目の前にあるのは地方における税率等を詳細に定めた公示文書。検討に検討を重ねたそれに、ゆっくりと千尋は豊葦原の王としての印をしるす。
即位当時は、筆になかなか慣れることができず多々失敗をしていたが、今は手馴れたものだ。
書き終えた千尋が、コトリと小さな音を立てて筆を置く。これを作るまでに、どれほどの努力があったことか。しみじみと思い出すように青い瞳が閉じられる。深く息をついて、千尋はゆっくりと背もたれに身を預けた。
そして。
「できたぁー!」
ようやく仕上がった書類を前にして、千尋は「ばんざーい」と両手を挙げた。満面の笑みが眩しい。
「はい。良く頑張りましたね」
それをみて、風早は労わるように言葉をかける。一国の王ではあるが、ふとした瞬間にみせるあどけない仕草は那岐と三人で暮らしていた頃となんら変わっていない。それはとても可愛らしく風早の目には映る。
微笑ましいと思いながら、風早はまだ墨の乾かぬそれを素早く別の机に移動させる。以前にこんな感じで喜んだ傍から、衣の裾で文字を撫でて擦れさせたり、墨を零して読めなくしたりと散々なことになった実績があるからだ。
千尋はそれを見送ったあと、嬉しそうに手をそのまま下げて、ぱたりと机の上に上半身を伏せる。
「うー……。疲れたよー……」
「ああ、千尋。そんなところで寝ちゃだめですよ」
大事に大事に、千尋の努力の結晶を置いてから、風早は振り返って嗜める。
だが、それに効力なんて微塵もない。声音は甘く、響きは優しく、むしろ子守唄を聞かせるよう。
「忍人がみたら怒りますよ」
「君は王としての自覚がたりないっ! って?」
顔を少しあげて、忍人の真似をした千尋に風早は微笑で応えた。そのまま異世界での教師であったころを思い出しながら、もっともらしく指摘する。
「もうちょっとこう、眉間に皺を寄せて呆れた感じで。はい、もう一度」
「えー、先生厳しいよ」
その様子に、遠い世界でのことを思い出したのか、千尋は目を細めてくすくすと笑った。
「さて。千尋の努力のおかげで、予定より幾分か早く終りましたよ」
「ほんと? やった!」
太陽がもたらす影の長さから、おおよその時間を計りつつそう言えば千尋がさらに喜ぶ。
「まあ、今日はこれらを仕上げるために時間を設けましたしね。集中できたんでしょう。自室に下がって休みますか? そうならば陛下付きの采女を呼びますが」
「ううん、ここでいいよ。人の目があると、なんだか休んだ気がしないんだもの」
自室とはいっても、女王の傍には常に誰かしらが控えている。一人でなにもかもする生活に数年間慣れ親しんだ千尋にとって、手ずからお茶一杯を淹れることさえ許されないというのは息が詰まるのかもしれない。
ぐでーっと溶けたように机の上で体の力を抜いて、ひらひらと手をふるさまは女王の威厳ゼロだ。先ほどの言葉ではないが、忍人がこれを目撃したならば雷が落ちるに違いない。
「じゃあ、頑張ったご褒美です。何かして欲しいこと、ありますか?」
「……なんでもいいの?」
ゆっくりと顔あげ、こちらを見上げて問うてくる千尋へと微笑みを崩さず頷く。
「ええ。お茶でもいれてきましょうか? それとも花でも摘んできましょうか。ああ、確か甘い砂糖菓子があったはずです。持ってきましょうか?」
「それよりも、こっちにきて?」
現時点で、風早にできる思いつく限りの提案を述べてみる。だが、千尋はそのいずれにも興味を示さず、風早を手招きした。
呼ばれていかないわけもなく、風早がその傍らに立てば、千尋の白い綺麗な手が、逃がさないというようにその衣を掴んだ。
何事かと風早が目を瞬かせると、千尋のふっくらとした唇が動いた。
「ここ最近、ずっと忙しかったよね」
「そうですね。この、税に関する地方への告示とかの他に……祭事や行事も催されましたしね」
「だよね。風早に、抱き締めてもらう暇もなかったもの」
「……千尋?」
くいっと衣が引かれて、風早は思わず高い背を屈めた。近くなった距離をさらに埋めるように、千尋が背筋を伸ばして、言った。
「ね、キスして」
青い瞳が、無心にこちらをみている。だけど、その奥底にちらちらと過ぎる何かがある。期待するような、誘うような、何も知らぬ少女には似つかわしくないけれど、すべてを知った女には否応なしに宿るもの。それをもたらしたのは自分なのだと知っている風早は、微かに身を震わせた。
金色の瞳を眇め、風早は引き寄せられるように千尋の耳元に唇を寄せる。
まるで、光を求めて松明に集まり、上がる炎にその身を焦がして絶命する虫にでもなった気分だ。ふらふらと、本能が欲して止められない。
「ここで?」
風早にそんなつもりはなかったが、漏れ出した声は重く響くような低さだった。それがどれだけ千尋の身を震わせるか、風早は知っている。
