ごう、と強い風が鼓膜を震わせる。
エリーゼは、身を縮こまらせて自分を抱く腕をきつく掴んだ。
薄く開いた視界はやや不規則に上下し、すぐ近くにある雲は、息一つする間に遠く後方へと流れていく。
遥か見晴るかす世界は、夕暮れ間近の空の色の下にあって、複雑かつ美しい色彩で揺れている。
東の端はすでに暗い。紺色や藍色がじわりと忍び寄る夜の境目。ちかちかと、金に銀に、星が瞬く。
しかしながら、それを楽しむ余裕は、エリーゼにはまったくなかった。
「ど、どこまで、きゃっ……! いくんですか……! アルヴィン!」
がくん、と高度が数メートル落ちて、エリーゼは悲鳴交じりに背後にいる男へと非難を浴びせた。
「ニ・アケリアだ!」
「ニ・アケリア?!」
精霊の主たるマクスウェルを崇める古い血筋のものたちが住む、穏やかな空気に満ちた集落。厳しい地形を辿らねばいけぬその村を、エリーゼも何度か訪ねたことはあるけれど。
「なにを、しに?!」
風に流されかき消されぬよう、普段は出すことのない大きな声で訊ねる。
「ヒミツー!」
「かわいくないですー!」
ぱちん、と片目を閉じて茶目っ気たっぷりにいうアルヴィンを、エリーゼは一刀両断する。
「姫様ひでえー!」
何が楽しいのか、からから笑うアルヴィンを見上げて、エリーゼは溜息をついた。
学校帰り、いきなり現れたと思ったら、あれよあれよという間に街の外に連れ出され、平原で優雅にくつろいでいたワイバーンの背にあげられて。
抗議する間も、ドロッセルに出かけると伝える間もなく、アルヴィンに手綱を握られたワイバーンは空へと舞い上がった。
空の高みから地上へと自力で降りる術をエリーゼはもたない。仕方がないので、なされるがままにしているが、アルヴィンは一体何を考えているのだろう。
旅をしているときも、何を考えているのかが読めないところはあったが、あのときの暗さと危うさは、いま見上げる笑顔には微塵もないし――というかむしろ、子供のようにわくわくしているようにしかみえない。
自分だけが知る素敵なものを、いつ誰かに見せびらかそうか、それともやめようかどうしようかという、そんな子供じみた、顔。
問いただすことをあきらめたエリーゼは、景色を楽しむことにした。とはいっても高いし、速いし、揺れるしで、なかなかそれも難しいけれど。他にできることもなかった。
そうして、海を抜け、瀑布を越えて、ニ・アケリア上空についたとき――あたりはすっかり夜の女神の懐深く抱かれていた。
翼で力強く空気を漕いでいたとは思えないくらい優しく、ワイバーンはニ・アケリア集落の傍近くへと舞い降りた。
ふわ、と柔らかな風がエリーゼの髪をもてあそぶ。
「はい、ご到着っと」
「……」
相変わらず機嫌よさそうなアルヴィンにはこたえず、エリーゼは乱れきった髪を撫でて整える。レディたるもの、身なりには常に気をつけるよう、ドロッセルがつけてくれた行儀作法の先生がいっていた。
「じゃ、こっちな、姫様」
「も、もう……! なんなんですか、いったい……!」
身なりを整える暇も与えてくれないアルヴィンに、ワイバーンの鞍から降ろされ、エリーゼは足元をよろめかせる。
「いいからいいから」
強引なことをいいながらも、アルヴィンの大きな手はエリーゼを気遣い支えてくれる。
自然にエリーゼの手をひき、丁寧に案内してくるその仕草は、とても様になっている。やはりアルヴィンは、良家のご子息さまなのだ。
そんなふうに、大人の男に淑女としてエスコートされれば、悪い気はしない。
まんざらでもない気分でアルヴィンの顔を見上げ――じーっとエリーゼはある一点を注視した。
カラハ・シャールでアルヴィンが目の前に現れたときも、ワイバーンで移動している間もずっと気になっていたけれど、訊けずにいたことだった。
「え、なに姫様。俺の大人の魅力にまいっちまったか?」
いい男はつらいね、などと嘯くアルヴィンを、エリーゼは瞼を半分ほど落として睨みつける。
「お髭」
端的な指摘に、ああ、と納得いったようにアルヴィンが声をもらし、指先で顎を撫でる。
そこには、エリーゼがいったとおりのものが、薄っすらと生えている。剃り忘れた、という感じではない。いまから生やし、整える、といったところだろうか。不潔さが見当たらないところはさすがだ。
似合わないわけではない。むしろアルヴィンの、いままでとは違う魅力になっているとも思う。でも、まるで知らない人のようにも見える。
