はじめての

 金属同士の触れ合う音が、ウィンドル王国の首都バロニアにある宿の一室で、不規則な旋律を刻んでいる。奏者は二名。
 その一人であるヒューバートは、視線をもうひとつの音源へと送った。互いに銃を得物とする仲間――パスカルは、真剣な眼差しをみせながらも至極楽しそうに、工具を器用に使いこなして銃の調整作業をしている。
 女性であるにもかかわらず、パスカルは床に座り込んであぐらをかき、あたりに手当たり次第に手入れ用の道具を広げている。一方のヒューバートはテーブルに道具を広げ、椅子に腰かけて作業をしている。
 最初は場所を譲ろうとしたものの、パスカルに断られて訝しく思ったのだが……。この現状をみれば、小さなテーブルひとつでパスカルの道具がおさまらないだろうことくらい、用意に想像できた。
 手早く、それでいて繊細に、道具を大切に思っているのが伝わるような手入れをするものだと、その姿を見てぼんやりと思う。実に、パスカルらしい。
 ふ、と息をついて、ゆっくりと視線を戻す。ヒューバートが自分のするべきことをしようと手を動かしはじめたとき。
「よっし、これでおしまいっと!」
 一足先に作業が終わったパスカルの、明るい声が狭い部屋に響いた。さきほどの金属音とは違い、今度は機嫌よさそうに鼻歌を刻みながら、パスカルが道具を片付けていく。
 無造作に鞄に突っ込んでいるようだが、本人にはどこに何があるのかわかっていて、その道具にふさわしい方法でしまっているらしい。が、ヒューバートには理解できそうにない。
「弟くん、弟くん」
「なんですか」
 パスカルをちらりとも見ることなく、ヒューバートは手を動かしながら応える。カチリと小さな音をたてながら、愛用の双刃であり銃でもある武器の調子を確かめる。武人として、いついかなるときも最高の状態の武器を振るうためには、こうした手入れは欠かせない。さきほどはついつい手を止めてしまったが、本来ならば真摯に取り組まねばならないことだ。
「まだ終わらない?」
 ととと、とパスカルが近づいてくる。手元を覗き込まれる気配に、ヒューバートは顔をあげた。見下ろしてくるパスカルは、大きな瞳に強い興味の光を帯びている。
「あと少しかかります。終わったのでしたら、兄さんたちのところにでもいかれたらいかがですか?」
 アスベルを筆頭に、仲間たちは皆、宿の外へと出かけてしまっている。ヒューバートも誘われたのだが、今日の戦闘で銃の調子が悪くなり、それを調整するために断ったのだ。
 言いながら、ヒューバートは眼鏡を指先で押し上げる。ん~、とパスカルが首をかしげるのを見てから、視線を落とす。そして、銃の内部に素早く目を走らせる。どうやら仕込んである煇石に傷がついていることから、原素の抽出が上手くいっていないようだと推測し、石を新しいもの取りかえていく。
 そういえば、なぜパスカルも残って手入れをすると言い出したのだろう。
 柔らかな布を押し当て煇石をはめ込みながら、ヒューバートはそう思う。
 パスカルの銃杖も、調子が悪くなったのか。それとも単にやりたかっただけなのか。だが、優秀な技術者であるパスカルのこと。わざわざ皆の誘いを断ってまで、今やるべきことではないような気がした。現に、パスカルは自分よりもずっとはやく調整を終えてしまっている。
「ここにいても楽しいことはありませんよ。みんなタクティクスにでもいるでしょう」
 言外に、そちらへいくようにと促す。
 ひょいと、パスカルがしゃがみこむ。その動きにつられるように、つい顔を横に向けると、ぱっちりと開いた琥珀色の瞳がそこにあった。
 にぱっとパスカルが笑う。
「だって、弟くんひとりじゃ寂しいでしょ?」
 当たり前のようにいわれた言葉に、ヒューバートは眉を顰めることさえできず、軽く目を見開いた。寂しい? ぼくが? そのために、パスカルは残ったのだろうか。そんなことが脳裏を過ぎった。
