かわったカノジョ前編

 白い息を吐きながら、ヒューバートは足を踏み入れた地を確認するかのように、視線をめぐらせた。
 久方ぶりに訪れた街は、相変わらずの色彩。鉄色と雪の白さに覆われた、無機質な景色。だが、行き交う人々の顔は心なしか明るい。
 それは、この国が変わりつつあるからだ。この国の未来を想って散っていった男の意思を受け継いで、この地に住む者たちのためにと尽力する者たちがいるからだ。
 フェンデルの首都、ザヴェート。
 今ここに、雪の下から空へ伸びゆこうとする新芽のように、希望が芽吹こうとしている。
 その中心にいる、仲間たちの顔を思い浮かべる。からかわれて困ったこともあったけれど、実力は確かで頼れる男こと、マリク教官。そして、旅が終わってからも相変わらずの奔放さで、自分を振り回してくれるアンマルチア族のパスカル。
 会うのは何ヶ月ぶりだろうか。とくに、パスカルはどうしていたのだろう。
 気付けばするりとこの心のうちに入り込んでいたパスカルの、明るい笑顔を思い出すだけで、ヒューバートの胸の奥がきゅうと鳴る。恋に心痛めるたおやかな少女であるまいし、とは思うのだが。高鳴るものは、仕方がない。
 頬に集まりそうになる熱を、追い払うように頭を振る。
 思い出さぬ日はなかった彼女に、会えるのだ。みっともないところだけは、みせたくなかった。
 曇天の空の下。凛と前を見つめて、ヒューバートは風を切って歩き出した。除雪のされた道をとおり、右手に道具屋と武具屋を眺め、そうして見えてきたザヴェートの中心に位置する宿の前、良く知った姿がひとつ。
「教官、お久しぶりです」
 それを確認したヒューバートは、ゆっくりと近づいて頭を下げた。待ち合わせに遅れてはいなかったはずだが、どうやら先に来て待っていてくれたようだ。
「ようヒューバート。元気だったか」
 ふ、と仲間に会えた喜びを素直に現し、マリクが微笑む。同性であるヒューバートからみてもそれは魅力的な笑顔で、相変わらずこれに落ちる女性も多いのだろうと推測するのは容易かった。
「はい、おかげさまで。マリク教官もお変わりないようでなによりです。工事の方は順調に進んでおられるのですか?」
「まあな。なんとかやっている。フェンデル軍の若い将校たちが、率先して携わってくれるようになってな。助かっている」
 朗らかに、ひどく嬉しそうに、マリクが笑みを深くした。
 パスカルが考案した、湯を用いた暖房設備を各世帯に整えるため、その工事の陣頭指揮をとっているマリクだが、どうやら疲れるどころかむしろ楽しんでいるようだ。フェンデルを後にしたときの自分と同じ年頃の兵たちが、国を変えるために力を貸してくれることが、喜ばしいのかもしれない。
「明日は、里に行くのだったか」
 ふと思い出したように呟くマリクに、ヒューバートは頷いた。
「ええ。長と、ポアソンさんにお会いすることになっています。その節はありがとうございました」
 今回の訪問は、オル・レイユに残されたアンマルチア族の英知の蔵の取り扱いについて、長と協議するためだ。その際の連絡に、マリクやパスカルには随分世話になった。
「いいや、気にするな。ではいくか。お互いの近況報告は、道すがらにでもするとしよう」
「はい」
 ヒューバートは、ザヴェート北東に向かうマリクの後を追う。
 その先に広がる氷の海に隠された、この国の大煇石、ひいてはその側で今も研究に没頭しているであろうパスカルに、会うために。
「そうそう、きっとパスカルに会ったら驚くぞ」
 ふと思い出したように、マリクがいう。くつくつと喉の奥を震わせているその様子に、何かあったのだろうかと考える。
「どういうことですか?」
「なに、すぐにわかる。いまは秘密だ」
 ヒューバートの問いには答えず、口元に人差し指をあてたマリクが、ぱちんと片目を瞑る。
