ぼくとあなたと「・・・」後編 

 我が家の庭師は優秀だと、ヒューバートは思う。
 興味深そうにわずかに身を屈め、極彩色の花々を眺めていた淑女が、顔をあげる。
「ウインドルではみかけぬような花々ばかり。とても綺麗ですわ」
「パトリシア嬢にそういっていただけたならば、きっと庭師も喜ぶでしょう」
 にこ、と微笑む姿は可憐の一言に尽きる。
 日傘を持つ優雅な指先。ドレス姿も違和感はない。発音は美しく、足運びにもなんら問題はない。汚れひとつない白い肌、梳られた金の髪、絵姿よりも人を魅了する宝石質の瞳。
 大事に大事に、温室の中で育てられた花のようだと、自分の婚約者になる女性に対し、ヒューバートはそんな感想を抱いた。
「花が、お好きなのですか?」
「ええ」
 よぎるのは、ヒューバートにはゴミの山としか思えぬスクラップ置き場で、何かの部品をみつけては子供のようにはしゃいでいた年上の姿。
 腕を出せば、当たり前のように細い腕が絡む。細い身体がヒューバートの側に寄り添う。異性に、丁寧にエスコートされることが当然である生活を過ごす者としての、自然な所作。ふわりと、上品な香水のにおいがした。
 あの人は、こんなことなんて絶対にないのに。
 今この場に意識を集中させなければと思うけれど、心を占めるのは一人の人だけだった。
 ゆっくりとパトリシアを連れて、ヒューバートは歩き出す。
「あら、果樹も育ててらっしゃるのですね」
 花壇をすぎて、右手側に集めるようにして植えられた木々をみて、パトリシアがそういった。
 そこにあるのは、レモン、オレンジ――そしてバナナ。
「養父が、ぼくたちのために植えたものだ、ときいています」
「まあ、素敵ですわね」
 子のいないガリードが養子として受け入れた子供たちが楽しめるように、と植えたものだ。そんなことを庭師にいわれたことがあったけれど、実際、果物採りなどしたことはない。本当にそんな意図があったのか、ヒューバートにはわかりかねた。
「果物がお好きなのですか?」
「はい。とくに、オレンジが好きですわ」
 ふふ、と口元に笑みを浮かべ、パトリシアがいう。
「では、あとでお部屋にお持ちいたしましょう」
「ありがとうございます」
 選ばれなかった黄色い果実。あの人ならば、こちらの制止などものともせずに、いますぐにでも飛びついていっただろうに。
「あなたは――」
 ヒューバートの口から、つい言葉が零れた。その後に続けたいものがなんなのかわからずに、はっと口を紡ぐ。
「なんでしょうか、ヒューバート様」
 だが、パトリシアはそれを聞き逃さず、小さく首を傾げてその続きを促してくる。
 ヒューバートはわずかに逡巡したあと。
「いえ、その……煇石は、お好きですか?」
 一瞬だけ、パトリシアが美しい瞳を大きくした。
「煇石、ですか。原素の色がよく出たものは、美しいと思いますわ」
「……そうですね」
 きっとこの人は、それがどうして美しいのか、考えることはないのだろうと思った。
 ゆっくりと歩いていくと、小さな噴水がみえてくる。左右対称に作られたそれの間に、空中を渡り互い繋ぐ水の道が一本。大統領府にある噴水と規模は違えど、ほぼ同じものだ。
 きらきらと空中を伸び上がりまた落ちる噴水に、少女は目を細める。
「綺麗ですわね。さすがはストラタですわ。煇術に関して、ウインドルなど及びませんわね」
 くすくすと、パトリシアが笑う。
「……他に、なにかありますか?」
「いいえ?」
 この原理は、どうなっているのか。これを何かに活かせる方法はないのか。そんなことなど思いもしていないのだろう新緑の瞳が、優雅に瞬く。
 ぼくは、何を期待しているのでしょう。
 ヒューバートは、自分の心を苦々しく思いながら、それでも問いかけをやめることはできない。
「あなたは、不思議とは思わないのですね」
「ええ、美しいものに無粋な理屈は、つけるべきではないのでは?」
 それは、もっともな感覚だ。世の真理を、新たな技術を追い求める研究者でもないかぎり、それは当たり前のことだろう。とくに、パトリシアのような身分では。
「知りたいと、その謎を追い求めることは無粋でしょうか」
 それでも、あの人なら、と思わずにはいられない。
「少なくとも、今この場で私が話すべき事柄ではありませんわ」
 淑女たるもの、男子の後を歩き前にでてはいけない。その言動には気品と従順さが求められる。その答えは、模範的な回答で、間違ってなどいない。
 だが、胸の奥がざわつく。
 違和感がこみあげる。拭おうとしても拭えない。これまでの思い出が、風に煽られ捲られていく紙の束のように、ヒューバートの意識に瞬いた。
 やはり違う。違う。
 ああ、ああ。

