かわったカノジョ後編

 蒼く美しい氷の道をあがっていく途中、人の気配が全くなくなった頃。ヒューバートは、深く沈みこむような重々しいため息をついた。
 ああ、なんとみっともないことをしたのだろう。思い返せば、顔を覆ってしゃがみこみたくなる。穴があったら入りたい。
 兄に対する弟としての複雑な思いはあっても、それはあくまで家族に対するもので、異性に対してここまでの想いを抱くことなんてなかったから、ヒューバートはただうろたえるばかりで、どうしたらいいのかわからない。
 ただひとついえるのは、自分の態度はよくなかったということだ。パスカルはまったく悪くないのに、あんな風にされて不快に思っただろう。
「あとでパスカルさんに、謝らなければ……」
 食事の約束はしたのだ。そのときに、きちんと謝罪をするべきだろう。
 パスカルさんが恋をしていてショックを受けましたと、正直にいうべきか――いやいや、そんなこといえるわけがない。
 ぶんぶんとヒューバートは頭を振った。
 かといって、パスカル相手に嘘をつきたくはない。
 ああ、教官ならばもっとうまくやれるのだろうか。どうしたらいい、どうしたら。
 心の中で叫びながら、腹の底でわだかまるモヤモヤを高速でかき混ぜつつ、ヒューバートは歩いていく。
「――ん?」
 道の中ほどまできたところで、微かな声が聞こえた気がして立ち止まる。氷の道を駆け抜ける風のいたずらかと思ったが、違う。
「お――と、くー……」
 もう一度、声が聞こえる。それは良く知っているものだ。
 素早く振り返る。
 あんな姿をみせたのだから、そんなことありえないと考えるのに、そうであって欲しいとも願うヒューバートの目の前に、声の持ち主が姿を現した。
「おーい! 弟くーん! 待って~!」
「パスカルさん!?」
 パスカルが手を振りながら、今しがた通った道を駆けてくる。慌てて逆戻りしたヒューバートのもとにたどり着いたパスカルが、わずかに息を弾ませながら笑った。
「はあ、弟くん、歩くのはやいね~! 追いつけないかと思ったよ~」
「どうして……」
「ん? やっぱり弟くんと一緒に帰りたいと思ってね~。あとは皆と教官に任せてきちゃった!」
 研究第一のパスカルが、こんな行動にでるなんてまったくの予想外だった。追いかけて、きてくれるなんて。
「パスカルさ、」
「ごめんねっ!」
 じんわりと胸の奥に広がる熱に、喘ぐようにヒューバートが口を開こうとしたところで、パスカルが手を合わせ、ぎゅっと目を閉じてそういった。
「は? なぜ、パスカルさんが謝られるのですか」
 そろりそろりとパスカルが目を開く。まるで悪事がみつかった子供のようだ。
「だって弟くん、あたしに呆れちゃったんでしょ?」
 呆れた? 一体何に。思い当たるところがなくて、ヒューバートは眉を顰める。
「むしろパスカルさんのほうが、ぼくに呆れてしまったのではありませんか?」
 あんな、あからさまな態度をみせたのだから。自分の行いを後悔しながら呟いた言葉に、パスカルが不思議そうな顔をする。
「そんなことあるわけないじゃん~」
 だが、あっけらかんとした答えにばっさりと切り捨てられて、いささか拍子抜けする。
「そうじゃなくて、弟くんがあたしに呆れたでしょ? んん~、頑張ったんだけどな~……。どのあたりがだめかな?」
 そういって、ふんふんと自分の匂いを嗅ぐパスカルの言葉を噛み締めて、ヒューバートはゆっくりと目を瞬かせた。
 パスカルが顎に手を当て、何かを思い出すように目を閉じる。
「髪もちゃんと櫛を通すようにしてるし、服もちゃんと洗ってるし……。お風呂だって大煇石のおかげでいつもお湯が沸いてるようになったから、ちゃんと入るようにしてるんだけどなあ」
 これ以上はどうしたらいいのかわかんない。
 万事休すだとでもいうかのように、パスカルが両手を持ち上げて肩をすくめた。
「……」
 ヒューバートは、考える。考えようとする。だが、そうするのも馬鹿らしいくらい明確に、答えはそこにあった。
「それでは、パスカルさんが、その、そうされているのは――」
「ん?」
 小さく首を傾げるパスカルを見下ろしながら、ヒューバートは懸命に言葉を紡ぐ。
「ぼくのため、なのですか?」
 問いに対する応えが返るまでの僅かな時間が、とても長く感じられる。どきどきと、いつの間にか早い鼓動刻む心臓がめぐらせる血潮が熱い。耳元で、音がする。
 パスカルの大きな瞳が、柔らかな色を帯びて細められる。
「うん、そうだよ~。だって、弟くんってば『お風呂にはいってくださいっ』って、いつもいってたじゃん!」
 ヒューバートが会うたびに言っていた言葉を器用に真似して、パスカルがお腹を抱えながら笑った。

