幸せの在処

 よし、と可愛らしく気合をひとついれる。
 すうはあ、と息を整え、近くの店の磨き抜かれた窓を利用して、自分の全身をチェックする。
 髪は丁寧に梳いてきた。風にふわりと揺れている。
 昨夜は水分を取りすぎないように気を付けたから、顔もむくんでいない。
 甘いお菓子は大好きだけど、綺麗だと思われたいから、食べ過ぎないよう気を付けてきた。だから、体型は乱れていないはず。
 服だって、埃やほつれがないか気を付けて、数日前から悩んで選んだ。ドロッセルも似合うといってくれた。
 初めて出会った頃よりも、時間の経過とともに伸びた手足、背、髪。
 その頃はわからなかったけど、年頃の男の子たちから向けられるようになった視線に、自分の容貌がどうみられるのかも、エリーゼはいつしか理解していた。
 それが、好みにあっているかはわからないけれど、美人になると太鼓判を押してくれたのはあの人だ。
 脳裏にその姿を思い描くだけで、ふわふわとした気持ちになる。心臓がはやくなる。
 翠の双眸を煌めかせ、エリーゼは顔をひきしめる。
 ――ばっちり、です! と、エリーゼは一歩踏み出した。
 今日こそ、今日こそ、という思いが、エリーゼを突き動かす。
 そうして街の角をひとつ曲がれば、すぐそこに背の高い男が立っているのがみえた。
「アルヴィン!」
 視界がその人物をとらえた瞬間、はしたないといわれても仕方がないような大きな声で、エリーゼはその名を呼んだ。
 ぼう、と街行く人を眺めていた男の瞳が、ぱっとエリーゼのほうにむけられる。
 駆け足に近づけば、穏やかに和むその視線に、胸がいっぱいになる。
「待たせちゃいましたか?」
 おずおずと、高い位置にあるアルヴィンの顔を見上げながら問いかければ、いいや、と穏やかな応えがある。
「いい女を待てるのはいい男の特権だぜ」
「ふふ」
 自信満々にいってのけるその様子に、口も後に浮かぶ笑みを堪えられない。相変わらずのようでほっとする。それが妙に落ち着く。
「久しぶりです、ね」
 三か月ほどだろうか、こうして顔をあわせるのは。待ち望んだ、逢瀬。
「ああ。最近、仕事であちこちいってたからな。姫は、元気にしてたか?」
 するり、額にかかった髪を払い、頬を撫でられたエリーゼは頷く
「はい! アルヴィンも元気でしたか?」
「そりゃー、もちろん」
 便りがないのは元気な証拠、とそらとぼけたようなことをいうアルヴィンに、ほっと息をつく。
「よかった! 心配してたんですよ?」
 仕事が忙しいことは知っている。リーゼ・マクシアだけでなく、エレンピオスにまでその販路を広げているのだ。ゆえに、それは仕方がないことだと、エリーゼは理解している。
 でも心配なものは心配なのだ。好きな人ならば、なおのこと。
「あらら~、姫に心配してもらえるなんて幸せだねえ」
「もう、またそうやって茶化すんですから」
 おどけるアルヴィンに、エリーゼは目を細める。
 機嫌を損ね、むくれられることを恐れたのか、アルヴィンがわずかに背を屈めて首を傾げる。
「悪い悪い。……じゃあ、いくか?」
「はい」
 す、と差し出された腕に、ためらうことなく腕を絡める。アルヴィンからの淑女扱いは、いつでも嬉しい。子供ではないと、行動で教えてくれるから。
 そうして、エリーゼはアルヴィンと連れ立ってカラハ・シャールの街を歩いていく。
 アルヴィンがきたときはいつも、市場を歩くことになっている。
 アルヴィンの商売柄、今どんな商品が出回り、人気があるのか気になるから、ということらしい。
 でも、それがアルヴィンなりの気遣いなのだと、エリーゼはわかっている。
「お、エリーゼ、アイスキャンディー食べないか? 俺、喉乾いちまった」
 だってほら、今だって、自分がそうしたいからといいながら、エリーゼが好きなものを食べさせようとしてくれる。
 きっと、このあと雑貨屋などにでもいったなら、ひとつふたつとエリーゼが目に止めたものを、なんだかんだと理由をつけて買おうとするのだろう。
 いつぞやなど、別れた後に家に届けられたこともあった。
 そのときのことを、アルヴィンなりの優しさを思いだし、エリーゼは小さく笑う。
「どうした? いらないか?」
「いいえ」
 器用なくせに、変なところで不器用なひと。
 そんなアルヴィンに、エリーゼは笑って頭を振った。
「わたし、ぶどう味がいいです」
「なんだそれ、新しい味でてんの?」