「やはり――あなたでは、ない……」

 自分が求めるものは。
 このままではたとえ婚約して、結婚となっても。
 ヒューバートはパトリシアの言葉の向こうに、たった一人を思い浮かべ続けるだろう。
 そんなひらめきにも似た衝動で、思わず吐き出した言葉は。
「よかった。わたくしも、あなたではないと思っておりました」
 存外と、あっさり受け止められた。
「……は?」
 ヒューバートは、いつしか下げていた視線を、ぱっとあげた。
「だって、ヒューバート様ったら、わたしくのこと一度もみておられませんもの」
 ころころと、それを真正面から見返して、パトリシアが笑う。
「いえ、そのようなことは、」
「いいえ」
 ぱちり、と小さな音をたてて、パトリシアが日傘を閉じる。口ごもっていたヒューバートは、叱られた子供のように口をつぐんだ。
「本音をいってくださって助かりましたわ。わたしくもこれで気兼ねなくお話できますものね」
 実は、とパトリシアがいう。
「大変申し訳ないのですけれど、わたくしあなたのことを少々調べさせていただきましたのよ」
「え?」
 父様には内緒ですわよ、とパトリシアが茶目っ気たっぷりに片方の目を閉じる。そうして、ゆっくりと木陰のベンチへと歩いていく。
「お慕いしている方が、おられるのではありませんか?」
 くるりと振り返り、陰の中からそういわれて、ヒューバートは息を飲んだ。
 その様子に、わが意を得たりとばかりにパトリシアがまた笑う。ヒューバートの反応が、予想通りであったせいか。
「ヒューバート様。わたくし、家のことであろうとも、親にいわれたからであろうとも、それを受け入れてその方を愛したい。そうして、その方にどのような形であろうとも、愛されたい」
 白いベンチに腰掛けて、そう告げる美しい人に対し、ヒューバートはゆっくりと近づく。
「でも、あなたはそれができない。たった一人しか、愛せない。違いますかしら?」
「……すみません」
 まったくもってそのとおりだ。小さく詫びることしかできないヒューバートの耳に、笑い声が木霊する。
「正直な方。そして、真っ直ぐな方。はじめてお会いしたときに感じたままですわ」
 ヒューバートは目を細めた。この嬢は、決して甘やかされて育てられた世間知らずな、無垢な女性ではない。生まれた家と、自分に求められる責任を、全うしようとしている。パスカルに出会う前の、自分に似ていると思った。いや、そう思うのは失礼だろう。
 凛とした、芯のある心の強さをたおやかな身体の奥に秘めている。強い、女性だ。パトリシアはそんな魅力的な人物だと、ようやく気付く。
「ヒューバート様にそこまで想われる方は、幸せですわね」
「そうでしょうか? 相手が、それを受け入れてくれれば、よいのですが」
「あら、自信がないのですか?」
 悪戯っぽく、挑戦するようなパトリシアの瞳と、その口調に。ヒューバートは苦笑した。面白いひとだ。どうやら自分の見る目はあまり信用ならないらしい。さきほどまで人形めいた女性だと感じていたものは、吹き飛んでしまった。
「――いいえ。必ず捕まえたいと思います。いつも、ふらふらとしていて、心配ばかりかけるひとですから」
 小さく頭を振って、脳裏に赤と銀の髪、そして大きな琥珀の瞳をもつ、たった一人を思い浮かべて、ヒューバートは笑った。
「まあ、ヒューバート様ったら、そんな風に笑えるのですね」
 それをみたパトリシアがそんなことを言うから。頬が熱を帯びた。
 ひとしきり笑ったあと、ふいに笑顔を消したパトリシアが凛と視線をあげた。
「ねえ、ヒューバート様。わたくしたち、別の出会い方をしていたら……、いいえ。もっとはやく出会っていたら、うまくいっていたかもしれませんわね」
 恋でなく、夫婦になってから育むような愛を、もしかしたら。だがそれはもう、ありえない。
「ええ、きっと」
 パトリシアの小気味いいほどのその気質は、決して嫌いではない。むしろ好ましいとさえ思う。それは、心からの言葉だった。
 そっと、差し出される小さな手。騎士の誓いをするように跪き、白い手袋越しに、うやうやしく口付けを落とす。ありったけの、感謝をこめて。
 そうして。ヒューバートは、パトリシアに一礼すると踵を返し、緑たゆたう庭園をあとにした。

