熱の恩恵

 なんか暑いな~。

 ふらふらとバロニアの街中を歩きながら、パスカルはそんなことを思った。いつもしている手袋すら鬱陶しく感じて、手から外すとまとめてポケットにつっこむ。
 宿について早々に自由行動となり、思い思いに過ごしはじめた仲間たちへ、「散歩にいってくる~」と言葉を残したのがつい先ほどのこと。
 ぺちぺちと頬に手を当てながら、西へ向かう。
 それにしても、ストラタよりもずっと気候は穏やかで、暑さに弱い自分にとってはありがたい環境のはずなのに。暑いとはこれいかに。
 頭に疑問符を賑やかに行進させ、その動きに心の中で音楽をつけてみたりしたりする。
 ふわり、と港方面から吹く風が頬に心地よくて、ついついそちらへ歩が進む。
 水面を渡る涼やかな風にでも吹かれたならば、すこしはこの暑さもおさまるかもしれない。港から見上げる大煇石もなかなかいいものだと知っているパスカルは、当てのない散歩の目的地をそこに定めた。
 なんだか地面がふわふわしているような気がする。がっしりとした石が敷き詰められた、立派な石畳の道が整備されているのに。やはり不思議だ。なんだか考えもまとまるようでまとまらない。ほやほやと、まるでシェリアが焼いてくれたケーキのスポンジみたいだ。
 これも、ちょっと落ち着いて風にあたれば、固まるに違いない。
 わずかな階段をあがり、花壇のベンチに座っているおじいさんと軽く挨拶を交わしたりなんかして、港へ続く大きな階段に差し掛かったとき。
 背後から吹き付けた風に、背中をおされた。
「っと、と、とおおぉぉお!?」
 足の裏に力をこめているはずなのに、ぐらりと前に傾く。傾く。

 あ、このままだとまっさかさまに落ちるなぁ、あたし。

 と、どこか他人事のように考えた瞬間。
「パスカルさんっ!!」
 怒声のように厳しい声とともに、ぐいと強い力で後ろへと引っ張られた。
「う、わぁ、っとと!」
 間一髪、階段から転げ落ちるということを避けられたパスカルは、己の身体を見下ろした。
 腰に回された腕を包む、青い服。それは見慣れたものだった。肩口に触れる、自分ではない誰かの熱。後ろから抱きしめるようにして助けられたのだと、今度はぐるぐるとしてきた頭で理解した。
「ありがとうね、弟くん~」
 そういいながら、身体を捻って背後を振り仰ぐ。想像したとおり、そこには眼鏡の奥で青い瞳に怒りをみなぎらせたヒューバートの顔があった。
「まったく、何をしているのですか!」
「えへへ~、階段から落っこちそうになってた!」
「ああもうっ!!」
 パスカルの身体を離し、その手を引っ張って階段の側から踊り場の中央へと強制的に移動させた後。ヒューバートが、逆光に眼鏡の縁を光らせながら息を吸い込んだ。

