嫌な予感は確かにあった。
だが、油断していたのもまた事実だった。
数々の冒険と頼りになる精霊たちと、そしてついてきてくれた力強い存在が、ティアの危険予知を鈍らせていたのだろう。
いくつか部屋をみてまわり、これで探索は最後となる部屋の中央に進んだとき――足の裏で妙な硬い感触。そして、『カチリ』と響いた音。
しまったと思ったが、それでは遅かった。
四隅から中央へと吹き付ける乳白色の靄。匂いも刺激もないが、本能的な警告音を脳裏に響かせるそれに、自然と身体は強張った。
「きゃあっ!?!!」
「ティアっ!」
悲鳴をあげ、竦みあがったと同時に、ともに探索にきていたヒースが動いた。手首がきつくつかまれ、引き倒されるように退かされる。
「いたっ……!」
その勢いに飛ばされ、ティアはしりもちをつく。それでもその華奢な身体に残った力は相殺されず、ころころと床を転げまわる。
やがてつぶれたように這いつくばったティアが、なんとか薄く瞳をあけて顔をあげると、つい先ほどまで自分がいた場所を覆う、靄の塊があった。まるで空の雲を切り取ってそこに置いたように蹲っている。
慌てて視線を周囲に走らせるが、ヒースの姿がみえない。
つまり――。
ティアの大切な人は、あの中にいるのだ。得体のしれない何かにつかまっている。一緒に探索にこれたことが嬉しくて、注意力が散漫になっていた自分を助けて、そこにいる。
血の気がひく、と表現しても足りないほどの恐怖に、ティアは懸命に手を伸ばす。
「いや、いや……! ヒースさん! ヒースさん?!」
必死に名を呼ぶティアの耳に届いたものは――しっかりとした口調だけれど、それには不釣合いな可愛らしい声だった。
「ああ、無事といえば無事だが――いや、そうでもないな」
もやもやとした塊のど真ん中から聞こえたそれは、のんびりとした口調で「困っている」という言葉を紡いだ。ティアは、ひくっと喉を震わせた。
「……えっと」
そのまま床に横たわったままでいるわけにもいかず、ゆっくりと身を起こし、座る。そして、両頬に手をあてた。
落ち着いて、落ち着いて。
ゆっくりと呼吸を繰り返す。その間にも、頭の中で繰り返される音声。
ひんやり、とティアの背筋が寒くなっていく。
この声は誰のもの? ここまで一緒に来たヒースは、こんな子供じみた声ではない。
低くて、ちょっと掠れているときもあって、ティアの鼓膜を心地よく震わせてくれる、大好きなあの声ではない。間違いない。
恐慌状態一歩手前でなんとか踏みとどまるティアの目の前で、ゆっくりと靄が晴れていく。
そうして、視界が通常の透明さを取り戻す。さきほど足を踏み入れたときとまったく変わらぬ部屋の様子。
だが、その中央は予想以上の惨状となっていて。はっきりと視認できるようになった瞬間、ティアの瞳が点になった。
眼前に現れたものをみたら、誰だってそうなると思う。
ちょこん。
そんな擬音でもつけたくなるような様子で、小さな子供が座っている。
「ヒース、さん……?」
恐る恐る問いかけたティアに、当然とばかりに頷くさまは、いつもの仕草を彷彿とさせる。だが、あまりにも規模が違いすぎる。
「ああ」
推定年齢十歳以下。おおむね五歳くらい、だろうか。
ちんまりとした小さな体にぶかぶかすぎる衣装をひっかけて、きりりとこちらを見つめてくる男の子を――ヒースに良く似た顔立ち、ヒースと同じ青灰色の瞳、ヒースと同じ濃褐色の髪をした子を、ティアは呆然と見返した。
預言書にはさまざまな力が宿っている。価値を記し、性質を書き換え、大切なものを新たな世界へと運ぶ。そうしたもののうち、近未来を見る『フューチャービジョン』というものがある。それによって、ティアはほんの少し先のことを誰よりもはやく知ることができる。
今回みたものは、こうだった。
グラナ平原から続くグラナトゥム森林の奥、ひっそりとたつ館が発見された。どうして今まで見つからなかったのか、と不思議なくらいの場所にその館はあるが、周囲には強力な魔物が出現するため危険であり、軍により調査・管理されることとなった――そんな内容。
では確かめてみるのが、価値あるものを探し求め、それを預言書に記す役目をもった者の務めだろう。関係ないことを預言書が教えてくれるはずもない。
そうして意気揚々と出かけた先で、発見されなかった要因をティアは知る。
乳白色の霧が、館とその周辺を覆い隠していたのである。足を踏み入れると方向感覚をなくし、もときた道すらたどれなくなるような、そんな濃さ。
それでも預言書の主たちの足を止めるには力不足である。意気揚々と進み始めれば、靄は見る間に晴れていき、古びた大きな館が姿をあらわした。
知り合いの魔女の館によく似ているなあと思いつつ、あちこちを探索しはじめたまではよかったものの――結果は、これ。
ティアは、申し訳なさいっぱいで、視線を下げる。
いつもは見上げるしかなかった人物は、いまやティアが見下ろさねばいけない位置に頭がある。髪を撫でつけたその頭を、真上からみる機会がこんなふうに訪れようとは、夢にも思わなかった。
「呪いね」
幼児と化したヒースを一目見て、至極あっさりと、ローアンの下町に居を構える魔女は言った。
がっくりとティアは肩を落とす。わかっていたことだけれど、改めて第三者から現実を突きつけられると堪える。
そう。
ヒースは、かの館の一室で、まんまと仕掛けられた罠にはまったティアを助け、その身体を小さく縮ませてしまったのだ。
精霊たちの助言と、現在の状況を踏まえ、結論としてさきほどいわれたとおり『呪い』と判断した二人は、ローエンの街へととんぼ返りをし、こうして専門家であるナナイをに頼ることとしたのだが……。
記憶や知識はそのままに、身体だけが幼子になるという、ティアにはさっぱり理解できない事態。
ナナイの前に座らされた男の子――ヒースが、むうと眉をひそめる。細い腕を組む。それは、本人の癖なのだろうが、今の姿にはまったくもって似合わない。大人に憧れ背伸びをする子供のようである。
「そんなことはわかっている。どうしたらいいのかと問うているんだ」
「ふふ、結論ばかり急ぐのは男のよくない部分のひとつよ」
ふにん、とはりのある柔肌に包まれたヒースの頬を突きながら、ナナイがエメラルドの瞳を猫のように細めた。
「時間があればそれも結構だが、あいにくと現実はそれを許してくれんだろう。ヴァイゼン帝国の威信にもかかわる」
たしかに、強国と称される帝国の一将軍が幼児ではさまにならない。ヴァルド皇子の傍らに、きりりとたたずむ幼いヒースを想像したら、威厳などは欠片もない光景ができあがった。むしろ微笑ましい。
「そうね。あなた、帝国の将軍ですものね。ずいぶんと可愛らしくなっちゃったけど」
艶美に微笑んだナナイが、つい、とヒースの柔らかな唇を手入れされた爪の先で撫でる。ヒースに動じたところはまったくないが、それを端からみているティアには、とってもいけない光景にみえて、妙にどぎまぎする。
「ええっと、それで、結局のところどうなの、ナナイ」
見詰め合う二人の間に割ってはいるような形で、ティアはヒースの疑問も含めて、再度問いかける。呪いであることはわかった。では、これはどういった類の呪いなのか、どうしたら解呪できるのか。
「あら、ごめんなさい。おもしろくてつい」
「人で遊ぶのは感心せんな」
「ふふふ、あまりにも可愛いんですもの」
ころころと笑いながら、ナナイがヒースから離れ、ゆっくりと自分の椅子に腰掛ける。
「そうね。私がみたところ、ずいぶんと珍しい呪いね。こめられた呪力も相当なものよ」
自分のせいだ。うっかりと罠にかかったせいで、ヒースがとんでもないことになってしまった。ティアは、瞳を潤ませながら唇をかみ締める。
「あなたたちがみつけたという館だけれど、もしかして魔女の棲家だったのかもしれないわね」
私はきいたことはないけれど、と付け加えたナナイが悩ましげに眉を潜める。
「それなら、館を隠していたあの靄も魔術のたぐいだったのかもしれんな。だが、あれは歩いていくうちに消えていったが……。効力が、いまになって薄れてきていたのか……?」
うーん、とヒースが顎に手をあて思案する。その言葉に、ナナイが大きく頷いた。
「そうかもしれないわね。永遠に続く魔術はないもの。効力が不確かなものになっていても不思議じゃないわ。この呪いもきっとそうよ。だって、あなたの記憶と意識がもとのままなんだもの」
じんわりと涙を滲ませていたティアは、これ以上の事態になっていたのかも、ということを示唆するナナイの言葉に飛び上がった。
「ど、どういうこと?」
「ほんとうなら、精神までもが子供のようになっていたかも、ということよ。強い呪いも、時の流れには逆らえない。特定の人に対する負の感情が呪いの源であるなら話は別でしょうけど、今回のは罠にかかった人間に対して無差別にかかる類のもののようだし……それも仕方ないわね」
ひく、とティアは喉を震わせる。ぐるぐると悪いことばかり考えてしまうティアに対し、こんな目にあっているヒースはいまだ冷静である。
「ふむ、それは困るな。現状はまだマシなほうか」
「そうね」
「……」
ぞ、と感じた悪寒に、ティアは思わず自分の身体を抱きしめる。
もし、ヒースがこの身体相応の精神にまでもどっていたなら、どうなったことか。ティアのことさえ知らぬ幼子になったヒースを前に、途方にくれたことだろう。
ふう、とナナイが髪をかきあげ、細く長い指先に夕焼け色の髪を絡める。わずかに尖った赤い唇とその悔しそうな表情は、同性であるティアも惑わす色香がある。