 ね? と首をかしげるパスカルを眺め、台詞の内容を脳内で繰り返して――ヒューバートは、やれやれと頭を振った。
「何を言い出すかと思えば。子供じゃないんですから、そんなことあるわけないでしょう?」
「え~、一人ぼっちって寂しくない?」
「いいえ。ぼくは別に」
 たった一人、幼い頃にラントから出されたときに比べれば、こんなものは寂しいもののうちにはいるはずなどなかった。オズウェルの屋敷で与えられた広い部屋。高価な寝台の上、柔らかな寝具に包まれて、一人静かに泣いていた。兄の姿はなく、母のぬくもりはなく、父の声さえ失って――あの頃に感じた寂しさに勝るものなどない。
「そう? 弟くんは強いねえ~」
「……」
 そんな思いをもう二度としないように、自分の場所を確固たるものにするために、自分は強くなろうと努力し続けた。そうして今の地位と力があるのだから、そういわれても当然のことだ。だが、パスカルにいわれると、なぜだか気恥ずかしさだけが募った。子供の頃のことを話したことはないけれど、すべて見透かされているようだった。
 沈黙したままでいると、パスカルがヒューバートと向かい合う位置にある椅子に腰かけた。
「でも、あたしは寂しいから、ちょっとお話しよ!」
 にっこにっこと笑顔全開でそう言うパスカルに、ヒューバートはため息をついた。今は作業中であるというのに。だが断ったところで、パスカルはそれを綺麗に受け流して自由気ままに喋りだすだろう。それを上手に止める術を、ヒューバートは持ち合わせていなかった。
「わかりました。それでは何を?」
「んーと……。あ!」
 しばらく考えるそぶりを見せた後。ぱ、とパスカルは顔を輝かせた。いいことを思いついたと親に自慢するような、そんな子供染みた表情に、嫌な予感がした。
「弟くんってさ、キスしたことある?」
 けろっとした顔で、さもたいしたことないことをきくような声で。今まで話していたことすべて無視してそんなことを言い出したパスカルを、理解不能なものを見るような心境でまじまじと見詰め。
「……は?」
 ヒューバートは、間の抜けた声でそういった。否、そうするしかできなかった。
「だーかーらー、弟くんってキスしたことある? ってきいたんだけど」
 聞こえなかったらしいと思ったのか、パスカルがもう一度、言い含めるようにはっきりとした声で繰り返した。
「ああ、いえ。ちゃんと聞こえています……が、その……」
「あ、そうなんだ。じゃあ、どうなの?」
 どうなのって。
 ヒューバートは頭を抱えたくなった。なんなんだろう、この生き物。興味のあることには、後先考えずに飛びつくパスカルの性格を考えるに、ふと疑問に思ったから素直にきいてみた――そんなところなのだろうが、突拍子がないにもほどがある。
「……こ、個人的なことですので、お答えできませんね」
 動揺して打ち鳴らされる心臓をなんとか制御して、ヒューバートは努めて自然にそういった。やや声が裏返ったのは、聞こえなかったことにして欲しかった。
「えー。いいじゃん、教えてくれてもー! 弟くんのけちんぼっ」
 大して効果もない抗議をしてくるパスカルに、かちんとくる。作業の邪魔をして、ずかずかと人の領域に踏み込んできて、心を引っ掻き回しているくせに、なんだその言い草は。無知は罪というが、こういう無邪気さも罪ではなかろうか。
 頬を引き攣らせながら、ヒューバートは銃身と刀身を組み合わせていく。パスカルほどではないが、それは身体に染み付いた動作だ。意識せずとも手は滑らかに動いていく。
「そんなくだらない質問に、答える理由もないでしょう」
「えー、答えてもらう理由はあるよ! あたしとっても気になるもん!」
「っ、」
 ヒューバートの言葉に、顔色を変えたパスカルがテーブルの上に身を乗り出して、迫ってくる。その勢いに、ヒューバートは息をつめた。

