花嫁は翡翠に誓う

 こんな日が来るなんて。
 異世界で暮らしていたときには考えもしなかったと、千尋はぼんやりと思った。
 あの頃は自分の気持ちなんて、知らなかったのだから仕方ないのだけれど。
 采女たちも退出して静かになった花嫁の控え室で、なんだかふわふわした気分をもてあまし、千尋は小さく息をついた。心の内で渦巻く想いが次々と零れる。もう抱えられそうにない。なんだか、幸せすぎて夢のよう。
「私、那岐と結婚するんだよね……」
 確認するようにそう言葉にすれば、大きな鏡に映る化粧を施された千尋の頬に朱が差していく。高鳴る胸がそれは真実だよ、と心地よい律動で教えてくれる。
 白い花嫁衣裳を纏い、数々の装飾品を身につけて、儀式までの静かに過ごす時間は、千尋に様々なことを思い起こさせた。

 那岐と風早と暮らしていた、穏やかな日々。
 二人が傍にいるのが当たり前で、ずっとそれは続いていくものだと思っていたあの頃。それはもう遠い、何も知らずに守られて平和に暮らしていた、決して戻ることのない自分の日常と信じていた時間だ。
 惜しくないといえば千尋は嘘をつくことになるだろう。だってあの日々は本当に幸せだったから。
 その生活が一変したのは、春の桜舞う夕暮れだった。
 中つ国と常世との戦いに身を投じてからも、那岐はずっと傍にいてくれた。姫と周囲に敬われるようになってからも、千尋を千尋として扱ってくれていた。
 一度も、姫と呼ぶことはなかった。
 それは、皆が望むような中つ国の二ノ姫でなく、千尋という女の子があの頃と変わらずに、確かにここにいることを教えてくれているようだった。どんなに嬉しかったか、きっと那岐は知らないだろう。
 人と深く関わることを拒むのに、那岐は面倒見のいいところがあるから結局いつも付き合ってくれた。そんな那岐に、これまでもずっと千尋は甘えていた。
 いつかの日、彼が見せた苦しむ姿に胸が痛んだ。どうしたのかと何度も何度も問うても、はぐらかされてかわされて。何も、話してくれなかった。そのことが悲しくて辛かった。
 どうしてそう思うのか心に問いかけたとき、己の胸でいつしか花開いていた想いが咲く先が、那岐なのだとその時初めて自覚した。
 ほうっておくことなんてできなくて、一生懸命追いかけた。
 伸ばした手と一緒に気持ちも振り払われてさえ、諦めることなんてできなかった。
 一人で何もかも決めて、手の届かない遠いところにいこうとする彼を繋ぎとめることに必死だった。
 楽しいことばかりではない思い出の中、最後に鮮やかに甦るのはあの海辺だ。
 禍日神を退け、那岐の心のかけらと出会い、そうして還った波の縁に立っていた自分を見つけてくれたときの、彼の姿を覚えている。
 泣きそうに揺れていた瞳と触れた温もり。そこから確かに伝わった想いも。

