黒々とした、なめし革の表紙を開く。
そこには、豪奢なドレスを身に纏い、優雅に椅子に腰掛けてこちらを見つめる少女の絵が一枚。
女というには、いささかあどけなさを残すふっくらとした頬。豊かな金の髪、白磁のような肌、深い緑の瞳。
絵師によって多少美しさは加えられているだろうことを差し引いても、人の目を惹きつけるような華やかさを持っている。綻びかけた大輪の薔薇のよう。きっと、あと数年もしたら、艶やかに男の目を惹きつけるようになるだろう。
「なんですか、これは」
わかっていながらも、問わずにはいられない。眼鏡の硝子越しに、ヒューバートは己を育てた養父を見遣る。
大統領により政治の舞台より遠ざけられたとはいえ、その力はいまだ政財界に深く広く及ぶガリード・オズウェルは、その視線よりもなお冷めた視線で応えた。
「ウインドルでも豪商として名を馳せるアルスター家のご息女、パトリシア嬢だ」
見合い絵ということをわかっていることを前提とした、ガリードの言葉にヒューバートは目を眇める。
「ヒューバート。お前の婚約者になる方だ」
「っ!」
続いた言葉も予想の範疇内。だが、改めてそう突きつけられると、眉を潜めざるをえない。何を勝手なことを、と。
「ぼくは、結婚するつもりは……!」
「だが、いずれはせねばならん。お前に見合うものと、だ」
ぴしゃりとガリードがヒューバートの言葉を遮る。眼鏡の奥にある、鋭いまなざしがヒューバートを射抜く。
見合うもの、という言葉は強調されていたわけではないが、ひどく重たく胸に響いた。
「……」
それはそのとおりだ。ヒューバートにだって、わかっていることだ。この家に引き取られ、成長するにつれ、いつの間にかそうなるだろうと、理解していたことだ。
だけど、今は。
ヒューバートの脳裏に、向日葵をおもわせる明るい笑顔と笑い声がよぎる。
ぐ、と拳を握り締める。
そんな様子を一瞥し、ガリードは椅子の背もたれに悠々と背を預け、続けた。
「お前がアンマルチアの女に熱をあげているのは知っている」
「っ、」
びく、と肩が勝手に震えた。
「だが、オズウェル家の者としては、家柄にふさわしい女性を迎え入れるのが筋だ」
一体、この養父はどこまでパスカルと自分のことを知っているのだろう。いや、そんなことを考えてもどうにもならない。自分の知らぬところで、ありとあらゆることを調べつくしているのだろうことは、養父の慎重かつ狡猾な性格から考えれば、想像することは容易だった。
家の利になることを考えれば、パスカルのほうを切り捨てるのは当然なのだろう。彼女は優秀な研究者ではあるが、莫大な財産もなければ、後ろ盾になるような有力貴族とのつながりもない。
ラント侵攻による煇石資源確保の野望が潰えた今、ウインドルの煇石を手に入れるために、その流通の中心となる商家と懇意にする必要があると、判断したに違いない。
「そんなに、あのアンマルチアの女がいいのか?」
ため息とともに、心底呆れたように言われ、ヒューバートはとっさに声を荒げそうになる。パスカルは、そんなふうにいわれるような行いをしてなどいない。むしろフェンデルの民のために尽力していることを、褒め称えられるべき存在だ。そう叫びたくなるのを堪えて。
「―――あなたには関係のないことです」
氷のように冷たく、ヒューバートは答えた。
対して、こちらも似たような視線で応えるガリードが席をたつ。ヒューバートに背を向けて、ゆっくりと窓辺へと移動し、後ろでに手を組む。
「屋敷に数日前から滞在しているようだが、もう抱いたのか? 情が沸いて捨てられないか? どうしても手元におきたいというのならば、ちゃんと囲うようにしろ」
理解しかねる言葉に、一瞬だけヒューバートの思考が止まった。わずかな身じろぎもできない。