「正直、私の手ではいますぐどうにかできそうにないわ。ごめんなさい」
「そんなぁ~……」
ティアは力なく項垂れる。ナナイならば、と駆け込んだというのに。いやいや、そもそもティアが悪いのだ。ちゃんと注意していれば、ヒースにこんな迷惑をかけずにすんだはずなのに。
自己嫌悪の螺旋を落ちていくティアを慰めるように、ナナイが微笑む。
「大丈夫、命にかかわるようなものではないみたいだし。とりあえず調べてみるから、少し時間をちょうだい」
「うん……えっと、それでいいですか?」
ちら、とヒースをみると重々しく頷かれた。
「いたしかたあるまい。すまないが、よろしく頼む」
「ええ、ティアの頼みでもあるもの。出来る限りのことはさせていただくわ」
「オレからも相応の礼をすると約束しよう」
「あら楽しみ。なにかわかったら、すぐに連絡するわね」
「ありがとう、ナナイ!」
そうして、これから手持ちの魔術書を調べるというナナイと一言二言交わし、二人は館をあとにした。
そろって足を踏み出した下町は、いつもの穏やかな空気にみちている。空は青く、爽やかに吹き抜ける風の、なんと心地よいことか。
その中で、はあ、と二人同時にため息をつく。少女と幼児の組み合わせにはそぐわない行動だが、こればっかりはどうにも。
「でも、どうしてこんな呪いなんて……」
死の呪いや病の呪い、獣などへの変化の呪いでなかっただけよかったが、ティアは幼児になる呪いなどきいたことがない。
愚痴に近いティアの言葉に、つい、とヒースが顔をあげる。
「ティア、君はイージス理論というものを知っているか?」
「いーじす? 盾のこと、ですか?」
いつかみつけたメタライズをもとに作成し、今も愛用している盾が、その名前を冠している。
そのことではないと、ヒースが首を振る。
「相手を無力化すれば勝利することは容易である、という理論のことだ」
ティアは首を傾げる。それがこの呪いとなんのかかわりがあるのか。
「敵がどんなに強大な力を持ち、こちらがどんなに弱小な力しか持っていなくとも、相手の力を零にすれば必ず勝てる。零対一ならば、一が強い」
つまり、とヒースは重ねていう。
「正面から戦って勝てないのならば、相手を力を奪うことが最も有効な戦法であるという考えだ」
「……はあ」
ティアは、ぼんやりとヒースのいいたいことを理解したような気がした。が、それを説明しろというと、ヒースの言葉を繰り返すしかできない程度だ。
やれやれと、ヒースが己の体を見回す。
「この呪いをかけたやつは、侵入者を無力化させることが狙いだったのかもしれん。小さくしてしまえば、そのあと捕らえるなり殺すなり、なんでもやりたい放題だ。魔女の館、ということならば、実験体を確保するという目的もあったかもな」
「あ、そっか。なるほど……」
力の強い者よりも、力の弱いもののほうが御しやすい。いつの時代だって、どんな場合だってそうだろう。弱肉強食の自然の中であっても、弱い者から死んでいく。つまり、そういうことなのだ。
ふむふむと、ティアが頷き納得していると。
くい、とコートが引っ張られた。みれば、ヒースが小さな手で掴んでいる。なんだか可愛いその仕草に引き寄せられて、ティアは少ししゃがむ。
「まあ、あとは専門家に任せるしかあるまい。ところでティア、頼みがある」
「あ、はい!」
頼み、という言葉にティアは顔を引き締めた。こうなった以上、ティアが責任を取らねばならない。なんでもいってください、と瞳に力をこめる。
「オレをフランネル城に連れて行ってもらいたい」
この姿でなにをするのだろうか、とティアは目を瞬かせる。疑問が顔に出ていたらしく、ヒースが補足してくれる。
「仕事がある」
「あ、そうです、よね。ええっとどうしよう」
は、とティアはそのことに思い至った。ナナイも言っていたではないか。ヒースは帝国の将軍なのだ。なぜそのことが頭からすっぽり抜け落ちていたのか。どうやらまだまだティアの思考は落ち着いてはいないらしい。
とはいえ、堂々と城にいくわけにはいかないのではなかろうか。この状況を説明するのは一苦労だろう。
うーん、と悩むティアに、ヒースがなんてこないと笑う。
「なに、正面からはいったところで問題なかろう。なにかきかれても、適当に返せばあちらが勝手に推測してくれる」
「あ、はい」
それはそうかもしれない。この年頃の幼児が咎められることはないだろう。もちろん、城の中で暴れたり泣き出したり迷惑をかければ話は別だろうが、中身は大人なのだ。そのあたりをわきまえていれば、そうそう目を付けられることはないはず。
そう考えているうちに、くしゃ、とヒースが髪を乱した。小さな手で、それを額におろす。
あまりみたことのない雰囲気になったヒースに、どきん、と心臓が大きく震えた。う、と息を飲みながら、ティアは思わず自分の胸をおさえた。その様子に、ヒースが小さく首を傾げる。
「どうした?」
「い、いいえ! なんでも、ない、です……」
こんな小さな子にときめくとか、私そういう趣味でもあったのかな、と、ティアは熱くなった頬を冷ますように手のひらを押し上げる。いやいやそんなことはないはずだ。
はー、と息を整え、ヒースの顔を覗き込む。
「髪、下ろしていくんですか?」
「気休めかもしれんが、一応な。わかるものにはわかるだろう。そうなったらそうなったで、その場でどうにかするとしよう」
まるで他人事のように自分の困った事態を語るヒースに、こういう人だから将軍が務まるんだろうなあ、とティアは思った。
ふかふかの赤いじゅうたんを踏みしめる。
いつもなら、隣にいる人は大きくて存在感があるのに、今日はちんまりとしていて妙に落ち着かない。
きょろり、あたりをついつい見回してしまうのは、自分に後ろめたいことがあるからで。
「ほんとに入れちゃいましたね……」
「それだけ君は信用があるということだ」
足の短くなったヒースにあわせ、いつもよりゆっくりと歩きながらそう零せば、ヒースが当然だと頷いた。
「いつの間にそんなことになっちゃったんだろう」
「はは、カレイラの英雄がなにをいっているんだか」
「むう」
たしかにそのおかげで、とくに怪しまれることもなく門を通れたわけなのだけれど。そこまで自分のような者に信用を置いてもいいのだろうか、カレイラ王国。
ひとまず当初の目的を果たすべく、ヒースに与えられた執務室へと向かう。途中で小間使いと何人かすれ違ったが、皆一様に会釈をするだけで子供のヒースには言及してこなかった。あとで噂話のネタくらいにはなっているのかもしれないけれど。
どきどきした時間を過ごし、たどり着いた部屋の大きな扉の前でヒースを抱き上げ、金色の鍵穴に同じ色をした鍵を差し込んでもらう。これには魔術がかかっていて、ヒース本人が手にしないと開かない仕組みになっている。
珍しがるティアに、機密書類を扱うがゆえの措置だと、かつてヒースが教えてくれた。とはいっても、たいしたものは取り扱わないらしい。
静かに開錠した二人は、執務室に入り込む。
人がいないせいでひんやりとした空気をかきわけ、ティアとヒースは中に進む。
「少し待っていてくれ。できれば、誰かこないように見張っていてくれるとありがたい」
「はい」
さすがに子供が書類を漁っていたら、遊んでいると思われて、怒られるに違いない。
ヒースの言葉に、ティアは軽く頷いて、扉付近に陣取ることにした。ここであれば、足音がすればすぐにわかる。
と。
「……うーむ……」
かさかさと紙が擦れあう音に混ざって、ヒースの困ったような声が聞こえてきた。
「どうかしましたか?」
振り返ると、いつのまにか執務机の椅子の上にたったヒースが、真剣な顔をして机上を見つめていた。
「座ると、手が届かん」
端的な言葉が連れてきた沈黙が、室内に落ちた。
「……ふふっ」
それを打ち払ったのは、ついこぼしてしまったティアの笑い声。
「笑うな」
「す、すみません……ふ、ふふっ」
「まったく……。さて、どうしたものか」
眉を潜めて咎めてくるヒースに、笑いつつ謝りつつ――ティアは預言書をとりだした。
四枚ある精霊たちの栞のひとつに、そっと指先を滑らせる。
「ウル」
「はい。ティア、ここに」
雷の光をかすかに纏わせながら、青年の姿をした精霊が本の上に浮かび上がる。
「見張りを頼める? 誰かきたら教えて欲しいの」
「わかりました。お任せを」
うやうやしく胸に手を置き頷くウルに、ありがとうと礼をいって、ティアはヒースのもとへと駆け寄る。
「どうした?」
「私の代わりをウルにお願いしました。こちらのお手伝いしますね」
そういって、ティアはヒースに床に降りてもらうと、一言断って椅子を動かした。そこに、腰掛けて手をのばし、ヒースを抱える。
「これでどうですか? 届きませんか?」
ヒースを膝の上におろして、椅子を机に近づける。いささか嵩を増したおかげか、ヒースの手は書類たちをとらえられる位置に落ち着いた。
だが。
「……これなら確かに届くが……みっともないな」
「しかたないじゃないですか」
このぐらいの年頃の子供は絶対しないくらいに眉間に皺を寄せる幼児ヒースに、そのままだと癖になっちゃったら困りそうだと考えつつ、ティアは眉を下げて笑った。
「はやく終わらせることにしよう」
そういって、ヒースが手近な一枚をとった。
ティアにはさっぱりわからないものだけれど、こうして椅子代わりになることで仕事の手伝いができているような気がして、ティアはちょっとだけ、嬉しくなった。
そうして、ペンの準備をしたりインク壺をとったり、ティアとヒースで協力して事務作業をしているうち――すい、と入口近くにいたウルが飛んできた。
