ごう、と強い風が吹き抜ける。
風よけになりそうなものなど、なにもないところを歩いているのだから、当然だ。
近道をしようと公園を突っ切ろうとしたのが、まずかった。
「ぎゃっ!」
重い買い物袋を手にひとつずつ提げた佐隈が、色気のない悲鳴をあげる。
煽られる細い身体が倒れぬように、ベルゼブブは手をだして肩甲骨の間あたりを支えてやる。
「あ、ありがとうございます」
ひとまず風がおさまり、なんとかバランスを持ち直した佐隈が、笑う。
「いいえ、どうしたしまして。間抜け女が無様に地べたへ転がるのはぜひとも拝見したいところですが、大切なカレーの材料をぶちまけられたら迷惑ですしね。お気になさらず」
「……ひとこと余計なんですよね、ベルゼブブさんって」
頬を引きつらせる佐隈に、ふん、とベルゼブブは鼻を鳴らした。
「まちがっちゃいねーだろうが、ビチグソ」
「うわ、もう『女』もつけなくなってきた」
片手に小さな買い物袋を持つベルゼブブに、佐隈が顔をしかめて「サイテーだ」と小さく零した。
だが、すぐに気持ちを切り替えたのか、表情をいつものに戻して口を開く。
「こんなこと言っててもしかたありません。早く帰りましょう。風が強いのは、低気圧が近いせいらしいですし、下手したら雨が降り出すかも」
「そうですね」
二人一緒に、空を見上げる。白と灰色の雲、その合間に抜けるような夏の空。ざわざわと、公園内の木々が踊る。
上空は風が強いらしく、雲はかなりの速度で移動している。近く、嵐が到来することを感じさせるにはじゅうぶんな空模様だった。
と。さらりとなびくものが、ベルゼブブの視界の端を横切った。
「おや」
その源をなんとなく追いかけたベルゼブブは、ちょいちょいと佐隈の肩をたたいた。
「どうかしましたか?」
どうやら気づいていないらしい。
「さくまさん。髪がこぼれていますよ」
「え」
ベルゼブブは、佐隈がまとめている髪が乱れていることを指摘した。
佐隈は、ここ最近の暑さのためか、高い位置で結い上げるような髪型をしていることが多い。今日もそのスタイルなのだが、右側うなじから、はらりと髪がこぼれてしまっている。
「ええ~、困ったなあ」
さっきの強風のせいかな、といいながら、佐隈はなんとかそこを見ようとしている。その動きは、自分の尾を追いかける子犬のよう。
というか、できるわけねーだろ、馬鹿め。そう、ベルゼブブが内心であざ笑ったとき。
そうだ! と佐隈がベルゼブブを見つめた。
「ベルゼブブさん、直してもらえませんか?」
「カレーだ」
即座に、ベルゼブブは行為の代価を要求した。問いかけの返答ではないベルゼブブの台詞に、佐隈が目を瞬かせる。
「はい?」
「だから、カレーだっていってんだよ、バァカ。この私に、小間使いがするようなことをさせるのですから、これまでにないカレーを寄越すと誓え」
淡々と、だが有無を言わさぬよう詰め寄ると、佐隈がのけぞった。
「そ、そうですね……えっと、あ、納豆カレーなんてどうですか? 前、食べたいっていってましたよね。アザゼルさんが嫌がったから作りませんでしたけど……それでどうですか?」
「!!!」
ブブブ、とさらにせわしく、ベルゼブブは羽を震わせた。ぱあ、と世界全体が薔薇色に染まったような錯覚に陥る。
「ええ、ええ、クソ女にしては上出来です!」
よし、やってやんぜ! と、手にもっていた買い物袋を佐隈に渡す。
「じゃあ、それで。ベルゼブブさん、お願いします」
ベルゼブブの嬉しげな様子がつぼにはいったのか、くすくすと佐隈が笑って背を向けた。
上機嫌に近寄って、手を伸ばして。はたとベルゼブブは固まった。
と、いうか。
「いいんですか? 触っても」
本当にいいのか、と重ねて問う。わずかに顔を後ろに向けた佐隈が、当然、といった瞳をしている。
「今、鏡ないですし、ベルゼブブさんにやってもらったほうがいいと思ったんですけど、やっぱりだめですか?」
「いえ、そういうわけではなく」
悪魔に髪をいとも容易くを触れさせていいのかと問うているのに。この様子では、ほんとうの意味をわかっていないのだろう。