「ただ、アルスター家当主は家同士の都合とはわかっていようが、パトリシア嬢が理解するとはかぎらんからな。余計な火種は決して表沙汰にするな。そこまですると誓うならば、こちらからはなにもいわん」
それはつまり。正妻を迎えた上で、パスカルを愛人にすればいいだろう。それで満足しろと――暗に、言っているのだ。
鈍っていた頭でなんとかそれを理解した瞬間。
か、と頭に血が昇った。
「やめてください! 彼女を侮辱するようなことは……!」
絶対に許さないと、瞳に力を込めて視線で釘を刺す。
ガリードがわずかに振り返る。肩越しの瞳は、まったく揺らぎがない。
「いわれたくなければ、オズウェルの者としての自覚を改め、どうすればよいか考えろ。まあ、とるべき道はひとつだけだと、わかっているのだろう?」
「……」
この家で、自分をすくいあげてくれたストラタのために尽くすと決めたときから、それは決まっていたこと。
パスカルに、出会うまで。そう、納得していたはずなのに。
ヒューバートは、俯いた。
この心が行きたい所は、ひとつだけなのに。
穴があいてしまいそうな胸の奥を抑えるように、ヒューバートは手をあてた。
部屋に落ちた沈黙が、耳に痛いほどだった。
ストラタ独特の鮮やかな色をもつ花々が咲き乱れる庭を、ヒューバートはゆっくりと歩いていく。足取りが重いのは、自分の心が深く沈みこんでいるせいだとわかっていた。
屋敷の広大な敷地の片隅に、客用の離れがある。目指すのはそこだ。一般人の家ふたつぶんほどの大きさである離れは、ストラタの成熟した文化を伝えるような上品かつ華やかな作りとなっている。
磨かれた黒い木の扉を押し開ける。高い吹き抜けからは、硝子越しに青い空がみえた。こつ、と踵を鳴らしながら、奥へと進む。
パスカルはどこにいるのだろう。
リビングを覗き込むと、ぱたぱたと動く足がソファの背もたれの向こうに見えた。
「パスカルさん」
声をかけると、ぴたりとそれがとまった。
「おかえり、弟くん~」
そして勢いよく身を起こしたパスカルの、大きな瞳と視線が絡む。にこり、と嬉しそうに笑うその姿に、胸が締め付けられる。
こんなにも、好きなのに。
「……何を、しているんですか?」
「データの整理してたんだ~。さっすがおねえちゃんのノパーソだよ。すっごくはかどる!」
楽しそうにそういうパスカルに対し、泣きたくなるのを堪えながら、ソファを回り込んで近づく。
寝転がっていた体勢から、ソファの上に胡坐をかいてノパーソをいじるパスカルは、一週間ほど前、ふいにヒューバートのもとを訪れた。連絡もなしに訪問されて驚いたものの、事情をきいてみたところ、大煇石についての資料を求め英知の蔵を訪れた後、ユ・リベルテまでなんとなく足を伸ばした、ということらしかった。研究以外はいきあたりばったりなパスカルらしい行動だった。
そして、パスカルはヒューバートの世話になっていれば上げ膳据え膳なのをいいことに、オズウェル家の離れに陣取り、取り出してきた情報の整理を悠々とするようになった。
資料だなんだと散らかすのは辟易したが、海を越えなければ会えぬパスカルが近くにいることが、ヒューバートには嬉しかった。時折訪れては、他愛のない話をしたし、食事だって何度か一緒にとることもできた。
あの、旅していた頃のように。
でも、それももうおしまいだ。
拳をきつく握り締める。
「あの、パスカルさん」
「ん? どったの?」
きょと、と目を瞬かせるパスカルに、ヒューバートは意を決し、告げる。
「ぼくに、婚約者ができることになりました」
思ったよりも、するりと言葉は口から落ちた。それが、どこか他人事のような言い方になったのは、それをヒューバートが望んでいなかったせいだ。
はた、とパスカルが固まった。瞬き一つ、しない。ただ、唇だけがほんの少し震えたように見えた。
と、思ったら。
「そうなんだ~!」
いやっほう、と噴水のように勢い飛び上がった。