「ティア、人がきます」
「え、えっと……! ありがとう、ウル!」
どうやら懸念していたとおりの事態になってしまったようだ。まあ、ヒースの仕事内容や将軍職ということを考えれば予想できることだ。
ひとまず預言書に帰っていくウルに礼をいいながら、おたおたとインクの乾いた書類を束ね、ペンとインク壺を定位置にもどし――二人そろって椅子から降りて机の脇に立ったと同時に、扉がノックされた。
「あ、ええと、はい!」
とてて、と小走りに近づいて、そっと扉をあける。
そこにいたのは、ティアもよく知ったヒースの部下だった。一瞬だけ驚いたような顔をされたが、ヒースの執務室にティアがいるのはさして珍しいことではない。
自分の中で納得する答えを導き出したのか、すぐにその強面が緩んだ。同じ年頃の娘が帝国にいるというこの人は、ティアのことを可愛がってくれているせいもあるだろう。
「おお、これはティア殿。ごきげんよう」
「こ、こんにちは!」
ぺこり、と頭を下げる。不審な行動はできるだけしないよう、気を付けなければ。
「ヒース将軍はおられますかな?」
「そ、それが……わ、私も会いにきたんですけど、ちょっとでかけられ、まして……あはは」
まさかこちらに背を向けている子供がヒースさんです、とはいえない。ぎくしゃくとした受け答えをすると、部下の顔が曇った。
「そうですか。お願いしていた書類はどうされたのか……」
「あ、それなら机の上にあるやつが、そうじゃないですか?」
そういいながら、ティアは招き入れるように扉をもう少し開いて、執務机へと歩いていく。きっとさきほどヒースが処理したもののなかにあるのではないだろうか。
「たくさんあって、私にはよくわかりませんけど……、どうですか?」
部屋の主が不在であるが、ティアに屈託なく問いかけられて、ついつい部屋へとはいってきた部下が、机上の書類をみて顔を輝かせる。
「おお! これです!」
サインの筆致も間違いないと、頷いている。
「よかった。じゃあ私、ヒースさんが帰ってきたら言っておきます。書類を持っていかれましたよ、って」
にこ、と微笑むと、つられたように部下の人は頷いた。
「そうですか。ではよろしくお願いします。……ん?」
ようやく部屋の隅にいる子供に気づいたらしく、「おや」と、小さな声がもれる。びくっとティアは肩を震わせたが、小さくなったヒースをながめる彼には、それは見咎められなかったようだ。
「あの子は、ティア殿の弟さんですかな?」
「あ、えと、弟じゃなくて……し、親戚の子供を預かってて……ええと、ごめんなさい、お城につれてきちゃいけないです、よね……」
ごめんなさい、と小さくなって謝罪する。そうですな、と苦笑されて、ティアはますます俯いた。
「だが、どうやらおとなしくてよい子のようですし。ヒース殿にも、邪魔にならなければ咎められることもありますまい。将軍は子供好きな方ですから。では、私は仕事がありますゆえ、これで失礼致します」
どうやらここでも、ティアに近しい関係にある人物ということが功を奏したらしい。
「はい。お仕事頑張ってください」
さようなら、と手を振ると、部下の人は軽く会釈をして部屋をあとにした。
見送って、ほっと一息つく。
バレなくてよかった。問い詰められなくてよかった。
きっともっとしどろもどろになって、ぼろをだしていたに違いない。
安堵するティアの傍らに、てくてくと歩いてくる小さな影。みれば、ヒースの眉間に深く皺が刻まれている。
「親戚の子……か」
不満げな声に、ティアはもっといい誤魔化し方があっただろうかと首をひねる。
「でも、それしかいいようがないじゃないですか」
まさか、自分の子供だと紹介するわけにはいかないだろう。笑われるか、哀れみの目を向けられるのがおちだ。そんなのいやだ。
「恋人ではいけなかったのか」
ヒースの提案に、ティアは数秒沈黙し、苦笑した。
「……それ、笑われちゃうと思います」
見る人によっては、子供の他愛ないおままごとに付き合っていると思われることもあるだろうが普通はそうは思わない。
そんな姿で、妙なところにこだわり、言い張るところがなんだか可愛く思えた。普段は執着なんて、欠片もみせてくれないくせに。ずるい。
「ふむ。子供の姿というのは、やはりいろいろと不便なものだな」
この姿になったことを嘆いているくせに、ヒースが甘えるように手を伸ばしてくるので、ティアはついついその小さな身体を抱き上げる。
将来の精悍な顔つきを思わせる、だがどこか丸みを帯びた顔をしているヒースを、ティアは覗き込む。
「どうしてです?」
「こうして、」
ティアの両頬を、温かく小さな手が挟み込む。そして、ずい、と顔を寄せられた。いっさい躊躇なしのその行動に、反応が遅れる。
「んむ」
まさかそんなことをしてくるなどとは思いもよらず。口付けられたティアは、ただくぐもった声をあげるしかできなかった。
小さな音を響かせて離れたヒースは、子供らしからぬ艶めいた顔をのぞかせている。に、と笑われて、頬が熱を帯びる。
「君にキスをするのも、ままならない」
「ヒースさんっ!」
ティアの抗議を受けてもどこ吹く風。それ以上の文句が降ってくる前にと思ったのか、ヒースが動いた。
「だが、君にこうして抱きしめられるのは悪くない」
「……」
もふ、とティアの体へ幸せそうに顔を埋めるヒースに、適応力がありすぎて怖いと、ティアはちょっぴり思う。
でも確かに、こういうのも……なかなかいいかもしれない。
普段は抱き上げられるほうである自分が、ヒースを包み込んでいる。不思議であるが、なんだか胸の中がほんわりと温かいものに満たされる。
きゅ、とヒースの小さな身体を抱きしめてしばし――「さて」と、ヒースが顔をあげた。そして、ぴょん、とティアの腕から飛び降りる。それがちょっと寂しかったが、凛と見上げられれば言えるわけがなかった。
「ティア、あともうひとつ付き合ってほしいところがある」
「どこですか?」
「皇子のところだ」
「え?! あ、ちょ、ちょっと待ってください、ヒースさん!」
堂々と扉に向かって歩いていく小さなヒースの背を、ティアは慌てて追いかける。ヒースが背伸びをして軽く鍵穴に触れると、それだけで施錠する音が響いた。便利なものである。
「あの、皇子に会いに行っても、大丈夫なんですか?」
「さすがに皇子には事情を説明しておくべきだろう。この姿では魔物の討伐や軍の指揮はとれないからな」
そういった命令がくだらないとはいいきれないのが、将軍である。
一瞬、ぽかぽかと魔物に殴りかかるヒースを想像してしまった。可愛いが、危険すぎる。
「そうですね。皇子ならきっとわかってくれます!」
そんなところへこのヒースをいかせるわけにはいかない、と、ティアも改めてヴァルドのもとへ向かうことに賛同した。
広い城内を、なるべく人に会わないように気をつけて通り抜け、皇子のもとへと向かう。
すぐ傍に控えている秘書のような仕事をしている側近の人に尋ねてみると、今から帝国からの書状をもった使節団代表と謁見予定があるが、わずかな時間であれば会えるかもしれないという。
「ティア様、皇子がお会いになるそうです。どうぞこちらへ」
「はい。ありがとうございます」
皇子に取り次いでみますといってくれた側近の呼びかけに、ティアとヒースはそちらへ向いた。
見慣れぬ子供がティアについてくることに、微妙な顔をされた。もちろんティアはそれに気づいたが、当然のようにヒースを連れてヴァルドの部屋の扉をくぐった。おかしいと思われても、堂々とさえしていれば案外なにもいわれないものだ。
埃一つない綺麗な部屋の奥、ヒースの執務室にあるものと同じような大きな机の向こうに、ヴァルドが座っていた。
「いらっしゃい、ティア。よく来てくれたね」
「皇子っ、こんにちは」
眉目秀麗なヴァイゼン帝国の皇子が、その冷たく整った容貌からは想像できないような柔らかな表情と声で出迎えてくれる。
ぺこり、とティアは頭を下げる。その足元に、ヒースが寄り添ったのをみて、ヴァルドの視線がゆっくりと下がった。切れ長の赤い瞳が、ヒースを注視する。
そして数秒の間をおいて、にこり、と笑った。
「幼いわりに凛々しい子だね。お菓子でもどうかな?」
「皇子、お話があります」
いつものどっしりとした口調で、ヒースが一歩前に出る。しかし、にこにこと笑ったままのヴァルドは、どこからかチョコレートを取り出してそれに応じる。
「子供は甘いものが好きだろう? ほら、遠慮せずにどうぞ」
差し出されるものを受け取りにいかず、ヒースが髪をかきあげ、顔を晒しながらもう一歩前へ。どこかおっとりと、ヴァルドが首を傾げる。ふるり、その手が揺れたような気がした。
「チョコレートは嫌いかな?」
「皇子、信じられないでしょうが、きいていただきたいのです」
はらはらとティアがヒースとヴァルドのやりとりを見守っていると、ヴァルドが肩を竦めたあと、それを落とした。
「君は何があっても動じないな。なんだい、ヒース? ……というか、ずいぶんと小さいくなったね。それとも、私が君を見下ろせるくらいに大きくでもなったのかな」
現実を受け入れているのか、それとも受け入れられずに現実逃避をしているのか、ヴァルドが遠い目をする。もしかしたら見た目以上に動揺していたのだろうか。
「皇子、ヒースさんだってわかるんですか?!」
これまで誰とすれ違っても、ヒースだとわかられることはなかったのに、とティアは驚いた。
「その目をみればなんとなくだけど、わかるよ。様々な力ある瞳を、私は何度もみてきたけれど――ヒースとティア、君たちは特別だ。輝きが違う」