だが、それを忠告してやる必要もないか、とベルゼブブは考え直した。風とひらひら遊ぶ髪を捕まえる。
「あなた、悪魔使いとしてなってないですねえ」
「えっと、どういうことでしょう?」
おくれ髪をとめるためのピンをはずす。その拍子に落ちてきたものとまとめて、うなじに髪がかからないよう持ち上げる。
「悪魔使いの髪は、非常に大切なものなのですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、アクタベ氏からきいておられませんかな? 気をつけるように、と」
す、と束ねなおした部分が落ちない位置へと、ピンを差し入れる。
「……く、くわしく教えてくれますか……?」
さすがにここまで言えば、不安になったらしい。
髪が落ちてこないことを確認し、満足したように息をついたあと、ベルゼブブは佐隈の正面へと飛んだ。
佐隈に預けていた荷物を再び受け取り、並んで歩き出す。いや、ベルゼブブは飛んでいるのだが。
「馬鹿なさくまさんに教えてさしあげましょう」
そう前置きして、ベルゼブブは語りだす。
「端的にいうと、それを媒体にして、佐隈さんのことを知ることができます。いつ生まれたのか、どんなものを好物なのか、いつどんな病気をしたのか、月のものの周期、あとはそうですね……記憶に付随する感情の一部も、読み取れるでしょう。採ったばかり、という条件がつきますが」
「ええー!」
そんなことができるんですか?! と、青ざめた佐隈が、汚らわしいものをみるような目つきで肩をすくめ、一歩遠ざかる。
「っていうか、きも……。そんなの、ストーカーのやることじゃないですか」
「てめーのその顔のほうが、よっぽどキメェってんだよ、クソブス!」
ケッ、とベルゼブブは心底嫌そうな顔をしている佐隈をなじった。
「とにかく、髪を手に入れれば弱みをみつけることなんて容易いわけです。悪魔にそれを握られてしまうと、最悪の場合、命を落とすことになりかねません。思いつくところでいうと……そうですね、病気を再発させる呪いをかけたり、好きな食物のアレルギーを誘発させる呪いをかける、といったところでしょうか。よしんばそれを逃れられたとしても、脅しに使われれば、契約の立場が逆転しうることもある」
なるほど、と佐隈が神妙な顔つきで頷いた。そして、あれ? と眉を潜める。
「あ、でも、事務所にだって落ちてると思うんですけど、私の髪」
あれだけの時間を過ごす場所だ。髪の一本や二本落ちて当然。
そうくると思っていたベルゼブブは、肩をすくめて頭を振った。
「馬鹿ですねえ。触っていいという許可を持ち主から得なければ、そんなことできるわけないでしょう」
「そういうものなんですか? うーん……。でも、そういわれれば他人のキャッシュカードを拾ったところで、暗証番号ないとつかえないですもんね」
ひょいひょいと、公園出入り口の車止めの間をぬって、佐隈が道路にでる。ここを通ると事務所のビルの横にでられる。
「ええまあ、そうですけど……お金のことしか考えられないんですか、あなた……」
うんざりと、ベルゼブブは瞳を細めた。
金の亡者らしい理解の仕方だが、佐隈の言っていることは、概ね正しい。
ただ抜け落ちた髪を持っていったところで、意味はない。許可があってこそ、宿った情報を読み取ることができる。そこにかかっている錠をあけるための鍵が、持ち主の許可の言葉というわけだ。「私に触れていい」という、何気ないが、重い意味をもつ許可。
「とにかく、呪いをかけられた場合、強力なアミュレットを持つか、優秀な呪い返しの術者でも雇わなければ、確実に死ぬでしょうな」
「へー。確かに、預金全部おろされちゃったら死にますよね。そうなったら、すみやかに口座とめてもらうしか……」
関係ないような、だが彼女にとっては一番分かりやすいのだろう例えを、ブツブツと佐隈は呟いている。
友人であるアザゼルはゲスでゴミで悪魔らしいと常々思っているが、これほど守銭奴という名がふさわしい守銭奴も、なかなかいないだろう。