「おっめでとう、弟くん! 結婚式にはぜったい呼んでね~!」
子供のように笑いながら、パスカルはありきたりな祝いの言葉を発した。ずいぶんと、残酷に。
「……」
その反応に、ヒューバートはよろよろと視線を床へと向けた。
パスカルが、喜んでいる。めいっぱい喜んでいる。
ストラタの結婚式なんてはじめてだ、とか。お嫁さんは可愛い? とか。まるで自分が婚約したかのような騒ぎよう。
つまり。
「パスカルさんは……、ぼくが結婚しても、よいということですね」
つい、咎めるような口調になった。そんな権利もないくせに。
あれ? とパスカルが首を傾げる。
「うん。だって良いことじゃないの? 結婚って。フェルマーだって喜んでたじゃん」
「――そうですね」
何を期待していたのだろう自分は。
ヒューバートは、深い谷底を絶望をもって覗き込むような心地で、パスカルの言葉に頷いた。
少しでもいい。残念そうにしてくれれば。そんなのいやだと、いわれたならば。涙のひとつでも、零してくれたなら。
きっと、目の前のパスカルをかき抱いて――離さなかったのに。
自分の想いをあらいざらいぶちまけて、パスカルと共に、どこへなりともいっただろうに。
淡い期待は、ゆめまぼろし。
現実を噛み締め、ヒューバートは爪が手のひらに食い込むくらいに、きつく拳を握り締めた。
「さてと、いいこともきけたし、あたしもそろそろフェンデルに帰らないとね~」
「え」
唐突な言葉に、色のない声が自然と落ちた。慌てて顔を上げる。
ヒューバートに背を向けたパスカルが、あたりに散らばっていた紙を集めていく。
「もう充分に解析はできたし、研究に役立ちそうなものもあったからね。おねえちゃんとも相談して、研究に戻らないと」
「……そう、ですね。いつ帰られますか?」
自分になすべきことがあるように、パスカルにもまたやるべきことがある。同じところにいるはずなのに、パスカルが、ひどく遠いところにいるような気がした。
「うーんと、あとすこしだけ情報を整理したいから、三日後くらいかな。あ、でももうちょい英知の蔵も調べたいかも。それが終わったら、フェンデルに帰るよー」
くるり、と振り返ったパスカルは、ほんの少しだけ悩んだそぶりをみせた後、あっさりとそう言った。
「……わかりました。では、そのように船の手配をしておきましょう」
パスカルに個人的にしてあげられることは、これが最後になるかもしれない。ヒューバートは、そんな風に思った。
「やったー! ありがとうね! 弟くん!」
にこにこと笑うパスカルに、ヒューバートは滲むような微笑を返した。
ああ、このほうが――いいのかもしれない。
もしほんの少し、ほんの少しでも、自分を想うものが垣間見えたなら、愚かな行為に走っていた。
それは、自分にもパスカルにも、決してよいこととはいえないだろう。
そんなことを、胸の痛みを覚えながら、自分へと言い聞かせ。
ヒューバートはひとつ会釈すると、未練を振り切るように、パスカルへと背を向けた。
ぱたん、と扉が閉じられる。
ひらひらと手を振って、ヒューバートを見送っていたパスカルは、ぴたりとその動きをとめた。
ゆるゆると下がった手が、自然と胸に落ちていく。肌の下。それよりももっと、奥の奥。そこが、ひどく痛い。
本当なら追いかけたい。でも、それはできない。
昨夜、ヒューバートが離れにいないときを見計らい、パスカルを訪れた男の声が、脳裏に木霊する。
その幻が、ぼんやりと視界に灯った。
宵闇にまぎれるようにして現れた痩身の男は、パスカルが声を発する前に、言った。
「単刀直入に申しあげましょう」
ぴりりと肌を撫でる、敵意や害意とはまた違う感情のこもった、男の声。
「ヒューバートと距離を置いていただきたい」
「っ、」
パスカルは、いつの間にか握り締めていた拳を、小さく震わせた。