 あ、お説教タ~イム。

 年下のこの青年が、あれやこれやとパスカルにお説教してくるのはいつものこと。パスカルはわずかに首をすくめた。だが、今回ばかりは自分が悪いから、パスカルはおとなしく耳を傾けることにする。
「ふらふらふらふらと、さっきからみていれば危ないことこの上もないじゃないですか! あげくに階段から落ちそうになるなんて……! ん……?」
「ふぇ?」
 まだまだ続きそうだった言葉を遮って、まだ掴んでいたパスカルの手を、ヒューバートが持ち上げた。そっと、両手で包み込まれて目を見開く。
 なにが起こったのかわからず、目を瞬かせていると、ヒューバートの右手が額に当てられた。
「え? どったの、弟くん」
 行動の意味がわからない。だけれどヒューバートの手が冷たくて気持ちいい。パスカルは、ほうと息をついて目を細めた。そんなパスカルとは対照的に、ぎりりとヒューバートの目がつりあがる。
「パスカルさん……! あなた、熱があるじゃありませんか!」
「熱……」
 どこか必死さを帯びて紡がれた言葉を、パスカルは反芻した。
「……おおう!」
 手が自由だったなら、打ち鳴らしていたところだ。
「そっかそっか、あたしってば熱があったんだね~」
 滅多に体調を崩すことなんてないので、そういうところまで気が回らなかった。
「あっははは、どおりでふらふらすると思ったよ~!」
「まったく、何を暢気な! へらへら笑っている場合ではないでしょう!」
 ぐいと前に引き倒すように、ヒューバートが手を引く。身体の自由が効かなくなっているパスカルが、それに逆らえるわけもない。素早く、青い影が動く。
「う、うわわわ!」
 ひょいと、そのまま背負われてしまった。なんという鮮やかな手並み。目を瞬かせる間もなく、ヒューバートが歩き出す。
「ちゃんと寝てなきゃだめです! いますぐ宿に戻りますよ!」
「はぁ~い」
 揺られながら、パスカルは手をあげていい子のお返事を返した。
「まったく、熱がでているのに散歩にいくなんて、どうかしてます」
 いい足りないことが山ほどあるのか、ヒューバートがぶつぶつと呟いている。
「うん、ごめんね~。でも、弟くんがあそこにいてくれてほんと助かったよ~」
「ぐ、偶然です! 今度もこんな風に助けられるなんて思わないで下さい」
 ん~、と生返事をしながら、パスカルは頬を緩めた。こうしておんぶしてもらうのは、随分と久しぶりだ。子供のとき以来だろう。そのときの姉とは違う、細く骨ばったしなやかな身体、高い位置で動いていく景色が新鮮だ。なんだか楽しい。熱がでたおかげだと言葉にしたら、きっとヒューバートは怒るだろう。でも、楽しい。
 ふふ、と声が自然に漏れた。
「なにを笑っているのですか」
「なんていうか、楽しいっていうか~。弟くんってば男の子なんだな~って思ってみたり?」
「なっ……!」
 思ったことを素直に口にすると、ヒューバートが立ち止まった。驚き焦ったような空気が滲む。
「ふふ、意外と背中広いんだねえ~」
 パスカルはそんなヒューバートの背へと、ぺったりとのしかかるようにしてくっついた。
「ちょ、ちょっとあまり寄りかからないで下さい!」
「えー、どうして~?」
 びく、と身体を跳ねさせて、あからさまに焦りだしたヒューバートに構うことなく、ぐりぐりと頬を肩に擦り付けてやる。
 やめてください、やめない、という攻防を何度か繰り返した後、ヒューバートが痺れを切らした。
「あ、あ、あ、あたってるんです! ですから少し離れてくださいっ!」
 半ば悲鳴じみたその言葉。
 それをきいて、パスカルは「おお!」と声をあげた。
「ああ、あたしのおっぱ「うわあああぁぁあ!」
 みなまでいわせてたまるかという勢いで、ヒューバートが叫ぶ。
「そ、そのような言葉、年頃の女性がいうべきではものではありませんっ!」
 あまりの反応っぷりに、パスカルは笑いが止まらない。
「あはは、弟くんってばえっち~!」
「違います!」
 後ろからみえる、ヒューバートの耳が真っ赤だ。熟れた林檎かトマトのごとし。
「ああもう、降りてください! そんなに元気なら大丈夫でしょう!?」
 わずかにしゃがみ、パスカルを下ろそうと試みるヒューバートは、甘い。
「やだよ~ん」
 ぎゅうとその首へ、落とされないようにすがりつく。力はあまりでないが、病人のそんな行動を本気でヒューバートは振り落とそうとはしないだろう。
「パスカルさんっ!」
 案の定、その動きが鈍る。パスカルはそれを見逃さない。
「ほらほら、弟くん! みんなみてるよ~? いいのかな~?」
 声を荒げるヒューバートは、どうも周りが見えていないようだ。親切心半分、からかい半分でそういったら、ようやく自分たちが大勢の人が行き交うバロニアの街中にいることを思い出したらしい。いくつもの好奇の視線が突き刺さることが堪えたたらしく、ヒューバートが今度こそ完全に動きをとめた。
「くっ……! ぼくとしたことが……!」
 こちらからはみえないけれど、真っ赤な顔で唇を引き結んでいるのだろう。そんな様子を想像しながら、パスカルは向かうべき先を指差す。
「ほらほら、宿までもう少しだよ~」
「わかってます!」
 そのまま、パスカルと背負いなおしたヒューバートは、見物客たちを振り切るように足早に歩き出した。
 ゆらゆらとその背に身を任せながら、パスカルはそっとヒューバートの耳に唇を寄せた。
「ありがとね、弟くん」
「……っ、わかりましたから、もう静かにしてください。あまり騒ぐと、余計に体力を消耗します」
「うん」
 小さく頷いて、ゆっくりと身体を預ける。
 どうやら、ヒューバートもこれ以上何かいう気力はないらしい。ただ黙って運んでくれる。
 ああ、宿の扉がもう見えているというのに、なんだか急に身体が重くなってきた。
 きっと、自分を背負うヒューバートのぬくもりが、ひどく心地いいせいだ。さっきまで暑いからと涼を求めていたのに、おかしなものだ。
 このまま眠ってしまっても、責任感の強いヒューバートが自分を放り出すことはないだろうし――後は頼んだ、弟くん――そんなことを心の中で呟き、にまにまと微笑んだままパスカルは、意識をぽいと投げた。
 開かれて軋む宿の扉の音が、かすかに聞こえた。

 その後、仕返しのつもりか、ヒューバートと協力体制を敷いたシェリアに、「体調管理はしっかりしなさい」と延々と怒られ、大好物のバナナパイのお預けをくらうことになるのだが、夢の中に旅立ったパスカルにはそんなこと知るよしもない。