 今は、すべてが貴い記憶だ。

「なに、一人でにやにやしてるの」
「えっ」
 いつの間に来ていたのか。
 常日頃好んで着ているあっさりとした服装とは違う、豪奢な衣装を一分の隙も無く着こなした那岐が、開かれた扉にもたれかかるようにして立っていた。
 対になるように作られた衣装を纏っていることもすっかり忘れ、驚いて千尋は立ち上がった。その拍子に、この晴れの日のために誂えられた精緻な金細工が、しゃらしゃらと澄んだ音を立てる。
「那岐!」
 今まさに考えていた大切な人の顔を見られたことが嬉しくて、千尋は長い裾をぎこちなく捌いて那岐に駆け寄った。
 自分の意思とは関係なく、蕩けるような笑みを浮かべていることに、千尋は気付いていない。その笑顔をまともに受け取らざるを得なかった那岐の身体が、目にみえて強張る。
「っ……!」
 一瞬、息を詰まらせた那岐に千尋はきょとんと目を瞬かせた。
「どうしたの?」
「いや、うん……。なんだよ、ちょっとからかいにきただけだってのに……まったく」
「? 意味がわかんないよ」
 言いたいことがわからずに、疑問符を浮かべながら首を傾げる千尋に、那岐は小さく笑った。
 千尋の白い手を、那岐の長い指が捕らえる。壊れ物を扱うように優しく、それでいて決して離れないように、互いの指が絡み合わされる。
「綺麗だ、千尋」
「っ!」
 はにかんで言われた那岐の一言に、千尋の思考が沸騰した。那岐はあの日から千尋に対して、こんな風に飾りのない言葉で率直に感情を伝えるようになったけれど、まだ慣れない。
「あ、あの、そのっ……ありがとう……」
 慌てふためく千尋を優しく見つめる翠の瞳は、どこまでも深い情愛をたたえている。
 中つ国の王族たる那岐にふさわしいように、と仕立てられた衣装はこれ以上なく似合っていて、千尋の胸が早鐘を打つようにせわしない鼓動を刻む。
「那岐も……素敵だよ」
 眦を紅に染め上げて、照れて眉を下げて微笑む千尋の愛らしさは、幸福な花嫁だからこそできるもの。
 眩しそうに、目を細めた那岐がさらりと言う。
「本当なら、華燭の式まで顔をあわせちゃいけないらしいけどね」
 しれっとした那岐の言葉に、千尋は大きく目を見開いた。
「だ、大丈夫なの……?」
「大丈夫。ちゃんと身代わり置いてきたし、誰も来れないようにもしといたしね」
「え、ええ?」
 花婿の身代わりとは何なのか。誰も来ないように、とは一体何をしてきたのか。それを問う前に、那岐が動いた。
「それよりも」
 ぐっと腕を引かれ、小さな悲鳴とともに千尋は那岐の胸に落ちる。
「那岐、だめだよ、せっかく皆が綺麗にしてくれたのに……」
「いいだろ、すこしくらい」
 着崩れることを心配しての抗議など何処吹く風で、那岐はしっかりと千尋を抱き締める。
「もうっ」
「他のやつの目に触れる前に、花婿が花嫁の姿をみられないなんて理不尽。それに、式が始まったら、ゆっくりすることなんてできないだろ」
 すでに王位は千尋に譲ったものの、夫になる那岐は失われたはずの王族の血を引く者。妻となるのは先代女王の遺児であり、現女王たる千尋である。
 どちらも先の戦での功績は名高く、二人が結ばれることに不満を述べることができる者は誰もいなかった。むしろ積極的に周囲が動いたといってもいい。
 未だ情勢定まらぬところもある中つ国で、王族同士の婚姻により国が復興したことを強く印象付けることが出来る。龍の加護を受けた貴い血を引く二人が結ばれ、中つ国はさらなる栄光と発展を約束する磐石なる基礎を築いたのだと。
 ゆえに、催される式の盛大さは推して知るべし。
 お披露目かつこれからの中つ国への忠誠を新たにするため、地方から招かれた豪族や諸侯たちとの宴や謁見など、式以外でもやるべきことは多々ある。
「だから」
 軽い音を立て、那岐の口付けが紅を乗せた唇の端に落ちる。色が落ちないように、と配慮したのか。千尋には、それが何だか惜しかった。
「いまだけ。千尋を独占したいんだ」
さらり、と額にかかった髪が払いのけられる。
「ほんとは顔を見てすぐに戻ろうと思ってたんだけど。千尋が……あんまりにも可愛いから、悪いんだ」
「……あんなに、面倒だっていってたくせに」
「まあね。でも、千尋のこんな姿をみたくて我慢したんだから、ご褒美があってもいいだろ? ――本当に、綺麗だ」
 瞼の上に羽のように触れる那岐の薄い唇が、せつなそうな声を漏らす。その声があまりにも、自分への愛しさに溢れていて千尋の胸が締め付けられる。
「那岐……那岐、那岐……」
 力の抜けかけた腕を懸命に那岐の背へと回して、千尋は幾度もその名を囁いた。
 この幸せはあなたがくれるものなのだと、精一杯の心を込める。
「好き。那岐、大好き」
「僕もだよ、千尋」
 あの日のように互いの頬を触れ合わせ、溢れる想いに包まれる。
 千尋から那岐へ、那岐から千尋へ。それは枯れることの知らない泉のように、お互いを満たしていく。

「ずっと一緒だ」

 花婿から誓いの言葉が告げられる。
 名残惜しく思いながら頬を離せば、そこにはひどく幸せそうに笑う愛しい人。
 今この瞬間だけでなく、これからもこの美しい極上の翡翠が見つめ、微笑えみかけるのは花嫁である自分だけだといい。
 そう、思いながら応える。

「ずっと一緒よ」

 輝くように微笑んで、世界で一番美しい花嫁は誓う。
 ゆっくりと瞳を閉じてそっと額をあわせた二人の姿は、まるでそうあることが当然である一対の人形のように愛くるしい。
 この可憐な様を誰かの目に触れさせることを拒むがごとく、大気は静謐に沈黙を保っていた。

 

 その頃。
 土蜘蛛の青年のおかげで、鬼道で作られた影武者に早々に気付いた仲間たちの驚きや呆れの声が花婿の部屋に溢れていた。
 しかし、それは花嫁の控え室へ続く回廊に張られた強固な結界を越えられない。
 朱雀の加護を受けた片割れの、弾けるような笑い声が楽しげに遠く響いていた。