 

 

 ユ・リベルテを離れ、英知の蔵をもう少しだけ調べた後、パスカルはフェンデルへの定期船がでている港へとやってきていた。出航まではまだ少し時間がある。
 猫によく似た声で鳴きながら、海鳥が空を滑っていく。
 綺麗だ。
 フォドラにいって、このエフィネアに帰ってくるときも思ったけれど、この世界は青に満たされ、また包み込まれている。「あお」は世界の守り色。そんな気がした。
 そんな空の青が、海の蒼が、たったひとりの姿を呼び起こす。ここまでは何とか思い出さなくて済んでいたのに。大空と海原が悪い。あおいのが、わるい。
 ぱたぱたと、頬に水滴が落ちてくる。
 おかしいなあ。
 ぼんやりと、パスカルはそんなことを思いながら空をみあげた。
 砂漠地帯特有の、どこまでも晴れ渡った空しか、そこにはない。雲なんてひとつもない。だから、雨なんて降るはずないのに。
 不可思議な現象に笑おうとしたけれど、ただ顔が歪むだけだった。声がかすれ、喉が引き攣った。水が、頬を伝い顔の輪郭を辿っていくのを感じる。
 降っているはずの雨は、そうではなかった。
 それは、パスカルの瞳から、泉のように溢れる涙だった。
「ひっく、ひ……! ふえ……」
 どうしてだろう。止まらない。
 理解した瞬間、パスカルは両手を口にあてて、上がりかけた声を抑えた。そして、パスカルはよろよろと、船に積み込まれるのを待つ荷物の陰へと歩いてく。
 すれ違った船員や旅人が、驚いて視線を向けてくるが、気にする余裕がない。それよりもずっと気になることがあるから。
 きっと今頃、ヒューバートは顔をあわせた少女と一緒に、身内を招いての内々の婚約式に出席しているだろう。その次の日には、周囲へのお披露目を行う予定だと言っていた。きっと誰しもが、今日と明日を経て生まれる婚約者たちを祝福することだろう。
 その様子をつい想像してしまい、奥歯を噛み締める。
 今更ながらに零れる涙に、パスカルはなんだか悔しくなった。ここまで、ずっとずっと我慢していたのに。
 人の視線が集まらない場所で、パスカルは木箱を背にしゃがみこむ。
 俯いた先に、青色はない。薄汚れた石畳があるだけだ。ぱたぱたと、大粒の涙が乾燥しきったその表面をぬらしていく。
 聞こえてくるのは、船を操る船員たちの遠い声。そして波の音。パスカルに一瞬だけ陰を落とした海鳥が、一際高く鳴いた。
 ひとりきりになって、思う。
 ああ、あたし。
 弟くんのこと。
 ヒューバートのこと。

