「おい、いつまでそうしているつもりだ」
「うぅ~……」
広い豪奢な寝台の上、限りなく隅っこで小さく身体を丸めている千尋を見ながら、アシュヴィンは笑った。
転がり落ちてしまいそうなほどの場所。それは、いつでも逃げられる位置ということでもある。だが、そうしようとしないということは、少なくとも嫌だとは思われていないということだ。そう、いい方向に解釈しておくことにする。
柔らかな枕に肘をつき、しなやかな体躯を肌蹴た衣服の合間から晒しながら、アシュヴィンは千尋をじっと見つめる。それに気付いているのだろう。千尋は背を向けながらも、もぞもぞと居心地悪そうにしている。
赤い瞳に、か弱い獲物を前にした肉食獣の余裕が、ちらりと垣間見えた。
「今日あらためて二人で式も挙げただろう。ならば、名実供に夫婦になることになんの問題もないはずだ。お前もわかっていたんじゃないのか」
「そ、それはそうなんだけど……その、そういうことじゃなくて……」
枕を一つ抱え、さらに身を縮こまらせた千尋が、もごもごと小さく呟く。その真っ赤な耳、紅を薄っすらとのせた首筋が、とても美味しそう――と、そんなことをいったら千尋は悲鳴をあげて逃げ出してしまうだろう。
初々しい千尋の様子に、アシュヴィンは喉の奥で声を転がし笑った。
「なんだ、恥ずかしいのか?」
「っ! やっ!」
寝台の上で手を伸ばし、無防備に晒されていた細い足首を掴む。ぐっと引き寄せれば、するりと衣装の裾から美しい足が現れる。その白さに目を細めさらに引き寄せようとする。
「アシュヴィン……!」
そのまま身を任せればいいのに、千尋が寝台の縁に手をかけて中途半端に抵抗するものだから、仕方ないとアシュヴィンは上半身を起こした。
寝台に敷かれた絹の海を渡り、千尋のすぐ傍まで移動して、背後から覆いかぶさるように華奢な身体を抱き締めた。
びくりと肩を震わせ、さらに枕に顔を埋めてこちらをみようともしない千尋のうなじに唇を落とす。
「ひゃあっ」
色気のない声を上げて、千尋がようやく顔をあげた。睨みつけてくる瞳は、初めての感覚に戸惑い揺れている。これは、慣れるまでに随分と時間がかかりそうだ。だが、それはアシュヴィンが教えてやればいいこと。今はただ、このときしか返してくれないその反応を愛でればいい。
「本当に可愛いな、お前は」
「ば、ばかっ」
素直に想いを口にしただけであるというのに、妻からの答えはなんともつれない。押し退けようとしてくる細腕をものともせず、アシュヴィンは長い腕に力を込めた。
「また俺にそう言ってのけるお前のその度胸は買おう、だが」
枕ごと千尋を抱え、寝台の上に座り込んだアシュヴィンがにやりと笑った。
「ま、待ってアシュヴィン!」
慌てる千尋を押さえつけ、その甘く震える唇に己の唇を寄せて囁く。
「俺がいつまでも紳士的な態度をとっていると思うなよ。もう、遠慮なぞせん」
ひくっと千尋が息を飲む。大きな青い瞳が自分だけを映していることにひどく満足しながら、アシュヴィンは食いつくように口付けた。
飢えた獣が、捕らえた獲物の肉を貪るようなその求めに、初心な千尋が弱弱しく抵抗を試みる。今までの柔らかに触れ合わせるだけのものしか知らないせいか、驚き戸惑い――快楽に溺れる恐怖に慄くその華奢な肢体の反応は、とても好ましいものだった。
今宵、自分の知らない千尋の一面をみることができる。千尋は、どんな色をみせてくれるのだろう。どんな声で鳴くのだろう。そして、それを引き出せる自分はなんと幸運なのだろう。
期待を込めて、アシュヴィンはゆっくりと目を開いた。
その視界に飛び込んできたのは、今まで見たこともないほど艶めいた表情で、すっかりあがってしまった息を整える千尋の姿だった。
潤み揺れる海のような瞳を縁取る金の睫毛は下がり、涙がその先で煌めく。吐息混じりの声が鼓膜を震わせる。その朱に染まった頬をひとつ撫でて、予想以上のものに上機嫌になったアシュヴィンが千尋をそっと寝台へと横たえた。
力が抜け切ってしまったのか、千尋はすっかりおとなしくされるがままだ。縋っていた枕を取り上げ、その傍らに落とす。
あの時とは、随分違うものだ――思い出し笑いをするアシュヴィンに、意識がはっきりしはじめたらしい千尋が首を傾げた。
「どう、したの?」
