「ちょっとパスカル、なにぼーっとしてるの!」
「え、あ……! うわわあああっ、とぉぉぉ?!?!!」
フーリエの苛烈な声に、はっと意識を取り戻したパスカルは、慌てて計測機器を止めた。火の煇石の体積がひとつ上がるごとに、どれくらい圧力限界が違うのかを測定しようとしていたというのに。危うく暴発させるところだった。
間一髪、そんな事態を避けたパスカルは、ふう、と額に浮かんだ汗を拭った。顔を上げると、フーリエが目を吊り上げて睨み付けてきている。パスカルの頬が、勝手に引きつる。
「まったく、今日はどうしたっていうの。いつも以上におかしいわよ?」
「そ、そんなことないよ~」
あはは、と笑ってみせるものの、フーリエは容赦がない。腰に手をあて、ずいと顔を近づけてきた。
「嘘おっしゃい! わたしにわからないとでも思ってるの!?」
「ひぃ! ご、ごめんなさい~!」
大好きな姉には頭があがらない。
パスカルが飛び上がって謝罪したことに気がそがれたのか、フーリエが背を向けた。ふう、と肩の力を抜くように息をついて歩き出す。
「ちょっと休憩しましょ。お茶を淹れるわ」
「うん……ありがと、おねえちゃん」
今日は、気遣ってもらってばかりだ。ヒューバートのことをちらりと思い出し、また小さく胸を痛めたパスカルは、無意識のまま胸の上に手を置いた。そうしながら、素直に姉の言葉に甘え、計測機の前から移動する。
研究室の片隅においてある椅子に、ぺたん、と腰掛ける。
ほんとうにどうしてしまったのだろう。
こんなこと、いままでに一度だってなかった。いつも自分の心を占めているのは研究のことで、それに携わっているときは余計なことなんて考えることなんてなかったし、さっきのように、ぼーっとすることだってなかった。
ちらりと脳裏を過ぎるは青い色彩。それが、意識の片隅から離れてくれない。
やっぱり、おかしいなあ――あたし。
自分のことを振り返りながら、ほんの少し眉を潜めれば、薄い影がパスカルに被さった。
「疲れてるの?」
そんな言葉とともに、ずい、と差し出されたカップを受け取る。ゆらりとくゆり立ち昇る湯気は香ばしい匂いがする。
パスカルがちゃんと手にしたこと確かめた上で、フーリエが真正面に位置する椅子に腰かける。
「ん、ん~……そんなことは、ないと思うんだけど」
コーヒーに口をつけているフーリエに、わずかな間をおいて、パスカルはそう答えた。
「じゃあどうしたっていうの? 今日のあなた、まったくもってらしくないわよ」
フーリエの言うとおりだ。
うう~、と呻きながらパスカルは視線を下げた。
ゆらゆらと手の内で揺れるコーヒーの水面に、途方にくれた迷子の子供のような自分の顔が映っている。ぎゅ、とパスカルは瞳を閉じた。
「お、お姉ちゃんあのね、あたし……わからないんだ」
「なにが? 研究にいきづまっているの?」
思いつめたような顔をしてしまっているのか、フーリエがさすがに心配そうに問いかけてくる。しかしこれだけの研究なのだから、立ち止まることがあっても仕方ないと励ましてくるフーリエに対し、そちらのことではないと、パスカルは大きく頭を振る。
「さっきに、弟くんがね、来てくれてたんだけど」
「弟くん……? ああ、ストラタの軍人の? あの眼鏡くん?」
何度か顔を合わせたことがあるヒューバートを思い出したらしく、フーリエがわずかに首を傾けて言う。
「うん。きてくれて、すっごく嬉しかったんだけど、おんなじくらいに悲しくて……。それがどうしてか、わからないんだよね~」
泣きたい気分なのに、顔はそれでも笑ってくれた。
「パスカル……?」
それをみたフーリエの瞳が、見開かれる。
「だってね、弟くん、あたしにストラタに来てほしいらしんだけど――それってあっちの研究に携わってストラタの発展を助けてほしいってことらしいんだー」
視線を逸らし、ぷらぷらと遊ばせる自分の足先をみつめる。