「はい、とっても美味しいですよ」
「へー」
 なるほどね……、と頷きながら、おそらく商売のことに思いをはせているのだろうアルヴィンの横顔に、エリーゼはわずかに頬を染めた。
 やはり、アルヴィンは格好いいと、ごく自然に思ったのだ。
 絡めた腕の、その先。細い指で、エリーゼは、ぎゅっとアルヴィンの服を掴む。
 この胸を締めつけるときめきが、少しでも伝わればいいのに。

 

 顔見知りのお店にいったり、アルヴィンたちの会社から商品を購入している店などをみてまわったりした後。
 二人は、シャール家の広大な庭の奥、白い大理石でつくられた東屋にいた。街の喧騒から隔離されたような静かさの中、心地よい風がふきぬける。
 そのたびに、手入れの行き届いた色とりどりの薔薇たちが揺れ、甘く爽やかな香りが漂う。その奥には、午後の傾き始めた柔らかな光をあびる、ブランコがひとつ。かつて幼子たちに使われていただろうそれは、いまでもきちんと手入れをされていることを、エリーゼは知っている。
「どうぞ、アルヴィン」
「お、サンキュ」
 慣れた手つきで、ティーカップに紅茶を注いだエリーゼは、アルヴィンへと差し出す。
 よければこちらも、と昨日焼いておいたお菓子も添える。作ったのはピーチパイだ。アルヴィンの子供の頃の好物だと、バランに教えてもらったもの。
 きょろり、とあたりを見回していたアルヴィンが、カップに指をかける。
「こんなところもあったとはな。さすがシャール家ってところか」
 音をたてることなく、育ちの良さがにじむような仕草で紅茶を口にしたアルヴィンが、しみじみという。
「天気もいいですし、たまにはこういうのもいいかと思って」
「だな。気分いいわ」
 くすくすと、顔を見合わせ笑いあう。
「これ、エリーゼが焼いたんだろ?」
「はい」
 白い皿の上に乗った綺麗な焼き色のついたパイに、そっとフォークがいれられる。
 練習だって何回もしたし、素材だって吟味して揃えた。間違いないと思うのに、どきどきしながらアルヴィンの感想を待つ。
 あ、と口をあけて、手ずから放り込んだパイを味わうアルヴィンの喉が、こくりと上下に動く。
「……ん、うまいな」
 わずかに驚くアルヴィンをみて、やった! とエリーゼは表情をふにゃりと崩した。
 そういってもらえて、とても嬉しい。バランにアドバイスを求めたかいがあったというものだ。
「たくさん食べてくださいね」
「おう」
 意外と味覚に子供っぽいところがあるアルヴィンは、無心にパイをたいらげていく。
 その様子をにこにこと眺めながら、エリーゼもお茶に口をつける。以前、ローエンからもらった茶葉は、深みのある味と香りでエリーゼを楽しませてくれた。
 そうして他愛もない近況報告を交わし、アルヴィンがパイをいくつか胃におさめたところを見計らい――エリーゼは居住まいを正した。
「アルヴィン」
 凛、と向かい合う男の名を呼べば、そこに宿る響きに感じるものがあったのだろう。ぴく、と肩を震わせたアルヴィンが、ゆっくりとフォークをおろし、顔をあげた。
 その表情に、エリーゼがいいたいことはわかっていると、書いてあるようにみえた。
 きゅっと汗ばんだ手を握りしめる。こくり、乾いた口と喉を濡らすために、なけなしの唾液を飲み込み、言葉を紡ぐ。
「……お返事、きかせてくれませんか?」
 今日会ってから尋ねる機会は何度かあった。でも、アルヴィンにそんな様子はなかったから、あと少しの勇気がもてなかった。
 待ち合わせの場所にいくときに、あんなに気合をいれたというのに。きっとミラなら、なにも迷うことなくあの場での返答を求めたに違いない。
 憧れにはまだまだ遠い。でも、今のエリーゼにできる精一杯を重ねていけば、きっとたどり着けるだろう。
 だから、エリーゼは重ねる。緊張と不安に震える全身を、叱咤しながら。
「わたし、いいました」
 前回、会いに来てくれたときに、エリーゼはこの小さな身体から溢れそうになっている恋心を伝えた。それは幼く、拙いものだったろうけれど、アルヴィンにはちゃんと届いたはずだ。
「ああ、わかってる」
 ほんのりと、これまであまり見たことのないような儚げな笑顔が浮かぶ。
「考えさせてくれって、アルヴィン、いいました」
「ああ、おぼえてる」
「今日、来てくれたのは、お返事してくれるからじゃ、ないんですか?」
「……」
「手紙をもらったとき、わたし、すごく嬉しかったんです」
「……」
