪を梳いてやると気持ちよさそうに目を細める。
「いや、実際眠ってはいなかった。気にするな。それに、お前に起こされるならば、いつなんどきでも俺は幸福と思う」
 おいで、と言葉にはせず僅かに腕を広げてやると、千尋が頬を赤らめながらも嬉しそうに身を寄せてくる。
 しっかりと抱き寄せて、己のひざの上に座らせる。
「それにしても、俺の奥方は何がそんなに楽しいんだ?」
「これ?」
 そういって、笑いながら千尋が手を振る。いつも己が身につけている手袋は、華奢な白い腕と指をかくしたまま、不恰好にぶらぶらとあまった指先を揺らしている。全く大きさがあっていない。
「そこにおいてあったから、どんな感じなのかなって思って」
 大きいよね。そういって、また千尋は楽しそうに笑った。
「それに、いつもアシュヴィンと一緒なのよね、この手袋」
 握ったり開いたりしながら、至極まじめにそうつぶやくから、アシュヴィンは内心首をひねった。
「手袋が欲しいのか? ならばお前に見合うものを用意させるが」
「そうじゃないってば!」
 ぎょ、と目を見開いた千尋が慌てて首を振る。
「もう、あんなにいっぱいあるんだからいらないよ!」
「そうか? 俺としてはあれでも足りないくらいだが。我が麗しい奥方は欲がないな」
 夫としては寂しいような気もする。それでもこれまであつらえたものは、すべて大事にしてくれていることは知っている。そして機会があれば、アシュヴィンに着飾った姿を見せてくれる。そのたびごとに、その美しさに見惚れていることなど、きっと千尋は思いもしないだろう。
「あんな広い部屋がいっぱいになるくらい服もらっても、困っちゃうんだってば……」
 なんだか疲れたような顔をして、僅かに肩を落とす千尋の額に唇を落とす。
「まあ、幾千の絹も重ねても、幾万の宝石を積もうともお前には敵わないがな」
「もう、また上手いことばっかりいうんだから……」
 清らかな音でも聞こえてきそうなほど、さらさらとした髪を弄びながら本気で言った言葉は、素直には受け取ってもらえない。
 あまりほめ言葉を言い過ぎるのは信用度を落とすのだと、シャニがわかったような口をきいていたのを思い出す。
 だが、仕方がない。自分はこんなにも千尋が大切で、本当に心から、彼女がこの世で何よりも美しいと思っている。そんな存在が、こうして自分の一番近くにいる幸せがどんなにか得がたいものかも知っている。
 だから、言葉にしてしまう。そして、それを千尋がなんだかんだといいつつも必ず受け取ってくれることを、アシュヴィンは知っている。
「夫の言葉を信じてはくれないのか?」
「……アシュヴィンの言葉なら、信じるわ」
甘い吐息を零しながら、千尋が微笑む。
「光栄だ」
 その青い瞳、零れる金の髪、紅を佩いた白い頬、色づいた唇。やはり、己の言葉は真実でしかありえない。そう確信させる、自分だけの比売の神を腕に抱いたまま、アシュヴィンはそっと可憐な唇に口付ける。
「ん……アシュ……」
 名を呼びかけた声まで食らうようにしながら、さらに華奢な身体を引き寄せる。
 こうすると、いつも千尋は懸命に、すがるように首に腕を回してくる。
 が。
「千尋……」
「?」
 わずかに身を離し、アシュヴィンは千尋を見遣る。ぼうっとした艶めいた表情のまま、不思議そうに首を傾げる愛らしさを堪能しながらも、アシュヴィンは眉をひそめた。
「手袋をはずせ」
「……」
 最高級の革を用いてつくられているとはいえ、千尋の肌にかなうわけもない。
 髪に潜り込む指先の感触はあやふやだし、首元の感触もいつもと違う。柔らかなぬくもりも届かない。
 手袋越しに触れられるのは、やけにもどかしいものだとアシュヴィンははじめて知った。
 剣の柄を滑らず掴むため、暗殺の毒針を防ぐためなどの事由から、公務などでははずせないもの。ゆえにアシュヴィンは幼少の頃から手袋をしたまま物に触れるのは当たり前だった。しかし、こうして触れられることはなかった。
 千尋がくすくすと笑う。
「何が可笑しいんだ」
「だ、だって……アシュヴィンったら。いつも私には手袋をしたまま触れることが多いのに、逆になったらそんなに嫌だったの?」
「ああ、悪いか? 大体、象牙よりも白く滑らかなお前の肌よりも心地よいものがこの世にあるわけもない」
 はっきりとそう言い切れば、息を詰まらせた千尋がせわしなく目を瞬かせて俯いた。
 どこか熱に浮かされたような表情で、するすると千尋は右の手袋を外していく。黒い皮の向こうからまぶしい肌が現われた。