「そうなんですか……?」
思わず、ティアは自分の瞳へ瞼越しに触れてみた。街の住民のみんなとくらべたって、それほど違いがあるようには思えなかった。
だが、ヒースは納得したように頷いた。その仕草に子供らしいところなんてない。
「さすが皇子です。これで話がしやすくなりました」
「君たちのことだ、何か事情があるんだろう。話したまえ」
「はっ」
促され、ヒースが事の経緯を簡潔に報告していく。途中でティアも補足したためか、ヴァルドは最後まで聞き返すことなく、静かに聞いてくれた。
「そうか、理由はわかったが……これは困ったことになったな……」
細長い指を顎にあてながら、ヴァルドがぽつりと零す。
「申し訳ありません」
深々と頭をさげるヒースに対し、やめるようにとヴァルドが手をかざして制する。
「いや、私の恩人でもあるティアを助けてくれた君には感謝している。よくやったね、ヒース」
「もったいないお言葉です」
だけれど、とヴァルドが続ける。
「今日本国からくる使節団がしばらく滞在することになりそうでね。その対応をヒースに頼もうと思っていたのだけれど」
「すぐ帰国されるという話ではありませんでしたか?」
「それが、彼らが通過したあと大雨で街道が寸断されたらしくてね。この季節にあのようなことになるとは珍しいことらしいが……とにかく、帰国はしばらくできなくなってしまった」
「そうですか……」
どこか苦々しい口調の皇子に、ティアは目を瞬かせる。ヴァイゼン帝国の人ならば、ヴァルドとヒースの味方のはずなのに。それなのに、どうしてヒースも顔を曇らせるのだろう。
理解できない会話は続く。
「となると、監視が必要、ですか」
「そうだね。私がカレイラ王国に滞在していることを快く思わない者たちも、本国にいるだろうから。今回訪れるものたちの中に、なにかしらの密命を帯びた者がいないとは限らない」
「あわよくば皇子を蹴落とそうとする輩もいないわけではありません。カレイラ王国の侵略を強く望んでいた一部貴族の後押しも考えられます」
「そうだね。だからこそ、王国側を刺激するような事態になることは避けたい。戦争が再び始まるようなことがあれば、手を貸してくれたティアにもドロテア姫にも申し訳がたたない」
「え、いえ、私は……そんな」
急に話題の中に自分の名が飛び出してきて、ティアは慌てた。いつも、そんなに感謝されるようなことはしていないと言っているのに、ヴァルドがもつティアへの感謝の気持ちは深いままである。
にこ、とティアを安心させるように柔らかに微笑んだあと、ヴァルドはヒースをみつめた。
「とりあえず、使節団の世話には別の者をつけよう。あと、ヒースは私の命を受けてフランネル城を離れた、ということにしておくのがよさそうだね」
「事務仕事ならばどうにかなるのですが……」
ヒースの言葉に、ヴァルドは小さく笑った。
「嫌いな仕事ならばできるというのも大変だね、ヒース?」
「からかわないでください」
む、とヒースが腕を組む。ティアは、くすくすと笑った。
そういえば、ヒースはあまり書類と向き合うのが得意ではない。じっとしているのがどうにも苦手らしい。それなのに、いまはその仕事しかできないのだから、たしかに大変だ。
「では、時折戻っては書類の処理をしている。密命であるため、いつ戻ってくるか、いつ出ていくかはわからない――というぐらいにしておこうか。これならヒースの姿がみえずとも、ヒースの存在を知らしめることができる」
「そうしていただけると助かります」
「まかせたまえ。あとは一刻もはやく解呪してもらうように、いいね」
「そこは、ナナイに任せてあります。きっと大丈夫です」
自分の友の力は本物である。ティアは問題ないとヴァルドに保証した。
「さて、これで当面は乗り切らなくてはいけない。二人とも、この状態を気取られないように気を付けるように。とくにティアは名を呼ばないようにね」
「あ、はい!」
ぱ、とティアは口元をおさえる。確かに、うっかりと名前を読んでしまいそうである。ちろり、とヒースを見てみると、小さく頷かれた。頼む、ということだろう。
さて、とヴァルドが席をたち、ティアとヒースに近づく。にこ、と綺麗な顔が笑みを刻む。
「じゃあ、練習してみようか」
「「……え?」」
何を? というティアとヒースの心が重なったような気がした。
目線をあわせるようにしゃがみこみ、ヴァルドが目を細くする。なんだか、楽しそうなのは気のせいだろうか。
「ヒースとて、いつもの調子でティアのことを呼ぶわけにはかないだろう? ほら、ティアのことをそれっぽく呼んでみるといい」
「……お、皇子っ……!」
じり、とヒースが一歩後退する。ヒースが追い詰められている。珍しい光景に、ティアは目を丸くした。
「もう間違えているよ。ほら、『ヴァルドおにいちゃん』と、呼んでかまわないよ」
ぶんぶん、とヒースが頭を振る。
「そ、それはさすがにできかねます。皇子をそのように呼ぶなど不敬極まりない!」
「子供は傍若無人なくらいでちょうどいいものだよ」
「いや、ですが、しかし……!」
「私が許す。さあ」
逃げだしそうなヒースの細い腕を、がっしりとヴァルドが掴む。ちなみに、ここまでヴァルドは笑顔である。さきほどから変わらぬ笑顔である。ちょっと怖い。
「皇子、そのくらいにしてあげてもらえませんか? ヒースさん泣いちゃいます」
どうみてもいたいけな幼児がいじめられているようにしか見えない。ティアがみかねて助け舟をだすと、仕方ないとヴァルドが息をつく。
「残念だね。まあ、そのうちぜひとも呼んでくれたまえ」
だけれど、とヴァルドがヒースの顔を覗き込む。
「ティアにはそうはいかないよ。これからティアと一緒に行動するだろうし、お世話にもなるんだからね。ほら、呼ぶんだヒース」
「……くっ」
その言葉を発することは、よほど精神にくるものがあるのか、中身は大人であるがゆえに男の沽券に関わるのか。ぶるぶると小さな握りこぶしを震えさせていたヒースが、しばしの沈黙を経てティアを勢いよく見上げた。
き、と睨むような眼差しだけれど、見た目が見た目なのでそれほど怖くはない。むしろ、頬をやや赤らめているその様子は健気にみえるくらいだ。
ヒースの子供の頃は、さぞかし素直な良い子だったのだろうと、思い馳せた瞬間。ふい、とヒースが恥ずかしげに目をそらす。きゅと、一度引き結ばれた小さな唇が、ゆっくりと動いていく。
「ティア……お、おねえ、ちゃん……?」
そうして、疑問形で落とされた、小さくとも強力な言葉という名の爆弾に煽られて――ティアは思わずヒースに抱きついた。そして、力いっぱい叫ぶ。
「か、かわいいいいい~~!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめ、頬を摺り寄せる。ティアは一人っ子であるため、おねえちゃん、なんて呼んでくれたのはミーニャくらいである。あのときも嬉しく可愛いと思ったけれど、それとはまた違う可愛さ。ああ、なんていったらいいのだろう。
感激半分歓喜半分、ティアはヒースを抱きしめる。
「やめ、やめないか、ティア!」
ぐりぐりと頭を撫でればさすがにヒースも喚きたてるが、そんなもの完全無視である。
可愛い可愛いを連呼していてよくわからなかったが、ヴァルドがお腹を抱えるようにして笑っているように見えた気がしたけれど――きっと気のせいだろう。
ヒースを可愛がりながらティアはそう思うことにした。
帝国からの使節団が到着したという知らせを受け、ティアとヒースが執務室からでたとき、長い廊下の遠くにその一団がみえた。
ややヒースが苦々しげな表情をみせたことから、あまり友好的な人たちではないのだろうかとティアは思ったが、深くは訊ねないことにした。王国の英雄という肩書きは、いつのまにやらくっついていたものだが、ティアの意図しないところでそれが影響してしまうことは避けたかった。
ヒースをいつまでも城にいさせるのも怖いので、二人は早々に城を出ることにした。
そして、当面の暮らしに必要になるだろうものを街の市場へと足を運んだのだが、いくつかみてまわった店のひとつで子供用の服をみたとき、あまりに可愛らしいものばかりなので、ヒースがなんだか衝撃を受けていたのが面白かった。この歳にもなって半ズボンか……と悩むさまに、後ろでティアが笑いを堪えていたのは秘密である。
とりあえず、ヒースの許容範囲内におさまるよう品を揃え、食糧を調達してティアの家に帰れば、すでにあたりは夕暮れ時となっていた。
目まぐるしい一日だったと、我が家に帰ってほっとした瞬間。
くう、という虚しい音が、響いた。それは、二人分腹の音。
「「……」」
ティアとヒースは、顔を見合わせ噴出した。
「お腹すいちゃいましたね。ご飯にしますか?」
「ああ、手伝おう」
屋台で買ったものもあったが、それだけでは寂しいし、育ち盛りといえなくもないヒースのために、簡単な料理を手早くつくる。あわせて温めなおしたパンをだせば、夕食の出来上がりだ。
「さて、じゃあ食べましょうか」
「いつもすまんな。ありがとう」
いくつかクッションを置いた椅子に座ったヒースが、嬉しそうに笑う。その様子はいまの姿相応のあどけなさで、ティアもついつい笑ってしまう。
が。
こぽぽ、とヒースが小さな両手を使い自身のカップに注いだものをみて、ティアは肩を跳ねさせた。いつの間に用意していたのか。
「ヒースさん?! お酒なんてだめですよ!」
ティアは慌てて席をたち、手を伸ばす。
「……む。いいだろう、少しくらい」
