雨が降っている。
幾日も、しとしと降り続けるこの雫も、いつかはやむときがくることは知っている。しかしそれがいつになるのか、まったく予想できない。
千尋は静かな雨の日が苦手だった。何だか、切ない気持ちになる。ゆっくりと流れる時間の中に、誰かの姿を探したくなる。なぜそう思うのかわかないが、ふいにぼうっとすることがあるほどだ。
だから、こんな日は集中力がもたなくて、やる気さえ下降気味になってしまう。
それでも王としての執務がなくなるわけでもない。むしろこの雨は、穀物の実りに重要な灌漑の維持に必要だ。苦手などと言ってはいられない。
そういえば、ため池の水位はどれくらいになっているだろう。
そこまで考えて、千尋ははっとした。
息が詰まるような執務の中、唯一心身を休めることのできる休憩時間を自室で過ごしているというのに、王としての意識が抜けきらない。
気分転換に「自分でお茶くらい淹れたい」という千尋の要望に沿って用意された茶器に、常世の国の上物だとリブから貰った茶葉を入れながら、頭を小さく振った。
「職業病かも」
自嘲気味に笑いつつ流した視線の先、窓枠を額縁にした世界は雨の向こうで霞んでいる。
これを過ぎれば夏になる。異世界にいた頃には海水浴やキャンプなんて夏の風物詩に思いを馳せていた時期だ。
皆に声をかけたら、バーベキューくらいならばできるかもしれない。今度、提案するだけしてみようかな、と思っていたそのとき。
「神子?」
ふいにかけられたもの静かな声に、楽しい想像の世界へと旅立っていた意識が引き戻された。そのよく知った大切な人の声に、千尋は微笑んで振り返った。
「遠夜!」
「はいっても、いいか?」
長身に見合わぬ小動物のような仕草で、遠夜が扉を開けてこちらを見ている。
「うん、どうぞ! ちょうどお茶を淹れるところなの。一緒に飲もうよ」
招き入れると、嬉しそうに暁色の瞳を細め、千尋に近づいてくる。それだけで部屋の空気が、どこかまろやかになった気がした。
人になったことで土蜘蛛としての能力は失われてしまったというが、遠夜が纏う優しい雰囲気は何も変わらない。千尋は、彼の発するそんな穏やかさが好きだった。
「ここのところ、ずっとこんな雨だよね」
小さな机、それにあわせて作られた椅子のひとつに座るように促す。腰掛けた遠夜に、千尋は何気なく声をかけつつ手を動かす。
采女に用意してもらったお湯を注ぎ入れれば、急須の中から湯気と一緒に清涼感のある香りが湧き上がる。蒸らすために蓋をして、ふと視線をあげると遠夜が困ったように首を傾げていた。
「どうかしたのか、神子。悲しいのか?」
「え、そんなことないよ」
「だが……蒼瞳に翳りがある。光が、隠れて遠い」
「ちょっとだけ、こんな雨の日が苦手なだけだよ。大丈夫だから、心配しないで」
「そうか」
するり、と長い褐色の指が伸びてきて千尋の髪を梳いた。その心地よさに、千尋は子猫のように目を細める。
その憂鬱を拭い去るように、遠夜が穏やかに笑む。
「だが、雨は恵みだ。皆、喜びに溢れている。命は、水とともに生きているから」
「……うん、そうだね。わかるような気がする」
新緑の瑞々しい緑をたたえていた山は色濃く萌え、野原は青草の海となった。
穀物は水の恵みを蓄え、陽の光を浴びれば驚くほどの速度で空へと向って伸びていくだろう。やがてそれらは大いなる実りとなり、他の命の源となる。
「せっかく戦が終わったんだもの。豊葦原も常世も豊作になればいいよね」
「神子が願えば、必ず叶う。神子の祈りは日輪のように、あまねく豊葦原へと降り注ぐ光となる」
「そ、そうかな」
「ああ」
遠夜がそういえば、本当にそうなるような気がする。素直に伝えられる言葉は、そのまますとんと心に届く。疑いのもちようも無いほどに純粋すぎて、受け取った側が戸惑ってしまう。
気恥ずかしさに目を伏せながら、千尋は急須から揃いの湯のみへと茶を注ぐ。丁度いい頃合いだったようで、白い器の中には赤みを帯びた茶がゆったりとたゆたっていた。立ち上る香気が、部屋を満たしていく。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
我ながら上手く淹れられたと自画自賛しつつ、遠夜へ湯のみを差し出す。
貰った湯のみを机の上に置いて、真剣にその様子を見つめる遠夜に、千尋はあっと口に手をやった。
そういえば。
「ごめん、遠夜って猫舌だったね」
こくり、と遠夜が頷いた。
「神子が謝ることはない。少しだけ、待てばいい」
ゆらゆらと漂う湯気の向こうで、ほんのりと微笑を浮かべ相変わらずじーっと湯のみを見ている。たとえが悪いかもしれないが、なんだかお預けを言いつけられた大型犬のようで可愛い。
くすくすと千尋が小さく声を転がすと、遠夜が不思議そうに首を傾げた。
「?」
「ううん、なんでもないの」
千尋は遠夜と対面する椅子に腰掛けて、ふわりと笑った。己の湯のみに口をつけることはせず、遠夜をみつめる。
こうして彼が来てくれたことで、随分と肩の力が抜けたと千尋は自覚していた。