無意識のうちに、その音をだしてしまった自分は相当性質が悪いと、ふと思った。
ほら、今だってほんのりと頬を染めながら、千尋は睫を伏せて吐息を零している。その艶っぽさといったら、ない。
「うん、ここで」
「誰が来るかわかりませんよ?」
弄ぶように片方の耳を指先でくすぐると、千尋は軽く肩をすくめて笑い声を漏らした。そのささやかな吐息混じりの音にさえ、血の巡りが速くなる。この部屋に、急に立ち込めた妙な空気が悪いのだと、責任転嫁したくなる。
「いいの。いつも言っているでしょう? 私は、風早とこうなっていることを知られても、いいの」
「千尋……」
するり、と風早の首に細い腕を巻きつけて千尋が身をすり寄せる。甘えるように肩に頬を乗せ、整えられた指先で男の輪郭を確かめるように撫でる。いつのまに、こんな仕草を覚えたのだろう。教えたつもりはないのだが。
「風早は、どうしてそんな風に隠そうとするの? 皆に知られるのが怖い?」
「そういうわけでは、ないですが……」
「じゃあ、どうしてそんな困った顔するの」
事実、困っているから苦笑いするしかできない。
軽く頬を膨らませて、千尋が顔を覗き込んでくる。わざわざ言いふらすような真似がしたいわけではないだろうが、やはり不満に思っているのだ。風早だって、自分の愛する者はこの人だけだと、この人は自分のものなのだと、言えるものなら言いたい。でも。
「自分と千尋では釣り合わない。狭井君からも、そういわれたのではありませんか?」
「……そう思ってるのに、風早は私に手を出したの?」
むぎゅ、と風早の鼻を摘まみ上げて千尋は目を細める。機嫌が急降下していく気配に、風早は心底困ってしまう。
「まいったな。それを言われると反論できない」
損ねた機嫌をなだめるように、千尋の手を鼻から外させてその指先に口付けた。
そう。自分たちはとうの昔に一線を越えてしまった。千尋が豊葦原の王に即位し、内政が安定し始めたとある日、千尋の情の灯った眼差しに魅せられてしまった。そして、そうするのが定められていたかのように、口付けを交わし、肌を触れ合わせた。
伝えることはないと思っていた己の心さえ、千尋の涙交じりの求めに引きずり出されてしまった。愛しい少女に好きだといわれて、手を伸ばさずにいることはできなかった。幾度愛を囁いたか、もうわからない。
人に知られぬように繰り返した秘め事が、風早の脳裏をよぎる。その甘美な時間を思い出し、ぞくりと肌があわ立った。
「俺はどうなっても構いません。ただ、千尋の立場が悪くなることだけは、避けたいんです。俺が、もっと立派だったらよかったんでしょうけど」
そうなる可能性があるのならば、こんな関係を続けるべきじゃないと、心の中の冷静な己が言う。でも、それでも、愛したいと叫ぶ声が大きくこだまするのもまた事実。
「風早は、小さい頃から私をずっと守ってきてくれた。誰よりも傍にいてくれた。ありがとうって何度いっても足りないくらいだよ。十分に立派じゃない」
「そういってくれるのは嬉しいですが……所詮、俺は従者です。有力な豪族出身というわけでもないですし、価値などたかが知れています」
淡い桜色した爪を優しく唇でなぞりながら、風早は自嘲気味に言葉を零す。
「皆に知られれば、判断を迫られる。ですが、そもそも俺と国では天秤にかけることすらできない。もしそうしても、どちらがより重いか、千尋にはわかっているはずだ。俺は臆病だから、その判断の行く末を知りたくないんです」
思うままに愛したくても、自分には力が足りない。国と従者ならば、切り捨てられるのが後者であるのは、自明の理だ。
だが。
「そんなことないわ」
「え?」
千尋が、笑う。
空の蒼、海の藍とも違う彼女だけがもつことを許された青い瞳が綻ぶ。僅かに上気した白い面を縁取る髪は、太陽の光ように煌めきながら彼女の動きに従って踊る。紅をのせてもいないのに、色づく柔らかな唇が綺麗な孤を描く。
その麗しいという言葉さえ表現に足らぬ笑顔に見惚れた風早に、千尋は言う。
「その天秤を傾ける必要なんてこれっぽっちもないじゃない」
「!」
「どちらも大切ならば、どちらも大切にすればいいのよ」
僅かに胸をそらせて、可愛らしく威張るようにして続ける。
「まかせて、大丈夫よ。狭井君にも、他の皆にだって何も言わせないわ。そのために、私色々頑張っているのよ?」
「それは、どういう……」
「ふふふ、秘密。……まあ誰だって、弱みってあるのよね。私にとっての風早みたいに」
先ほどのまでの笑顔が急になりを潜め。ふと過ぎった冷たい笑みに、風早の肝が冷えた。くすりと笑う千尋の背後に、黒い何かが見えるような気がした。だが、それも一瞬のこと。あっというまにそれは消え去り、千尋はいつものように風早に甘えてくる。その背をそっと撫でながら思う。