濃い赤紫のワインがはいったカップをとられまいと身を捩じらせ、ヒースが眉をひそめる。
「今ちっちゃいでしょう?!」
「あっ?!」
身を乗り出したティアは、ばっとそれを取り上げた。じっとりと視線を絡める。不満そうなヒースの顔は、妙に可愛らしいのだけれど、ここでほだされてはいけない。目に力をこめて、ティアはヒースを全力で睨み返す。
「……ひとくちだけでも」
「だーめ!」
さっさとワインボトルもテーブルからひったくり、ティアはそれを食糧棚の、ヒースの手が届かないところへとしまう。これは明日にでも料理に使ってしまおう。
「……」
振り返れば、むう、とヒースがあからさまに顔を歪めている。中身は変わらぬはずなのに、そういうところは子供っぽい。
「とにかく、ヒースさんはいま子供なんですから、いつもどおりにはいきません」
「だがそれをいうなら、今のオレにこの量は食べられないと思うが?」
「うっ」
顎でテーブルの上を示されて、ティアは小さく呻いた。そこにはところ狭しと並べられたいくつもの料理がある。とても、少女と幼子が食べきれる量ではない。
「だ、だって、いつもヒースさんいっぱい食べてくれるから、つい……」
もじもじとしながら、ティアはいう。いつもの調子で作ってしまったことが恥ずかしかった。無意識のうちにヒースが食べるだろう量を想定している。つまりそれだけヒースのために食事を作ってきたということだ。
「オレは、そんなに食べるか?」
「はい」
ふふ、といつものヒースの食事風景を思い出してティアは笑う。
「たくさん食べてくれるの、みてて気持ちがいいっていうか、えと……好き、なんです」
照れくさくて睫毛を伏せながらいうと、ふわりヒースの丸い頬が紅色を帯びた。柔らかな子供の皮膚は、すぐに色が変わる。
「そうか。では冷めないうちにいただくとしよう」
「はい。たくさん食べてくださいね」
柔らかに微笑みあい、ティアは席に着きなおす。
そうして、話をしながら楽しく食事を終え、後片付けを済ませ――夜がしっとりと世界を包んだ頃、ヒースがとろりとまどろんでいることに気づく。
「ヒースさん、眠いんですか?」
夜になったとはいえ、いつもよりは随分はやい。瞼を半分おろしたヒースが、目をこする。
「そうだな……。妙に眠い……」
「ふふっ。疲れたんですよ、きっと。そろそろ寝ましょうか?」
あくびをかみ殺したヒースが、こくりと頷く。
いまにも眠ってしまいそうなヒースを手伝い着替えさせたあと、ティア自身も寝巻きに着替えて明かりを落とす。
そして、寝台に横になると、なんだか不思議な感じがした。いつもなら二人でめいっぱい――というか、ヒースがほぼ占領するところなのに、まだ余裕があるのだ。
でも、温かい。
「おやすみなさい、ヒースさん」
「……」
いつもなら優しく額に落とされるキスはない。かわりに、ティアがキスをする。
言葉を交わす余裕もなく、意識を手放し眠りの世界へと落ちていったヒースを抱きしめ瞳を閉じる。
想像したこともないことになってしまったけれど、ヒースと一緒なら大丈夫。大丈夫。きっとなんとかなる。
そう自らに言い聞かせながら、小さな寝息と心地よいぬくもりに誘われて、ティアもまた眠りの淵へゆっくりと身を任せていった。
こうして、ヒースとティアの、怒涛の一日は幕を閉じた。
翌朝、寝台の上で起き出した二人が、夢ではなかったのかとため息をついたのは、事態が事態だけに当然のことであった。
その後、自分たちでも解呪の方法を探して、ゲオルグが所蔵しているという本をみせてもらったり、城の書庫にこっそりと足を運んだりしたが、成果はなく。
やはりナナイに任せるしかないという結論に至った。
つまり、人に見られぬよう気を付けつつ城でヒースができる事務作業をし、ヴァルドへの現状報告と周囲の動向などの情報交換といったことしかすることがなくなったのである。
そんなこんなで、ヒースが子供の姿になってから、はや三週間がたっていた。
「右は大丈夫です、ヒースさん」
「ああ、こちらも大丈夫そうだ。いくぞ、ティア」
「はいっ」
そう小声で言葉を交わし、小さな影を引きずって二人は城の廊下を移動していく。
ヴァルドが言っていたとおり、帝国からの使者は、そのままフランネル城に滞在するようになった。本国に現状を報告するという彼らの要望に応じるため、こちらにいる文官などは資料集めに奔走しているらしい。
とはいえ、それはあくまで皇子から伝聞として把握している内容である。ティアにはきかせてもらえなかったが、どうにもヒースが不在であることを訝しむ者もいるらしい。
カレイラ王国と手を組んで、ヴァルド皇子が現皇帝の地位を脅かそうとしている。ヒース将軍はその準備のために、不在がちなのだ――と。そんなことさえ語り合っていたと、報告があったらしい。
しかしながら、ヒースがこのまま表にでるわけにはいかない。側近中の側近であるヒースの力が失われている今は、ヴァルド皇子を脅かす者たちにとって最大の好機であるからだ。
つまり、なにもできないのである。
面と向かって言われないが、ヒースも焦っているだろうし、皇子とて不安に思うところはあるだろう。ナナイはサミアドで神官に伝わる文献を確かめると言って旅立ったまま。
ふう、とティアはため息をつく。いつまでこの状態が続くのだろう。そう思いながら、ティアは、見慣れた扉の前にたつ。
「ティア、頼む」
「はい」
懐から鍵を取り出すヒースの言葉に、ティアは腕を伸ばす。
あの日以来、こうするのはもうもう幾度目かだろう。
きょろきょろとあたりを見回し、人影がないことを確認してティアはヒースを抱き上げる。手早くヒースが例の鍵を使う。この場面をみられるだけでも、この子供がヒースであると知られてしまう。用心するにこしたことはない。扉が薄く開いたと同時に、ティアはヒースもろとも中へと滑り込んだ。
「あ」
その瞬間、するりと扉伝いに小さな蜘蛛がはいってくるのが、ティアの目にうつった。思わず声をあげると、「どうした?」とヒースが訝しむ。
「いえ、廊下から一緒に蜘蛛がはいってきちゃったみたいで」
「ふむ。どこにいった?」
「あ、ええと……、すみません見失っちゃいました」
赤い目が特徴的な見慣れぬ蜘蛛は、広い執務室のいずこかに紛れ、ティアの目ではもう追い切れなかった。
「……まあいい。ティア、書類をもらえるか」
「ティアおねえちゃん、じゃないんですか?」
ふふ、と笑いながらティアはヴァルドの側近から預かった書類を執務机へと運ぶ。ヒースが困り果てた顔をして、子供らしからぬ様子で肩を落とした。
「二人きりのときまで、そう呼ぶ必要はないだろう。……まったく、皇子も君も、勘弁してくれ」
皇子から強要されてからというもの、ヒースは外にいるとき、律儀にも「ティアおねえちゃん」と呼んでいる。呼ぶたびに、戸惑い、なにかを耐えるような顔をするので、ここ最近はなんだか可哀そうになってきたくらいである。しかしながら、そう呼ばれるのはちょっとだけ気分がいい。
ちなみに、ティアもヒースを外で呼ぶときには、偽名を使うことを徹底している。それは皇子がつけたもので、帝国の一地方では『狼』という意味があるらしい言葉を、少しかえたものらしい。
なかなか慣れなかったが、ここ最近は滑らかに口からでてくるようになっていた。慣れることがいいこととは思えなかったけれど。
ひとまず、いわれたとおり執務机の上へとティアは書類を並べる。
椅子を踏み台にし、どかり、大きな机の上にヒースが座る。そのまま、胡坐をかいてヒースは手近な書類に目を通しはじめる。行儀が悪いが、身体にあわない椅子に座って苦労するよりは、こうしたほうが効率がいいらしい。
いつでも抱っこしてあげますよ、といっているのだが、ここ最近はきいてくれない。いろいろなものが積み重なったのか、妙に頑なに断られて、ティアはほんの少し傷ついたものだ。
もくもくと仕事をこなすヒースをみつめながら、ティアは眉を下げる。
この光景は、ちょっと可愛いと思うのだけれど、いつまでもこのままではいけないとも思うわけで。
「……ヒースさん。こういったら怒られるかもしれませんけど――実は私、呪いが急に解けたり、効力を失くしたりして、うまくもどったりしないかなぁ~って思ってたりします……」
はあああ、と息を吐きながら、もはや現実逃避に近いことを言い出したティアに、ヒースが喉の奥を震わせる。
「くく……、奇遇だな。実のところ、オレもそう思っていたところだ」
「……ふふっ」
怒られるかと思ったが、ヒースはおどけたような口調で賛同してくれた。もうこなったら、そういうご都合主義で良い方向に物事を考えないとやっていられない。
「まあ、このままでいなければいけないというのなら、腹をくくって受け入れるさ」
書類の内容を確認し、さらさらとサインを施したヒースが、顔をあげずに言う。ティアは、ぽかんと口をあけた。
「え、ええ?! い、い、いいんですか?!」
そんなあっさり言うことじゃない。
数秒後、我をとりもどしたティアに対し、そんな変なことをいっただろうかというような顔をして、ヒースが頷く。
「皇子の側近がこのままでいいわけがない。オレに代わるものには、すでにあたりをつけた。オレとしては将軍の地位には未練もないしな。ただそうなると、皇子には改めて話をしなければならないと思うが……」
主とさだめたヴァルドの力になれなくなることだけが悔しいと、ヒースは言う。
つまり、ヒースにとっては、誰もが羨望の眼差しで見上げる将軍という地位や名誉については、さして執着がないらしい。
ふと、妙な不安を覚える。
――では、自分は?