「会いにくるって、書いてあるのをみつけて、とっても幸せでした」
「……」
 頷いてくれたのは最初だけ。あとはただ黙って、エリーゼの言葉に耳を傾けるだけだったアルヴィンが、ゆっくりと立ち上がった。
「……アルヴィン?!」
 そのまま、ふらりと東屋を出ていくアルヴィンを、エリーゼは驚きとともに追いかける。
 歩幅の広いアルヴィンに対し、エリーゼは小走りであとをついていく。
 ぴたり、と歩みを止めたのは、風に揺られてわずかに軋む、小さなブランコの前だった。
 昔、ドロッセルがシャールと一緒に両親にねだって作ってもらったというもの。仲の良かった兄と妹の思い出が詰まっているのだろう。
 そこに、ゆっくりとアルヴィンは腰掛けた。数秒遅れて、エリーゼはその傍らに立った。
 旅も終わりの頃、月の下、トリグラフの公園でのやりとりが、昨日のことのように蘇る。
 あのときと同じように、アルヴィンは迷い、戸惑い、途方にくれているのだと、感じた。
 そんな顔を、しないで。
 エリーゼは、アルヴィンの前にしゃがみこんだ。アルヴィンの膝に手を置いて、俯いた顔をみあげようとする。
「わたし、アルヴィンを幸せにします」
 そのために、お勉強だっていっぱいしたし、お料理だって一生懸命習った。シャール家にはメイドさんがるけれど、掃除も洗濯も、自分でできるようになりたくて、お願いしてやらせてもらっている。いいお嫁さんになれるよう、頑張っている。
 そんな内容の言葉を重ねつつ、まるで出来のいい人形がそこにおかれたかのように微動だにしない男の頬に、エリーゼはそっと指先を滑らせる。
「俺、は」
 は、とアルヴィンが息をつく。あげられたその整った顔に浮かぶのは、泣き出しそうな表情だった。
「俺は、いまでも幸せだよ」
 ほんとうだろうか、とエリーゼはアルヴィンの瞳を覗き込む。そらされることはない。嘘はそこにないと感じる。
「誰も裏切らなくていい生き方ができるだけで、幸せだ。……エリーゼの気持ちは、嬉しい。でも、」
 大きな手で左目から額を覆い、アルヴィンがくしゃりと髪を掴む。
 ああ、とエリーゼは心の中で、納得の声を漏らした。
 アルヴィンは、居場所を得たことに安心しきったその時点で、とまっているのだ。いま以上の幸せは、身に余ると、自分にはふさわしくないと、退けている。
 そんなこと、許せないと思った。きゅっと、エリーゼは眉根を寄せる。
「どうしてアルヴィンはそうなんですか?!」
「エリーゼ?」
 いつにない力のこもった声に、アルヴィンが目を丸くする。
「わたし、アルヴィンには幸せになってほしい、です……! もっと、もっと……!」
 そして、それを成し遂げるため、エリーゼにいてほしいと、言って欲しい。それがだめなら、側にいることを許してほしい。たくさんの時間をかけてわからせてみせる。
「だから、いっただろ? 俺はもうじゅうぶんすぎるくらい、幸せなんだ」
 それしか選べなかったとはいえ、裏切り続けた。傷つけてきた。振り返れば、暗い思い出だけが残る過去。思い馳せている様子をみせるアルヴィンの瞳の奥の記憶は、エリーゼの想像など追いつかないようなものだろう。
「エリーゼは……、みんなは、幸せでいてくれよ」
「……もちろんです」
 そっとエリーゼはアルヴィンの手に、小さな手を重ねた。
「でも、アルヴィンも、もっといっぱい幸せになってください。じゃなきゃ、許しません。それに、ジュードやレイアに怒られるし、ミラには笑われちゃいますよ?」
 アルヴィンは、もう裏切らない、嘘はつかないといってくれた。だけれど、強がらないとはいっていない。
 だってほら、こんなにもアルヴィンの手が震えてる。戸惑い、うろたえ、一歩を踏み出す勇気がないだけのくせに、自分はここにいることを許されただけでいいと、意地を張っている。
 ぎゅっとアルヴィンの手に、エリーゼは自分の手を重ねて笑う。
「アルヴィン、いじっぱり、です。嘘をつかなくなったのはいいことですけど、もっと素直にならないとだめです」
 ほんとうは、誰よりも幸せになりたいくせに。
 しっかりと目を見つめていえば、アルヴィンが、くしゃりと顔を崩した。迷子になって、ようやくみつけてもらえたときの、子供のように。
「なんなんだよ、俺をいじめてそんなに楽しいのか?」
 思ってもみなかった問いかけに、ぱち、と大きくひとつ瞬きする。
「……」
 ん、とエリーゼは息を飲んで考える。
 自分はいま、楽しいのだろうか?
