ふたつの夢

「おわったわよ~。われながらいい仕事をしたと思うわ~」
 のんびりとした口調でそういいながら、アイリンが去っていく。
 それを夫婦で仲良く見送って、姿が道の向こうに消えた瞬間、サトは横をみあげた。同じく、隣に立っていたキリクもサトのほうを向いた。
 視線をあわせて、にやりと互いに笑いあう。
 次の瞬間、キリクに向かってサトは跳び上がった。しっかりとした首に腕を回せば、すぐに逞しい腕が、なんの不安も抱かせないくらいの力強さで腰にまわされる。
「キリクー! やったよ! 増築できたよ!」
 すごい? すごい? と満面の笑みで尋ねれば、キリクも同じように笑って頷く。
「おう! サト、おまえすげえよ!」
 抱き合ったまま、子供のようにぴょんぴょんとその場で跳ねる。
 自分たちの年齢を考えればみっともないかも、と思わないでもないが、嬉しいものは仕方がない。念願の増築だ。周囲に人もいないし問題ないだろう。
 小さな牧場を、自分の力で大きくすること。
 それが、村にやってきたばかりのサトの夢だった。
 仕事をしてお金を稼ぎながら、アイリンに依頼して畑を広げたり、水田を作ったり、養殖池を作ったり。そして、最後の仕上げに目指してきたのが、家の増築だ。
 そんな風に努力した結果、夢が叶った瞬間の、人間の高揚はなかなか止められるものではない。
 そういえば、自力で資金を貯めたいとキリクと話し合ったこともあったなぁ、と。ふとサトは思い出して笑った。
 自分も資金を出すと申し出てくれたことが、嬉しかった。でも、これは自分の夢だから自分で叶えたいのだと伝えたとき、ちょっと残念そうにしながらもキリクは理解してくれた。本当に嬉しかった。
「ほんと、よかったな!」
「ありがとう~!」
 にこにこと、自分のことのように喜んでくれる優しい夫を、サトはことさら強く抱きしめた。キリクと結婚して、本当によかった。
 しばらく喜び合ったあと、二人はわくわくとしながら我が家をみつめた。
「よし、早速みてみようぜ!」
「うん!」
 気持ちをふわつかせながら、キリクとぎゅっと手を握り締めあい、サトは扉へと一直線に向かった。そうして開け放った入り口からみえるリビングは、さして大きな変化はない。問題は、はいって右手側が増築された箇所である。
 足取り軽く家の中を横断していく。そして、つい先日までなかったはずの空間に足を踏み込み。
「うわぁ!」
「へえ、こうなったのか!」
 サトとキリクは、お互いに歓声をあげた。
 広い空間、新しくなったお手洗い、そしてなにより欲しかった浴室。
「家で風呂にはいれるようになるとは思わなかったぜ!」
 そういって、さっそくキリクが浴室へと突入していく。
 もわ、とあふれた湯気に歓声をあげている。どうやら、湯船の調子をみるためか、アイリンはお湯を沸かしてもみたらしい。
「おー、すごいな! 結構ひろいぞ!」
 子供のような行動に、くすくすとサトは笑った。いままでは村の共同浴場を利用していたのだから、喜びを覚えるのも当然だろう。村の皆と顔をあわせるのも悪くはないが、たまにゆっくりとお湯につかりたいときもあるものだ。
 綺麗になったお手洗いに感激しつつ、ああ、頑張ってお金を貯めてよかったと、サトが胸の前で手を組んでこれまでの苦労を思い出していると。
「サト! せっかくお湯わいてるんだからさ、今から一緒にはいろうぜ!」
 輝く笑顔で浴室から飛び出してきたキリクが、そんなことを言った。
 笑顔をはりつかせたまま、サトはこめかみを引き攣らせた。
「……」
 そして、つかつかとキリクに近寄り、無言で拳を振り上げる。それに、キリクが驚き焦る。
「な、なんで怒るんだよ?!」
 どちらかというと、当然の反応だと、サトは思う。
「……自分が何言ってるか、わかってる?」
 ほんのりと頬に熱をもちながら、真昼間からどういう了見ですかと、無言の威圧をかけながら問いただす。いや、日も暮れた夜にならいってもいいのかというと、それはそれで恥ずかしいから困るわけだが。
「なんだよ。別にいいだろ? 夫婦なんだしさ」
 わずかに不満げな顔でそう言ったと思ったら。
「オレさ、」
 へら、とキリクが顔を緩ませた。
「嫁さんに、風呂で背中流してもらうっての、夢だったんだよな!」
 ぺっかぺかの、後光が差しているように眩しいくらいの笑顔で、そんな無邪気なことをいう。
 う、とサトは言葉に詰まった。振り上げた拳のおろしどころがわからなくなって、しょぼしょぼと手を下げるしかできない。解いた拳を、空いた手で握り締める。
「そ、そういう意味だったの……?」
「ん?」
 キリクが、なにが? といわんばかりに首を傾げるので、サトはなんでもない、と小さく返した。
 あれこれと想像してしまった自分が、情けない。何を想像したのかといわれると、口にできるわけもない。自分と違って、やましいところなんて一欠けらもみえないキリクの瞳が直視できない。
 そんなサトを、機嫌が悪くなったと思ったらしく。
「……なあ、サト。だめか?」
 しゅん、とキリクが肩を落とした。
 ああ、大型犬が、しょんぼりとしている。そんな風に、サトには思えた。いつも明朗快活なキリクからは、ちょっと想像できない姿だ。
「どうしてもか?」
「……ううっ」
 そして、こういうときの惚れた男の悲しげな目に、サトはめっぽう弱かった。
「しょ、しょうがない、なあ……」
 まったくもって仕方がない。夫の我侭に理解を示すものわかりのよい妻の反応をかえすように、サトは頷いた。
 ぱあ、とキリクの顔が輝く。まとっていた湿り気のある空気が、ぱんと弾けて消えたかのよう。
 こんなに可愛くて、そのくせ格好いいなんて、キリクは卑怯だと、サトはつくづく思った。
「ありがとな、サト!」
 やったー! と、片手をあげたキリクに連れられて、ずるずるとサトは浴場へと入っていった。