 つまり、つまり――自分の言葉は、パスカルに届いていたのか。

 その努力の結果を体現した、小奇麗なパスカルをまじまじと見つめて、そうなのだとようやくヒューバートは理解する。
 ヒューバートの熱が耳にまで広がっていく。心臓が煩い。どんな強敵と相対したときでも、こんなことはなかったのに。
 いますぐ、すぐ側にある氷の柱に抱きついて、火照りを冷ましたいところだ。その衝動をなんとか堪え俯く。幾度か深呼吸を繰り返す。冷えた空気が肺にたまり、暖められてまた出て行く。
「ですが、」
 だがこれでは、さきほど教官がいっていたことと違うとふと気付く。一体、どちらの言っていることが正しいのだろうか。
「ぼくは……パスカルさんに好きな人ができたから、身の回りに気を使うようになったのだと伺いましたが」
「うん、それもあるかな~」
 はにかみながらあっさりと頷かれた。ヒューバートは、また泣きたくなった。
「……そうですか」
 結局のところ、どちらも正しいということらしい。
 自分にいわれたから綺麗にしようとしたのも事実。
 そして好きな男のために綺麗になろうとしたのもまた事実。
 一瞬で天にまで昇っていた気持ちが、ドーンとその勢いのまま落ちてくる。
「お~い、大丈夫、弟くん?」
「はい……」
 一体どこの誰なのだろう。その相手が羨ましくて仕方がない。
「だってさ~、すごく綺麗好きだし、やっぱり好きな人には嫌われたくないじゃん?」
 恋をして、綺麗になって、そうして笑いかけてくるパスカルは、マリクのいうとおりいじらしくて可愛い。
 それが、自分のためであればどれほどよかっただろう。
 込み上げるものを無理やり押し込めて、ヒューバートは頭をさげた。今、謝らなければ、また心が捩れてしまいそうな気がしたから。
「すみません。さきほどパスカルさんに、とても失礼なことをしてしまいました」
「さっきのこと? え~、別にそんなことないって!」
 べしべしと、痛いくらいの勢いで肩が叩かれる。思わずよろめいて、顔をあげる。すぐ近くで、パスカルがにひひと笑っていた。
「それにさ、もう一緒に帰ってくれる気になってるでしょ?」
「それは……、そうですが」
 せっかく追いかけてきてくれたのに、断ることなどどうしてできようか。それをわかっているのにそう訊いてくるパスカルに、ヒューバートはかすかに苦笑した。
「じゃあ帰ろ! あ、教官もあとからくるってさ」
 くるり、背を向けたパスカルが出口に向かって歩き出す。そのあとをヒューバートはゆっくりと追いかける。
「それにしても、よくぼくのいうことをきく気になりましたね」
「教官とお姉ちゃんが相談にのってくれてさー」
「ほう」
「ここ最近、弟くんってば全然遊びにきてくれなくなったでしょ?」
「そうですね」
 正確にいうならば、仕事が立て込んでいて来られなかったのだが、理由はどうあれ事実である。ヒューバートは頷いた。
「でねー、あんまりにも寂しいもんだから、どうしてかな~って疑問に思ってきいてみたの」
 ん? と、ヒューバートは眉を顰めた。今、なにか嬉しいことを言われなかっただろうか。
「そしたらさ、二人そろって『パスカルが汚いからだ!』、『あれだけいってくれているのに風呂にはいらないからだ!』、『だから呆れたんだ!』っていうんだよ、ひどいよねー」
 え? と、ヒューバートは薄く口を開いた。
「弟くんはそういうひとじゃない、ってあたし言ったんだけどね。二人してやけに力説してくるんだもん。なんでもね、心がけが大事なんだってさ。でもさ、そうすれば弟くんが会いに来てくれるなら、いっかなーって思ってね~」
 会いたいのは、自分だけではなかったのだとヒューバートは初めて知った。そんなこと考えたこともなかった。
 今、足元から全身を襲うものを、「愛しさ」といわなければなんていう名前をつければいいのだろう? ぼんやりと、そんなことを考える。
「だからちゃんとお風呂にはいって、いつでも弟くんがきても大丈夫なようにしてたらさ、ほんとにきてくれてるんだもん。あたし嬉しくて――ひゃぁ!」
 気付けば、ヒューバートは後ろから手を伸ばしてパスカルを抱きしめていた。小さな悲鳴に我に返るものの、パスカルを離そうとは思えなかった。
「どったの? そんなに寒い?」
 見当違いなことをいいながら、パスカルが首を捻ってヒューバートを振り仰いでくる。その子供のように純粋な琥珀色の瞳をみつめながら、覚悟を決める。
 会いたいと思っていてくれていたならば、叶わぬと知ってはいても、せめてこの気持ちを伝えてみたい。それくらいは恋する哀れな男に、許されるような気がした。
 す、と息を吸い込む。
「……パスカルさんは、寂しかったんですか? ぼくに、会えないことが……?」
 勇気を持って搾り出した問いかけに、パスカルがへにゃりと笑う。
「うん! だって、あたし弟くんのこと好きだからね!」
「っ、」
 容易くいってくれるものだ。ヒューバートがずっと欲しかったものを、ずっと言いたかったことを、親しい友人への挨拶のようにパスカルは言った。そのせいで、次に言葉にしたかったものは、ひゅうと胃の底へと落ちて溶け消えてしまった。
 わかっててやっているのじゃないのかと、勘繰りたくなる。
 だが、幼子ではあるまいし、これだけで喜んでいるわけにはいかなかった。その言葉に添えられる想いは、一体如何なるものなのか。男として確かめなければ、ならない。
 もう一度、ヒューバートは呼吸を整えながら、パスカルの瞳を覗き込む。
「それは――どういう意味で、ですか?」
 どこか遠いところから、自分ではない誰かが唇と声を操っているようだと思いながら、ヒューバートは問いを重ねた。
 いつも子供じみた表情しか浮かばないパスカルの面が、ふいに静かな微笑を刻む。逸らされることのない視線と、これまでみたことのないそのひどく大人びた表情に、ヒューバートは飲み込まれるような錯覚に陥る。それはまるで、いくつもの恋を知っている、駆け引き上手な女のようだった。
 ごくりと、知らずに喉が鳴る。それを見計らったかのように。

