千年の約束

「あれ……?」
 所長である芥辺は、悪魔を連れて外出中。
 頼まれた仕事をこなし、余った時間で黙々とグリモアを読んでいた佐隈があげた小さな驚きの声が、事務所内に響いて消えた。
「どうしました、さくまさん」
 ソファでカレー特集の雑誌を読んでいたベルゼブブは、手にしたそれを閉じながら問うた。背の羽を震わせて浮かび上がりつつ、顔をそちらへと向ける。
 回転椅子を軽やかに回し、こちらを向いた佐隈と視線が絡む。
「ベルゼブブさんとの契約って、一年でしたっけ? もう少しできれちゃいそうなんですけど」
 大きな瞳をさらに大きくして、佐隈がそんなことをいうものだから、ベルゼブブは肩をすくめた。まあ、ペンギンのような姿に変えられているのだから、あまり様にならないのだが。
 だが、そうか。あの日から、まもなく一年になるのか。
 そう考えれば、妙に感慨深い。
「さくまさん、あなた今頃気づいたんですか? というか、初めて会ったとき、そういう話で契約結んだでしょう? 一年の契約で、必要に応じて契約期間を延ばす、と」
 はじめて召喚されたときのことを思い出す。
 薄暗い部屋。床に描かれた魔法陣。
 呼び出した芥辺の、その向こうにいた、佐隈。
 職能を欲する他の悪魔使いに召喚されたこともあったが、まさかあんな姿を人間に晒すことになるとは思いもしなかったものだ。まあ、飛べない鳥に酷似した姿であったのは幸いか。
「そういわれればそうだったかも……」
 うむむ、と佐隈が顎に手をあてて考え込む。人間の世界でも、優秀といわれる大学に通っているのにこの程度。
「それくらいのことも覚えていられないとは、じつに愚かですねぇ」
 呆れ果てて手を振れば、佐隈は嫌そうに目を細める。
「そんなこといったって、あのときは正直なにがなんだかよくわかってなかったんですもん。アザゼルさんのときだって、勝手に契約譲渡なんてされちゃって」
「それはあなたが甘いだけですよ。だいたい、アクタベ氏の胡散くささ、強引さ、さらにいえば性格の悪さなどは、悪魔使い云々を差し引いても、少し一緒に仕事をすればわかったでしょうに」
 ブブブ、と羽音を引きずりながら、ベルゼブブは佐隈のもとへと飛ぶ。芥辺がいないからこその言いたい放題な台詞だったが、内容自体に文句はないらしく、佐隈が苦笑した。
「だって、こんなにかかわりあいになるなんて思ってなかったんですもん。ちゃんとお給料さえいただければ、私としてはよかったわけですし」
 この守銭奴め。
 でかかった言葉を、ベルゼブブはため息にかえた。
「ま、おかげで私はさくまさんのカレーをいただけるようになったわけですし、その一点だけはアクタベ氏に感謝してもいいくらいです」
「カレーだけですか?」
「うぬぼれんな、ビチグソ女」
 悪態をつきながら、ベルセブブは佐隈の膝のうえに腰を落ち着けた。この場所の居心地のよさを、一年前は知らなかった。
「はいはい。ほんとにもー、口が悪いんですから」
 そういいながら、佐隈がその細い腕を、ベルゼブブのの身体に回す。
 その柔らかな感触に包まれたまま、ベルゼブブは首をひねって佐隈を見上げた。
「さて、さくまさん。私との契約、更新しますか?」
「そうですね……」
 んー、と佐隈は考え込む。その姿に、わずかな苛立ちを覚えた。
 それくらいすぐに判断すればいい。何を迷う必要があるのか。
「ちなみに、契約を更新しなかった場合、どうなりますか」
 今度は、ベルゼブブが考える番だった。だがそれも一瞬だ。想定される事態は、言葉となって、すらすらと口から滑り出す。