 

 もわもわと、浴室内に湯気が漂う。その合間には、ヒノキづくりの湯船から漂う爽やかな香り。村の浴場ほどの広さはないが、ゆったりとくつろいで疲れと汚れを落とすのには、充分だ。
「どう?」
 上着を脱ぎ、ズボンの裾を少しだけまくりあげて、手足を晒したサトは、せっせとタオルを動かしながらそう尋ねた。
「ん、気持ちいいぜ。ほんと、ありがとな」
 広く逞しい背中を向けたまま、キリクが溶けていきそうな口調で言う。
「痛かったりしたら、ちゃんといってね?」
 今はいいかもしれないが、なにか嫌なことがあったらそれは言って欲しい。
「いまんとこ大丈夫」
「よかった!」
 なんだかんだといったものの、ただ背中を流すだけなら別に問題ない。キリクは裸だが、タオルを巻いてくれているし。
 しっかりとした筋肉のついた男らしい背中を洗っていると、キリクが気持ちよさそうにしてくれているせいか、なんだか楽しくなってきた。
 サトが、ふんふんと鼻歌交じりに丁寧にキリクの肌を洗っていると。
「なあ、サト」
 何かを懐かしむような声で呼びかけられて、サトはつい手を止めた。
「なぁに?」
 首をかしげてその先を待っていると、キリクが振り向くことなく話し出す。
「昔さ、オレのお袋と親父、すごく仲が良くて」
 ぴく、と指先が自然と動いた。キリクのお母さんは、たしか小さい頃に亡くなっているはずだ。ということは、生きている頃の話だろう。あまり自分から話したがらないのに、珍しい。
「いつだったかよく覚えてないんだけど、どっかの温泉に家族で出かけたことがあってさ」
 どこだったかな……、と思い出せないことを悔しがるようなそぶりを少しだけみせて、キリクは続ける。
「そこに、小さな風呂があって、そこに皆ではいったんだ」
「へえ……」
 サトは止まっていた手の動きを再開させながら、ぼんやりと頷いた。あいにくと、サトは温泉にいったことはないが、宿によっては貸切の風呂があるということは知っている。きっとキリクたち家族が入ったというのは、そういった類のものだろう。
「でさ、そのときお袋が親父の背中、流しててさ」
「今みたいに?」
 うん、とキリクが頷く。
「それを湯船の中から眺めてて、いいなぁっていったら、親父に『将来、嫁さんにしてもらえ』って自慢げに笑われてさ。お袋も、それがいいわねって笑ってた」
 ぽりぽりとキリクが頭をかく。
「――あれからずっと、憧れてたんだ。ありがとな、サト」
 大きな体をした大人なのに。キリクが背中に幼い頃の姿が、重なってみえるような気がした。
 ふわり、サトは微笑む。
「じゃあ、今日って私とキリクの両方の夢が叶った日になるんだね」
「そうだな。全部サトのおかげだ」
 キリクが、少し体をずらして振り返る。肩に置いていた指先を、キリクがそっと掴んだ。
「そんなことないよ。キリクが応援してくれたから、お金だって貯められたんだしね」
 だからこそ、こうして我が家にお風呂が作れた。だから、その指先を握り返しながら、サトは笑みを深くした。
「でも、サトが嫁さんになってくれなきゃ、背中流してもらえなかっただろ」
「ん~、そうかもしれないけど。それは別に、私じゃなくたっていいでしょ……」
 確かに、結婚しなければ、サトがこうしてキリクの背中を流すことなんてなかっただろう。別の誰かがキリクと結婚したら、ありえることだけれど――――。ついそんなことを考えて、サトは眉を潜めた。そんなの、嫌だと思う。
 むむむ、と誰に対するでもない嫉妬を、サトがほんのりと自覚したところで。
「サトがいいんだって。まあ、オレ以外男のところに嫁にいくサトなんて、想像できないけどな」