「だから、さっき訊いてくれたんですね。いいんですかって」
「……さくまさんは一応、契約主ですから」
一応、にことさらの力を込めていってみたが、佐隈には嫌味として通じなかった。
「まあ、ベルゼブブさんですし、そういう心配はしなくてもいいですよね」
「あなたねえ……」
はあああ、とベルゼブブは深く息をついた。
「どうしてそんなこといえるんですか」
ちら、と意味ありげに視線を送る。きょとん、と佐隈が目を瞬かせた。
「だって、ベルゼブブさんて最強なんですよね?」
それは、ベルゼブブが常に口にしていることだ。いまさらだ。
だが、佐隈がそれを認めているとは思っていなかった。
「……」
思わず黙り込んでしまったベルゼブブに、佐隈が微笑む。
「そういう悪魔が、そんなことするはずないじゃないですか」
あっけらかん、と佐隈はいった。
自尊心をくすぐるような、そんな言い方をされれば、プライドの高いベルゼブブは、首を縦に振らざるを得ない。意識してはいないだろうが、だからこそ、性質が悪い。
「――ま、確かにしませんな。私はアザゼル君とは違いますから」
「でしょう?」
昔、グリモアと呪文で吹き飛ばされたときには、殺してやると言葉にしたこともあった。だが、それはできれば自分の手で成し遂げたいとも思っていた。
呪いなんて陳腐なこと、このベルゼブブが頼るようなものじゃない。
だが、悪魔を悪魔と思っていない節がある佐隈には、少々仕置きが必要だとも、思う。
にこり、と笑うその顔を、みっともなく崩してやりたくなる。
ベルゼブブは、ニィ、と口元を歪めた。
「ですが、髪は他にも使いようがあるのですよ?」
「たとえば?」
前から走ってきた自転車を道の脇に寄って避けた佐隈が、なにげなしに尋ねてくる。
「恋のまじないに利用するとか、ですね」
「恋のまじない……?」
思ってもみなかったようで、佐隈が不思議そうに反芻する。
言葉の響きだけで、判断しているなと察したベルゼブブは、子供に言い聞かせるように手を振った。
「『恋のまじない』とはいっても、意中の相手の心を自分だけに向けさせる立派な『呪い』ですよ」
「ええと、女子中学生の間で流行るような、おまじないみたいな?」
佐隈が、小さく首を傾げる。
「そうですね、あれも立派な呪いです。対価を出して、結果を求めるわけですから。まあ、魔力もろくにない、大した対価も払うことができない、そんな乳臭い小娘どもがやったところで、目に見える効果なんてあるわけないですけれど」
歩く道の先で、下校途中の集団を、佐隈とベルゼブブはともに眺めた。きゃっきゃと笑いさざめきながら街を行く女子中学生。
「ああ、小指の爪を切っちゃいけないとか、消しゴムに名前書いて使い切るとか……そういうのも、対価になるんだ……」
ふむふむと佐隈が頷く。
「ところで、さくまさん。これ、なんでしょうねぇ?」
ベルゼブブは手を差し出した。そこには、髪が一本。艶やかなこげ茶色をしているそれが、ふわりと風に揺れた。
それをみて、佐隈がぎょっと顔色を変えた。その変化に、ベルゼブブはにやにやとした笑みが止まらない。
「あっ!? わ、私の髪?! さっきとったんですか?!」
「ええ、頂戴いたしました」
そういって、ベルゼブブは佐隈の頭上へと飛び上がる。
「ちょ、ちょっともー! そういうこと、しないんじゃなかったんですか?!」
荷物を片手にまとめ、とりかえそうと佐隈が懸命に手を伸ばしてくる。嘲笑うようにそれを避けながら、ベルゼブブは言う。
「私たち悪魔は、契約主たるあなたの危害を加えることはできません。ですが、逆にいうなら、危害でなければ何かしらは加えられるということでもある」
だが、心そのものを、呪いで変えることはできないだろう。サラマンダーの職能と同じようなものだ。
しかし、感覚はどうだろう。さりげない日常のひとつひとつが、かけがえのないものにみえるようになったら? それが特定の相手の行動や言葉であったなら?