「にぶちん」

 ごくごく短い一言が、可憐な唇から飛び出した。
 思いもかけぬその言葉に、ヒューバートが絶句し固まった隙に、するりとパスカルが腕の中から抜け出した。
 そのまま、捕えられぬ蝶のように、長いマフラーの先をひらめかせてパスカルが歩いていく。その背を呆然と見送る。それなりに距離がひらいて、ぴゅうと風が吹いた瞬間、ヒューバートは意識を取り戻した。
「ちょ、ちょっと待ってくださいパスカルさんっ」
「や~だよ~」
 そういって、振り返ることなく先へ先へと進んでいくパスカルを、走って追いかける。細い手首を掴んで、引き止めた。
「いまのは一体どういう意味ですか!」
「意味意味って、さっきから弟くんってばそればっかだね~」
 パスカルがつまらなさそうにいう。
「~~っ!」
 その通りだ。だけれどちゃんと伝わるような答えをいわぬパスカルにも問題があるはずだ。ぐ、と拳を握り締めたヒュバーとの目の前で、ん~、とパスカルが口元に指先をあてた。そして。
「弟くんって、やっぱアスベルの弟だよね。いい勝負できるよ、きっと」
「なっ?!」
 さきほどの「にぶちん」発言から察するに、色恋沙汰の鈍さを揶揄されていると悟る。あの兄と一緒にされるほど鈍いつもりはないヒューバートは、思わず頬をひきつらせた。
「聞き捨てなりませんね。誰と誰がいい勝負ですか!」
「だから、アスベルとヒューバートが」
「そんなことはありませんよ!」
「え~、だってさ、答えが等号で結ばれるって、全然気付いていないっていうかその可能性すら考えてないみたいじゃん?」
「は?」
 ぎゃんぎゃんと言葉を交わしていたヒューバートは、眉を顰めた。
 ほんとうに「意味」がわからない。
「はいはーい、ではここで問題でーす。あたしがちゃんとお風呂に入るようになった理由は?」
「それは……」
 さきほどまでの会話を反芻する。
「ぼくが入るようにいい続けたから、それに根負けしたというのがひとつ」
「うんうん」
 それと、一番心が痛む答えがある。
「……もうひとつは。パスカルさんに好きな人ができたから、でしょう」
「そうそう!」
「……」
 わかってるじゃん! そう言うパスカルの笑顔を眺めながら、考える。
 等号で結ばれる。答えが結ばれる。そこからの可能性を考える。人を信じるな、自分の都合のいいように考えるなというオズウェル家の教えを、今は彼方へと放り投げる。