「ヒューバートにはオズウェル家としての果たすべき責務がある。軍人としてというのもありますが、それとはまた別に――できることが」
オズウェル家の野望であったラント侵攻が失敗に終わったとしても、大統領の覚えめでたく、また軍内でも評価の高いヒューバートには、まだまだ養父として利用価値があるということだろう。
「あなたが一緒にいても、ヒューバートのためにはならない」
そして、そのために考えられることなんていくらでもある。ヒューバートは見目良く、家柄よく、実力もある。そして年頃だ。それらが導くものをパスカルはわかっている。ただ、考えたくない。
「貴女は聡い方だ。恐ろしいくらいに。本当はわかっておられるのでしょう? ヒューバートの気持ちを」
ひゅう、と喉を鳴らしながら、パスカルは小さく頷いた。
知っている。
ヒューバートのまなざしに込められた、焼け付くような恋慕の色。それが自分だけに向けられていることくらい、パスカルにもわかっていた。
ただ、優しくされるのが心地よくて。
一緒に隣を歩いているだけでも満たされるこの現状が、ぬるま湯につかっているようで、抜け出しがたかった。
「期待させないでやっていただきたい」
「あたし、そんなこと……」
互いに、想いを言葉という形にしたことはない。ただ、離れがたく、ともにありたいという無意識の願いが、二人を繋いでいた。
だが、そんな淡いものなど、ガリードには関係がない。オズウェルのこと、ひいてはストラタのことを考えたとき、それはむしろ捨てるべきものだろう。
「会うのはなるべく最小限にしていただきたい。友人としての交友ならば、認めてもかまいません」
淡々と感情の伺えない声が、次から次へと紡ぐ言葉に。
パスカルは、一度怯えたように肩を揺らした後――ただ、黙って頷いた。そうするしか、できなかった。
「……ご理解いただけたようで、幸いです」
では、とガリードが慇懃に会釈する。
眼鏡のレンズが反射して、その奥の瞳はよくみえなかったけれど。
きっと自分の思い通りになったことに、満足しているのだろう、と。
優雅に歩み去る姿を眺めながら、そんな風に思った。
パスカルは、ぎゅうと胸元で手を握りしめ、ヒューバートを飲み込んだ扉を、ただ見つめた。
昨日された忠告は、このためだったのだと理解するのは簡単だった。
明日、ヒューバートに婚約することを命じるために、その障害となるものをあらかじめよけておきたかったに違いない。
だから、ガリードはパスカルのもとをおとずれた。
きっと。
そんなのやだ、とパスカルが一言でも言ったなら、ヒューバートは縁談を断ったような気がした。ただの、愚かな淡い希望かもしれない。だが、少しでもその可能性があったなら、、それではいけないのだ。
自分は、オズウェルの者にはなれない。フェンデルのために成し遂げなければいけない研究がある。それがいつ果たされるかなんて、携わっているパスカルが、一番わからない。
それにオズウェルが付き合ってくれるわけがない。不確かなものよりも、確かな未来を選ぶのは当然のことだろう。
でも、でも。
そうわかってはいても、悲しい。辛い。
ヒューバートと過ごす時間は、研究とはまた違う、パスカルの大切な、大切なものだったのに。
その位置に、今度は自分ではなく、見知らぬ女の子が立つのだ。
ヒューバートに優しい声をかけられて、心配してもらって、手を差し伸べてもらって、涼やかな瞳を細めて笑いかけてもらえる。
そんな、いままで与えられていたものが、すべてすべて、どこかの誰かのものになる。
見えているものが、少しずつ輪郭を崩していく。ぐす、とパスカルは鼻をならした。その奥がつんと痛い。目頭が熱い。
いやだ。
そんなのいやだ。
「いやだよぉ……おとうと……く、ん……」
もっとはやく、伝えていたら。この未来は変わっていたのかな。