 気になるって……――

 淡い期待が、首をもたげる。いやいや、パスカルに限ってそんなことはありえない。ヒューバートは心の中で激しく頭を振った。頬がじんわりと熱を持つ。
 そんな心の葛藤などわかるはずもないパスカルが、椅子にすとんと腰を下ろした。右手人差し指を顎の下に当て、左手を右ひじに当てて目を閉じる。
「だってさ~、教官はヒューバートには経験ないだろうって言い切るし。シェリアはさ、ユ・リベルテで仲のいい女の子がいたみたいだから経験あるかもっていうし」
「……」
 パスカルの言葉に、ヒューバートは自分の周りの空気が急速に冷えていくような気がした。だが、それに気付かないパスカルは、呑気に自分の首を絞め続ける。
「アスベルはさ、なんか想像したらすごくショックを受けちゃったみたいで話しにならないし、ソフィは話の意味もわかってなかったみたいだし」
 兄であるアスベルやソフィまで巻き込んで、一体何をしてくれているのだろう。
「皆でどっちだろうね~、っていってたんだけど結論でなくてさ。あたし、それ以来ずーっと気になっちゃってて……あ、」
 ぴきぴきとヒューバートのこめかみが引き攣り、その全身から漏れ出す殺気じみたものが、ようやく肌に触れたのか――パスカルが、肩を揺らした。
「ほう、そうですか……そんなことを話していたんですか。……いつの間に?」
 自分がいないところで、自分が話の中心に据えられて、あげくそんなことを議論されていたのかと思うと……。怒り以外に覚えるものはなかった。声に秘められた感情とは裏腹に、声はひどく冷たい。
 ガチン、と一際大きな音をたて、最後の組み合わせを終える。これで明日からの戦闘に問題はないだろう。だがしかし、その前に使うことがあってもいいかもしれない。そんなことをついつい考えながら、ヒューバートは乾いた笑みを浮かべた。
 それを見て、やばい、と思ったのか。宥めるように、ぱたぱたとパスカルが手を振った。
「ええっと、前にストラタにいったとき、弟くんが政府機関に用があるっていって、いなくなったとき……かな。なんとなく話の流れで、ちょっと皆気になっちゃっただけなんだよ~」
 悪意がないのはわかっている。それくらい理解している。
 再会したとき、恨みがあった。出会ったとき、疑ったこともあった。でも、今はそんなものはない。自分を仲間といってくれる友人たちがいかなるもの達か。それを、旅の間で知ることができたから。そして目の前にいるパスカルもまたそうであると、ヒューバートはよく知っている。
「……はあ、まったく」
 怒りの矛先をおさめ、ヒューバートは深く息をついた。どうも、ため息が癖になってきているようだ。気をつけなければと思いながら、手入れの終わった武器をしまう。
 まずったかな~、という顔で、少しだけ小さくなっているパスカルをみていると、こちらも何か言ってやりたくなる。
「そういうパスカルさんはどうなんですか」
 道具を丁寧にひとつひとつ片付けまとめながら、ヒューバートは問いかける。
「え、あたし?」
 そんなことをきかれると思っていなかったのか、パスカルが自分を指差しながら目を丸くする。
「ええ、パスカルさんは大人ですしね。そこのところ、どうなんです?」
 さあ、答えに詰まるか、照れるか。それとも怒るか。
 だがヒューバートが思い描いたものそれすべて覆すように、けらけらとパスカルが笑った。
「ないない、そんなこと一回もないよ~!」
 まったくもって色事に縁はないのだと、堂々と言ってのけた。
「そ、そうですか」
 自分から話をふったものの、それはそれでどうなんだと思わぬわけではないが――ちょっとだけ嬉しかったりして、それを誤魔化すようにヒューバートは小さく咳払いをした。
「弟くんはさ、したいな~とか思うときないの?」
「いえ……その、なんというか……。そもそも、たかがキスのひとつぐらいで……」
 ないといえば嘘になる。かといって、はいそうですね、ありますよ、などと誰が頷くか!
 ごにょごにょ、と言葉に詰まってしまったヒューバートに向かって、何を思ったのかパスカルが笑顔を花開かせる。
「ね、ね、あたしとしてみない?」
「は、はああぁあぁ?!」
 とんでもない一言に、ヒューバートは頭の天辺から声を出した。
「っ、な、ななななな、なに馬鹿なこといってるんですか!?」
 ん~、と目を閉じて唇を寄せてくるパスカルをみて、届くはずもないとわかっていながらも、ヒューバートはおおげさなくらいに仰け反った。
「だって、話してたらキスってどんな感じなのかなぁって、気になってきたんだもん。弟くんはキスくらい平気なんでしょ? じゃあいいじゃーん」
 なんでも興味をもつパスカルらしい行動だといえばそうだが、今回ばかりは巻き込まれてはたまらない。恋人でない女性に手を出すようなことは、ヒューバートには考えられなかった。淡い恋心を抱く相手なら、なおのこと。想いも通じ合っていないというのに、そんなことをしたら、不誠実すぎるではないか。
 反射的に逃げようと、椅子とテーブルを揺らして勢いよく立ち上がると、パスカルもすっと席を立った。動けと命じているのに足は動かない。そのまま、パスカルの動作を目で追いかける。パスカルが数歩前にでれば、そこはもうヒューバートの腕が届く範囲内だ。ぎゅっと、拳をきつく握り締める。
「ヒューバート……」
「っ、パスカルさ……!」
 張りのある元気な声ではなく、艶を帯びた甘い声で名を呼ばれ、情けなくも身体が跳ねた。するり、胸から肩口にかけて、滑るパスカルの白い指先。近寄る動きに合わせて押された空気が、やんわりとヒューバートの頬をうつ。
 どうしてこんなことになっているのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。ついさっきまで色気もなにもなく、武器の手入れをしていたはずなのに――!
 真っ白になりながら小さく押し込まれていく意識で、そんなことを考える。