この降りしきる雨が命を育む恵みであるように、遠夜は自分にとっての精気を養う命の水なのだ。
だって、傍にいてくれるだけで、こんなにも心が潤う。精神が穏やかさを取り戻していく。まるで、静かな泉のほとりで何も考えず何にも追われず、ゆったりと時間を過ごしているようだ。
この人のためにも、お仕事頑張ろう――そう思った瞬間、ふっと千尋の記憶が懐かしいという感覚を呼び起こした。
……遠い昔にも、こんな風に「彼」と過ごしたことがなかっただろうか。
あの時は、「彼」が一族に伝わるという煎じ薬に似た飲み物を作ってくれた。
二人で話しをしながら冷めるのを待っていた。
命を賭して輝血の大蛇との戦に挑む厳しい日々の中で、それは切り取られたように静かな時間だった。「彼」は凍え挫けそうな心を癒してくれた。
たくさんたくさん、話をした。
たくさんたくさん、想いを交わした。
そうして気付いたら杯は冷めきってしまっていて、話に夢中になっていた「彼」と顔を見あわせた苦笑した。
穏やかに流れる時間の裏で、これが終わってしまうことをひどく恐れていた。
「私」は、こんな穏やかで幸福な時間がもう訪れることがないことを、予感していたのかもしれない。
そんな「私」に、「彼」はなんと言っていただろう。
降りしきる雨の音の向こうに溶けていった言葉が、思い出せない。
そう――あの日も、雨だった。
「神子?」
ぱちん、と泡沫が弾けたように、意識が過去の幻影を振り払って戻ってくる。目映い光に目が焼かれたときの感覚似た眩暈に、千尋は指先を額に当てて俯いた。
その様子に驚いたのか、遠夜が目を見開いて椅子から立ち上がる。慌てて千尋の傍に寄り添って、膝をついて覗き込む。
そっと、大きな掌が柔らかな白い頬に当てられる。
「大丈夫か? どこか、痛むのか?」
「だい、じょうぶ……」
痛む胸を抑えて、嘘をつく。だって、これはどうにもならないものだ。
膨大な時の向こうに流され失われたあの日を恋しく想い、はじまりの神子の心が溢れてしまっただけ。
どうして、気付かなかったのだろう。
「私」は灰青に烟る雨の日に、ずっと「彼」を探していたんだ――
何も言わない千尋に遠夜がそっと目を伏せる。長い睫が小刻みに震える。
「神子、オレには話せない? その苦しみを、オレは癒すことができない?」
「違うの。病気とか、そういうのではなくて……急に昔のことを思い出したから、びっくりしちゃって」
驚いたように、ゆっくりと大きく瞬く遠夜の瞳と視線をあわせ、千尋は添えられた優しい手に己のそれを重ねた。
「遠夜と――月読の君と、今日のような雨の日にお茶をしたこと、あったでしょう?」
「ああ、覚えている」
幸せな、時間だった。
そう続けて、遠夜は目を伏せた。儚げに微笑む瞳の奥で光が揺らめくのは、さきほどの千尋と同じように思いを馳せているからだろうか。
「ずっと気がかりだった。どうしてこんなに、心がざわめくのかわからなかった。ふとした瞬間に、過ぎる面影が誰なのか全然……わからなかった」
そっと、遠夜の手のひらに頬をすり寄せる。
「あれは、あなただったんだね」
湧き上がる懐古の念を、柔らかな吐息と一緒に身の内から送り出す。
「神子」
静かであるのに強い想いが秘められた声に促され、千尋は遠夜の肩に顔を埋めた。衣から漂う薬草の香りを胸いっぱいに吸い込めば、大波のように揺れる心が凪いでいった。
優しく千尋の背を撫でながら、遠夜は言葉を重ねる。
「たとえ、おまえの記憶が時の果てに色褪せて霞んでいても、オレがすべて覚えている」
ゆったりと身を包む遠夜の腕は優しいのに、きつく抱き締められたように息が苦しくて、千尋は喘ぐ。開けた視界の先にある遠夜の慈しみに溢れた瞳に、涙が零れそうになる。
「オレが神子の記憶だ。おまえが求めてくれるなら、いつでも語り部になる。身も心も、古より今このときまですべてのオレが、おまえのものだから」
千尋の顔を覗き込んで遠夜が笑う。
「神子……オレの吾妹。泣かないで。どうか、笑顔をみせて欲しい。オレはおまえの笑顔が、一番好きだ」
――笑って。私はあなたの笑顔が、一番好きだ。
遠夜の声と姿に、「彼」が重なる。それは思い出したかった言葉と笑顔。
「……『あなた』が、そういってくれるなら、いくらでも」
雨に霞む世界の片隅、まさに可憐な花が咲き綻ぶような、そんな清らかさで千尋は笑う。
彼の願いを叶えることは、千尋にとっても幸福なことだ。千尋も遠夜の笑顔が、なによりも愛しい。ならば、最高の笑顔を届けてみせよう。
「その輝きは、オレを導く光だ。もう、決して失わせない」
僅かに色づいた息を零して擦り寄ってくる遠夜の身体を、ぎゅっと抱き締める。
「これからは、憂いよりもずっと、鮮やかに彩られた喜びの時を重ねよう」
「うん。二人で、ね」
服越しに、じんわりと互いの熱が溶けてひとつになってゆく。その心地よさがもたらす安堵に、千尋はうっとりと瞳を閉じた。
愛しい人の腕に身をゆだねながら、千尋は思う。
もう、雨の日に誰かを追い求めることは無いだろう。
探した人はここにいる。
そして、これからずっと――ともに未来へと歩み続けることができるのだから。