二人で、一緒にどうするか考えることができたのかな。
パスカルの悲鳴に、応える者はない。手を差し伸べてくれる人は、いない。
ぼろぼろと溢れた涙は、パスカルの視界を歪めながら、頬をぬらし――床にぽたりと、うずくまった。
三日後、早朝。
オズウェルの屋敷の前、ヒューバートとパスカルは向かい合い、立っていた。
砂漠特有の、抜けるような青空。降り注ぐ太陽の光は、日中の苛烈さを想像するに容易い力強さで、二人を照らしている。
「じゃあね、弟くん! がんばってね! いいとこみせようとかして、失敗しちゃだめだよ~?」
「わかっています」
よいしょ、と荷物を担いだパスカルの言葉に、ヒューバートは頷いた。四日後に予定されている婚約者との顔をあわせのことをいっているのだ。
余計なお世話だと思うと同時に、未練など微塵もみせぬパスカルに、悲しさと苛立ちが募る。
しかし、それをおくびにも出さず、ヒューバートは懐に手を入れた。
取り出した小さな封筒の中には、二枚の紙が入っている。
「これは、フェンデル行きの船のチケットです。あと、亀車の分も別にありますので、使ってください」
「ふおお、太っ腹!」
手渡すと、ひゃっほーとパスカルが跳ねた。その喜びように、ヒューバートはひょいと肩をすくめた。
「ないと、あなたは砂漠の隅で干上がってしまいそうですしね」
暑すぎると、穴の開いた風船のように萎んでしまうパスカルのことだ。そういう結果もありえない話ではない。
「よくわかってるじゃん!」
貰ったものを無造作にポケットに突っ込みながら、パスカルが笑う。
「まったく……」
悪びれることのないその様子に、ヒューバートも淡く微笑んだ。
「パスカルさん、忘れ物はありませんか?」
さすがにノパーソや研究資料を置いていったりはしないだろうが、何か忘れてはいないかと念を押す。
あとで届けることもできるが、今思い出せるなら、持っていったほうが後で困らないだろう。そんな、単純な心配からの問いかけだった。
深い意味はなにもなかった。そのはずだった。
けれど、パスカルの瞳が大きく揺れた。そのくせ、表情からはすとんと色が抜け落ちていく。
無というにふさわしい顔になったその一瞬。
この世界に流れる時間が止まったような、そんな錯覚にヒューバートは陥った。そのくせ、風や光や、花の匂いは鮮明に感じられるという、不思議さ。
そんな中で、いままでみたことのないパスカルの表情に、戸惑う。
変なことをいった覚えはないけれど、パスカルに変化をもたらしたのは、自分の言葉だ。反芻してみるが、そんな顔をされるほどのことではない。なにが、そんなにその心に波紋を描くことになったのかが、わからない。
「パスカ、」
「んーん、だいじょうぶ」
名を呼ぼうとしたヒューバートを遮り、パスカルは幼子のように頭を振って、答えた。そのまま、ヒューバートに背を向ける。
とんとん、と飛び石遊びをするかのような足取りで、パスカルが遠ざかっていく。
「そう、ですか」
今のは、何だったのだろう。そう思うが、それをパスカルにきいていいものかどうか、わからなかった。
すっかりそんな表情を打ち消してしまったパスカルは、普段どおり歩いていく。
お別れだ。
ぽろり、そんな現実が、ヒューバートの胸に落ちて転がる。
「フェンデルまでお気をつけて、パスカルさん!」
慌てて、小さな背にありきたりな言葉をかける。ぴたり、とその歩みが止まった。
「うん、ありがと」
にこ、と振り返ったパスカルが、光の中、柔らかに笑う。
「ばいばい。さよなら――ヒューバート」
そう、当たり前のように返し。
ひらり、マフラーの裾をなびかせて、パスカルは去っていく。
その後ろ姿が見えなくなっても、そこから動けぬヒューバートの耳の奥には、別れの言葉と、自分の名を紡いだパスカルの声が、いつまでも木霊していた。