ヴァルドを敬愛するヒースにとって、自分はまた違う存在としてヒースの心に居させてくれているのは知っているし、そのことを疑ったことはない。だが、こうも割り切りのいいところを見せられると、考えてしまう。
ヒースの大切なものを天秤にかけたとき、自分はどこまでの重さを有しているのだろうか――と。
とりとめのないことを、ぼんやりと脳裏に思い描いているのを気付いたらしく、ヒースがティアへと視線を向けた。
「どうした」
「え、ええっと、その……なんでも、ない……です」
見透かされるのが怖いという気持ちが、ティアの顔をヒースから背けさせる。なんだか、後ろめたかった。
「ティア、ちょっとこい」
「……」
机の端に移動し足をぶら下げたヒースに呼ばれる。どうしたのかはわからないが、ヒースにそうされれば、ティアとしてはいかないわけにはいかない。
ゆっくりと近づくと、ちょいちょいと手招きされる。もっち近くに、ということらしい。
腰を少し曲げて顔を近づければ、ヒースの手が伸びてきた。するりと頬を撫でられて、つい瞳を細くする。あたたかな子供の体温が、心地よい。
「いっておくが、君は別だ」
ん、とティアは息を飲む。問い返す小さな声さえも漏れない。
どうして、ヒースはこの気持ちがわかるのだろうか。
呼吸を止めたティアの瞳を、ヒースが笑いながら覗き込む。だけど青灰色の瞳は、笑ってない。怖いくらいに真剣だ。
どきどきと、ヒースの言葉を待つティアの唇を、小さな指がなぞっていく。
「オレが子供になろうが、君は手放せない。そのつもりもない。婚姻が可能になる年頃に成長するまで、待っていてもらう。君も、こうなったら覚悟を決めておいてくれ」
ティアは、ヒースの言葉を受けてまつ毛を伏せる。さすがに身体が空気を求めている。ゆっくりと呼吸を繰り返し、震える唇を動かす。
「そ、そのときには私、きっと、おばさん、ですよ?」
すっかり子供になってしまったヒースが、大人になる頃には、ティアも大人だ。きっと結婚適齢期なんてとうの昔に過ぎ去っている頃だ。
ヒースは、格好いい素敵な青年になるだろう。大人になった彼に恋をしたティアが保証する。
ならば、その頃、彼に相応しい美しい人が現れたって――おかしくない。
自分の想像に、ティアの心がチリリと焼け焦げる。
これは、嫉妬だ。ヒースに恋をしたときに産まれた、ティアの中の感情のひとつ。
まだ来ない未来にすら、こんな感情を抱くというのに、もしそれが現実になったら、耐えられないのではないだろうか。
そんな杞憂を吹き飛ばすように、ヒースが笑う。今度は瞳も、晴れやかな空のように穏やかな光に満たされる。
「だからどうした」
「ど、どうって……その……」
しどろもどろになるティアに、ヒースが重ねて言う。
「君が君でいてくれれば、それでいい。オレが君を愛していることは変わらん。だから、君も心変わりなど許さない」
「あ、でも……っ、」
ヒースがティアの顔をさらに引き寄せ、背を伸ばす。唇を塞がれ、胸が高鳴る。
「ティア」
小さな唇。小さな舌。振り払えるほどの小さな手に押さえられて、どきどきするなんて。
結局、こんな幼い姿であっても、ヒースはヒースなのだ。ティアの力を抜き、ティアのすべてを預けさせる蕩けるような口づけは、変わらない。
「男はな、どんなに小さくても男なんだ。知っておくといい」
可愛らしい声で、なんてことをいうのだろう。ティアは、睫毛を伏せて、頬を薔薇色に染めた。
どんな姿でも、どんなことがあっても、自分を求めてくれるその熱に、溶かされてしまいそう。
はふ、と甘い息をついて、今度はティアからヒースに触れる。ふっくらとした子供の唇に触れるのは、ひどく背徳的なような気がした。けれど、ヒースの気持ちに応えたい。
「……女の子だって、好きな人がいれば、いつになっても女の子ですよ……?」
知ってました? と悪戯っぽく訊ねれば、ヒースも同じように笑った。そのまま、優しく額を重ねる。
「なら、問題ない」
「ふふ……はい。そうですね」
ティアは、ぎゅっとヒースを抱きしめた。こんなに体は小さいのに、こんなにも心は広い。
やっぱり、この人が大好き。何があっても変わらずに、大好き。
「好きです、ヒースさん」
ほんとうなら、もっといっぱい伝えたいけれど、ティアの唇は小さくて、想いの全てを現す言葉も見つからなくて。
そんな感無量なティアの耳に、「オレもだ」というヒースの想いがしっとりと響いた。
その様子を対の瞳で、じっと見つめるモノがあったことを、二人は知る由もなかった。
「えっと、これを届ければいいんですね?」
「ああ、頼む。オレは皇子のもとへいってくる。直接会って話をしないといけない案件があるからな」
これまでは、届けにいくときもそっと邪魔にならないようについてきてくれていたのに。なので、一瞬、え? と思ったが、ヒースがそういうのなら仕方がない。
「それに、そろそろ帝国からの使節団が帰国するらしいからな。そのこともお伺いしたい」
「ああ、街道の復旧がそろそろ終わるとかって話でしたもんね。じゃあ、あとで私も行きますね」
「ではな」
こそこそと執務室の入口付近で話し合う。
ティアはできあがった書類を届けにいくこととし、ヒースはヴァルドのもとへと仕事の話をしに行くことにする。
まずティアが廊下に顔を出して辺りを確認し、ヒースに大丈夫と頷く。うむ、と頷いたヒースと部屋を出ると、手早く施錠する。
無言で顔を見合わせて、二人同時に別方向へと歩き出した。
「えーと、こっちが文官の人ところで、こっちは軍の人の……」
いくつか角を曲がったところで、ふと今から届ける書類はどちらだったろう、と手にした二種類の書類に目を落とす。
違う書類を渡してしまったら、ヒースにも相手にも迷惑がかかってしまう。
ちらりとみてみると、軍の食糧調達先の選抜についての指示と、休暇をとる部隊への許可とその交代部隊に関する内容だった。
ヒースさんて、いろんなことやってるなあ……。
ふーん、と思いながらとある角を曲がったところで。ぬ、と現れた存在にあやうくぶつかりそうになる。
「あ、ご、ごめんなさい……!」
数歩ななめに下がって見上げたのは、壁でもなんでもなく、長身の男性だった。よくみれば、二人いた。同じような体格で立ち姿に隙がない。
「いいえ。お気になさらず、お嬢さん」
「もしやあなたは『カレイラの英雄』と呼ばれるティア嬢ではありませんか?」
にこにこと笑っているはずなのに、どこか漂う偽物感。ティアは、ゆっくりと下がる。
「え、っと……。はい、そうですけど……」
会ったこと、あったかな、と内心首をひねる。だがどれだけ頭の中を探してみても、該当するような人物に心当たりはなかった。
「ご高名な英雄殿にお会いできて光栄です」
にこりと同じように笑う男たちが、ティアがもつ書類に視線を落とした。
「おや、それは帝国からの書類ですかな」
「はい、今から届けにいくんです」
「ほう。そういえば、確かヒース将軍やヴァルド皇子と懇意にしておられるとか……?」
じり、と左右に別れてにじり寄られ、ティアはわずかに肩を震わせた。
「私たちは帝国の者なのですが、将軍たちがどのようなお仕事をしておられるかを本国に報告しなければいけないお役目を受けておりましてね。よければその書類、少々見せていただけませんか?」
「……!」
広い廊下に展開し、横を通り抜けることもできない位置をさりげなくとった彼らの言葉に、ティアは無言で書類を胸元へと引き寄せた。
疑問形ではあるが、それは命令にしか聞こえなかった。
りん、と頭の中で木魂するのは、警告の音。この人たちは、あぶない。いけない。
ティアは下がりながら、彼らをにらんだ。みられても大したことはないのかもしれない。だけれど、そうするつもりはなかった。
「だめ、です。これは預かったものですから。どうしてもみたいっておっしゃるなら、ヒースさんの……ヒース将軍の許可をもらってきてください」
見た目は可憐な少女であるティアに油断でもしていたのか、丸め込めると思っていたのか、にこやかだった男たちの顔が、はっきりとした拒絶を受けて強張った。
「ちっ」
「やるぞ」
舌打ちが響き、次いで号令のような言葉が漏れ――男二人はティアに向かって飛び出した。動きは素早く、どこからいつのまに取り出したのか、ナイフが握られていた。身のこなしをみるに、ただの使者ではない。
用心していたおかげで、ティアの行動も早い。伸びてくる手をかわし、背後へと大きく下がる。
が。
「きゃっ?!」
自分の思ったとおりの方向へ動くはずの身体が、がくん、と止まった。
慌てて背後をみると、窓から差し込む光をうけてほのかに輝く――蜘蛛の糸が張り巡らされていた。話をしてティアを足止めした男たちの狙いはこれだったのかと気付く。
巣を作った蜘蛛が八つの赤い瞳を輝かせて近づいてくる。おそらく魔術かなにかで作られた生物だろう。人の拳ほどもあるそれは、捕えた獲物であるティアを肩辺りから覗き込んだ。
その姿をみて、あ、とティアは声を漏らした。ヒースの執務室でみかけたものに、よく似ている。あれを大きくしたら、きっとこうなるだろう。
ということは――。
「!」
あれこれと思考を巡らせていると、勢いよく書類が奪われた。
「返してください!」
べったりと上着に張り付いた糸は強力で、ティアがもがいてもとれそうにない。
それがわかっているせいか、男たち二人はティアに構うことなく書類の中身に目を通している。
そして、不機嫌そうに顔を歪めた。
「たいしたものじゃないな。これでは何にもつかえん。無駄足だったか」
「まあ、あちらが首尾よくガキを捕まえていれば問題ない」
くしゃり、と書類を丸めた男たちの言葉に、ティアはさっと顔色を変えた。
ガキ、という言葉に、ティアの脳裏に幼くなったヒースの姿が過る。
「どうしたの……?」
「あ?」
震える声でなんとか絞り出した声は、か細くて聞こえなかったらしい。顔を歪める男たちを、ティアは睨み付けた。
「ヒー……っ、あの子になにしたの?!」
あやうく真の名前を呼びそうになったのを堪え、鋭く問う。
は、と男たちが嗤った。
「あれが将軍であることは判明している。どのような理由でああなったのかはわからんがな」
「まあ、見張られているとも知らず、のこのこと部屋にいった自分たちの愚かさを嘆くといい」
「……!」
やはりあの蜘蛛は――と、ティアは唇をかみしめた。
ここまで何事もなくきていたせいで、油断していた。
どうして学習しないのか。ヒースが自分をかばって呪いにかかったときを思い出して、泣きそうになる。
それをみて、いやらしく男たちが薄く笑う。きっと、怯えだしたとでも勘違いしたのだろう。
「それよりも自分の心配でもしたらどうだ?」
「カレイラの英雄は、あらゆる武器を振るうときいていたが、動けなければどうともできまい?」
「書類は意味がなかったが、おまえには使い道がありそうだ」
なにもできぬ小娘が、とあからさまに馬鹿にしてくる。それが、ティアを奮い立たせるとも知らずに。
ティアは奥歯を噛みしめた。自分になにもでいないと思われている今が好機なのだ。泣いている場合じゃない。ヒースのもとへ、いかなければ!