 つまり――お風呂にはいるようにいった人のため=綺麗好きなその人のため――ということか。

 ようやく得た答えが、心の一番底に落ちていく。冷たくわだかまっていた感情に、綺麗な波紋が描かれていくような感覚に、ヒューバートは震えた。
 パスカルの細い手首から手を離し、のろのろとしゃがみこむ。立っていたら倒れてしまいそうだった。
 自分の前に、同じようにパスカルがしゃがみこむのが気配でわかった。
「あのさ。なんで、ふたつの答えが一人のためだってちっとも思わないの? 事象をもとにあらゆる可能性を考えることが、いい発想と結果を生むんだよー」
 研究者らしい言葉を聴きながら、頭を抱える。
「それはつまりその……」
「好きってことだよ」
 またも軽々といってのける。へらへらと笑っているのだろう、そんなパスカルの顔を想像しながら、ヒューバートはなんとも形容しがたい疲労感に肩を落とした。
 マリクの言葉もいまならわかる。
 ヒューバートもよく知っている男といっていたが、自分以上に自分のことを知っている者などまずいない。あの言い回しに騙された。しかし、いっていることは間違っていなかったのだ。
「わかりづらいんですよ……!」
 マリクもパスカルも。人を振り回すだけ振り回して。フェンデルに住んでいるとそうなるのかと問いただしたくなる。
「そっかな~?」
 わからないそっちが悪いとでもいいたげな台詞に、勢いよく顔をあげる。吹く風にも負けぬ熱を帯びた顔はみっともなく赤いだろうが、しったことか。
「パスカルさん、ぼくはそういう意味で受け取りましたからね! あとで訂正は受け付けませんよ!」
「ほいほい、りょうかいだよー」
 どこか嬉しげに目を細めパスカルが立ち上がる。そして、すっと手が差し出される。
 手を繋ごう、繋ぎたいと、無言のまま願われて。眼鏡の下、切れ長の瞳をヒューバートは見開いた。
 躊躇いは一瞬。
 ヒューバートはその手に、己の手を重ねた。指先を握り返し、にぱ、と大きな花が咲いたように笑ったパスカルが、歩き出す。
 まるで幼い頃に、兄アスベルに連れられて未知の場所にいくときのように、沸き立つ心。だがそこには、その頃にはなかった甘い感情がふんだんに織り交ぜられている。
「……ぼくは、」
 罪人が神に懺悔するような気持ちを味わいながら、ヒューバートはパスカルの背を見据えて唇を動かす。さきほどまでの混沌とした心が不思議になるほど、今は何もかもが落ち着いていた。
「パスカルさんが、どこかにいってしまいそうで――ぼくの知らない人になってしまいそうで、怖かった」
 手の届かないところにいってしまう焦燥感と、なにもできぬ悔しさが、恐怖とともにここにあったと確認するように、ヒューバートは自分の胸に空いている手を当てた。
 本当にみっともない。子供っぽい。見も知らぬ誰かに嫉妬して、その相手に恋するパスカルを見ていられなかった。なによりも、そんな自分がたまらなくいやだった。
 だが、それは大きくて単純な勘違いだった。
 パスカルもどうしてかはわからぬけれど、自分を想ってくれていた。綺麗であろうと思ったきっかけでその相手は、自分だった。
 ああ、まったく。自分に嫉妬するなんて、本当に――。
「ぼくは、愚かです」
 噛み締めるようにそう呟いた瞬間、パスカルがぱっと振り向いた。その華奢な身体に体当たりしてしまわぬように、ヒューバートは慌てて足を止める。
 ぎゅっと、パスカルが両手を使ってヒューバートの手を握る。
「そんなことないよ? 弟くんはすごくしっかしりてるし、頼りになるし! ストラタでの仕事だって一生懸命やってるし、戦ってても格好いいし! みんなのことに気を配って優しいし、背も高いし! あたしなんかよりもっとずっとすごいじゃん! ちょっとにぶいけど!」
 パスカルの率直すぎる言葉の羅列に、ぼっとさらに頬が熱くなる。これが別の誰かからのものならば、当たり前だと受け取れるような賛辞なのに、パスカルにいわれてはくすぐったくて仕方がない。まあ、最後の言葉はきちんと訂正したいものの、それはそのうちだ。
「と、とにかく、さきほどはほんとうにすみませんでした」
 以後気をつけると加えれば、パスカルはぱたぱたと手を振った。
「だからいいんだってばー、気にしない気にしなーい」
 あ、とそのときパスカルがなにか思いついたように声を漏らした。にま、と笑う。
「じゃあさ、悪いと思うぶんだけ、あたしにバナナ送ってよ~」
「そんなことでいいんですか?」
「うんうん!」
 く、とヒューバートは笑う。
「わかりました。では、パスカルさんが食べきれないほどにお送りしますよ」
 なんとも色気も何もない貢物だ。だが、それをきいて「ひゃっほー」と喜ぶパスカルをみれば、そうできることがとても幸せなことのように思えた。
 そして、はしゃぐパスカルを、今度はヒューバートがひっぱって歩き出す。
「さ、いきましょう。パスカルさん」
「ん」
 パスカルの歩幅にあわせ、ゆっくりと歩いていくうち、やがて出口が見えてきた頃。
「あ、ねえねえ」
「なんですか」
 くいくい、と服を引っ張られて視線を向ける。
「弟くんってさ、どんな香りが好き?」
「香り、ですか? そうですね、あまり甘すぎず、きつくないものが好ましいです。花や草のように爽やかなものがいいですね」
 マリクのように香水をつける趣味はないので、そのあたりはわからない。しかし、ユ・リベルテのオズウェル邸にある庭園の花々が、風にそよいで香る様は好きだった。養子にだされた直後、それだけが癒しだった。
「そっかぁ。じゃあ、おねえちゃんに何がいいか相談してみよ~っと」
 何気ないその言葉に、パスカルの女の子としての努力が垣間見えて。ヒューバートは相変わらずの赤い顔のまま、こほんと咳払いをした。
「こ、こんど……」
「?」
「今度、ぼくからパスカルさんに石鹸を贈りますよ。ユ・リベルテででも、人気のある店のものを。気に入ってくださると嬉しいのですが」
「おお~、ありがとっ! じゃあ、それ使うことにするよ~」
 喜ぶパスカルを見下ろして、まんざらもでない気分になる。
「はい。帰国したら、すぐに送ります。待っていてください」
「じゃあ約束だね」
「はい、約束です」
 そういって、顔を見合わせ笑いあう。
 氷の洞窟の冷たい風に乗り、ヒューバートが贈りたい春のような香りがひとひらふわり――二人の間を吹きぬけたような気がした。