「それはもちろん、グリモアを通じた悪魔使いと悪魔との絆ともいえる繋がりはそこでおしまいになりますね。悪魔は自由の身となり、悪魔使いはその職能を行使する権限を失います。グリモアが新たな悪魔使いの手へと渡り、そこで契約をすることも十分にありえることです。それでも契約を結ぶことは可能ですが……まあ、まともな悪魔使いであれば、リスクのある行為はしないでしょうな。グリモアなしでの契約の恐ろしさは、さくまさんも、いやというほどおわかりでしょう?」
 数々の事件で、悪魔とかかわり、人ですらなくなったものたちのことを思い出したのか、佐隈が神妙な顔で頷く。
「で、どうです? それらを踏まえて、私と契約更新しますか? 私は優秀ですし、さくまさんにとっても悪い話ではないと思いますがね」
「はい。決めました」
 決意したように、佐隈が再び頷く。
 最初から素直にそういえばいいんだよ、と内心ベルゼブブがほくそ笑んだとき。
「じゃあ、アクタベさんに契約譲渡します」
「って、待てやこのクソタレ女ァァァ!」
 さらっといわれた言葉に、反射的にベルゼブブは飛び上がった。佐隈の膝は惜しいけれど、それどころではない。
「そ、そん、そんな恐ろしいことをなんでさらっといえんだ、このブス!」
 さー、と血の気が引いていく。芥辺に使役される地獄のような日々を想像するだけで、気が遠くなる。
 というか、ベルゼブブの人生が本気で終わる。
 以前のアザゼルのように、芥辺と数百年単位で契約なんてことになったら――!
 ぎゃあぎゃあと、必死になって考え直せと詰め寄ると、佐隈が顔をしかめてそっぽを向いた。
「うるさいですねえ。っていうか、ベルゼブブさん息臭いです。あまり近づかないでくれます?」
 佐隈が鼻をつまみながら、手近にある消臭剤に、もう片方の手を伸ばす。
「ふざけんじゃねぇぇ! 人の話を聞きやがれ! てめーみてぇなマンカ……ゲフ、オフッ!」
 仰け反って月に吼えるように叫び声をあげると、シュッシュッと消臭剤が容赦なく吹き付けられた。思いっきり吸い込んでしまったベルゼブブは、当然だが、むせた。
「だって、ベルゼブブさんて、あれ食べるじゃないですか」
 冷たい声ですっぱりとベルゼブブを切り捨てながら、攻撃を同時に繰り出す佐隈に一年前の初心者悪魔使いの面影は欠片もない。
「ちょ、やめ……ゴフッ」
 服が湿り気を帯びるほどに消臭剤をあびせられて、へろへろとベルゼブブは床に落ちた。飲まされるくらいの勢いで入り込んだ薬剤が、喉をひりひりと焼く。
「人の高尚な趣味を馬鹿にすんじゃねえぇぇぇぇ!」
 それでも、怒りのままにベルゼブブは両手を床に叩きつけながら、叫んだ。ばしばし、べしべしと、あらんかぎりの力で床を鳴らす。
 匂いが薄れ、ようやく満足したらしい佐隈は、回転椅子に腰掛けたまま、そんなベルゼブブを見下ろしている。
「だって、本当に臭いですし、たまに召喚したらえげつない匂いするし。ベルゼブブさんのために、これ、どれだけ買ってると思ってるんですか? それだけでも馬鹿にならない出費ですよ?」
 ぷらぷらと左右に振りながら、消臭剤の容器をみせつけられる。
「ピギィ……」
 ぎりぎりと、血がにじむような強さで、クチバシをかみ締める。そうだった。この福沢諭吉が印刷された紙が大好物の女は、少ない出費でも厭う奴だった。
「その点、アクタベさんならそういうところも力技でなんとかしそうですし。そうなればベルゼブブさんも、食べないように気を付けるようになるかもしれないでしょう?」
 ひっ、とベルゼブブは息を飲む。確かに、芥辺に「食うな」と言われたら――あの圧倒的な力をもって、そう命じられたら――やめざるをえない、かもしれない。
「この事務所にいる限りは、たまに貸してもらえることもあるでしょうし。今と大して変わらずに、アクタベさんの監視下にベルゼブブさんだけがはいるなんていいですよね!」
 うん、名案とさくまは自分の考えに頷いている。
 まずい。まずい! 実にまずい!