 そのどこかふざけた感じに、それ以上なにか言うつもりがないことをヒューバートは察する。そして、わけのわからぬことに多少の気持ち悪さを覚えながらも、雪舞う道の上、マリクのあとについて歩いた。

 

 

 火の原素は扱いが難しい。物体に熱を帯びさせるその性質は、へたをすれば大火傷をも負いかねない危険性をもつ。だが、人の生活に火と熱は切り離せないもの。だからこそ、雪深く寒さに凍えるフェンデルの民たちは、大煇石の活用を悲願としてきたのだ。
 青い氷の壁が形作る大きな吹き抜けの真下。その願いが託された、少しくすんだ紅色で輝く大煇石を見上げながら、ヒューバートは感心したようにため息をついた。
 ストラタの大煇石ほどではないけれど、以前にみたものよりずっとその輝きが増している。きっと、日々の研究の積み重ねが、ここまでこの大煇石から原素を取り出すことを可能としたのだろう。
 それは、大煇石の周辺にいるアンマルチア族研究者たちの努力の賜物だ。
 機器で原素量の計測をする者、湯を沸かす装置に改良を加えようと協議する者、湯を通す管の材質について検討している者。
 そんな中、大煇石に一番近いところに立ち、ぼうっと見上げている細い人影をみつけ、ヒューバートは「あ」と小さく声を落とす。顔はみえずとも、他の誰かと見間違うはずはない。その後ろ姿を、旅の間ずっとみつめていた。何をしでかすが気が気でなくて、目が離せなかったのだから。
「パスカル!」
 教官の声が、低く心地よく通る。
「およ?」
 その呼びかけに応え、くるりとこちらに向けられる面。少し伸びた髪が、その頬へと一拍遅れて寄り添う。ぱあ、と輝く表情。
「弟くん! 教官!」
 ぱたぱたと、氷の上なのに危なげなく駆け寄ってくるパスカルが近づくにつれ、ヒューバートは目を見開いた。目の前に立たれて、思わず息を飲む。
「パ、パスカルさん……!?」
 元気一杯出迎えてくれたパスカルをじっと見つめる。次に、信じられないものをみたような気分で、眼鏡の下で目を瞬かせる。ひっくりかえったような声でパスカルの名を呼んでしまったが、気にするどころではない。
 だって、違うのだ。何がって、パスカルの姿が。
 興味を持った研究ばかりに夢中で、年がら年中、髪はぼさぼさ、服はしわしわ――ヘタすれば、一週間も余裕で風呂に入らぬ不潔さまっしぐらだったのに。
 髪はついさきほど梳られたように艶やかで、頬も埃や汚れなどひとつも知らぬかのような白さ。パスカルの纏う服も、洗濯されているのが一目でわかる。
 姿形はヒューバートが知っているそのままであるが、あからさまに違う。
 何故、こんなに綺麗になっている?
 不潔人生真っ只中から脱出したのは喜ばしい限りだが、突然の変化に戸惑う。
 だが、パスカルはそんなヒューバートの疑問には気付いていない。気付くはずもない。
「いらっしゃ~い、ひさしぶりだね!」
「う、うわっ」
 妙齢の女性、そう呼ぶに相応しい小奇麗さのパスカルにさらに近寄られて、ヒューバートは思わず悲鳴のような声をあげてしまった。
「どったの?」
 その様子に、きょとん、とパスカルが琥珀色の瞳を瞬かせる。
「い、いえ、なんでもありません……!」
 ふわ、とパスカル越しに吹く冷たい風に混じる、清潔感がありながらも甘さを帯びた石鹸の香りに、くらりと意識が揺らいだなどと――ストラタの最年少少佐として決して言えるわけがない!
「そお~? あ、ここちょっと寒いもんね。じゃ、こっちにきて!」
 どうやら砂漠の国であるストラタから来たヒューバートに、このフェンデルの気候がそぐわないと思ったらしい。近くにいた仲間にあとを頼んだかと思うと、パスカルがぎゅっとヒューバートの手をとった。
「ちょ、ちょっとパスカルさん!」
 はやく、こっちこっちと、はしゃいだパスカルに引きずられ、ヒューバートは歩き出す。
 ちら、と後ろに視線を送ると、口元に手を当てて笑いを堪えるマリクがみえた。
 ここに来る前にザヴェートで交わした会話が、脳裏に鮮明に蘇る。

 こういうことですか!

