油断していた。
腹あたりに圧し掛かる温かく柔らかい感覚から必死に意識を逸らしながら、アルヴィンは頬を引き攣らせる。
こういうときに役に立つべきだろう鍛えた両手足は、精霊術により拘束されていて、ピクリとも動かない。
エレンピオス出身で、霊力野の発達が乏しいアルヴィンではそれを破る術はない。術をかけた本人があまりにも優秀なためか、力任せではずすのも難しそうだ。
「アルヴィン」
さらり、小さな面を縁取る金の髪を揺らし、シャール家において淑女の教育を受けたはずの少女――エリーゼが微笑む。
見惚れてもいいくらいの美しい笑みであるが、あいにくとこういう状況ではそうもいかなかった。
「エリーゼ、なんのつもりだ?」
低い声と厳しい視線をあわせて、自分に跨って顔を覗きこんでくるエリーゼに、アルヴィンは訊ねる。
アルヴィンが商談で訪れていた街の宿への、いきなり呼び出しに驚いたものの、エリーゼに会うのはやぶさかではない。
夜になり、仕事が終わってから、食事でも一緒にどうかと訪れたのだが――ドアをあけたとたんに、精霊術で拘束され放り出された。それが寝台の上であったおかげで背が痛むことはなかったが、余計にまずい気がしてならない。
とにかく、理由を説明して欲しい。
できることなら、自分の嫌な予感は、ただの杞憂で終わるようにと、アルヴィンは柄にもなく神に祈った。いままでそんなものまったく信じてこなかったくせに、とはいってはいけない。都合のよいときだけ、人でないなにかに祈るのが人間である。
うるさい心臓の音が、静かな部屋に響き渡っているような気さえして、ごくりとアルヴィンは喉を鳴らした。
ふっくらとした、花びらに似た唇が、動く。
「既成事実を、つくろうと思って」
こてん、と愛らしく首を傾げてとんでもないことをいってのけるエリーゼに、さすがのアルヴィンも青褪めた。
予感的中ー!
「まてまてまてはやまるなー!」
子供のように大きく頭を振って、落ち着け、思い直せと訴える。
「嫌です」
つーん、と顎先を持ち上げるようにして拒絶の意を示し、エリーゼがアルヴィンのスカーフに手をかける。
上質の絹でつくられた、アルヴィンのトレードマークともいえるスカーフが、するすると外される。
ひいいい、とアルヴィンは喉の奥で悲鳴をあげた。
「お、おまえっ、こんなおっさんになにしようってんだ! おい、やめろって!」
「わぁ、アルヴィン、お商売はじめてからも鍛えてるんですね。……この歳なら、お腹でてるかと思ってたのに」
「ひでぇ!」
アルヴィンの服の裾をまくり、興味深そうに遠慮なく腹を撫で回してくるエリーゼの感心したような言葉に、思わず涙が滲んだ。
あちらはまだ十代後半。こちらは三十路。それをふまえてもなんていうこといってくれる。どれくらい腹がでているのかと想像されていたかと思うと、さすがに傷つく。
できることなら、じたばたと手足を動かして抵抗したいところだが、ローエンから精霊術の手ほどきを受けたエリーゼは、友達のティポがいなくとも、これくらいのことは易々とやってのけるようになってしまった。ローエンが師匠であることから考えるに、二重三重の術の用意くらいしていそうだ。
やはり油断していたのが、アルヴィンの敗因である。
「まて、エリーゼ、話し合おう!」
「話し合っても決着つきませんよ」
いまさらなにいってるんですか、と呆れたように見下ろされ、アルヴィンは眉を下げる。
「わたし、ずーっとアルヴィンのことみてました。気づいてましたよね?」
「うっ」
旅が終わり、いつしかエリーゼの瞳に、ともだち以上のなにかが、確かに芽生えたことを知っている。まさかそんなはずはない、自分の勘違いだと、アルヴィンは自分に言い聞かせた。
「ちゃんと告白したこと、何回もありますよね? そのたびごとに誤魔化されましたけど」
「……」
ひとつ、ふたつ、と華奢な手で指折り数えるエリーゼから、アルヴィンは視線を逸らした。
探るようにいわれたこともある。向き合っていわれたこともある。心を綴った手紙だって、もらったことがある。
