某月某日。
それはそれは暑い日のこと。
ノーラが倒れた。
ほのかに漂う消毒薬と煎じた薬草の匂いが鼻につく。だが、それを不快だのなんだと思う心の余裕というか隙間がない。
「この馬鹿」
シルカにより診療所へと担ぎ込まれたノーラを見舞ったユカは、顔をあわせるなりそういった。
まあ、正確にいうのなら、ユカが診療所にきて小一時間は経っている。ノーラが目を覚ますまで、待っていたのである。
ユカは、いまにも舌打ちをしてやりたい気分で、立っていた窓辺から移動すると、寝台の脇に置かれた素朴な木造りの丸椅子へ乱暴に腰掛けた。
「う~……」
じろりとねめつければ、清潔な白い寝具に覆われたベッドに横たわったノーラが、ばつが悪そうに目を伏せながら唸った。そこに、いつもの元気はまったくない。反論する力もないのだろう。
そう思えば、また苛立ちが募る。
青褪めた顔。力の抜けた細い体。緩めらた衣服。首筋にあてられている、濡らされた布。
ノーラが目覚めるまで眺めていた光景だが、どうにも慣れない。ユカの口からは、苦々しく胸を占領する感情が、重苦しく吐き出された。
「具合が悪いんなら、倒れるまで無理すんな」
「だって……依頼の納期、が……」
ユカであれば先延ばしにしてしまいそうなものだが、仕事をきちんとこなすことで、この町での信頼を得てきたノーラには、とてもじゃないができないらしい。
ごにょごにょと弱弱しい声で、なおもいいわけじみたことをいおうとするノーラにあきれるしかない。こんなになっても、まだそんなこと心配するとは。
ユカは、ここにきてからもう何度目になったかわからない深い息をつく。がしがしと、長い黒髪を乱すように頭を掻く。そうでもしないと、妙な八つ当たりをしてしまいそうだ。
なぜ自分の体をもっと労わらないのかと、病人相手に怒鳴りつけるのはさすがに最低だろう。それは元気になってからやればいい。
みっちりいいきかせてやるからな――
そうひそやかに心に誓いながら、ノーラの懸念を消し去るべく、ユカは言う。
「ケラリのことだろ? ルッツがダビーのおっさんのとこに持ってきてたぜ」
どうしてそのことを知っているかといえば、ユカがその場にいたからだ。また昼間から酒場に入り浸ってと怒られそうだが、仕事がなかったのだから仕方がない。
とにかく、ダビーへとケラリを届けにきたルッツが、世間話のようにノーラが町の入り口あたりで倒れ、シルカに背負われて診療所に担ぎ込まれたとしゃべった瞬間、ユカは椅子やテーブルを蹴倒すような勢いで立ち上がった。
そのまま、締め上げるようにして、なんの罪もないルッツからことの詳細をききだしたユカが、すぐさま酒場を飛び出したのはいうまでもない。
なんでそんなに慌てたのかって? そりゃ、惚れた女が倒れたときいて、落ち着いていられるヤツはそうそういないだろう。
自分の知らぬところでノーラが消えてしまうのではないかというあんな恐怖は、二度と味わいたくないと思う。
だが、そんなふうに表にはださずとも熱烈に想っている相手といえば。
「そっか、よかったぁ」
ふにゃ、と安心したように笑っている。その様子から推測するに、あまり反省していないのではなかろうか。
「おい」
「ふぎゃっ」
きゅっと緩んだ顔の真ん中にある小さな鼻をつまみあげる。なにするのよ、と力なく抗議してくるノーラに、顔を近づける。
「おまえ、あっつい工房でずっと作業してたんだろ
「う、」
ユカを睨みつけていた翠の瞳が泳いだ。
今年は異常気象だと騒がれるほど、とにかく暑い。雨はなかなか降らず、気温も下がらず、湖の水位も下がるほどだ。
いくら森の中にある工房とはいえ、そこは人が住む場所であり、道もあれば庭もある。つまり、それなりにひらけているわけで。なにをしなくても、今年の苛烈な太陽の光が降り注ぐわけで。
もちろんできるだけ扉や窓は開けていたのだろうが、どれほどの効果があったのか。さしたる涼になっていなかったのは、ノーラの状態をみればわかるというものだ。
そんな中で、依頼品の作成に夢中になって水分を取り忘れていたというのだから――こうなるのは当然の結末だろう。
「シルカが熱中症だっていってたぞ。ひどくなりゃあ、命にかかわる。危なかったって、ちゃんとわかってんのか?」
「……ごめん」
鼻から指を離し、物事の善悪を理解していない幼子にいうように、ゆっくりと静かにいってきかせれば、ノーラが素直に謝った。
いつにない反応に、ユカの怒気に似た感情の勢いがそがれてゆく。尖っていた想いの切っ先が丸くなる。
「ったく、驚かせるなよ……」
ノーラが倒れたときいたとき、暑い季節にもかかわらず、全身に冷や水を浴びせられたような気がした。心臓が握りつぶされたかと思うくらいに、息ができなくなった。
思わず、ルッツを怒鳴りつけそうになったくらいだ。大人の余裕をなくしたところなんてみられなたくなかったので、さすがにそこは堪えたが。
「水飲むか?」
「……うん」
シルカが起きたときに飲ませて、と置いていった水差しとコップをあごで示せば、ノーラがしおらしく頷いた。
水を注いでいると、ノーラがゆっくりと体を起こした。眉をわずかにひそめている。まだすこしめまいがするのか、揺れるノーラの上半身を支えてやりながら、コップを差し出す。