 からからと笑いながら告げられた、見透かしたようなキリクの言葉に、救われる。
「……自信満々だね」
 自分以外と結婚なんてするはずないと、そういっているも同然だ。
 むう、とわずかに唇を尖らせる。不満なわけじゃない。ただ、ちょっとだけ悔しい。
「愛されてる自信があるからな!」
「はいはい」
 即答するキリクに赤くなった頬を見られないよう、サトは絡めていた指先をやや強引に外すと、ぷいと横を向いた。そのまま、手近にあった桶に手を伸ばす。
「流すね」
「ああ、頼む」
 湯船から桶で湯をすくい、前に向き直った広いキリクの背へとかけていく。水を弾く肌に、汚れなんてひとつもない。よし、とサトは頷いた。
「じゃあ、私でるから」
 あとは湯船につかってごゆっくりどうぞ、と言いながら、食事の用意でもしようと考えつつ、しゃがんでいた体勢を元にもどす。
「あ、サト」
「え?」
 浴室を出ようとしていたサトが、呼びかけに振り返ると、近い場所にキリクがいた。
 いつのまに、と声を漏らす暇もなく長い手が伸びきて、サトを越えて扉をおさえる。
 囲い込まれたような格好になったサトは、瞬きもできず、夫である男をみあげた。
 ぽたり、と長い髪から雫が落ちる。に、とわずかに色香を交じえつつも無邪気にキリクが笑う。
 サトの心臓が、痛みを覚える。甘ったるく、それでいて刺激的な、感覚。
「また一緒にはいろうな。お返しに、今度はオレがサトを洗ってやるからさ」
 お風呂場で反響するキリクの声が、全身の血を激しく巡らせる。
 それはつまり、その――つい、一瞬のうちに想像してしまった脳内の光景に、サトはぱくぱくと口を開け閉めした。考えただけで、恥ずかしい。
 いうだけいったキリクは、サトからすっと離れていく。しかし、サトはまだ動けない。
「ん? どうした?」
「……」
 反応がないことを不思議に思ったのか、キリクが首を傾げる。言葉も発せず、真っ赤になってぷるぷると震えていると、にや、とキリクの口元に悪戯気に刻まれる笑み。
「なんだ。そんなにオレの裸、みてたいのか?」
 言われた言葉に、一瞬、息がとまる。そのわずかな間に、言われた言葉を何度も何度も反芻する。
「っ?!!?!」
 理解したら、顔が余計に熱くなった。
「そ、そ、そ、そんな、そんなわけっ」
 ない、といおうとしたものの。一人楽しげなキリクに、サトに悔しさがこみあげる。今日この感情を覚えるのは何度目だろう。
 大体、キリクがあんな恥ずかしくなるようなことをいったから、それにびっくりして動けなかっただけなのに、さもキリクに見惚れているようなことをいわれても、まあたしかにそういう部分がないといえば嘘だけど――ああああ。
 ぐるぐると、まとまらぬことを瞬き一つほどの間にめまぐるしく考えて、サトはぎゅっと目を閉じた。
「~~~~っ!」
 ぶるぶると握った拳が勝手に震えるのを抑えられない。
 ああもう、なにもかも。

「――そうよ! キリクが格好いいのが悪いんだから! ばかっ!」

 大きく口をあけて、悲鳴をあげるような勢いで言い切る。まったくもって一矢報いることもない、よく考えれば更に泥沼にはまるようなことを。
 そんなわけのわからぬ八つ当たりを受けて、ぽかん、としたキリクを涙目で精一杯に睨みつけた後、サトは振り返ってドアに手をかけた。
 乱暴にあけて湯気とともに浴室からでると、勢いよく閉める。
 一瞬のあと、爆発したかのように笑いだしたキリクの声が、浴室内に響き渡るのをききながら、どすどすと足音荒く、サトは風呂場をあとにした。