「ああ――思い出していただけだ。お前を娶って初めて供にした夜のことをな」
「!」
ぼっ、頬を赤らめた千尋がせわしなく視線を彷徨わせる。流石に覚えているらしい。まあ、あんなやりとり、忘れるほうがどうかしている。
「なんとも色気がない夜だったな。下衆な連中は控えているし、お前は床で寝るといいだすし、あれには存外驚かされたぞ」
「あ……あれは!」
低く笑って髪を撫でてやれば、千尋は頬を膨らませた。
「アシュヴィンが無神経だったから、つい……」
「そういわれると立つ瀬がないな。あの時は――すまなかった。お前の気持ちを考えるということを、思いつきもしなかったんだ」
素直な言葉は、素直な気持ちを引き出すのだと教えてくれた妻の額へ、アシュヴィンは優しく口付ける。
「もう……私がどんな気持ちであの場所にいたと思ってるの?」
「俺に抱かれる覚悟を決めていたのだろう? ならば、ここでもう一度その覚悟をみせてほしいものだな」
熱に浮かされたような顔で口を引き結んでも、涙を堪える愛らしい表情にしかならないというのに。もごもごと小さく実った唇の奥で、千尋は呟く。
「だって……、違うもの」
「何が違う? 俺はあの時だけじゃない。その前からもずっとお前のことを想っていた」
それは今も変わらないと熱っぽく伝えれば、千尋を囲うように寝台についた手に、細い指がそっと絡んでくる。おずおずと、だけれど存在を確かめるように肌の上を滑る指先に、ぞくりとアシュヴィンの背が震えた。
いますぐにも、その身を味わいたい衝動に駆られるが、ぐっと堪えて千尋の言葉を待つ。随分と辛抱強くなったものだ。
「違うのは、私の心だよ。あの時ははっきりわかっていなかったけど――自分の気持ちに気付いちゃったから、その……」
胸が苦しくて、どうにかなってしまいそうなの――そういって、ことさら紅潮していく頬を隠すように、手で顔を覆う。それでも離されないもう一方の手が、愛おしい。
「そこまで想われているとはな。嬉しい限りだ」
本当に、そう思う。なんだか妙に照れ臭くなってくる。自分はこんな性質だったろうか。
妻の表情を勿体無く隠している手の甲を一度撫で、するりと細い手首を掴む。ゆっくりと気遣いながら寝台へとそれを縫い付けると、切なげに千尋が吐息を漏らした。
「ね、アシュヴィン」
「なんだ?」
「もう一度……言って?」
千尋は、「何を」とは言わない。アシュヴィンは、「何を」とは問わない。
こんなとき、欲しいと望まれる言葉はひとつだけだからだ。
だけれど、振り回しているようですっかり千尋に調子を狂わされているのがなんだか癪で、求められるままにそれを口にするのは勿体無い。
ここはひとつ彼女からの想いの証も欲しいところ。
「だめ、かな?」
反応のないアシュヴィンに不安にかられたのか、千尋が目を伏せる。慌てて――もちろんそんな心の内は微塵もみせず、不敵に笑う。
「そうだな。無論、断る理由などないが……では、お前は何をくれる?」
アシュヴィンの言葉が思ってもみないものだったのか、きょとんと千尋が目を瞬く。
「俺にだってお前のように恥ずかしいという思いはあるんだがな。俺にばかり言わせるのは不公平だろう? 奥方からの誠意ある対応をみせてほしいところなんだが」
うーん、と千尋が眉を潜めて遠い目をする。何をどうしたら、アシュヴィンが満足してくれるのか。いろいろと考えを巡らせているようだ。
どういう結果を出してくれるのか、僅かに心浮き立たせて待つ。千尋はなんと言葉を返してくれるのだろう。
しばしの後、ちらちらと困惑の光がよぎる青い瞳が、真っ直ぐにアシュヴィンの赤い瞳を捕らえた。
「あの、どうしたらいいかな? 考えても、どうするのが一番なのかわからなくて……だから、教えてほしいの。アシュヴィンは私にどうしてほしい? 私、なんでもするわ」
かつて、扉越しにアシュヴィンが願ったように、千尋はその心を教えて欲しいと願ってくる。貴方のことが知りたいのだと、貴方の傍に少しでも近づきたいと、その瞳が訴えている。
なんでもする、なんて。とても大胆なことを口にしたことに気付いているのか、いないのか。いや、ただひたすらにアシュヴィンの願いを叶えたいと真摯に思っているのだろう。その純粋さが羨ましくもあり、恐ろしくもある。