 確かに、パスカルをみて驚いてしまった。不覚。まったくもって不覚だった。だって、こんなことになっているなんて完全に予想外だ。  自分の想像力など及びもしない世界の謎を噛み締めていると。
「ほい、ここならあったかいからね~」
「……え? あ、ほんとうですね」
 金属製の板のようなものに囲まれた一角へと連れこまれていた。冷気避けの敷物が敷いてあり、そこにテーブルや椅子も置いてあることから、ここは休憩室のような場所らしい。
 周囲に設置してある板のようなものは、よくみてみれば、うねる蛇のように一定の距離と感覚で曲げられた管のようなものが通されているようだ。近寄ってみると暖かい。
 えっへんとパスカルが胸を張る。
「これはね、各家に設置する暖房の試作品なんだよ」
「これが……」
 熱すぎず、かといってすぐに冷めていくわけでもない。火のような燃える熱さではなく、春の陽射しが降り注ぐ陽だまりを思わせる穏やかなぬくもり。
「今はもうちょっと熱効率がよくなってるんだけどね。ま、初めて作ったものだからさ、ここで活用してるんだ~」
「すばらしいですね」
 ヒューバートはさきほどの驚きとはまた別の驚きをもって、感心しながら暖房機の試作品をあちこちから眺めてみる。ほめられたことに、パスカルが嬉しそうに笑う。
「えっへへー、ありがとっ! あとは教官たちがちゃーんと工事を終わらせてくれれば、ばっちりだよ!」
 ようやく笑いをおさめることができたらしいマリクが、それっぽく真面目な顔を作った。だが、まだ瞳はにやついている。ごほんとひとつ、わざとらしい咳払いをしてマリクが椅子に腰掛けた。
「そうだな。パスカルたちの頑張りに応えるためにも、気持ちを新たに取り組むとしよう」
「うん、よろしく~!」
 相変わらずのやりとりに、ふっとヒューバートは口元を緩めた。パスカルの小奇麗さには驚いたものの、中身は全く変わっていないようだ。
 そんなことに安堵を覚えながら、マリクやパスカルに促され、ヒューバートも小さな椅子に腰を下ろした。すぐ横の椅子に、パスカルが当然のように座る。ふわりと、さきほどの香りがまた届く。
「ね、ね、弟くんはいつまでフェンデルにいられるの?」
 どきどきと、駆け出す心臓の音を自覚しながらヒューバートは眼鏡を押し上げた。
「フェンデルでの滞在は二日です。明日は、アンマルチアの里にお伺いして、長ににお会いすることになっています。その後、夕方の船便に乗って帰国します」
 冷静に、冷静にと、つとめたおかげか。ヒューバートの声は震えず、突拍子もない音にもならなかった。
「えええ~! なにそれー! せっかく来てくれたのに、それじゃあ遊びにいけないじゃん!」
 ぶーぶーと、拳を振り回しながらパスカルが不満をぶつけてくる。
「まあそういうな、パスカル。ヒューバートも忙しいんだ。わかってやれ」
「う~」
 僅かに唇を尖らせたものの、次の瞬間にはその顔は一変する。わくわくとした好奇の輝きが、大きな瞳にちらついた。
「じゃあさ、じゃあさ、ここ最近弟くんなにしてた? なにかいいことあった? ストラタの大煇石はどう? あのあとちゃんと動いてる? あ、バナナはあいかわらずおいしい? 今度、いっぱい送ってくれると嬉しいんだけどな~!」
「……もうちょっと聞きたいことをまとめられないんですか、あなたは……」
 矢継ぎ早に繰り出される質問の数々に、ぽかんとしたのもわずかなこと。小さく噴出すマリクを余所に、ヒューバートは苦笑してそういった。
「そうですね、ここ最近は――」
「うん、うんっ」
 そうして、ヒューバートはパスカルに近況を話していく。ストラタの国にかかわることは喋ることなどできないが、個人的なことであれば問題ない。自主的な訓練のことや趣味のこと、ラントで暮らす兄たちに会いに行ったことを、パスカルは楽しそうに聞いてくれる。