 だが、そういわれれば、アルヴィンの気持ちを暴くのは、嫌いではない。そうして、感情を素直に表情にしてくれるのも、嫌じゃない。それはつまり。
「そうなのかもしれません!」
 きらきらと表情を輝かせて肯定すると、うぐ、とアルヴィンがすこし引いた。
「……否定しないのかよ」
 潤んだ瞳をみられるのが嫌なのか、アルヴィンが目をそらす。もったいない。こんなに、綺麗なのに。
 優しく両手を添えて、アルヴィンの頬を包み込む。嫌がる僅かな抵抗は、一瞬だけで、そろそろとエリーゼに視線をあわせてくる、途方にくれたその顔ったら。
 くす、とエリーゼは笑う。
 可愛いと、思った。愛しいと、感じた。笑ってと、願った。
 それが偽らざる自分の、素直な気持ち。
 ゆっくりと立ち上がったエリーゼは、ちゅ、と小さな音とともに、アルヴィンの額に唇を落とした。
「アルヴィンをみてると……なんていうか……」
 唇を尖らせるアルヴィンの前で、エリーゼは手をあげる。
「なによ」
 うーん、とエリーゼはジュードを真似たポーズで思案して。
 あ、と口を開いた。
「わたしが男の子を産んだらこんな感じ、なのかもしれないって思います!」
「よりによって息子かよっ?!」
 がばっと顔をあげたアルヴィンの悲痛な声に、エリーゼはころころと笑う。
「息子なんて安全パイどころか、はなっから対象外じゃねーか!」
「大丈夫ですよ。愛していますから」
 ぎゃあぎゃあとみっともなく叫ぶアルヴィンを、にっこり笑顔と言葉で黙らせる。
 思ったとおりわずかに頬を染めて口をつぐんだアルヴィンが、目を伏せる。
「そういう愛じゃねーだろ……俺が、」
 欲しいのは――そんな言葉が、小さく聞こえる。
 しようのないひと。
 くす、とエリーゼは笑って、細い腕を伸ばした。
「だから、そういう風に思うところもなにもかも全部あわせてアルヴィンって男の人が好きなんです。わたしよりずっと年上だけと、かわいいですから」
 包み込めるはずなどないとわかりながらも、ぎゅ、と抱きしめる。囁いた言葉に、ぴくりと震える大きく逞しい身体。
「……すげー殺し文句」
「そうですか?」
 あまりそういったつもりはなかったので、エリーゼは首を傾げる。
 どうきいてもそうだろうが、と零しながら、アルヴィンが目を瞬かせる。
「俺、エリーゼといたら駄目男になりそう」
「これ以上、ダメになりようがないじゃないですか」
 なにをいまさらと、とぼけたようにいってみれば、ガン、と何かで後頭部を叩かれたような顔をする。
「惚れた男にそこまでいうか……?!」
「ふふふっ」
 ね、とエリーゼはアルヴィンを、もう一度抱きしめる。
「幸せになりましょう? ……わたしがいて幸せだって、いつかアルヴィンにいわせてみせます」
「ああ、そうだな――……頼むよ、エリーゼ」
 自分の胸に顔を埋め、縋るように背中の服を掴んでくるこの人にとって、ここが、幸せの在処だったのだといつかいってもらえますように。
 エリーゼは幾度も幾度も、アルヴィンの背に手を滑らせた。