千尋は確かに、王にふさわしい人物となった。だが、あまりよろしくない意味と方向にも成長しているのでは……、と。だが、たとえ千尋が暴君になったとしても風早がその傍から離れることなんてありえない。それこそ、天地が逆さまになっても、月が落ちてきたとしても、ありえないことだ。
風早の頬に千尋が手を添える。目を逸らすことを許さずに、命じるように囁く。
「風早が私を守ってくれてきたように、これからは私が風早を守ってみせる。だから、一緒にいて。ずっと、ずっとよ」
千尋のその真剣な面が、成し遂げることを誓った凛々しさで輝いている。風早は、自分を導く光である千尋をみて、確信する。
近い未来、この少女の手によって、自分たちの秘められた関係は終わりを告げる。
そして、彼女の願うとおりの未来となるだろう。この強く美しい豊葦原の女王陛下に逆らえる者が、どれだけいるか。それらがその手の内に落ちるのも、きっと時間の問題なのだ。
とうの昔に逃げることも、離れることもできなくなっているのならば腹をくくるしかない。一番困る立場だろう彼女がこういっているのに、自分がこれ以上何を言えようか。今までそうであったように、許されて望まれるままにその傍らにあればいいだけだ。
「まったく……しょうがないですね、俺の姫は」
「私がこんな我侭いうの、風早だけよ?」
いたずらっぽく煌めく千尋の瞳には、金と青に咲き誇る華の虜となった男の顔が映っている。
「それは、嬉しいことですね」
くすくすと笑いあい、お互いを絡めとって顔を寄せあう。重なった唇を食み、味わい、その奥にあるものに触れようと舌を伸ばす。
そのまま唇を離さずに。ずるり、と千尋を執務机の椅子から引き摺り下ろして、風早は覆いかぶさった。
暴かれることを拒むようにあわせられた着物の襟を荒々しく掴んで左右に開く。白い肌が顕になる。呼吸を伝えて上下するまろやかな曲線が艶めかしい。それらを空気に触れさせることさえ惜しくて、風早は早急に唇を落とした。
「あっ……ん、風早……」
「千尋が望んだんでしょう? キスして欲しいって。俺は、千尋の願いならどんなことだって叶えます。それが俺の幸せです。だから、俺の全てで貴女を愛します」
「……うん」
熱に浮かされたように、うっとりと頷く千尋の頬に口付ける。するりと千尋の足をなで上げ内腿を曝け出させて、滑らかな膝に手をかけ開く。
組み敷いた千尋の甘い声と立ち上る香りが、風早の思考をくらりとさせる。余計なことは考えず、目の前の千尋という華のことだけ見ていればいいと、いわれているようだ。
だが、そういわれなくとも風早は、この華に触れずにはいられない。この華に、溺れずにはいられない。
その甘い蜜を一度口に含んでしまったその瞬間に自分は――神は、堕ちてしまったのだから。もし神であることで、千尋を愛することができないといわれたら、そんなもの捨ててしまえるほどに。
人の姿をとり長い時を漂い、すでに心は人のそれとなり。人のぬくもりをこの身をもって知ってしまった。もう、手放せない。彼女が、自分を求めてくれるなら、応えたい。
白いうなじに唇を落としながら、風早は喘いだ。
「ねえ、千尋。俺の唇が触れなかったところなんてひとつもなかったと、ちゃんと覚えておいてください。できるなら……ずっと、ずっと忘れないで、いて欲しい」
「忘れるわけ……ないよ……っ、私、風早のこと絶対に、忘れることなんてない」
強く抱き締めて願いを込め、愛していると囁けば、華奢な体を震わせながら応えてくれる。白い肌の所有者が見ることのできない場所に赤い印を残しながらの言葉は、せつない吐息とともに受け取られる。風早はそれが嬉しくもあり、悲しくもあった。
だって知っている。この願いも、彼女の応えも、幸せに満たされたこの時空と一緒に、無情にも閉じられてしまう。すべて、消える。
これまで通り過ぎたあらゆる世界がそうだった。
ただ、こうして情を交わすことは、今までなかったことで――きっと、そのせいだ。叶うことはないと、痛いほどにわかっている風早が、こんな愚かな願いを口にしてしまうのは。
許されるならば、その美しい魂に刻むことができたらいい。自分の熱と感覚を、記憶だけでないどこかにほんの少しだけでいい、残したい。それは、いま自分たちが想いを交し合った恋人たちとして、とても幸せだという証だと思うから。
いつ終わりがくるとも知れぬ、神によって廻され続ける哀れなこの世界の理が、決して覆せないとわかっていても、かすかな希望を追いかける。
――女を愛した俺のことを、どうか……覚えていて――
心地よい命の鼓動を刻む千尋の胸に唇を這わせながら、風早は淡雪のごとく儚い願いを抱いて金色の瞳を閉じた。