鈍感恋愛 後編

 フェンデルは雪の国だ。
 いつも灰色の厚い雲に覆われ、ときに激しく、ときに静かに、白い雪は空から降り積もる。
 そんな空の下、ザヴェートの港へと続く道をゆく青いストラタ軍服をまとった青年の頭上を、大きな影が過ぎる。あたりに響く獣じみた咆哮に、その青年は素早く天を仰いだ。
「……!」
 ごう、と風に巻き上がる雪から視界をかばうように手を翳したヒューバートの前に、見た目よりもずっと静かにヴェーレスは着地した。
「みつけたわよ」
 ひらり、その背から飛び降りて開口一番、フーリエは言った。
「フーリエさん? お久しぶりです。お元気でしたか」
「ええ。そちらもお元気そうでなによりね」
 共に旅をしたことはないけれど、様々な接点を持っているフーリエとヒューバートは、互いにありがちな挨拶を交わした。
「今日はこちらにはどういったご用件で? 研究ですか?」
 常に晴れ渡っているストラタの空と海を思わせるヒューバートの視線を真正面から受け止めながら、フーリエがゆっくりと頭を振る。
「いいえ。ちょっとあなたに用事があって」
「ぼくに、ですか」
 ヒューバートの切れ長の瞳が、わずかに見開かれる。フーリエが直に尋ねてくるような用件があると考えていなかったのだろう。たまたま見かけたから声をかけられただけだと、そう思っていたに違いない。
 そんなヒューバートの様子はいっさい構わず、きゅっと雪を踏みしめフーリエが前に出る。
「あなたに言いたいことはいろいろあるんだけど。とりあえず、まずは――」
 ぱちん、とフーリエが指を鳴らす。傍らに、今まで静かに控えていた生物兵器の瞳が、ぎらりと光った。吐き出される熱い息が、白い靄となって鋭い牙の合間から蒸気のように漏れ出す。
「よくもうちの妹を泣かせてくれたわね! やりなさい、ヴェーレス!!!」
 鋭い号令に、ヴェーレスがフーリエの脇を低い姿勢で風のように駆け抜け、ヒューバートに肉迫する。命令されたゆえか、生物兵器としてつくられたゆえか、感情のこもらぬ容赦のない攻撃が繰り出される。鉄をも引き裂く爪が、凍れる大気を割って迫る。
「くっ!?」
 素早く構えた双剣でそれを弾き、ヒューバートが大きく後ろに距離をとる。積もっていた細かな雪が、その動きにつられて舞う。
「フーリエさん!? 一体何を……! このようにいきなり襲われる覚えはありません!」
 涼しいヒューバートの目元が、きりりとつりあがる。
「そんなこと、自分の胸に聞きなさい!」
 フーリエの突然の怒りを体現し、突進してくるヴェーレスを華麗に避けて、ヒューバートが剣を振るう。
「仕方がありませんね……!」
 不本意であるとはいえ、戦いの渦中にひきずりこまれた戦士の、その声音が研ぎ澄まされたものに変化する。
 一撃、二撃。
 衝撃と共に交わされる攻撃。ひらり、白い世界に翻る軍服の青い裾と、白銀の刃の軌跡。努力の積み重ねで会得した剣の技、実戦の中でさらに洗練されたそれに、無駄はひとつもない。
 三撃、四撃。
 流水のごとく美しく繰り出されるヒューバートの攻撃は、みた目とは裏腹に鋭く重い。ヴェーレスの顎が少しだけ持ち上がり、わずかに隙が生まれる。
 それを見逃すほど、ストラタの少佐は甘くない。双剣が、一瞬のうちに銃へと組み替えられる。
「派手に踊れ!」
 高らかに、ヒューバートの声が戦闘の空気を天高く裂く。これまでに幾度も敵を討ち果たしてきたヒューバートの奥義が、白い世界に華開く。
 打ち込まれる弾丸の嵐に、ヴェーレスが大きな悲鳴をあげて、どうと雪道に倒れふす。
「ヴェーレス!? くっ……!」
 駆け寄って、その様子を確かめたフーリエが唇を噛む。あまりにも、あっさりと倒されてしまったことに驚きと悔しさを覚えたようなその仕草。
 だが、ヒューバートは、ラムダと直に刃を交えた剣士である。きっとその後も、鍛錬を欠かしたことはないのだろう。今の戦闘がそれを物語っている。
 ヴェーレスを倒されたフーリエの瞳が、さきほどよりなお鋭さを増す。今度は自分が銃を手に取りそうな闘気を滲ませ、フーリエが立ち上がる。
「まったく、さすがね。その実力は認めざるをえないわ。でもね……」
 言葉を区切ったフーリエから視線を逸らさず、そして警戒をとくことなく、金属音を響かせならヒューバートが銃を剣へともどす。次になにがあっても対処できるように、ということだろう。