「レンポ! 糸を燃やして!」
ティアは炎の精霊の名を声高に叫んだ。捕えられたティアの前に、世界から滲み出るように現れた預言書から、炎をまとった大精霊が現れる。
「おう!」
主の呼びかけに応じるレンポの姿は、男たちからは苛烈な火が空中に突如として灯ったように見えただろう。
「うおっ?!」
熱を受けて下がる男たちをよそに、レンポの火が戒めの蜘蛛の糸を焼き切る。蜘蛛が悲鳴じみた泣き声をあげて、霧散する。人間の操る魔術の産物が、大精霊の魔力に叶うわけもなかった。
ティアは、爪先を廊下に敷かれた赤じゅうたんに再び触れさせる。よろけながらわずかに顔をあげると、男たちが退くのが見えた。武器だけでなく、魔術もあやつるとあれば分が悪いと判断したのかもしれない。
だが、逃がすわけにはいかない!
「ネアキ! 足止めして!」
「……」
無言のまま現れたネアキが、杖をふるう。ひゅう、と屋内には発生するはずのない、冷たい風が吹いた。
氷の礫交じりの、極寒の地に相応しいそれが、男たちを包み込むようにして廊下の先まで駆け抜けた。
「「な?!」」
驚きの声が重なる。
ティアは、ゆっくりと身体を起こす。背を伸ばしてみつめる先には、膝から足先までと、両手を凍りつかせた二人の姿がある。
悪魔さえ封じるネアキの氷は、人間の力では壊せないし、自然の条件下では溶けもしない。その場に縫い付けられた二人に、ティアは駆け寄った。
「ヒースさんに、なにしたの?! こたえて!」
「さあな」
「……ふん」
詰め寄っても答えるつもりはないらしく、一人はどうとでもしろというように口元を歪め、もう一人は顔を背ける。
だめだ。聞き出そうと思えば、やりようはあるだろうけれど、ティアにはその術がないし、そうしているうちにもヒースがどんな目にあっているのかを考えるだけで、冷静でいられない。
ティアが頼れるのは、たった一人だけ。
閉じた預言書にもどるレンポとネアキに礼をいうと、走り出す。
どうしてヒースを一人でいかせたりしたのだろう。
たしかに中身は大人だ。だけれど、体は子供なのだ。
ティアにだって抱き上げれる、幼い体なのだ。
ヒースがティアについてきてくれるのではなく、ティアがヒースについていなければならなかったのに!
ティアは涙目になって、フランネル城の中を駆けていく。
そうしてたどりついたのは、事情をよく知り、力になってくれる人物――ヴァルドのもとだった。
「皇子っ!」
「ティア?」
無礼なことだとわかっていても、焦りがティアを突き動かす。とめようとする側近をふりきって、中に入り込むとヴァルドが切れ長の瞳を丸くしながら、側近の動きを片手で制す。
邪魔されることがなくなったティアは、ヴァルドに訴えるように問いかける。
「あ、あの、ヒースさん来ませんでしたか?!」
きょろ、とあたりを見回しても、あの小さな姿がない。嫌な予感に、身体が震える。
「いや、来ていないけれど……。……! なにかあったのかい?」
ティアの焦りように何かを察したのか、ヴァルドの声が意図して落とされる。優雅な仕草で席をたち、近づいてくるヴァルドに対し、ティアは口を無意味に動かした。
「あの、あの……! ヒースさんが、ヒース、さんが……!」
うまく言葉にできぬまま、しゃくりあげるティアの肩をヴァルドがそっと抱く。
「――ティア、こちらへ」
小さく耳に落とされた声に促され、ティアは隣室へと歩を進める。
ヒースさんを助けて、お願いします……と、小さな泣き声を連れて。
カビ臭く埃っぽい部屋は、太陽の角度もあって薄暗い。そこに、押し殺した二つの息と、塞がれてくぐもった息が静かに響いている。
フランネル城は、カレイラ王国が最大の版図を有し、国としても最盛期であった頃とは違い、城のあちこちが放置されているのが実情である。そうでなければ、地下牢の奥にタワシが住み着いて城の財宝をため込んでいることに気付くだろう。
ゆえに、城のあちこちに使ってない部屋がある。ここは、そういうもののうちのひとつだった。
床の上には幼児が無造作に転がされ、扉と窓に張り付いた男たちがいる。異様な光景だ。
「どうやら城の外に逃げたと勘違いしてくれたようだな。兵士たちが外にでていく」
「こちらも大きな動きはないな。誘導部隊がうまく動いたか」
「あとは、隙をみてこいつを連れ出せばいい、か」
窓辺で様子をうかがっていた男が、ゆっくりと近づいていく。背中に回された手首を縛り上げられ、猿轡をかまされた幼児――ヒースがそれを見上げる。
頬には赤く腫れたような痕が浮かび、幾度か殴られたと推測するのは容易である。
「このガキがヒース将軍とはな。ほんとうにそうなのか? 確かに顔は似ているが……隠し子とかじゃないのか」
「使い魔の目をとおしてみた光景では、扉を開いたのは間違いなくこいつだった。ヒース将軍で間違いない。私も驚いたがな」
とても信じられることではないという男に、もう一人が溜息のような声を漏らした。
「なに、間違っていても皇子サマや英雄サマが気にかけている子供だ。のちのち役に立つこともあるだろう」
それもそうかと納得したらしく、視線はヒースから外れた。
「そろそろ手薄になったか?」
「ああ、様子をみてみるとしよう。どうも一匹の様子がわからんが、蜘蛛はあと数匹いるからな」
そう言いながら、男が水晶球を懐から取り出す。くるりと手の内でそれをまわすと、その中央にぼんやりと城内の景色が浮かび上がる。高い位置から見下ろすような光景から、それは人ではなく蜘蛛の視点だとわかる。
鎧を揺らし、兵士たちが廊下を駆けていく。そこには指示を下すヴァルドの姿もある。次いで移り変わったものは、ヒースの執務室のようだった。誰もいない。廊下の景色にも人影はない。
「問題なさそうだ」
「じゃあ、袋につめてもっていくとするか」
その前に、と男の一人が縛り上げたヒースを見下ろす。
「逃げられると面倒だ。念のために足でも折っておくか?」
「そうだな。手がついていればそれでいい」
賛同を得た男の足が、床に投げ出されたヒースの足の上に乗る。ぐ、と体重をかけられて痛むだろうに、ヒースは苛烈に男を睨み付けた。
「――は、むかつく目ェしてやがる。やっぱりあの男ってことか」
「……!」
顔をいやらしく歪める男の足にさらなる力がかかる。みしりと嫌な音が耳に届く――ここまでだ。廊下にはまだ兵士たちがくる様子はないが、限界である。
ティアは飛刀『影牙』を予言書から取り出し、薄く開いて覗き見をしていた隠し扉から部屋へと身体を滑り込ませた。
古い城の部屋には、こういう仕掛けがあるとはきいていたが、ここで役に立つことがあるとは思わなかった。情報をくれたドロテア姫に感謝しながら、飛刀をもつ手先に必要なだけの力をこめる。
「!」
突然の侵入者に一番近くにいた男がとっさに身構える。だが、ティアの狙いは目の前の敵ではない。
そのまま砂漠の大魔女仕込みの手さばきで、飛刀を放つ――ヒースを踏みつけている男の膝側面へ。
「くっ」
正確に狙い澄ましたその一刀に、男が顔色を変えて足をあげる。
ティアの飛刀は、ダン! と大きな音をたて、床へと深く突き刺さる。
「この……! どこから……?!」
突如として現れたティアに、二人の注意がひきつけられる。
その視線を一身に浴びながら、ティアは努めてゆっくりと背筋をただした。
「カレイラの英雄か! なぜここがわかった……!」
焦る魔術師にティアは静かな視線を向けた。
「あなたは、とても優れた魔術師さんなんですね。他の兵士のみなさん、この部屋のことに全然気づいていませんでした。城の外に逃げたようなあとを残してたみたいですし……」
魔力の乏しい者の意識に作用して、無意識のうちに避けるように仕向ける魔術と、子供をさらった者ならば現場から逃亡するだろうという当然の考えを逆手にとって、彼らは城の一室に潜んでいた。
「でも、私にはわかります。そういうの、効かないので」
実力のあるナナイの術すら跳ね返したこともあるティアにとっては、それは意識せずとも行える呼吸のように容易いものだった。予言書の加護の前には、生半可な術はないと同じだ。
「皇子も、このことは知っています。今頃、こちらに向かってるはずです。おとなしくつかまってくれれば、あなたたちの今後は配慮しますっていってました」