 ――こんなに大好きだったんだ――

 そんなこと、自分が一番よくわかっていたくせに。
 パスカルは、妙に冷静にそう考える。
 だが、いまさらかみ締めたところで、もうどうしようもない。
 今日、ヒューバートは婚約した。未来を決めた。三日前にさよならだってしてきた。もしかしたら、未来の花嫁と幸せそうに、ここから遠い場所で笑いあっているかもしれない。
 いままでのような二人の関係は、もうない。
 笑いあっていたことも、身を寄せ合っていたことも、ヒューバートが怒りながら追いかけてきてくれたことも、部品を一緒にがらくたの山から探したことだって。もう、ありえないことになってしまった。
 それをよしとして、ヒューバートを祝福したのは自分だ。
 だって、これがヒューバートのためなのだ。オズウェル家の一員として、そしてまた、彼自身の地位を確固たるものにするために、必要なことなのだ。
 ヒューバートだって、なにもいっていなかった。これでいいと肯定するような顔をしていた。
 そして、なにより。自分になにも――言ってはくれなかった。
 だからなおのこと、あの隣に立てないと痛感した。ゆえになにもいわなかった。いえなかった。
 これまでのことを整然とわかっていても、そうしたのは自分であるとわかっていても。パスカルの涙は止まらなかった。
 石畳の上に、腰を下ろす。膝に顔を押し付けて、声を押し殺して泣いた。
 こんな風に泣くのは、久しぶりだ。
 フェンデルで、姉であるフーリエの自分に対する痛烈すぎる想いをぶつけられてから以降、多少滲ませる程度のことはあったけれど、ここまでのことはなかった。
 それは仲間が、ヒューバートが、いてくれたからだ。
 ああでも、婚約を告げられたときにも泣いたから、久しぶりというのもおかしいのかもしれない。ただ、原因が一緒だから、いいか。
 もし彼がいてくれたら。
 ぶっきらぼうに、ハンカチを差し出したかもしれない。
 おろおろとしながら、どうしたのかと聞いてきたかもしれない。
 ただ黙って、抱きしめてくれたかもしれない。
 そうしたら、涙のダムはあっという間にできて、漏れ出でる水なんてせき止められただろうに。
「ひゅー……」
 ヒューバート、といいたいけれど。言ったら、もっと泣いてしまいそうだった。
 すんすんと鼻を鳴らしていると。
 す、と陰が差した。また海鳥かと思ったが、動かない。苛烈な日差しが遮られて、わずかに涼しさを覚えた。
 あれ? と、ほんのすこし頭をあげかけたとき。

「こんなところにいたんですか。やっとみつけましたよ」

「……っ!?!」
 耳に届いた声に、パスカルは体を強張らせた。
 数瞬の、停止の後。勢いよく顔をあげる。
 そこには、ここにいるはずのない。青い髪と蒼い瞳の、背の高い――パスカルの脳裏を占めていたヒューバートが、いた。わずかに息をきらせて、肩を揺らしている。
「弟、くん……? うそ……」
「嘘じゃありませんよ」
 つかつかと近寄ってきて、ヒューバートは手を伸ばしてくる。ぐい、とパスカルは腕をとられた。
「まったく、こんなところで何をしているんですか。ほら、立ってください。ああ、汚れてしまってるじゃないですか。年頃の女性なんですから、もう少し気を遣うべきだといつもいっているでしょう」
 そう、いつもどおりに口うるさく繰り返しながらも、へたり込んだときに膝や、服についた砂を優しく払ってくれる。
 本物だ。
 ふぇ、とパスカルは喉を震わせた。
「お、弟くん、だぁ……」
「はい」
 ぎゅ、と服の胸元に縋るように指をかけると、ヒューバートは澄ました顔で頷いた。
 こちらの気持ちを知らないその様子に、パスカルは顔を歪めた。
「ど、して? どうしてここにいるの?」
 もっともな疑問に、その表情を崩すことなくヒューバートがいう。
「あなたを追いかけてきたに決まっているでしょう」
 嬉しい言葉のはずなのに、素直に受け取れない。
「そんな、だって、今日は……、いまごろは!」
 パスカルの知らない女の子と、訪れるべき未来を約束しているはずなのに。
「ぼくの婚約式のことですか? それならば、すっぽかしてきました」
 さら、とヒューバートはとんでもないことをいった。
 一瞬だけ。頭が真っ白になった。
 ああ、何も考えられないってこんな感じなんだな~、と。ゆっくりと再び動き出した思考で、そんなことを分析しつつ。
「す……、すっぽ……って、えー?!!」
 素直な悲鳴が、同時にパスカルの口から飛び出していた。
 それでいいの? と尋ねる間もなく、パスカルをひたと見据えたヒューバートの唇が動いた。