それらの、少女が出来る限りの手段をもってした精一杯の告白を、大人ぶって余裕をみせて、それはエリーゼの思い違いだと諭し続けた記憶が、アルヴィンの脳裏によみがえる。
直近でいわれたのは三ヶ月ほど前。あのときも、それはあくまで友情の延長線上にある気持ちだと受け止めたふりをして、流した。
そのときの、「そうですか……、残念です」と言ったエリーゼは、もしかしたらそのときにはもう、こうすることを決意していたのかもしれない。
そうなると、アルヴィンは選択肢を間違えたことになるだろう。こうして実力行使にでられる要因を作ってしまったのだから。
だが、エリーゼの提案に乗ったところで、世間的にはいたいけな少女の頃から狙っていた三十路男と見なされるだろうから、それもある意味、選択を間違えたということになろう。
要するに、エリーゼが恋慕の情を抱いたときから、それに気づいたときから、それをかわしはじめたときから、アルヴィンの進退は窮まっていたということになる。
「そ、それは、なんというか……っ?!」
しどろもどろになりながら、この場を逃れる術を模索していたアルヴィンの頬に、エリーゼの手が掛かる。ぐい、と前を向かせられて息を飲む。きらと輝くオリーブの瞳は、太陽をいっぱいに浴びて瑞々しく伸びる若芽の色ではなく、獲物を狙い闇の向こうで爛々と灯る猛獣のそれに近かった。
「だからね、アルヴィンに諦めてもらおうと思って。そのお手伝い、します」
ひぃ、と喉の奥で悲鳴が引き攣る。
いかんいかん。このままではエリーゼの思うがままである。というかすでにエリーゼのペースにはまっている。
当然のように、アルヴィンの服にかかる指先をなるべく視界から排除しつつ、すう、はあ、と幾度か呼吸を繰り返す。なるべく心を落ち着ける。
そして。
「いい加減にしてくねーか? 俺はな、大人の恋愛がいいわけ」
なんとか声を震わすことなく、そう伝える。エリーゼが、にこりと笑う。
「わたし、もう大人です」
確かにまあ、アルヴィンを押し倒すくらいには大人だろうが、それはいわゆるダメな大人の部類だ。
そんな子に育てた覚えはありません!
まったくといっていいほど育ててもいないくせに、そんなことを考えて憤る。自分勝手というなかれ。こんな状況では誰しもそう思うに違いないのだから。
ちくしょう、ドロッセルはいったいどういう教育をエリーゼにしてたんだ!
丹精込めて育てられた薔薇のように微笑む、可憐なカラハ・シャールの領主の姿を思い出し、内心で罵る。
「半年ほど前には学校に通ってただろうが!」
まだまだお子様だといえば、すうっとエリーゼの瞳が細くなった。凍えるような冷え冷えとした瞳に動揺しつつも、アルヴィンはそれを懸命に見返した。年上男のなけなしのプライドだけが支えだ。
なんだろう、いますごく、男に襲われる女の気分を味わっている気がする。
どうしてこうなったと答えのでない問いを繰り返しつつ、いう。
「とにかく、恋愛経験積んでから出直してこいよ」
ふん、と小馬鹿にしたように装って、アルヴィンはエリーゼを拒絶する。
が、エリーゼはそんなことは想定の範囲内だったのか、まったく心に響いた様子もなく、アルヴィンを見下ろたまま言う。
「それってそんなに大事なんですか?」
「そりゃー……っ、」
そうだろう、という前にエリーゼの指がアルヴィンの鼻にかかる。きゅっと摘まれて、びくりと身体が跳ねた。
「でもアルヴィンって、絡め手でこられるより、真正面からぶつかられるほうが弱いです」
うふふ、とエリーゼが楽しそうに顔を綻ばせる。だったら下手に経験を積むよりは、心のままにぶつかったほうがよいと判断しているらしかった。
「……」
ぐうの音もでない。
腹の探りあいは得意だが、面と向かって信頼や友情、そして愛情を向けられると、非常に脆いことを、アルヴィン自身もよくわかっている。
エリーゼには全てお見通しらしかった。
「それに男の人って、女の人のはじめてが好きってききました。今まで、大事にとっておいたんですから、ちゃんともらってください」
なんということを、しらっといってのけるのか。というか、もらわれそうになってるのは俺のほうじゃねーか?