「ほれ」
「ん、ありがと……」
こくこくと、まるで子供のようにコップの水を飲むノーラの体は、まだ本調子ではないようだ。触れたところから衣服越しに伝わる熱が、常日頃より高い。ぞわり、と嫌な感覚がユカの皮膚の裏を這い回る。
ああ、いやだいやだ。
いつからこんなにも、たったひとりに心を占領されてしまっていたのだろう。
恋だの愛だのいえばこっぱずかしいが、実際そのとおりなのだから、ユカは受け入れるしかないのである。
「まだいるか?」
「も、いい……」
「じゃあ寝ろ」
ゆっくりと頭を振ったノーラを、ユカは寝台に横たえた。長い髪を梳き、首筋の布を改めて濡らし押し当てると、ほう、と気持ちよさそうにノーラが息をつく。
自分の柄じゃねぇと思いつつも、かいがいしく世話をするユカを見上げたノーラが、目を細める。いつも明るく輝いている翠の瞳が、ぼんやりと潤んでいる。
「ユカ、しんぱい、してくれたの……?」
「……」
どこか舌足らずなしゃべりかたでそんなことをいわれ、一瞬意味がわらかなかったユカは、理解したと同時に眉を潜めた。
だがさすがに、病人に対していつものように突っかかることなんでできるわけがない。軽口の応酬をすることすら、今のノーラには辛いだろう。
素直になるには天邪鬼すぎる己の捻くれた性格を若干疎ましく思いながら、ユカは照れを隠すように、右の手をのばしてノーラの頭を撫でた。
子供のように細くやわらかな金の髪が、乱れる。だが、ノーラは嫌がらず、なされるがままになりながら、ユカのこたえを待っている。
「あたりまえだろーが。いつもぎゃんぎゃんうるさいノーラが倒れたなんていわれりゃ……」
きゅ、と力のこもっていない細い指先が、シーツの上に無造作に置いてあったユカの左手を掴む。思わずそれを引き寄せて、ユカは苦しげに眉を寄せながら、まだ淡い色のもどらぬ爪に唇をよせた。
「――心配、かけんな」
「……うん」
微笑み頷く弱弱しい声の中に、心なしか嬉しそうな感情が見え隠れしている。なんだか妙に気恥ずかしくなって、それ以上なにもいずに口を噤めば、心地よい沈黙が部屋を満たした。
さあ、と夕暮れの風が滑り込んでくる。
白いカーテンが揺れて、静かな診療所内はそこだけ時が止まってしまったかのよう。
どちらの手も離すことができず、ゆっくりと撫でつづけていると、ノーラがうっとりと目を閉じた。
「ユカの手って、きもちいいね……」
「おまえの体温が高すぎるんだっつーの」
熱中症患者のたわごとだと軽く鼻で笑う。今のノーラなら、誰の手だって冷たく感じるだろうに。
むう、とわずかにノーラがむくれた。薄く瞳をひらき、こちらを不満げにみつめてくる様子から、どうやらそういうことをいいたかったわけではないらしいと察する。
重ねたあった手の、ノーラの指がユカの指に絡んでくる。
「ユカの手だから、いいんだよ?」
「……あー、ああ、わかったわかった」
体が弱れば、心も弱くなる。きっと今のノーラもその状態なのだ。だから、こんな、普段はあまりいわないような甘えるような言葉をいいながら、すり寄ってくるのだ。
どうせノーラには、ユカが期待するような想いをこめて言っているわけがない。過度な期待はするな、とユカは自分に言い聞かせる。
自然と熱くなっていく頬をみせたくなくて、ユカはノーラの頭を撫でていた手で、翠の瞳を覆った。視線が途切れて、なぜだかほっとする。
「よくわかったからもう寝ろ。ここに、いてやるから」
視界が暗くなったせいか、ノーラの体から強張りが少し解けた。やはり、ノーラの体はまだまだ休息を必要としているのだ。
ゆっくりと子守唄をきかせるような調子で、ユカは喉を震わせる。少しでも、ノーラが安心して夢の世界へと旅立てるように。
「次に目が覚めたら、家まで送ってやる。だから、おやすみ、な」
「……」
うん、と聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で頷いて、ノーラはすとんと眠りに落ちていった。
すうすう、と規則ただしく繰り返される呼吸は、ユカが診療所に駆け付けたときに比べたら、格段に落ち着いている。
そっとノーラの目元から手をどけて、どこか緩んだその寝顔を見下ろす。
「……はー、オレの熱もあがっちまいそうわ……」
ユカは寝台に顔を伏せ、右手で赤くなった耳を覆うように腕をまわす。
「気持ちよさそうな顔しやがって……あとで覚えてろよ」
ちらり、と腕の合間からノーラの顔を睨み付け――く、とユカは喉を鳴らした。
そのままゆっくりを瞼を閉じる。次にノーラが目覚めるまで、自分もすこしだけ休もう。ノーラと会話をして、大丈夫だと実感したら、疲れた押し寄せてきた。逆らえるだけの気力がない。
そうだ、ノーラが元気になったら、力いっぱい抱きしめてやろう。きっと真っ赤な顔をして、ぎゃあぎゃあと恥ずかしさにわめくだろうが、そんなもの知ったことではない。せいぜい元気よく、自分の腕の中で暴れてもらおう。そうして、気がすんだら離してやろう。
ありありとその光景を想像できる未来を思いながら、ユカも安心のうちに微睡んでいった。
そんな二人の手は、シルカが様子をみにきたときも、優しく重ねられていたという――