 しかし。
「あなたみたいな男に、パスカルを簡単に連れてなんて行かせないわよ!」
 びしっと指差してくるフーリエが、声高らかに宣したものは、予想外すぎる言葉だったのか。
「――は?」
 ヒューバートの剣の切っ先が、僅かに下がる。
「だいたいね、あなたがもっとしっかりしていれば……! そうよ、そうすれば、私があの子の面倒をみなくてもよくなるのよ! 蓼食う虫も好き好きっていうけれど、蓼が好きならちゃんと全部もっていきなさい!」
「っ?!」
 支離滅裂ではあるが、フーリエの言葉に思い当たるところでもあったのか、わずかに頬を染めたヒューバートが息を飲む。それを好機とみてとったのか、フーリエがさらに畳み掛けるように、足をふみ出した。
「そもそも、あなただってパスカルのことが――!」
「あああ、おねえちゃん落ち着いてー!」
 収まるところがみえない会話の勢いに、「まずは私が話すから、パスカルは手近なところに隠れていなさい」とフーリエにいわれていたことを放り出し、パスカルは道脇の木の後ろから飛び出して、その腰にすがりついた。というか、戦闘がはじまったときに真っ先に割り込むべきだったのかもしれない。
「パスカルさん?!」
 急に現れたパスカルに、ヒューバートが驚いて名を呼ぶが、返事をする余裕もない。
「お、おち、落ち着いて、おねえちゃん!」
「離しなさいパスカル!」
 ヴェーレスを倒されたことか、パスカルのことに関してか、そのどちらもなのか。いろんな意味で熱があがってしまったフーリエを止めるのは一苦労だ。
 なんとか気を鎮めさせ、姉妹二人揃って肩で息をついていると、眼鏡を押し上げながらヒューバートが一歩近づいた。
「まったく……これはどういうことですか? ちゃんと説明していただきたいものですね」
 まだほんのりと頬に朱を刷いたまま、ヒューバートが言う。
「ええっと、その……、なんていうかね、」
 ぽりぽりとパスカルは頭をかいた。そして。
 かくかくしかじか。
 パスカルは、ヒューバートが受けているというアンマルチアへの接触任務のことを、偶然にも知ってしまったことを説明した。
 それを黙って聞いていたヒューバートが、白い息をつく。
「確かにぼくは大統領閣下からアンマルチア族へ技術提携の話をするよう命令を賜っています。ですがそれは、ポアソンさんから長老へと通じ、必要な人材を派遣してもらえないかと交渉をしろということです。そこで、どうしてパスカルさんを連れて行く云々となったのか……。旅の仲間がアンマルチア族であったという噂が、一人歩きでもしているのでしょうか」
 すらすらとよどみなくそう告げたヒューバートは、パスカルの瞳を真正面から見据えた。
「それに、パスカルさんには、フェンデルの大煇石を資源として活用するための研究が、まだまだ残っているでしょう?」
 そんな大事な技術者を引き抜こうなどとすれば、ようやく緩和してきたストラタとフェンデルの関係は一気に悪化する。そんなことしようとするはずもない、とヒューバートは続けた。
「でもさっき、あたしにいつかストラタに来てほしいって、いってたよね?」
 おずおずと、パスカルは自室で交わした会話のことを持ち出した。
「あ、あれは……! その……、それとは違いますっ」
 ゆっくりと、ヒューバートの顔が再び赤く染まっていく。
「いつか、あなたなら必ず研究は完成させられるでしょう。だから、それが終わったら、その……きてほしいということで、いますぐ……という話では、ありません」
「そっか、そうなんだ~」
 どうやら勘違いをしていたらしい。パスカルはほっと胸を撫で下ろして、笑った。
 でも。
「あれ? でも、大煇石のためじゃないってことは、あたしなんのためにストラタにいかなきゃいけないのかな?」
 ん~、と口元に指先をあて、天を仰ぐようにして理由を考える。他に何があるのだろう。
「そ、それは……その……」
 目に見えて、ヒューバートがうろたえる。手を握ったり開いたりと奇妙な動きをみせるヒューバートを、不思議な気持ちをもって眺める。俯いているせいで、その端整な顔はよく見えないが、かすかに耳が赤い。
 寒さのせいかな~、とパスカルが首をかしげたところで。