「ぼくは、あなたが好きです。だから、婚約はできませんでした。そういうことです」

「ひゅ……」
 ヒューバート、と言葉にしたかったものは、きつく抱きしめられたせいで、ただの吐息と化した。
 抱きしめられている。力強く。どこにもいかないように。いけないように。
「ぼくは必ず、ぼくの実力で誰にもなにもいわれない地位について、あなたを迎えにいきます」
 抱きしめる腕の強さ、頭の後ろを支えるような手の大きさ。
 こんなにも、ヒューバートを近くで感じたことはない。
「あ、あたしの……ひっく、返事は、っ、きかない、のっ……?」
 迎えにいくと、もうすでにパスカルが待っていること前提の言葉に、なんとかしてそう問い返す。
「構いません」
 きっぱりと清々しく、ヒューバートはそういった。
「どう、して……?」
 理由が知りたい。都合のいい自分の考えが、間違っていないことを教えて欲しい。縋るように、パスカルはヒューバートの服を握り締める。
「だって、」
 ゆっくりと、身体を離したヒューバートが、そっと覗き込んでくる。

「あなたがこうして泣くほどには――ぼくは、好かれているようですから」

 嬉しいと、綻ぶヒューバートの笑顔はひどくあどけなく。そして、とても幸せだと語りかけるようだった。
 ヒューバートの答えが、パスカルの心に高らかに響く。
 それは、胸の奥のあらかじめおさまるべきところとして用意されていた場所へ、ことりと小さな音をたててはまりこむ。聖堂の鐘の音のように美しいその旋律は、とまりそうにない。
 精密に作り上げた機械の、最後のパーツをあるべき場所に組み込んだときに似た、いや、それ以上の喜びに身体が震えた。
 ひくっと、パスカルは喉を震わせる。
 ああ、あたし、いまものすごく嬉しい。
 悲しいさからではなく。嬉しくても、こんなにも泣きたくなることを、パスカルは初めて知った。ぽろぽろと、涙が生まれては弾ける。
「ち、が、ちがってるかも、知れないじゃん……! 目に、砂、が……はいっただけかも、知れないじゃん……!」
 ただ、なんだか悔しくて。素直になればいいのに、そうするのは恥ずかしくて。
 うえぇぇ、と鳴き声交じりにそういえば。
 くす、とヒューバートがうってかわって、大人びた表情を浮かべた。
 すべてわかっているというような、見透かした蒼い瞳が、今まで見たどの色よりも綺麗だと、パスカルはぼんやり思う。
「ちがっていましたか? てっきり、ぼくが婚約することに、泣いてくださっているものだとばかり思っていましたが」
「……」
 穏やかな声に、ほんの少し、ばつが悪くなる。パスカルはわずかに視線を落として――ふるると頭を振った。それは、ヒューバートの考えを肯定するもの。
 よかった、と小さな安堵の声に、唇を噛み締める。顔が、変な風に緩んでしまいそう。
「いつか、あなたに結婚を申し込みにいく日まで、あなたの言葉は大事にとっておいてください」
 こく、とパスカルは頷いた。
「かならず、いきます。だから、そのときに聞かせてください」
 もうひとつ頷く。
「うん……でも、」
 そうして、おずおずと尋ねる。
「でも、ガリードさんのことは、いいの?」
「ええ」
 ヒューバートが、眼鏡の下で冷たく瞳を瞬かせる。その奥底に、わずかな苦悩の影を垣間見て、パスカルは眉をさげた。そんな顔をしてほしくはなかった。
「――黙ってもらう方法が、ないわけではありません。それは、ご自身に身に覚えのありすぎることでしょうから」
 あまりやりたくはなかったのですが、とヒューバートが呟く。
 それがどういう手段なのかは、オズウェルの闇を知らぬパスカルには、よくわからない。しかし、ヒューバートにそういわせるくらいだから、なにかまずいことなのだろう。
 でも、その手段をとることになってもなお、自分に想いを告げに来てくれたことが、嬉しい。
 ヒューバートが、辛い思いをする可能性を孕んでいるのに。この現実が、たまらなくうれしい。
 ぶわわ、と込み上げるものを、パスカルはもう抑えられなかった。
「ごめ、ごめんねぇぇぇぇ! 弟くん!」
「う、うわっ! パスカルさん……! ちょ、鼻水がっ」
 ぴーぴーと泣きながら、きつく抱きつく。
 涙なのか鼻水なのかわからぬものを服につけられたヒューバートが、悲鳴をあげた。
 だが、引き剥がされるようなことはなく。
「そんなに泣かないでください。まったく……これだからパスカルさんは」
 そっと抱きしめながら、ヒューバートがひどく優しくそんなことをいうから、余計に涙がとまらなくなる。
 ごめんね、と繰り返していたパスカルは、ずずっと鼻を鳴らした。
 そして。
「……ありがと。ヒューバート」
 器用に泣き笑いながら。
 パスカルは大好きな人の名前を、たしかな愛しさをもって、紡いだ。