 ゆっくりとパスカルが唇を近づけてくる。やけに時間の流れが遅い。心臓が煩いほどに高鳴って、肺はひたすらに熱い空気を生み出しているくせに、手足は氷水に漬けられているように冷えて震えている。
 ヒューバートは、ごくりとつばを飲み込んで、ぎしぎしと音がしているような気がする手を動かし、目の前にある丸い肩を掴む。引き剥がさなければと思うのに、力が入らない。  目を閉じて、わずかに顔をうわむかせたパスカルの髪が揺れる。指先と手のひらから伝わる、柔らかさと熱に喉が渇いた。
 そっと華奢な身体が寄り添ってくる。つられるように、パスカルに向かって、かくんと頭が傾いだ。それを合図にしたように。ぱち、と瞳が開く。吐息のかかるくらいの近さでみたパスカルの瞳は、朝焼けの黄金に満たされた砂漠のように美しかった。ヒューバートの意識が、圧力に耐えかねて弾ける。
「へへ、なーんてね! 冗談じょうだ……うきゃっ」
 軽い口調でそういいながら離れていこうとするパスカルを、ぐいと引き寄せながら目を閉じる。一拍の後、闇の中。ふんわりとした温かな感覚にたどり着く。ん、と息を飲むような声が耳朶を震わせる。
 触れ合うだけの口付けだ。幼い仕草だ。とても色めいたものとはいえない。あむ、とパスカルが呻く。その吐息が、重ね合わせたヒューバートの口内に溶けて消える。わずかに動けば、かつんと歯がぶつかった。だって仕方がない。初めてなのだから。
 パスカルの唇は、食べられそうな、癖になるような――驚くほどのやわらかさ。それがもたらす心地よさに、ヒューバートは酔いしれる。離れられない。
 と。
「ん、んぐぐ……うー!」
「がふっ!」
 どんっ、と強く胸を叩かれたヒューバートは、息を吐き出しながら顔を離した。そして、げほげほと小さく咳き込みながら、夢からさめたような心地でパスカルを見下ろす。パスカルはヒューバートの胸に手を付いたまま俯いて、熱い息を繰り返し、肩を揺らしている。表情は、さっぱりみえない。
「し、死ぬかと思った~……」
「……すみません……ですが、パスカルさんがしろと、言ったんじゃ……ないですか……」
 やりすぎてしまったらしい。ヒューバートは、男らしくないなとわかりつつも、うろたえて萎んでいくように謝罪といい訳をした。それにしても、苦しいからといって殴らずともよいではないか。じんじんと、いろんな意味で胸が痛い。
「そりゃそうだけど……。はあ、キスって思ったより大変なんだねー。息できなくてどうしようかと思っちゃったよ~」
 ようやく落ち着いてきたのか、パスカルが身体から力を抜くようにしてそういった。
「……呼吸は、鼻ですればいいのでは?」
 自分も息をつめていたのは棚にあげ、ヒューバートはそう呟く。おお、とパスカルが感心したように声を漏らした。がば、とあがった見慣れた顔は、息苦しさのせいか……それとも別な理由なのかはわからないが、ほんのりと赤い。可愛いと、素直に思った。
「そっか~、経験者はやっぱり違うね!」
「……」
 そういうわけでは決してないのだが。しかし、いまさら初めてでした、とは言いづらかった。だから、勝手に勘違いさせておくことにする。嘘をついたわけではない。
 華奢な身体を押し返し距離をとる。わずかによろめいたものの、パスカルはちゃんと自分の足で立った。ふい、と横を向いて眼鏡を押し上げる。指先で唇をたどるパスカルを、みていれらなかった。
 わずかな沈黙の後、ふうとパスカルが息をついた。
「キスってすっごく苦しいんだね。でも……、」
「でも?」
 なにかいいかけるパスカルの言葉の続きを促す。ちら、と盗み見るように見遣ったパスカルが、笑う。美しく高潮した頬と、潤みを帯びた瞳と、穏やかにあがる口の端。その蕩けるような笑みに、ヒューバートの心が射抜かれる。
「なーんか、幸せ気分で気持ちいいかも!」
 その見たこともない顔と、とんでもない台詞に、ヒューバートの頬が、耳が、熱くなる。
「ありがとね、弟くん! いいこと知っちゃったー!」
「……ちょ、ちょっとパスカルさんっ!?」
 くるくるとご機嫌な様子で回転し、扉へ向かうパスカルの手を思わず掴んで引き止める。
「ん?」
「まさか他の人ともしてみようなんてこと、考えていませんよね……?」
 恐る恐る、考えられる最悪の事態を想定し、口にする。まさかと思うが、パスカルならありえると思った。
「え、なんでわかったの?」
 やっぱりかー!
 がしっとパスカルの肩を押える。あっけらかんとしつつも頭に疑問符を浮かべるように首をかしげているパスカルに、ぐいと顔を近づける。
「そういうことは容易くするものではありません!」
「えー。でも他の人はどうなのか気になるし~。弟くんだってしてくれたじゃん」
「ぼ、ぼくはいいんです!」
 なにがいいのかは、そういった自分にもよくわからぬまま、ヒューバートは語気を強める。どうにか思い直させようとするだけで精一杯だ。
「とにかくだめです! というか、今のことは誰にも決して喋らないでください! いいですね?!」
「えー」
 不満たらたらな様子で、パスカルが目を細める。
「えー、じゃありません!」
「うー」
「うー、でもありません!」
 どこの生意気盛り子供とその母親かというやりとりを繰り返す。
 しかし、これすらなんだか楽しく思えてしまうのは、とても不味いと。このままではずるずると落ちていくだけだと。対抗策を講じることもできぬヒューバートは、心の片隅でそう思う。
 恋とはとかく、人を愚かにするものだ。できることなら、今目の前にいる人も、そうなってくれたらいいのに。
 そんなことを考えながら、ヒューバートはそっぽを向いて唇を尖らせているパスカルの肩を揺する。
「きいているんですか、パスカルさんっ!」
「もおおお、弟くんってば横暴~!」
 結局この不毛な会話は、アスベルたちが手土産をもって帰ってくるまで、延々と続いたのだった。