「よければ、ぼくのところへ……来ていただけないか、ということで……」
 聞き取れるか聞き取れないかくらいの、小さな声。下手をすれば雪風に負けてしまうくらいの。だが今は、ちゃんと届くくらい、あたりは静かだった。
「ああ、なるほどー! なになにー、弟くんの家の煇石装置でも壊れちゃったのかな? やだなー、それくらいならすぐになおしてあげるのに~」
 ストラタは水の原素を上手く用いることで繁栄してきた国家である。貴族や大商人の家ならば、そういった技術もふんだんにとりいれられ、複雑な装置を置いているところも珍しくはない。オズウェル家も然り。
「違いますっ」
 がば、とヒューバートが顔をあげる。それは困惑やらなにやら様々な感情が複雑に入り乱れている。なんだかその瞳が泣きそうなのは気のせいか。
「え、あれ? そうじゃないの? えっと、じゃあ……」
 どうやら違うらしい。それとも自分が考えた今の理由以外のものがそこにはあるのか。パスカルは、さらに首を傾げた。
 だがわからない。わからなければ、わかっている者に聞くのが一番である。
「じゃあそれって、どういう意味?」
 瞳を瞬かせ、パスカルがさらりと問いを投げかけると。
「っ! あ、あなたという人は!」
 ぶるぶると、ヒューバートが拳を握り締めた。
「普通、ここまで言えばわかるでしょう?!」
「え~? わからないよ~。ちゃんといってくんなきゃ、もうわかんないよぉ~」
 パスカルは、駄々っ子のように腕を振り上げ足を踏み鳴らす。
 わからないから聞いているというのに、答えを教えてくれないうえにこっちのせいにするなんて、ヒューバートは意地悪だ。
 ぶ、と頬を膨らませると、ヒューバートが視線を泳がせた。
「だ、だからですね! ……その、なんというか……えー……一緒に、ストラタで暮らしませんか……と、いうことです!」
「え、誰と?」
 パスカルがついそう訊くと。
「ぼくとですよ!」
 悲鳴じみた声で、ヒューバートはそういった。
 ぜぇ、はぁ、と。さきほどのヴェーレスとの戦闘でも、息を切らせることのなかったヒューバートが、身体を揺するようにして呼吸を繰り返す。呼吸困難を起こしたようなその姿を、パスカルはじっと見つめる。
 ヒューバートの顔は、軍服の僅かな隙間から見える首から、耳の辺りまで真っ赤だ。もしかしたら、頭の天辺まで赤いのではなかろうか。
 それをみていると、胸の奥がくすぐったいものに満たされていく。それは、今まで感じたことのない奇妙な感覚だ。でも、嫌じゃない。むしろ心地いい。
 パスカルは、なんだか泣きたいのを堪えるように、胸元で手を握り締めた。
「――あたしの技術が必要だからじゃ、ないんだ?」
「……ぼ、ぼくに……パスカルさんが、ひ、必要だから……です……」
 途切れ途切れにそういったと思ったら。
 ぎら、と眼鏡の奥底の瞳が光った。ぐぐっと拳をさらに力強くにぎり、ヒューバートが口を大きく開く。
 どうやら臨界点に達したらしい。
「それに! あなただって、ぼくがいないときちんとお風呂にもはいらないし、部屋は散らかり放題になるし、それに食事だってバナナばかりになるでしょう?!」
 いやまったくもってそのとおり。
 うん、とパスカルがひとつ頷くと。ヒューバートもまた頷いた。
「だから、ぼくたちは一緒にいればいいんです!」
 と、噴火するような勢いでそう言い切った。
「それって、弟くん、あたしの面倒見てくれるってこと?」
「そうです!」
 みるからにヒューバートはやけっぱちだ。でも激しさとは裏腹に言葉は嬉しいものばかり。パスカルは頬に笑みが降ってくるのを、ぼんやりと感じ取る。
「つまり、弟くんはあたしのことが好きってこと?」
「ぼくは好きでもない人と一緒にいたいとは思いません!」
 ぽん、と発明に没頭しているときにいい考えが浮かんだときのように、パスカルの思考の一部が解放される。
 それは、わかったからだ。
 ふわふわと、足元が柔らかくなったような気がする。そして、運動したときよりもっともっと、甘く高らかに鳴り響く心臓を自覚する。
 やっぱり、自分はこの青年に恋をしている。
「ね、もう一回ちゃんと言って? いってくれなきゃ、こたえられないもんね」
 にひひ、とパスカルは笑った。う、とヒューバートが言葉に詰まる。
 ね、ともう一押しすると、ヒューバートが俯いて咳払いをした。