人の心は、もろく、うつろいやすいもの。
にい、と佐隈を見下ろしながら、ベルゼブブは嗤う。
「さくまさん――恋の呪い、かけてさしあげましょうか?」
懸命にベルゼブブを追いかけていた佐隈が、ぴたりと動かなくなる。目を大きくして、止まっている。
だがそれも、一瞬だけ。
ほ~っと、手を落とし、肩と落として安堵するさまに、ベルゼブブは戸惑った。もっとこう、拒否するか焦る姿を想像していたのに。
「はー、なんだ、そっちのことですか。びっくりした。預金に手を出されるのかと思っちゃったじゃないですか、もう!」
顔は険しいけれど、「怒っている」「恐怖している」とはまた違う――心底「あきれた」ようなもの。
逆に、ベルゼブブには焦燥感が募る。
「おやおや、余裕ですね。魔界には優秀な呪術使いの悪魔がいるんですよ。ベルゼブブの名と財をもってすれば、すぐにでも依頼できる」
ひらひらと髪を見せつけながら、焦りを微塵もみせず、たたみかける。
「はいはい。好きにしてください」
「?!?!」
衝撃に、ピギッ、と勝手に声が漏れた。ベルゼブブの様子をよそに、荷物を持ち直して、佐隈が歩き出す。
「さ、さくまさん、あなたわかっているんですか?!」
あまりにもどうでもよいといわんばかりの姿に、さすがのベルゼブブも声を荒げた。
「これを使えば、あなたの心を思いのままにできるって言ってるんですよ?!」
歩く佐隈の前にまわりこんで、呪いの媒体を突きつける。
「だって、どうせ効かないですもん、そんな呪い」
「ハァァァ?!?!」
秘薬を駆使した全力の呪いを放っても、片手で弾き飛ばした芥辺でもあるまいし、なにをいっているんだ、この女!
がくんと顎をはずすくらいに、口をあけたベルゼブブに対し、つんと澄まして鼻を持ち上げながら、佐隈は言う。
「だって、ベルゼブブさんの言う恋の呪いって、私の心をベルゼブブさんに向くように仕向けるってことですよね。今回『許可』をしたのはベルゼブブさんに対してだけですし……、だったらやっぱり、効果なんてないですよ」
「そのちっさい脳みそには想像力の欠片もねーのか?! テメェがこのベルゼブ様にメロメロになるんだよ! いつもグリモアがあることをかさにきて好き勝手してるけどなァ、そうなったら地獄みせてやんぜぇぇ!」
ピギャァァ、と奇声交じりにそういってみるものの、佐隈は恐怖を感じていないらしく、逆に鼻で笑われた。
「そんなこと、できないくせに」
「んなにぃッ?! ……ッ、」
今すぐ地べたに這い蹲らせてやろうかと思ったら、すっと、佐隈の手が伸ばされた。さきほどみたいな、とりかえそうという気配がないせいで、ベルゼブブはそれを避けることができなかった。
細く女らしい華奢な手が、ベルゼブブに触れる。その絶妙さに、ぞわわと、全身を覆う白い羽毛が逆立つ。
「大体、」
優しく、愛しそうに、指はベルゼブブの存在を辿り――そして、名残惜しげに離れた。
「いまさらそんなことされたって、ほんとうに、意味ないんですよ」
静かな声が、告げる。
眼鏡の奥で柔らかに和む瞳が、わかるでしょう? と、問いかける。
ベルゼブブが息を飲んだ瞬間に、ふい、と佐隈は顔を背けた。
そして、「よっこいしょ」と色気もなにもない掛け声をかけて、佐隈はビルの階段を上がっていく。
いつの間にか、事務所がはいっているビル前まで来ていたことを、ベルゼブブはぼんやりと理解した。
呆然としている間に、佐隈の姿は見えなくなる。
「……ピギィィ……」
やられた。
ベルゼブブは、くちばしをすり合わせる。きっと今自分は、苦虫を噛み潰したような顔をしているに違いない。
確かに、佐隈に恋の呪いは効かないだろう。
あんな風に自分を瞳に映す女には――意味はない。すでに魅了されているものに、そんな呪いをかけても、意味はない。
ああ、ああ、ほんとはわかってたよ! ちょーっとからかいたかっただけだっていうのに、可愛げのねえ女だよ、っとによォ!
ぎりぎりと、してやられたような気分に陥り、一人身悶え悔しがっていると。
「ベルゼブブさーん、ほら、はやくー! お夕飯に間に合わないと、アクタベさんに怒られちゃいますよー?! さぼってるっていいつけちゃいますよー?!」
階段上から聞こえてくる佐隈の声に、ベルゼブブは我に返った。
「やめんかこのクッソバカタレ女ァァァ!!」
ぽい、と手にした佐隈の髪を放り捨て、ベルゼブブは飛ぶ。
もし。
自分の髪を媒体に、彼女が恋の呪いを自分にかけたとしたら――きっと同じように、効果はないのだろうと思いながら。