 そっと、その手を恭しくとって口元まで持ち上げる。
「やはり、直に触れるほうがいい」
 ちゅ、と桃の花弁のような爪の生え際に唇を寄せる。
 そのまま、ちらりと左手へ視線を送る。
「そっちもだ」
「……こっちはだめ。だって……」
 もじもじとしたまま、言い辛いのか千尋がぷいっとそっぽを向いた。
「千尋」
「だって。この手袋は私よりもアシュヴィンと一緒にいるし、明日も身につけるでしょう?」
「それは、まあそうだな」
「だから、だめ」
「……意味がわからん」
 一体なにが駄目なのだろう。わけがわからず、思わず眉を潜める。それをみて、千尋が申し訳なさそうに目を伏せた。せわしなく髪を撫で抑え、長い睫を上下させているその姿に、なんと問えば答えるだろうか、どうしたらこの口を割らせることができるのか、城攻めの手法を考える気分に陥りながらアシュヴィンは千尋の右手を撫でる。
 が、名将の策が展開される前に、目標は自らその扉を開くように可憐な唇を震わせた。
「だって、私の熱が手袋にうつったら……アシュヴィンはずっと私と一緒にいるってことになるのかなって。そうだったら、いいなって思っちゃったから、その……」
「……は?」
 何を言っているのか。思わずアシュヴィンの口から漏れ出した吐息混じりの声に、千尋は手袋をした左手で顔を覆った。耳や頬が紅色に美しく染まっていく。
「あきれたよね……?」
「いや、むしろ驚いた」
 そんなことを思いつく思考回路はアシュヴィンには備わっていない。これが、男と女の差なのかもしれない。
 まあ、なんにせよ――とどのつまり、千尋はいつどんなときも自分とともにありたいと願っているということだ。
 それはそれで悪くない。そんな想いがまっすぐに自分だけに向けられているというのは、くすぐったいが嬉しくて、愛おしい。
 だけど。
「だが、手袋よりもこちらのほうがいいと思うがな」
「え」
 千尋の左手を強引に顔から外し、金の髪の合間へ深く指を潜り込ませて引き寄せる。
 熟れた赤い顔の中心で、青い瞳が潤んで煌いている。
 そんな千尋の表情を記憶に刻みながら、有無を言わせずアシュヴィンは口付けた。
 そう、熱を分けてくれるならもっと近くがいい。
 手袋を挟んだものなど味気ない。この、今生きている彼女の熱が直接欲しい。
 いつ、どんなときも思い出せるように、この身体の熱に千尋のそれを取り込んでおきたい。だが、いつもすぐに混ざり合ってしまう。心地よさだけをもたらして消えていく。
 ならばもっと。もっと。アシュヴィンの身の内に、消せぬ火が点るまでその熱を求める。
 強張っていた千尋の身体が、くぐもった声を漏らすたびに弛んでいく。
 そろそろ限界か。
 ゆらぐ重心を感じとったアシュヴィンは、千尋を解放した。
 案の定、千尋は酸欠もあいまってか、さらに赤らんだ顔でアシュヴィンの胸へと凭れかかる。
 その隙に、するりと左手の手袋を外して放り投げた。
 ぱさり、と乾いた音が床の上で立つ前に、アシュヴィンは素早く千尋を長椅子に沈める。
「ちょ……ちょっとっ、アシュヴィン!」
 流れるような夫の行為に翻弄され続けた哀れな妻は、ここでようやく抗議の声をあげた。
 圧し掛かろうとするアシュヴィンの胸に手をついて、千尋は叫ぶ。
「なんでこうなるのっ」
「お前が俺の傍にいたいといったからだろう。妻の求めに、夫は最大限の努力をもってして応えてやらねばなるまい?」
「いらないっ、いらないよっ」
 ぶんぶん、と頭を振り続けている千尋を見下ろして、アシュヴィンはニヤリと口の端を持ち上げた。
 ひっと喉を引き攣らせた千尋の目に、夫たる男はどう映っているのか。
 おそらくひどく意地の悪い顔をしているだろうと思いつつ、アシュヴィンは胸に置かれた手をとる。柔らかなその手の平に、そっと唇を落として艶やかに笑う。
「そういうな。あんな可愛らしい願い、すぐにでも叶えてやる。手袋に託さずとも、俺自身で余すところなくお前の熱をもらってやろう。そうすれば、千尋と俺はいつも一緒……なのだろう?」
 逃げられないと悟ったのか、千尋が頬を膨らませた。
「今日はお話したり、お茶したり……ゆっくりしたかったのに……」
「お前が愛らしいのが悪い。不満があるなら俺を煽るような言動を控えることだ。まあ……無理だろうがな」
 くつくつと低い笑い声を零し、アシュヴィンはぐっと顔を近づけた。
 私悪くない!
 そう言いたげな千尋の唇を三度塞ぎ――アシュヴィンは己を侵す甘い毒のような千尋の熱に、ゆっくりと溺れていった。