つん、とエリーゼは顎を動かして、前を向いた。どうやら自分達は、ニ・アケリアの集落内を流れている川へと向かっているようだ。
「剃らないんですか? 老けてみえますよ」
「それでいいんだよ。あんまりいい男すぎても、商売してっとなめられちまうのよ。優男だと思われて、ふっかけられたり足元みられるのは癪だしな」
「……そうですか」
それはきっと、エリーゼには知るよしもないアルヴィンの苦労なのだろう。だから、それ以上は何かいう気にはなれなかった。くすぶっていた感情が、急にしぼんでいく。
アルヴィンが、ユルゲンスとの会社を軌道に乗せようと頑張っているのは、エリーゼだって知っている。そのために、なかなか会いきてもらえないことも、わかっている。
だから、はやく大人になりたいと、エリーゼは強く思うようになっていた。
ティポとお別れをして、みんなと離れて、年頃の子供らしい生活をするようになった今の自分では、仲間の誰かのそばにさえ容易にいくことはできない。つまり、役にたてることもない。
でも、こうすることはエリーゼの望みであったし、仲間たちもそう願ってくれていたことだから、不満はない。
ただ、寂しい。いつもそこにいてくれた人がいないことが、寂しい。
だから、今できるだけのものを精一杯に学び、力をつけて、後ろめたい思いを抱くことなく、みんなに堂々と会いにいける大人になりたい。
そうして、その傍らにたつことができたなら、とても嬉しい。ただ守られるだけでの存在から、変わりたい。
ちら、とアルヴィンをみあげれば、エリーゼの小さな胸の奥がきゅうと締まる。
そうしたら、熱く焦げるようなこの不思議な感情にも、ちゃんとした名前を与えられるような気がするのだ。
そんなことを考えながら歩き続けてたどりついた川のほとりに、村人たちが集まっているのがみえた。
「よう、こんばんは。邪魔するぜ」
「おや、あなたがたは……。ようこそいらっしゃいました」
「こ、こんばんは」
その中の一人にアルヴィンが声をかければ、目を見開いたその村人はすぐに笑顔になった。旅をしていたころ、顔見知りになった人だと気づいたエリーゼは、慌てて会釈した。
「きっとマクスウェル様もお喜びになっておられることでしょうね」
「ミラが?」
あの凛々しい姿を求めるように、思わずあたりを見回すが、もちろんみつけられるわけがない。
「ええ。あの麗しいお姿を拝見できることはなくとも、お越しくださっていると、私たちは信じているのですよ。この日を、たいそう気に入っておいででございましたから」
「この日……」
男の言葉から、特別なことがある日なのだと、エリーゼは気づいた。どういうことかと問いかけるように視線をアルヴィンに向けるが、まだヒミツというように微笑まれるだけだった。
「もうすぐあらわれると思いますので、どうぞ楽しまれていってください」
「ああ、ありがとう。ほら、エリーゼこっちだ」
「ま、待ってください……!」
ぐい、と手を引かれて、エリーゼは小走りにそのあとを追いかける。丁寧に対応してくれた男へと、もう一度頭をさげて前を向く。
「きゃあっ!」
と、足元がおろそかになっていたせいで、小石に躓いて前のめりに身体を崩してしまった。
「おっと」
素早くそれを抱きとめたアルヴィンが笑う。
「気をつけろよ、姫様。怪我でもされた日には、ドロッセルに怒られちまう」
「ご、ごめんなさい」
前方不注意であったのは確かなので、エリーゼが素直に謝ると、アルヴィンが何か思いついたらしく「そうだ」と声をあげた。
どうしたんですか、と言葉にしかけた瞬間、ふわりと身体が浮いた。
「ひゃああっ?!」
「こうすれば早いよな」
さきほどよりもっとずっと近い場所にアルヴィンの笑顔がある。ほんとうにお姫様よろしく横抱きに抱き上げられたのだと、エリーゼは理解した。
ぼ、と顔に熱がともる。
「お、降ろして、降ろしてくださいっ」
「やだね」
「もう! アルヴィン!」
じたばたと暴れてみるが、細い手足のエリーゼからの抵抗などあってないも同然らしく、アルヴィンアは危なげもなく川のほとりを歩いていく。
髪の毛でもひっぱろうかと思ったが、くすくすと村人達がこちらをみて笑っているの気づき、エリーゼは顔をさらに真っ赤にして縮こまった。
どこまでいくつもりなのか知らないが、はやくアルヴィンが止まってくれればいいのに。
「よし、このへんにしとくか」
「……」
集落のなかほどまでやってきたアルヴィンは、すとんとエリーゼを降ろした。