 

 それはヒューバートとパスカルが、恋人になる前に交わした――二人の秘密。重なる恋のはじまり。

 

 だったのだが。

 

「ってなことがあってねー……。それからは、ねだるといつもヒューバートが真っ赤な顔してキスしてくれるようになってね~」
 照れた様子もなく、さらさらと過去を語る妻の姿に夫は固まった。
「いやぁ懐かしいなあ。とにかくそうしてお母さんの初めてのキスはお父さんに奪われちゃったわけなんだよ~。わかった?」
「ふ~ん、そうなんだー」
 妻の膝の上、たいして興味もなさそうに頷いた我が子が、お菓子を頬張る。その光景を呆然と見守っていたものの、はっと意識を取り戻した父は足早に二人に近づいた。その足音に気付いたのか、目標が振り返る。
「あ、おかえり~。ヒューバート」
「おかえりなさい~」
「ええ、ただいま戻りました――ってそうじゃありません!」
 のんきに出迎えられて、ついつい帰宅の挨拶をいつもの調子で返そうとして、頭を振る。ぐぐ、と真っ赤な顔に汗を浮かばせながら迫り寄る。
「パ、パパパ、パスカルさん! あなた一体、子供に何をいっているんですか!!」
「いやあ、あたしたちの甘酸っぱい思い出をちょっと」
 あっはっはー、とあの頃とまったく変わらぬ暢気な笑顔に、ぷつんと何かが切れた。
「誰にもいわないと約束したじゃありませんかっ!?」
 これまで兄や幼馴染にも決していわないでいてくれたのに、何故今頃になって語っているのか。しかも自分の子供に対して!
「え~、もう時効でしょ~」
「ジコウ、ジコウ~」
 父があげた悲鳴じみた声に、顔を見合わせた母と子はよく似た明るい笑顔で、きゃらきゃらと笑う。そして声高らかに、そう言った。子供は意味をわかってはいないのだろうが、だからこそ余計に辛い。
「…………」
 二人の楽しげな姿に、何を言ってもどうにもならないと悟った父は、諦めの心境で深く肩を落とすことしかできないのであった。