「あたし、てっきり弟くんは、ただ、なんとなーく、あたしに会いにきてくれてるんだって思ってた。でも、違ってた。勘違いだった」
遊びにきてくれていたわけじゃない。パスカルのことを心配してくれていたわけじゃない。ただ、職務に忠実な軍人としてパスカルの様子を見、時期をうかがっていただけ。
「よくわかんないけど、それを知ったときに胸が痛くなったんだよね~」
胸のどこかに確かにひらいた穴は、ひゅうひゅうとストラタの空に吹きすさぶ冷たい風の音に似たものを響かせている。
「どうしてかなあ。どうして、かなぁ……」
きゅ、と両手で抱えたカップに力をこめる。ぱたり、と手に落ちる雫。堪えることを考えることすらできなかった、涙だった。
本当にわからない。たったそれだけのことのはずなのに。どうしてだろう。ヒューバートはただ、ストラタの軍人として国に尽くそうとしているだけなのに。
当然なことのはずなのに、胸がいたくてたまらない。
黙って聞いていたフーリエが、くすりと笑った。どうして笑うのだろうと視線をあげたパスカルの前には、どこか嬉しそうなフーリエがいる。それでいて、母親のような慈しみも滲ませていて、パスカルは見とれた。
「パスカル……あなた、あの子のことが好きなのね?」
「好き? そりゃあ、弟くんのことは好きだよ、あたりまえだよ」
パスカルは、涙を纏う睫を忙しなく上下させながら、すぐさま答えを返した。
出会って、共に旅をして、疑われたこともあったけど、友達になって。いろんなことにも付き合ってくれた。興味を持ったら、ついつい突っ走ってしまう自分を、いつも追いかけてきてくれて、フォローしてくれていた。そんな仲間のヒューバートを、好きでないなんて、ありえない。
フーリエがなんともいえない顔をする。しなやかな手が、ぺたりと額を覆う。
「そうじゃないわよ……」
そんな力の抜けた呟きが、かすかに零れた。
「あのね、パスカル、好きっていうのにもいろいろとあってね。あ~……なんていえばいいのかしら。とりあえず、頭の中にあの子と、そのお兄さんのことを思い浮かべてみて」
「アスベルのこと? うーん、とぉ……」
目を閉じて、暗い瞼の裏に対照的な色合いの兄と弟を並べてみる。
「じゃあ、訊くわよ? どっちに会えるほうが嬉しいかしら?」
「ん、んー……?」
パスカルは腕を組んで首を捻った。幻のアスベルが笑う。ヒューバートがつんとそっぽを向く。それでも。
「どっちって……どっちも嬉しいよ?」
対照的な印象の兄弟だ。しかし、どちらもパスカルにとってその存在は大きい。
「でも、その嬉しさって、少し違わないかしら?」
「え~?」
パスカルはもう一度、自分の感情をできるだけ客観的に分析しようと試みる。
嬉しいのは間違いない。どちらにあえても、きっと飛び上がって喜ぶ。大切な友達で仲間だから。だがそこに違いがあると、フーリエはいう。もしかしたら、二人一緒に考えているから、うまくわからないのかもしれない。
まず、脳裏からヒューバートを消してみる。
「ん~?」
それだけで、なにか寂しい気がする。わずかに眉根を寄せて、パスカルは考える。やはり、アスベルに会えると嬉しい。にこりと明るい笑顔で、親しげに名前を読んでくれるのは、嬉しい。
では次。
アスベルを消して、ヒューバートを思い浮かべる。
「ん、ん~……?」
ふわと、胸に花が開いたような気持ちを覚える。
幻のヒューバートは、いつものように冷静で澄ました表情の中、瞳だけが海のような穏やかさをたたえている。それが、自分を見守ってくれている。
そう気付いたとき、やわらかにヒューバートが微笑んだ。照れたような、はにかむような、あきれたような――でも、とても優しい笑顔。
自分の想像なのに、心があたたかくなる。なんだかとっても安心できる。それは心地よい感覚だった。
これは、嬉しいというより……そうあることが、とても好きだなぁって思ってる?