 

 

「ちょっとお酒とってくるねー」
「はい」
 パスカルが、店の片隅に設置されているバーに向かって歩いていく。その後姿を穏やかな気持ちで見送ったヒューバートに対し、向かい側に座ったマリクが身を乗り出した。
「ときにヒューバート」
「なんですか、教官」
 秘密裏なことを話すかのような低く囁く声に、ヒューバートも思わず声を落として背を屈めた。
「なぜあそこでキスのひとつもしなかった」
「……は?」
 至極真面目な顔でマリクがそう言うものだから、その言葉の内容が理解できなかった。あまりにも落差が大きい。
「あそこできつく抱きしめて唇を寄せれば、パスカルは応えていただろうに、惜しいことをしたな」
「?!?!!」
 さらに付け加えられたものに、ヒューバートは声にならない悲鳴をあげた。
 思い当たるのは、今日、パスカルとともに作った幸せな思い出だ。それが脳裏を駆け巡る。
「ふう、どいつもこいつも教育をどこで間違えてしまったんだか……」
「え、ちょ、教官みておられたのですかっ?!」
 声が、情けないくらいにひっくり返ってしまう。
 だって間違いなく、あの場所にマリクの姿はなかった。気配さえもなかった。そのはずなのになぜ。一体どこでみていたというのだろう。
「なに、お前たちのことが少々心配でな……」
 マリクが、ふと遠い目をしながらもっともらしいことを言う。だが、口元が笑っている。
 いやいやいやいや。まったくもって些細なことなんかじゃない。大体、楽しんでいるでしょうあなた。
 そういって問い詰めてやりたいのに、真っ赤な顔でヒューバートは口を開け閉めするしかできない。
 パスカルとのやりとりをすべてみられていたとしたら――死にたいくらいに恥ずかしい。しかし、確実にマリクはみていたのだろう。すべて。
 そう考えると、ぷるぷると拳が震えた。
「次は間違えるなよ、ヒューバート」
 指導! とでもいうようにびしっと指差しながら、なにをいってくるのだこの人は。
「大きなお世話です!!」
 どんっ、と恥ずかしさのままテーブルを叩きながら、とうとう堪えきれなくなったヒューバートは、力いっぱい叫んだ。