好意を持った相手に、ここまであけすけにすべてを預けられるなど、どういう育て方をされたのか。
己と同じく青龍に選ばれた片割れの、のほほんとした笑顔を思い出す。
……ありがたいような、腹の立つような。
ふと湧き上がったそんな複雑な気持ちを振り払い、アシュヴィンは艶美に微笑んだ。そのわかりやすい男の色気に、ふわりと千尋の眦が染まる。せわしなく睫がはばたき、その長い影が儚げに頬の上で揺れている。
細い体を押しつぶさぬように配慮しながら顔を寄せ、その小さな耳に囁く。
「ならば、麗しい奥方の可憐な唇で口付けてもらおうか」
「!」
驚きに詰まった声が予想通り過ぎて、くすくすとアシュヴィンは偲び笑う。だが、逃がすつもりはない。恋人同士という期間を、一足飛びに越えて夫婦となった自分たちに、これくらいの甘い時間は、きっと許されるはずだから。
「なんでもするといっただろう。あれは嘘か?」
「うう……そうだけど、言ったけど……!」
顔を離し、上からじっと見下ろせば千尋が唇を尖らせた。からかっているの? と、問う小さな声に、本気だと返す。それに、肺の奥から何もかも吐き出すような深い溜息が応えた。
「――アシュヴィンの、いじわる」
絶対、私の反応を楽しんでる――と、ぶつぶつと零す千尋の首筋に、鼻先を押し付けて笑う。千尋は、くすぐったそうに身体を捩った。
「ははは! 知らなかったのか? ならばこれでひとつ賢くなったな、奥方殿」
楽しげにそう言って、唸る千尋を優しく引き寄せて起こし、膝の上に座らせる。
ほら、と軽く目を閉じて顔を寄せると観念したように、千尋がアシュヴィンの肩に震える手を置いた。訪れる甘美な瞬間を思い描くだけでで、アシュヴィンの胸の奥が熱く疼いた。
もどかしいほどの速度で近づいてくる唇が、触れるのをただひたすら待つ。
ようやくここまで追い詰めた獲物が、この手に落ちるのはもう、すぐだ。
いや。
追い詰められているのはむしろアシュヴィンのほうだ。
理性のぎりぎりの場所で綱渡りさせられているような焦燥感は、これまで常に身体の奥底で燻っていた。
今すぐ抱き締めて、口付けて。その身を貪りたいという欲に捕まらないように、逃げ続けていた。それは解き放たれる日を待ち焦がれた、気が遠くなるような忍耐の日々だった。
よく、こらえたものだ。
近づいてくる千尋を狭い視界でみつめながら、心底そう思う。
こんなにも美しい黄金の毛並みの獲物を前に、鋭い牙を突き立てることも、爪で裂くこともなく――ただ懐で守っていただけなど、これまでの自分では考えられない。獲物は散らすだけ散らして、振り返ることはなかったから。それはいっときの空腹を紛らわせるための、本能的なものにすぎなかった。
だがこの獲物は別だ。愛しくてたまらない。大事にしたいと柄にもなく思う。
その気持ちが静かな水面に美しい波紋を描くように、心にくすぐったい心地よさを生み出す。その感覚は、悪くない。
ぼんやりとそんなことを考えていれば、ようやく吐息が交じり合う。それを合図として視覚をすべて塞いでしまえば、わかるのは音とこの身に触れる感覚だけとなる。
そうして、焦らしているのかと疑いたくなるほどゆっくりと落とされた唇を、アシュヴィンはしっかりと受け止めた。
しかしそれは、熱を分け合う前にするりと離れていってしまう。
千尋から与えられた初めての口付けは、些か物足りないが。今は、これで十分。むこうから愛してもらうのは、そのうちでいい。
余韻を味わうようにゆっくりと目を開ける。
己の膝上で、もじもじと所在なさげに指をすり合せている可愛い生き物を、さて、どうしてくれようか。
なにはともあれ、彼女の望んだ言葉を囁こう。
融けてしまいそうなほど身体を火照らせた千尋を、柔らかな絹で覆われた寝台へと優しく組み敷き、アシュヴィンは口元に笑みを刻んだ。
「さあ、覚悟はできたか? 奥方からの口付けに、夫として報いねばな。これから、じっくりと教えてやる」
俺がどんなに千尋を――愛しているのかを。
吐息を零した千尋が、望む言葉に身を包まれてふわりと微笑む。目尻に浮かぶ涙は悲しみではなく、喜びの色を帯びて煌めく。
「好きよ……アシュヴィン……」
そして。
落とされたか細い肯定の響きまで食らうように、アシュヴィンは千尋をかき擁いた。