さきほどまで降ろしてくれればいいと思っていたくせに、降ろされるとそれはそれで寂しいと思ってしまう。
でもそんなこと知られたくなくて、むすーっと頬を膨らませていると、ちょん、と突かれた。
「機嫌直してくれよ。そろそろすごいものがみられるから、な?」
そういえば、さきほどの村人も同じようなことをいっていた。人々が集まっていることから考えれば、この場所でなにかが始まるというのは間違いないだろう。
「だから、なにがですか」
さっぱりわけがわからない。ほんとうに、いい加減にしてほしい。
目を細めて睨みつけると、「おお、こわい」と、まったくそんなことを思っていないだろう顔で、アルヴィンが肩を竦めた。
そして、そっとエリーゼの肩に手を置いて、川のほうへと押し出す。
「いーから。俺じゃなくて、景色みろよ」
「……景色っていっても……」
きょろり、視線をめぐらせても、暗くてあまりよくみえない。昼の間なら、草が風に撫でられ波のような模様を描いたり、子供達が放牧のお手伝いをしていたりと、のんびりとしたいい風景なのだが。夜色に浸された世界のなにを楽しめとというのだろう。
アルヴィンの意図がわからず、むむむと細い眉を寄せたとき。
す、とエリーゼの眼前を、小さな光が横切った。
「……っ、」
それがなにかと確かめようとする前に、淡い金色の光が、夜の闇に花ひらいた。
ひとつやふたつではない。明滅を繰り返すそれは、数百数千の数え切れない光の粒。川に沿って、エリーゼの前で舞い踊る。いままでに、みたことがないような、素晴らしく幻想的な光景だ。まるで、星が流れていくよう。
「すごい、です……!」
「だろ?」
興奮を隠せず頬を紅潮させてアルヴィンを見遣れば、たくらみが成功した満足げな笑顔を浮かべていた。
どうやら、これをみせるためにつれてきてくれたらしいと、エリーゼは理解した。
ほう、と溜息が自然と漏れる。きらきらふわふわとあたりに満ちる光の正体はなんなのだろう。
「これ、なんですか?」
「このあたりにしかいない小さい虫らしいぞ」
「虫、ですか」
エリーゼの疑問にあっさりと答えてくれたアルヴィンであったが、それがにわかには信じられないくらい、目の前の光景は美しい。
「この虫には体内でマナを発生させて、それで光の精霊を呼ぶ習性があるんだと。ただし、それはこの季節にしかみられないらしい。この前、ちょっと用事でニ・アケリアにきたときにな、聞いたんだ。これはもう、姫様連れてくるしかねーだろ」
に、と笑うアルヴィンに、エリーゼは顔を輝かせた。頬がどうしようもなく綻んでいく。こうして、忙しい中、わざわざ連れて来てくれたことが嬉しくて、いままで抱いていた不満がすべて霧散してしまった。
「ありがとうございます、アルヴィン! ほんとうにすごい、です!」
「気に入ってくれたか? 姫様」
「はい、はい……! とっても!」
何度も頷いて、ありったけの感謝を伝える。
「エリーゼ姫に喜んでいただき、光栄の極み」
芝居がかった仕草で胸に手を当てるアルヴィンに、くすくすと笑う。
「でも、ドロッセルにもみせてあげたかったです」
カラハ・シャールで生きてきたドロッセルは、こんな景色はきっとみたことがないだろうから。
エリーゼの言葉に、いやいや、とアルヴィンが皮肉気に唇の端を持ち上げて笑う。
「ワイバーンに領主様を乗せるのは駄目だろー。警備の兵士に怒られちまうよ」
「うふふ」
ドロッセルと自分を連れ出して怒られるアルヴィンを想像したら、とてもおかしかった。
「そういうときは、はやくいってくれればいいんですよ」
そうしたら、少しぐらいドロッセルは時間をつくれたかもしれない。とはいえ、ここに来るまでには時間がかかるし、アルヴィンがいっていたとおりワイバーンに乗せることのはできないから、現実的な話ではないだろう。
「まー、それはおいおいな」
はい、とエリーゼは頷いて視線を川へともどす。
ふわり、ふわりと漂う光はやはり美しい。光の精霊と虫の競演に見蕩れながら、エリーゼは言う。
「どうして、わたしだったんですか?」
一緒に来るのなら、もっと近いところに住む仲間でもよかったはずだ。
それなのに、わざわざカラハ・シャールの学校に通うエリーゼの帰りを待って、ドロッセルに伝言を残す時間も惜しいくらいに急いで、ここまで連れて来てくれた。
単純で、素直な疑問だ。
すぐに答えが返ってくると思っていたが、一向にその気配はない。