 

 

「よかったのですか、叔父上」
 ゆらり、白いカーテンが乾いた風に揺れる部屋の一室で、レイモンは問うた。
 ソファに腰掛け、優雅に紅茶を口にしていたガリードは、少し離れたところに立つ甥に対し、視線ひとつよこさない。
「なにがだ? 今回のことは先方からのお断りだ。私がとやかくいえることではない」
 確かに。数日前引き合わされたヒューバートとパトリシアの婚約話は、さきほどアルスター家から正式に断りの返事があったばかりだ。
 先々のことを見越しての政略結婚であったはずで、あちらも乗り気であったはずなのに。
 なにがあったのかは、大体察しはつくものの、詳細なことはさすがにわからない。真相は、ヒューバートとパトリシアしか知らないだろう。
 だが、レイモンが聞きたいのはそこではない。
「ヒューバートに誤解させたままでいいのですか、ときいているのですが」
 ぴくり、とガリードの細い眉がわずかに動いたような気がした。気がしただけで、本当はそんな反応なかったのかもしれないが。
「もともと、婚約させるつもりがなかったのですか?」
 レイモンの言葉は、ふんと鼻で笑われた。
「そんなことはない。ウインドルの経済界に多大な影響力をもつあの家は、利用するに越したことはない」
 当事者であるのに傍観者のような淡白さで、ガリードは続ける。
「ただ、将来、一国を支える技術者が手にはいるのも、悪いことではない。技術は金の鳥だ。人の生活に必要なものであればあるほど、莫大な富を生み出す、稀有な鳥だ」
 切れ長の瞳の奥底が、ぬらりと光る。
「あの技術者の知識は使える。それが遠い未来になろうとも、だ」
 そう自信を滲ませた声に、その相手を高く評価しているのだろうことが伺える。
「パトリシア嬢とそのまま結婚しても、こちらとして問題はなにもなかった。今回は、こういう結果になっただけのことにすぎん」
 他国との強い繋がりを得るか、将来の技術の礎を得るか。
 それに、一方的に断ったせいか、アルスター家からは難航していた煇石輸入量増加交渉に対し、最大限の便宜を図るという申し出があったという。
 つまり、どちらにころんだところで、オズウェル家には利益しかなかったということだ。
 我が叔父ながら、素晴らしいと思う。オズウェル家として、ひいてはストラタのために、どう行動していくべきか、その選択に迷いがない。
 ふむ、とレイモンは内心頷いた。
 しかしながら、おそらくヒューバート自身にも気をかけていたのだろうとは思う。
 そうでなければ、あのアンマルチアの女性を屋敷の離れにおくことを、はなから許しはしなかっただろう。
 もしかしたら、こういう結末をガリードは望んでいたのかもしれない。養父として。
 まさか、ね。
 そんな自分の考えを払うように、レイモンはわざとらしい咳払いをひとつ。
「まあ、そういうことにしておきましょう」
 薄く笑みを浮かべてそういうと、ガリードがちらりと視線を向けた。
「……ふん」
 小さく鼻を鳴らして、ティーカップを下ろすガリードをみつめながら、ほんの少し首を傾ける。
「しかし、あの人にいつか『義父さん』と叔父上が呼ばれるときがくるかもしれないとは……」
 ふと、底抜けに明るいパスカルの笑顔が脳裏を過ぎった。レイモンが天使と慕う、恋しい女性とはまた違う魅力のある、そんな笑顔。
「それがどうした。いつかそういうときもくるだろう」
 ぱち、とレイモンは眼鏡の下で、目を瞬かせた。
 ガリードが、すぐに切り替えしてきたところから察するに、もうそれも想定済みのようだ。
「――いえ」
 なんか似合わない。
 そう思ったことは胸の奥にしまいこみ、レイモンは眼鏡を押し上げた。
 きっと今頃、その人といつものようにじゃれあっているだろう血の繋がらない従兄弟を、思い浮かべながら。