くわんくわんと鐘を耳のすぐ近くで鳴らしたように、頭の中が掻きまわされる。
顔を覆って、泣きたい気分だ。拘束されているのでそれもできないが。
ああ、出会った頃の純粋無垢な愛らしいエリーゼはどこにいった? ああいやまあ、若干の腹黒さは垣間見えていたような気がしないでも――
「って、おい?!」
するするとシャツをまくられて、過去を思い返すことで現実逃避を図っていたアルヴィンは、ひっくりかえった声をあげる。
「そもそも、大人の恋愛と子供の恋愛ってなにが違うんでしょう?」
少し浅黒い肌の上を、エリーゼの白い指先が辿る。蠢くたびに、ぞわり、と背筋が震える。
やがて、ゆっくりと手の平が押し付けられる。そこは、早鐘のように鼓動を繰り返す、心臓の真上。
「好きっていう気持ちに違いはないのに」
ね? と、エリーゼが同意を求めたのか、答えを求めているのかわからぬことをいう。
「……」
好きという気持ちが大人と子供でどう違うかなんて、アルヴィンにわかるわけがない。普通の少年時代を過ごしているのなら、甘酸っぱい思い出のひとつもできていたかもしれないが――そんなことを考える余裕なんて、なかった。生きるだけで、精一杯だった。
だから、いつもそれらしいことを言って遠ざけていた。ほんとうは、なにもわかっていないのに。それを見抜かれているようで、ばつが悪い。
「わたしは、アルヴィンが好きです」
すい、と顔をよせたエリーゼの薄い肩から、はらはらと金色の髪が零れる。
指を差し入れたらさぞ心地よい手触りだろう。美しく艶やかなその想像に浸ることは許されず、アルヴィンは眉根を寄せる。
「……エリーゼ、待て。それ以上、いうな」
怖い。
その先をいわれたら、後戻りできなくなる。エリーゼも、自分も。
これまでのように、誰かに支えられ、誰かを支えて生きてきた世界が変わる。すべてが、二人だけのために存在するものに成り果てる。アルヴィンとエリーゼが生きる世界の、添え物という立ち位置になる。
それを理解しているのだろうか。すべてを差し置いて、自分のことを一番に考え、想われ、行動されることの意味を、わかっているのだろうか。
この人なくして生きてはいけないと――そんな弱さを手に入れる恐ろしさを、わかっているのだろうか。
震えるアルヴィンの唇を、エリーゼの指先がなだめていく。
「どうしてですか? わたし、アルヴィンのこと――」
「やめっ……!」
ひたり、アルヴィンの唇に指の腹を押し当てて黙らせて。
「愛してます」
蕩ける笑顔で、エリーゼは熱に浮かされたように、そう言った。
ききたくて、ききたくなかった、言葉だった。
ああ、とアルヴィンは感嘆とも落胆ともいえぬ声を零した。
世界の色が、変わっていく――それを敏感に感じ取って、アルヴィンは瞳を伏せる。いまにも泣き出しそうに、口元を歪める。
「やめろっていっただろうが……!」
引き攣る声に宿るのは怯えを、もう隠すことができそうにない。
崖に追い詰められた獲物を前に、捕食者たる存在は、優美に微笑む。さあ、こちらへおいでといわんばかりに。
「アルヴィンは、ただ愛されてくれればいいんです」
じわじわと甘い毒が頭蓋に注がれるように、エリーゼの言葉がアルヴィンを浸食していく。
「嘘つきなところも、駄目なところも、弱虫なところも、愛して欲しいってほんとうは思っているところも――ぜんぶ、そのままでいいんですよ」
だから、くださいと。
素直でひたむきな情熱に裏打ちされた囁きに、流される。