訝しく思って、隣にたつアルヴィンを見上げれば、光の川を眺めながら少し苦しそうな、せつなそうな表情を浮かべていた。
どうして、そんな顔してるんですか――と、問いを重ねる前に、アルヴィンの薄い唇が震えた。
「――しばらく、姫様になにもしてやれなくなるからな。どうしても、連れて来たかった」
「……え?」
ぱちぱちと、エリーゼは目を瞬かせる。
なにをいっているのか理解できない。
戸惑っていることを察したのか、アルヴィンがエリーゼに顔を向ける。
「オレ、エレンピオスにいこうと思ってるんだ。ユルゲンスと会社おこしただろ? それでちょっと、あっちで頑張ってこようかなーってね」
おどけたように笑いながら、実力試しにいってくるわ、と言うアルヴィンに、エリーゼは慌てて詰め寄った。
「え、でも、もどってくるんですよね……?!」
ぎゅっとアルヴィンの服の袖を掴めば、困ったように申し訳なさそうに、アルヴィンは眉を下げた。光が踊る瞳だけが、恐ろしいくらい真剣だった。
「……数年はあっちにいることになる」
さらに指先に力を込めたエリーゼの手を、そっとアルヴィンの手が覆う。
「シルフモドキの手紙も、エレンピオスまで届くかわかんねーし」
リーゼ・マクシアとエレンピオスは、かつてのように一つの世界となった。でもたやすく行き来できるようなものでもない。ましてやマナが枯渇し、精霊も死に絶えそうになっていたあの世界に、風の精霊の力を借りるシルフモドキがゆけるかまでは、わからない。試した人間も、いないだろう。
「でも、ま、姫様のこと忘れたりしないから、さ」
に、とアルヴィンが笑うから、エリーゼは唇を噛み締めて、熱くなる目頭を堪えた。
「だから」
震える手をおさえるように、アルヴィンの手に力がこもる。少し痛いけれど、それでもよかった。アルヴィンがここにいることが実感できるから。
「エリーゼも、俺のこと忘れないでくれよな?」
茶化すような口調だけれど、どこか必死さが滲む声。
「……」
ひくっと肩と喉を震わせるエリーゼの瞳を覗き込むように、アルヴィンが高い背を少し折る。それだけで、随分と近くなったような気がした。
「約束、してくれるか?」
縋るようなその瞳を、振り払える人がいるのだろうか。
一瞬、子供の自分は置いていかれるのだと錯覚し、自分勝手に絶望しかけていたけれど、もしほんとうにそうならば、アルヴィンはこんな顔をしない。ここへ、つれてきてくれるわけがない。
旅立つ前に、ここへと自分と一緒にきてくれた意味を、慮れるようにならなければ、ずっと子供のままだ。
それは、嫌だった。
だから、潤む瞳で何度か瞬きをして、エリーゼは深く頷いた。
「……はい」
ほっと、アルヴィンが息をつく。よかったと、緊張がほどけた安堵が伝わってくる。
きゅうう、とまた胸がせつなくなる。
わたしの、たいせつなともだち。
ずーっと仲良くしてあげるとあの夜の日に約束した、年上の、子供のようなひと。
カラハ・シャールの街角で待ち伏せされて半ば強引に連れ出されたときから、速くなっていた甘い鼓動の旋律に導かれるように、エリーゼの口から自然と言葉が溢れる。
「アルヴィン。わたしともうひとつ約束してください」
「なんだ?」
なんでもどうぞ、とようやくいつもの余裕を取り戻したらしいアルヴィンが首を傾げる。
「帰ってきたら、またここに連れて来てください」
すう、とひとつ深呼吸。
「みんなには、ヒミツで」
にこ、と精一杯の悪戯っぽさを演じて、エリーゼはふたつめの約束を願う。
あれま、とアルヴィンが目を丸くしたあと、ニヤリと笑う。
「ドロッセルはいいのか?」
さきほど「ドロッセルも」と言った口でこんなことをいう自分に、アルヴィンはあきれるだろうか。
でも、それでも、二人のヒミツとしてまたここに来られたらいいと、嘘偽りなく思う。
ごめんなさい、ドロッセル。
心の中で謝りながら、アルヴィンを真っ直ぐにみつめ、エリーゼは頷いた。
それをみたアルヴィンが、くしゃりと少年のように笑った。
「ああ、わかった。約束だ、エリーゼ。忘れるなよ?」
「はい! そっちこそ、です!」
そういいあって、くすくすと笑いあう。
「よし、じゃあ上流のほうもいってみるか?」
「はい」
アルヴィンからの申し出に応え、重ねあっていた手を迷うことなく絡め繋ぐ。
この日を、この瞬間を忘れないよう、心に刻むよう、エリーゼは歩き出すアルヴィンの横顔を見上げながら、光の渦の中でやわらかに微笑んだ。