 そして、数回深呼吸したあと、緞帳のようにゆっくりと顔があがっていく。そこにあるのはいつになく真剣で、吸い込まれそうな蒼さを湛えた瞳だ。
 その真っ直ぐさが、心地いい。
 パスカルは、その色に見惚れた。
「ぼくはあなたが好きです。だから、いつの日か、あなたの研究が完成して、この国の人々の暮らしがよくなったら……そのときにはストラタの、ぼくのところへきてくれませんか……?」
 最初から、そういってくれれば誤解することも、なかったのに。
 でも、それがなければ自分は自分の気持ちに気付かなかったかもしれない。
 だから、おあいこということでいいだろう。
 そう結論付けたパスカルは、なんだか不安そうに幼げな顔をしているヒューバートへ向かって、へらりと頬を緩ませた。
「うん。いいよ!」
 パスカルは笑顔とともに、いつもの調子で頷いた。
 ほ、とヒューバートが息をついた。普段、滅多に見ることのない、優しい笑顔がふわりと浮かぶ。
「ありがとうございます」
 ぎゅっと手を握られる。感極まったらしいヒューバートが、熱っぽく言う。
「その日がくるまで、ずっと待っています。待ちながら、こうしてまた――あなたに、会いにきます」
 その声があまりにも嬉しさと、愛おしさに満ち溢れているから、パスカルはたまらなくなった。
「うう~、ヒューバートぉぉ!」
「っ、ちょ、ちょっとパスカルさん!?」
 何かに突き動かされたように、パスカルは握られていた手を振りほどくと、目の前の青年に力いっぱい抱きついた。
「あたしも大好きだよ~! あたし、研究ばりばり頑張っちゃうから!」
「わかりましたわかりました! わかりましたから、離れてくださいっ!」
「や~だ~!」
 ヒューバートが叫んで引き離そうとするのもなんのその、パスカルは細い腕に力を込めてそれに対抗した。
 とにもかくにも、これで疑問はすべて解決である。すっきりさっぱり答えを得て、清々しい風に似た感情が、身体の中を吹き抜けていく。
 明日からまた、約束を果たすために研究に頑張れる。だって、フェンデルの人たちだけじゃない、もう一人、待っていてくれる人ができたのだ。
 研究結果ではなく、自分自身を待っていてくれるといった、この青年のために。自分にできることを精一杯やろう。そう考えれば、胸の奥からあふれて零れるように、希望や考えが次々と生まれてくる。だからきっと大丈夫。
「もう、ほんと頑張るからねっ!」
 きゃっほー、と歓声をあげてそうパスカルが伝えると。
 観念したのか、逃げようとしていたヒューバートの動きが止まった。そして、壊れやすい宝物を扱うがごとき柔らかさで、そっと腕が回される。慈しむように、抱きしめられる。
 パスカルは、細いくせに鮮やかに剣を振るうだけの力を秘めたヒューバートへ、されるがままに寄り添った。
「――はい。きっとパスカルさんならできます。ぼくは、信じています」
「うん!」
 ぎゅうと抱きしめかえし、頷いたところで。
「どうでもいいけど、あなたたち、私がいること忘れてない?」
 大好きな姉の呆れた声が聞こえ、パスカルはヒューバートの胸から顔をあげた。
「え、お姉ちゃんてばやだな~、忘れてなんかいないよ~? ね、ヒューバート」
 そんなことあるわけないじゃん、ねー? と、パスカルは笑顔でヒューバートに同意を求める。
「っ、!?!!?」
 しかし、たった今、心を通じ合わせた青年は、すっかり意識から抜け落ちてしまっていたらしく。
 ヒューバートの引きつった悲鳴が雪の空に木霊し、べりっと勢いよく温かな場所からパスカルは引き剥がされる。
 それをちょっと残念に思いつつ、パスカルは大切な二人を見遣る。
 大いに慌て、挨拶やらいい訳やら、いろんな台詞を繰り返す真っ赤なヒューバート。
 それを無言のまま威圧感たっぷりに受けるフーリエ。
 二人の姿は対照的で、おもしろい。
 けたけたと、冬に閉ざされたフェンデルの片隅、パスカルは花の蕾が綻ぶように笑いだす。
 そして、声をあげながら考える。想像する。
 すべてがきちんと片付いた、そう遠くない未来。どこまでも続く青い空をもつ、乾燥したあの国で。

 ヒューバートと一緒にバナナをたくさん食べられるといいなぁ――と。

 いつか訪れるそんな幸せに向かって、心の中で手を伸ばした。