 芥辺と契約など、自分の人生が儚いものになること確定だ。たとえ氏との契約が切れたところで、人生を振り返ったときに、魂が抜けて真っ白に燃えつきそうな思い出なんていらない。
 違うのだ。自分はそういうことを望んでいるわけではなくて……!
「いえ、あの、その、だ、だからですね」
 床に立ち上がったベルゼブブは、佐隈の機嫌をとるように、手を伸ばした。
「その、私としましては、できればさくまさんと契約したいなー、と……」
 そのまま、よろめきながら飛んで近づく。
「へえ、ベルゼブブさんはそのほうがいいんですか。どうしてです?」
 その先で、懇願するような必死な響きを宿したベルゼブブの言葉を受けた佐隈が、にっこりと笑った。なんというか、悪い笑顔だ。
「……!」
 その顔に、ピンときた。
 このクソアマ! わかっててやってやがる!
 ぎりり、とベルゼブブは歯ぎしりした。
 理由なんて、いろいろある。
 カレーが、美味しい。
 膝の上が、心地いい。
 腕の中が、温かい。
 その笑顔が、言葉が――鮮やかに、ベルゼブブの記憶を占領する。
 グリモアでの制裁も、芥辺に似てきた言動も、苦々しく疎ましいことにはかわりはないが、そうしたいろいろなもの勘案しても、できることならずっと一緒にいたいと、この一年で思うようになっていた。離れるのは、惜しい。
 それは、つまり、そういうことだ。告げたことはないけれど、胸を融かすような、甘い感情のせいだ。
 だからといって、これこれこういう理由ですなんて、口が裂けてもいいたくなどない。そこは、悪魔というより、男の意地だった。
 加えるならば、佐隈ごとき処女に弄ばれるなどということも、ベルゼブブという高位悪魔であるプライドが許さない。
 だが、佐隈ではなく芥辺と契約というのは死んでも嫌だ。究極の選択だった。
 今でも十分に遊ばれているとはまったく気づかぬまま唸り続けるベルゼブブを、にこにこと眺めていた佐隈が、すっと手を伸ばしてきた。
 その指先が、ベルゼブブの頭と頬を撫でていく。
「まあ、いいですよ」
「え」
 まだ、自分は何もいっていないのに。
 かつて佐隈に眠そうな瞳といわれた目を、ベルゼブブは精一杯に開く。佐隈を正面から見据える。
「契約更新しましょう。ベルゼブブさん」
「……よいのですか?」
 おずおずと胸元で手を重ね、問う。
「ええ。寂しがり屋のベルゼブブさんのために、ずーっとそばにいてあげてもいいですよ?」
 にんまり、傲然と言われた言葉が理解できず、はたと固まったあと。
「ハアァァ?! ふざけたこといってんじゃねぇぞ! 誰が寂しがったよ、誰が! いつ一緒にいてくれなんて言ったよ?! 訂正しろやぁぁぁ!」
 見透かされたようで、ベルゼブブは猛烈に抗議した。焦りと怒りと、悔しさと。いろんな感情が胸の奥で混ざり合う。じたばたと空中で手足をばたつかせるが、佐隈はまったく気にした様子はない。
「じゃあ、契約は何年にします?」
「聞いてんのか、コラァ?!」
 うんうんと佐隈が頷く。いや、絶対きいてないだろ、このアマ。そこから始まる罵詈雑言を矢継ぎ早に叩き付けようとしたとき。
「とりあえず、千年くらいでいいですか?」
 そんなことを言った佐隈が、とびきりの笑顔を浮かべる。これまで、片手で数えられるくらいしか、ベルゼブブはそれをみたことがない。
「……!」
 驚いた。驚きすぎて、羽ばたきさえも忘れそうになった。
 佐隈には、驚かされてばかりだ。だけれど、それが嫌じゃないことにも、ベルゼブブはもう気付いていた。胸の奥にともった感情の名は認められずとも、それだけはもう認めていることだった。
「……千年て、あなた、そんなに長生きできるとでも思っているんですか」
 たかが人間の分際で。なんて大それたことを、なんていい笑顔で言うのだろう。