かっとパスカルは目を開いた。
「あ、ああああ!」
声をあげて手を打ち鳴らす。
「わかったの?」
ぱあ、とフーリエの顔が輝く。
「うん! わかったよ! やっぱりお姉ちゃんってすごい!」
そんな姉に、パスカルは飛びついた。
「そう、それはなによりね。じゃあ……」
「あたし、弟くんが側にいてくれると何でも出来そうってことだね! うん!」
「……」
そう元気に言い切ると、フーリエの表情が固まった。だが新たな発見をしたパスカルはそれに気付けない。
「ほんとすごいよ~!」
どこをどう走っていても、振り返ればヒューバートがいてくれる。少し怒りながらも、それでもパスカルのことを見捨てたりなんてしない。ちょっと言い方が冷たいときもあるけれど、その言葉に隠されたものに気付けば、なんてことはない。面倒見がよくて、なんでもできて。
だから、そんなヒューバートが隣にいてくれると、なんでもできるような気分になれるのだ。 力が、湧いてくる。
アスベルとの違いはここだ! そう思ってフーリエを見遣ると、きりりと眦が釣りあがった。
「どうしてそうなるのよ、このおバカ!」
「ひぃっ」
ぶん、と振り上げられた手にパスカルは反射的に身をすくめた。
「そうじゃないでしょ!? パスカル、あなたあの子のことが好きなのよ! 仲間とかそういったことも含んでるかもしれないけど、あの子っていう男の子が好きなのよ! 女の子としてね! わかった!?」
ものわかりの悪い教え子に、回答をつきつけるようにフーリエが言う。
ぱち、とパスカルは大きく瞬きをした。そうして、反芻する。
女の子として、『好き』
そっか、あたしの好きってそういう意味の、「好き」なんだ。
アスベルとかとはまた違う『好き』。
ほうほう――って。
「ええええ~!?!!」
パスカルは頭を抱えた。なんという衝撃。だって、それはつまり、つまり。
「あたしって弟くんに恋してたの!?」
絶叫に近い素直な心の叫びが、パスカルの口から飛び出す。
「……はぁ」
やっぱりわかっていなかったのね、とフーリエが肩を落とした。だがそれもわずかなこと。美しい面が次にパスカルに向けられたとき、そこにあったのは嬉しそうな色だった。
「まあ、いいわ。パスカルらしいといえば、らしいものね。でもこれでわかったでしょ?」
びしっと指差さしたフーリエが、高らかに言い放つ。
「あなた、あの子に『アンマルチアのパスカル』じゃなくて、『ただの女の子であるパスカル』に会いに来て欲しかったのよ」
「そ、そっかー……そう、なのかも」
もご、とパスカルはくちごもる。
なんだろう。わかってしまえばとても単純なことだ。
自分に会いたいから、きてほしかった。任務云々を抜きにして、パスカルという存在として会いにきて欲しかった。つまり、そういうことだ。
そして、そう思うのは、パスカルがいつの間にかヒューバートを特別な人だと想っているからだ。
それですべてのつじつまは合う。複雑なパズルのピースがすべてかみ合ったような達成感。
と、同時に、むずむずと胸の奥が痒い。
どうしよう、なんだか頬が熱い。パスカルは、ぐいと頬を拭った。
「それにしても、このままじゃパスカルの今後の研究に差し支えがでそうだし……いくわよ」
そういって、ぐーっとコーヒーを飲み干したフーリエがきびすを返す。
「お、おねえちゃんどこいくの? 実験の続きは?」
「あとよ、あと。いまは、こっちをはっきりさせるのが先決よ」
そういって、つかつかと部屋の片隅へと装置を起動させる。
そこにあった大きな培養装置の中に満たされていた水が引いていく。ぎょろり、中におさめられていたフーリエのしもべたるヴェーレスが、目を見開いた。
「ヴェーレスをどうするの?」
「パスカル、軍人くんはどこいったの?」
まったくもってこちらのいうことなど聞いていないフーリエに、それでもパスカルは答える。
「ええっと、行き先はいってなかったけど……たぶんストラタいきの船に乗ると思う。弟くんいつも忙しいから、すぐ帰るだろうし……」
「里からの亀車に乗ればもう帝都のあたりか、港近辺ってところかしらね。さ、いくわよ」
「うげっ、お姉ちゃん、首、首がしまってるぅぅ……?!」
マフラーをむんずとつかまれ、息苦しさのあまりパスカルはそう訴えるが、あいかわらずフーリエは聞いていない。
「さ、乗って。頼んだわよ、ヴェーレス!」
創造主たるフーリエの命令を了承するヴェーレスの咆哮が、研究室内の大気を震わせた。