「……っ、」
だめだ。だめだ。
そうわかっているのに、思うのに。瞳に涙が滲む。唇が震え、わななく。
みっともなく縋って、抱きしめられたいと思ってしまう。ありのままに受け止めてくれるという甘言に、すべてを委ねたくなる。
ぐ、と下唇を噛み締める。
と。
いままでの妖しさを、ぱっと霧散させて、エリーゼが自分の胸をぽんと叩く。
「大丈夫です! 歳の差があってもうまくいってる例なんて、世の中いっぱいありました!」
えっへんと胸を張り、子供じみたあどけない輝く笑顔でそうのたまうエリーゼに、アルヴィンは泣きたい心地で苦笑した。
女の顔と少女の顔。そのふたつを絶妙にあわせもつエリーゼに、ふりまわされる自分が滑稽だった。
でも、変わらぬ想い、揺らがぬ意思をもっているエリーゼにくらべて、顔を背け逃げ続けているだけの己が、かなうべくもない。
「……そんなこと調べたのか」
「はい。だから、問題なんて大したことないはずです――アルヴィンは、頷くだけでいいんですよ」
きら、と翠の双眸に宿る光。
精霊の気配を感じることなんでできないアルヴィンであったが、これは精霊も一枚噛んだ誓約で成約なのだと、なんとなく理解した。
その言葉を肯定する返事をした瞬間から、アルヴィンはこの目の前にいる美しい少女――否、女から、一生逃れることはできなくなる、と。
「ね? とっても簡単です」
アルヴィンの人生全てを請われているような気がしたアルヴィンは、ふ、と身体から力を抜いた。
いや、それは「そんな気がする」などという可愛いものではなく、本当に、「全部ください」といわれていると、痛む胸が教えてくれる。
いよいよ、年貢の納めどきというか、観念するときがきたようだ。
「なるべくおいしくいただいてくれる?」
口元を皮肉気に歪めながら、どこか茶化したように言えば、ぱあっとエリーゼが顔を輝かせた。
「は、はい! とっても大事に、します!」
エリーゼが、うんうんと何度も頷く。ようやく、欲しかったものを手に入れられた興奮に、頬を染め上げていく。
その様子はたまらなく愛らしいけれど、アルヴィンは相変わらず押し倒されたままである。
「なあ、これほどいてくれよ」
くい、と顎で手を拘束している術を示すが、勢いのままエリーゼが頷いてくれることはなかった。今度は、ぷるぷると顔を左右に振っている。
「だめです」
別に騙すつもりはない。いきなり、言葉を反故にして逃げ出すとでも思っているのだろうか。
「なんだよ、エリーゼのこと抱きしめたいんだけど?」
心の底から、いままさに実行したい行動を伝えるが、エリーゼは頷いてはくれない。
「それはあとからでいいです。いまは……」
エリーゼが上半身を傾ける。ぽす、とアルヴィンの胸に覆いかぶさり、エリーゼが猫のように頬を摺り寄せてくる。
やわらかくてあたたかい。
ああもう、この存在があるのなら世界がどうなっても、もう構わない。
「わたしが、抱きしめてあげます、ね」
「……そっか」
伸びてきた細い腕が、首に絡まる。
首に触れる柔らかな吐息と、温かい唇。
流れる血潮の真上にあたる、小さな歯の感触。
命そのものを握られてしまったような感覚が、いまはただ心地よい。
この美しくたおやかな捕食者に食べられるなら、このすべてを差し出そう。
自分を食らいつくす存在の一部となって、この世界で生きていけるなら、幸せだ。
くつくつと喉を震わせ笑いながら、アルヴィンがその瞳を閉じれば、薄く開いた窓の外からは、夜の街の喧騒が遠く聴こえた。