 そしてパスカルもまた、身振り手振りを加えて、研究のこと姉フーリエのことを語ってくれた。次の研究の構想まで勢いあまって喋っている。
 ここにくるまでに近況を報告しあっていたマリクは、二人のやりとりに静かに耳を傾けながら、ときおりちゃちゃをいれてくる。
 変わらぬ仲間たちが作る空気と空間は、とても心地よい。ただやはり、パスカルがどうしってこんなにも身だしなみを整えられるようになったのか、それが不思議でならない。会話の中にもそんな糸口はみつけられず、ヒューバートは内心首を捻った。
「でね、でね、そのときお姉ちゃんがね、」
「パスカル、ちょっといいかな?」
 落ち着いた知的な声が響いて、ヒューバートはふっと顔をそちらへ向けた。アンマルチア特有の髪を持つ青年が一人、すぐそこに立っている。服装や手にした書類をみるに、研究員の一人のようだ。
「ん? どったの~?」
 何かあったのかと、パスカルが席をたって青年に近づいていく。
「大煇石から原素を取り出す際の出力調整のことについてなんだけど……」
 指し示される書類の一部に目を通して、パスカルが頷いた。
「あ~、あそこの取扱いかぁ。あそこは気をつけてやらないと……実際に触りながら説明したほうがいいかな。ってなことで、ごめん、弟くん、教官。あたしちょっといってくるね」
「ああ、いってこい」
「ほいほ~い」
 教官が頷くと、手を振り振りパスカルはこちらへと背を向けた。
 青年とパスカルが肩を並べながら去ってから、ヒューバートは、ゆるりと力を抜いた。いつの間にか肺の奥で固まってしまっていた空気を、吐き出していく。少し、緊張していたようだ。それをみたマリクが、口の端を持ち上げた。
「どうした、ぼーっとして」
「……どうしたもこうしたも、教官はおわかりでしょう?」
「まあな」
 顎をさすりながら笑う教官が、少しばかり憎らしい。手の上で転がされているような気がする。これが年の差といわれれば、そうなのかもしれないが。
「なんというか、パスカルさんは変わられましたね。中身は、そのままのようですが……」
 くい、と眼鏡を押し上げながらいうと、マリクが大げさなほど肩をすくめた。
「素直に綺麗になったといってやれ。実際、ヒューバートもそう思っただろう?」
「っ! い、いえ! ぼくは、そんな……、」
 直球なマリクの言葉に、ヒューバートは口ごもった。そう思わなかったといえば嘘になる。だが、はいそうですね、と認める素直さをヒューバートは持ち合わせていない。
 なんと答えたものかと逡巡していると。
「あいつ、好きな男ができたらしくてな」
 さらっとマリクが特大の爆弾を落とした。
 このときのヒューバートの心象風景を映像にできるならば、大好きな砂浜戦隊サンオイルスターの登場シーンよりもなお激しい爆発シーンになっただろう。
「――は?」
 色の抜け落ちた声で、ヒューバートは問い返す。
 あまりにも、信じられない台詞だった。
「あの、パスカルさんが?」
 少しだけ声が震える。なにかこの世ではありえぬとされる不可思議な現象を目の当たりにした気分だった。ふっ、とマリクが鼻で笑う。
「何を間の抜けた顔をしている。あいつだって女だ。年頃だ。そういうことがないなどと、なぜいえる?」
「……う」
 確かにその通りだ。ヒューバートは突きつけられた事実にたじろいだ。そんな動揺などわかっているだろうマリクが、さらに続ける。
「さっききた研究員がいただろう」
「あの人ですか?」
「そうだ。同じアンマルチアで研究者として優秀、なによりパスカルの研究のことをよく理解しているようでな。このところ、いつも一緒にいるようだ」
 なるほど。あの人が、パスカルさんのお相手ということですか――そう考えたヒューバートは、先ほどの光景を脳裏に浮かべた。