「どうにかなるんじゃないですか? っていうか、どうにかすればいいんですよ、それくらいのこと。あ、それとも千年じゃ短すぎますかね。そういえば、ベルゼブブさんて、何年くらい生きるんですか?」
「悪魔ですから、長いですよ。人が、何度生まれ変わっても、気が遠くなるほどの時間でしょう。人にとっては、長すぎる」
 それでもこの女は、いいというのだろうか。
 千年生きるなんて、それはもう人じゃない。人でなくなっても、いいのだろうか。
「そうですか。じゃあ、契約が切れそうになったら、またそのとき考えましょうね」
 あっさりと佐隈はいう。
「ほんとうにいいんですか」
 それで、後悔はしないのだろうか。
 言外の言葉を感じ取ったのか、佐隈が透明な表情を見せた。さきほどの笑顔とはまた違う。だが、美しかった。
「へんなこというんですね、ベルゼブブさん。悪魔なのに」
 そう、悪魔なら。
 自分の思い通りの展開になったことを、喜ぶべきだ。
 そして、それにわかってて乗ってくるこの人間の女が、愚かしくて、馬鹿で、それでいて、たまらなく『愛しい』のだから――
「――終わってんなァ」
 ぼんやりと感じていたものにふさわしい名をつけたベルゼブブは、自虐した。
 ほんとうに終わっている。たかだか人間の小娘に、こんなにほだされてしまった自分は、終わっている。
「何言ってるんですか、はじまったばっかりでしょう」
「まあ、そのとおりですけど」
 ベルゼブブの言葉を、額面通りに受け取ったのか、その裏も読んでいるのか、窺い知れない表情のまま、佐隈は言った。
「とりあえず、芥辺さんが帰ってきたら、やり方ききましょうね。間違えないようにしないと!」
 芥辺がきいたら、どんな顔をするだろう。それは少し見ものだと、ベルゼブブは口元を歪めた。
「とりあえず、はい」
「?」
 形よい、細く長い指――左手の小指が、差し出される。言いたいことがわからず、ベルゼブブが首を傾げると、佐隈もまた首を傾げた。
「指きりですよ、知りませんか」
「……私、指ないんですけれども」
 ひら、と自分の姿をみせつける。飛べない鳥の翼が、そこにある。そうでしたね、あはは、と佐隈が笑った。
「ほんっとに頭悪ぃな、てめーはよォ。ああ?! これじゃあ契約更新ができるかあやしいもんだな、オイ!」
「まあまあ、そう怒らないで。じゃあ、これで」
 ぎゅ、と佐隈がベルゼブブの手を握る。
 小さい。あったかい。やわらかな、手。
「約束ですよ、ベルゼブブさん」
「……約束ですよ。さくまさん」
 手が離れた瞬間、ベルゼブブはまた、佐隈の膝の上に座り込んだ。それを嫌がるでもなく、ただ黙って受け入れた佐隈は、デスクに向き直り、グリモアに視線を落とす。
 そうして、ぱら、ぱら、と。
 グリモアをめくる音が、静かに響きはじめる。
 自分の身体をいかようにも痛めつける厄介で忌々しいものだけれど、そうして佐隈がめくる間だけは、心地よい音を奏でるのものだと、ベルゼブブは目を閉じながらそれに聞き入る。
 ゆるゆると、時間は流れていく。

 

 

 

 

「そういえば、契約そろそろ切れそうなんですよ。とりあえず、また千年にしておきましたけど、よかったですよね? 優一さん」
 左手の薬指に、銀色の輝きを宿した女が、さらりとそんなことを訪ねてくる。
 同じものを左手の指のひとつに着けた男は、ひらりと寄越された契約書をざっと読み、いつかと同じように頷いた。
「そうですね。そのくらいでいいんじゃないですか、りん子さん」
 ふふ、と互いに顔を見合わせて笑う。
「「じゃあ、契約更新ということで」」
 声をあわせて確認をし、新たな契約書に二人は名を連ね、そして血の印を押した。

 

 それは、遠い遠い、未来における――とある悪魔使いと悪魔のお話。