 親しげに、自分にはわからぬ研究のことで話していた二人。仲良く笑いあいながら歩いていった二人。綺麗な姿で、楽しそうに笑いかけるパスカル。
「……」
 むか。
 腹の底からわきあがる暗い感情に、ヒューバートは手を握り締めた。
「ま、同じアンマルチアだしいろいろと通じるところもあるんだろう。一族の中でもパスカルはいろいろと有名だったようだしな。昔からよく知ってもいるのだろう」
「…………」
 むかむか。
 マリクの言葉に、自分はパスカルのことをほとんど知らないのだと思い知らされる。それがまた、嫌なものを引き寄せる。吐き出したくなるのをぐっと堪えて、ヒューバートは肩をすくめた。
「そうですか。ま、あの人がパスカルさんの奔放さにどこまでついていけるのかは、はなはだ疑問ですけれど」
 ヒューバートは、パスカルと旅した頃を思い出しながらそういう。
 自分だってとんでもなく振り回されたのだ。よほど我慢強いか、パスカルと同じ気質でも持っていない限り、難しいはずだ。難しい、はずだ。
「ま、それもそうだな。だがあの研究員には関係ないことだ。なにせフェルマーさんの旦那だからな」
 はた、とヒューバートは動きを止めた。
 フェルマー。
 それは聞いたことのある名前だ。政府塔に潜入するために、通行証を借り受けたアンマルチアの女性……だったはずだ。確か、通行証を返却した際に、結婚するとかいっていたような。つまり、それがあの研究員ということか。
 ではなぜ、マリクがそんなことをいったのか。
 答えは簡単だ――からかわれているのだ。
「……っ、マリク教官……!」
 ぶるぶると拳を振るわせるヒューバートに対し、にやにやとマリクは笑っている。その思惑に、乗ってなどたまるものか。だが、反撃の言葉がうまく出てこない。
「ん? どうしたヒューバート。オレは別にあの研究員がパスカルの恋の相手とは一言もいっていないぞ」
「~~~~!」
 しれっとそういわれた瞬間、目の前の男に対し奥義の全てをしかけても、許されるような気がした。しかし、もちろんそんなことできるわけがない。
 ぎりり、と奥歯を噛み締める。ひきつる頬を抑えることができぬまま、ヒューバートは冷たい笑みを浮かべた。
「まったく、教官がなにをなされたいのか、言いたいのか。ぼくにはさっぱりわかりかねますね」
 ぴくぴくとこめかみが動くのを感じながら、はっと一笑に伏す。だが、マリクがそんなことでひくわけもない。
「そうか? 随分と悔しそうな顔をしていたぞ、ヒューバート」
 ぐ、と言葉に詰まる。自分が抱く、淡い恋心のすべてを見透かしているような大人の視線が、いたたまれない。
「ちがいます! だいたいなんでぼくがそんな、「ま、冗談はさておき。あいつが好きなのはお前も知っているやつだ」
 さらに抗議の声をあげようとしたとき、マリクが被せるようにそう言った。
「え」
 ひゅうと喉の奥が鳴る。あっという間に、ストラタの砂漠に放り出されたときのように、口内が乾いていく。
「……ぼくも知っている人、ですか」
 記憶力には自信がある。ぱらぱらと、記憶のページをめくる。旅の途中やこれまでに出会った、パスカルとも自分とも面識があるだろう人物たちの顔を探る。一体、誰のことだろう。
「あのパスカルさんに好かれるなんて、そうとうですね。お可哀相に」
 掠れ気味の声で、そう言葉にする。マリクが瞳を細めた。
「だが、そいつのために、身の回りのことに気を使うようになったパスカルは、いじらしいと思わんか?」
「それは……」
 誰かに恋する女は可愛いとは、いにしえよりいわれていることだ。あのパスカルをみれば、ヒューバートもその通りだと思う。だが、それを認めてしまうと自分の大切な何かが、崩れてしまいそうだった。
「そいつがいつきてもいいように。いつ会うことになっても、不快な思いをさせないように。あのパスカルが、そう考えられるようにまでした男だ。たいしものだと、オレは思う」
 ふ、とそこで一区切りして、マリクは真っ直ぐヒューバートの目をみつめた。
「それにそいつだってパスカルのことを憎からず想っている」
 いいのか? と、その瞳が語っている。さきほどまでの雰囲気はそこになくて、ただ心配をしてくれているのが痛いほどに伝わってきた。
「……それは、よかったじゃないですか」
 ヒューバートは、ふいっと視線をそらした。
 もしパスカルが大切に想う人と結ばれるなら……それはきっと喜ばしいことだ。そのはずだ。そうわかっているのに、ぐるぐると感情は渦巻いて、そこに優しさや思いやりなんてものは見えない。持て余した様々なものがあるだけだ。
「……そうだな。うまくいってくれるといいと、オレは思っている」
 やれやれとマリクが肩をすくめる。
「なにかきっかけでもあれば、うまくかみ合うはずなんだがな」
 うまくかみ合う。うまくいく――それはつまり、パスカルがヒューバートが知らぬ誰かの、恋人になるということだ。パスカルにああさせる、見も知らぬ誰かと恋仲になる。
 暖かい場所にいるはずなのに、襲いくる悪寒に身を震わせる。
 シェリアが旅の最中にあれだけ言っても、旅が終わって自分が会いに来るようになってからどれほど言っても、まったくもってとりあうことなんてなかったくせに。
 どこかの誰かのために、恋が実ることを願いながら相手を想い、綺麗でいようとするパスカルを可愛いと思うと同時に、ひどく自分が惨めに思えた。
 自分ではパスカルを変えられなかった。自分は、パスカルにそう思ってもらえるほどにはなれなかった。
 その事実が胸に突き刺さるようだった。目頭が、わずかに熱を帯びる。

 ああ――悔しいのか、ぼくは。

 誰に語ったこともない。真正面から向き合うことさえも、恥ずかしくてなかなかできなかった自分の恋が、その固い蕾を綻ばせることなく、その存在を主張することさえなく、枯れざるを得ないことを知る。
 胸に広がる痛みを少しでも逃がしたくて、切なくため息をついたとき。
「二人とも、おっまたせ~!」
 明るい笑顔と声をともない、パスカルが戻ってきた。それだけで、ひどく動揺する。とんでもないことを口走ってしまいそうで、ぐっと奥歯を噛み締め席から立ち上がる。
「――パスカルさんはお忙しいようですし、ぼくはそろそろ失礼します」
 短く吐いた急な言葉に、パスカルが一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔で頷いた。
「そう? でもさ、もうちょっとだけ待っててよ。もうすぐ今日の仕事が終わるから! ね、そしたらいっしょにザヴェートまでかえろ? そんでもって、一緒にご飯食べようよ~」
 そう誘いながら、パスカルがヒューバートに何の気なしに近づいてくる。にこにことした上機嫌なその笑顔に、さらに泣きたくなった。
 こちらの気も知らないで、無防備に無邪気に接してくるパスカルが、ひどく残酷に思えた。
「いいえ!」
「っ、」
 伸ばされたパスカルの手が、腕に添えられる前に振り払う。パスカルが息を飲んで、目を見開く。興味があるものをみつけたときとは違い、そこにあるのは大きな戸惑いで、ヒューバートはたまらなくなった。
 そんな顔をしてほしいわけではなかったのに。ヒューバートの好きな、きらきらとした光をいつまでも宿していてほしいのに。でもそうさせたのは自分で、それが余計に情けない。
「……すみません。夕食は、ご一緒させいただきます。ですが……今は、先に失礼します」
 宿にいると小さく付け加え、ヒューバートは顔を背けて歩き出す。
 はあ、と大きく落とされたマリクのため息が、背中の向こうから責めてくるようだった。
 それを振り払い、ヒューバートは大煇石のある部屋を足早に後にした。