「なぜ……!」
ティアは半歩足を退く。
「私も知らなかったんですけど……これ、仕組まれてたみたいですよ」
「「な?!」」
はあ、とわざとらしい溜息をつきつつ言うと、男たちの顔色がみるまに変わった。
「ヒースさんの持ってる鍵の痕跡を追えば、居場所がわかっちゃうとかいうし……あとでちゃんと説明してもらいますからね、ヒースさん」
じっとりとした瞳でもって、ヒースに言う。
「ああ、あとでな」
「「!」」
どこかばつのわるい響きを宿した子供特有の甲高い声に、二人の注意は声の発信源へと注がれる。
そこには、当初の狙い通り床に突き刺さった飛刀で手首のロープを切り、口元の猿轡を自分で外した幼子――ヒースが、いた。
あれこれとしゃべることによって注意をひきつけ、その間にティアの意を汲み自由を取り戻したヒースの口元がゆがむ。それはとても子供のする顔ではない。一言でいうならば、凶悪、であった。
「子供の姿とてなめるなよ!」
ひゅ、と風を切って身構えたヒースの拳に、光がともる。練り集めたプラーナを纏わせ、ヒースが小さな拳が、下から抉るように男の脛を鋭く打ち付けた。
「ぐあっ?!」
さすがに人間の急所と言われる場所に、子供とはいえプラーナ全開で殴られればたまったものではない。
「ヒースさん! こっちに!」
「この!」
振り返り、ティアのほうへと駆けだしたヒースをとらえるために、魔術師の男が空間をを塞ぐように手を伸ばす。
だが。
「っ!?」
走る速度を緩めることなく男に真正面から突っ込んだヒースの姿が、消える。
きっと、男の目にはヒースの小さな身体が、掻き消えたように見えたに違いない。
実際は――
「ヒースさん!」
足の先から男の足の間をすり抜けたヒースを、ティアは抱きしめる。
勢いに床で擦れた子供の皮膚が破れ、血がにじんでいるが、それはあとにするしかない。
きゅう、と眉根を寄せたティアは、預言書を片手で呼び出した。
身体の差をうまく利用されたと気付いた男が、二人のほうを向いたとき。
すでにティアの周囲には、大精霊たちの魔力が満ちていた。燃え盛る炎、大気を焦がす雷、貫くような氷。窓の外には、木々をざわつかせた緑の切っ先――男の目には、それは理解できない光景に映ったことだろう。どんな優秀な魔術師であろうと、二種の属性を同時に操れるものはいないのだから。
ティアは男を見据える。この人には、たくさんのことを喋ってもらわないといけない。
でも、ヒースを抱えたままでティアは戦えない。だから。
「みんな、お願い――死なせないで」
預言書の主の願いを受けて、城の片隅に魔力の嵐が吹き荒れる。
ヒースを抱きしめる腕に力を込めたティアの目の前で、二人の男はそれに飲み込まれていく。
やがて、静かさを取り戻した部屋に、彼らは倒れ伏していた。
あちこち焦げていたり、凍傷を負っていたり、打撲のせいで赤く腫れているけれど、生きている。
やることをやった精霊たちが、ティアの周囲に戻ってくる。
「ありがとう、みんな」
「ほんとにあれでいいのかよ。燃やし尽くしてもよかったんだぜ?」
レンポの言葉に、「いいの」とティアは首を振った。
自分のために力をふるってくれた彼らに感謝の瞳を向けて微笑む。
「みんなの力は、こんなことのためにあるんじゃないって知ってるから」
人と人との抗争に、世界に選ばれた精霊の手をこれ以上煩わせるわけにはいかない。
「も~、ティアってば、ほんといい子なんだからっ」
歓声をあげてミエリが飛びついてくる。
「ティアがそれでいいのなら、私たちはそれでよいのです。この力は、預言書の主たるティアの意に沿うよう振るわれるべきものですから」
「……うん」
ウルの言葉にネアキが頷く。その後ろで、レンポだけが少し不満そうな顔をしていたけれど、それ以上なにもいうことはなかった。彼なりの優しさが、ああいわせたことはわかっている。
「ほんとうにありがとうね、みんな」
そういって例を述べたティアの腕の中で、もぞりと動くもの。
「ティア……くるしい……!」
「あ、ごめんなさい!」
自分の胸にぎゅうぎゅうとおしこめていたせいで、どうやらヒースは身動きできなかったらしい。
緩めると、ぷは、と大きく息をつく。
ぜぇ、はぁと薄い肩を上下させるヒースの顔には、連れ去られるときに殴られたのか、痛々しい痕が残り、唇の端が切れたせいで血が滲んでいる。
その様子をみて、ティアは目を潤ませた。
「ヒースさん……! あのとき、一緒にいっていれば……!」
二人でいたならば、こんなことにはならなかったのではないか。その思いだけで、謝りかけたティアの唇を、小さな手が塞ぐ。
「君のことだ。謝りたいのだろうが、その必要はない。これは、オレが決めたことだからな。おかげで、いろいろなことが解決しそうだ」
腹が立つほどに晴れやかな顔をして、のうのうとそんなことを口にするヒースに、ティアは全身の力が抜けた。
考えてみれば、この姿になる前のヒースも、意外と無茶なことを平気でする人だった。
とりあえず部屋をでようと立ち上がりかけたとき。
廊下が、騒がしくなった。それはすぐに扉の前に集まり――どかん! という派手な音とともに、めきめきと分厚い扉が破られた。
声をかけてくれれば、あけたのに……と、舞い上がる埃に目を閉じて咳き込むティアの耳に、届くもの。
「ティア! ヒース!」
上品な声が、凛と室内に響き渡る。
寄り添っていた身体を離し、ティアは立ち上がる。
「皇子!」
無事です、と伝えるために声を張り上げ手を振る。
すぐに気づいてくれたヴァルドが息せき切って駆け寄ってきてくれる。ティアとヒースの無事を確かめ、小さく頷いたヴァルドが外套を翻す。
「捕えろ!」
ヴァルドの号令に、一斉に兵たちが動く。精霊たちによって身動きできなくった曲者たちをとらえることは容易い。抵抗なく連行されていくさまを見送る。
寄り添いながら立つティアたちのもとへ、ヴァルドが歩み寄る。
「すまない、ティア。遅くなってしまった。首謀者はとらえたし、あとはこちらに任せてくれたまえ」
きっと、あの使者たちの中にいたのだろうとは推測できたが、それをティアが知る必要はないと思った。だから、素直に頷く。
「はい」
「――皇子」
身体のどこかが痛むのか、ヒースがよろけながら前へ出る。
その様子に、一瞬痛ましげに顔を歪めたヴァルドであったが、ほんのりと笑いながら頷いた。
「よくやってくれた。これで心配の種も減るというものだ。君は、はやく手当をしてもらうといい。では失礼するよ」
ほんとうの子供にするように優しくヒースの頭を一度撫で、ヴァルドは部下を引き連れ去っていく。
それを見送って、へたりとティアは座り込んだ。
「ティア?!」
驚いたヒースが顔を覗き込んでくる。のろりと視線をあわせると、ティアは微笑んだ。
「ヒースさんが、無事で……ほんとうに、よかったなぁって思ったら、なんだか力が抜けちゃって」
あはは、と笑いながら、いまさらながらに大きく震えだした身体を抱きしめる。
そんなティアを、そっとヒースが包み込む。小さな手を広げて、腕を懸命に伸ばして、抱きしめてくれる。
「ティア、大丈夫か? ――心配をかけてすまなかった」
ふるり、とティアは頭を振る。そっと小さな背に手を回す。
どうしてこんなときまで、こちらのことを気にするのかと、怒ってやりたい。
でも、うまく言葉にならない。ただただ、ヒースが無事であることが嬉しくて、身体の震えが止まらない。
そのままじっと寄り添う二人の周囲を、よかったねとあやすように、精霊たちの光が舞った。
ヒース連れ去りから三日が過ぎた。
結局、使節団のうち一人が、ヴァルドとヒースの権力を奪い、帝国での地位を失墜させることを目的とし、連れてきた配下の魔術師と私兵を使って起こしたことだと判明した。
彼はカレイラ王国を侵略した際の権益を得、甘い汁を貪ろうと画策していた貴族の一人であり、再びの戦争をと望む一派の一員であることもわかった。
ヒースの執務室に侵入しようとしたのは、上手くこちらを脅せるようなものを押さえるか、王国側の不利益になるものを入手するか――なければ、手近にいた小間使いをとらえて殺し、死体を放り込んで、ヒースに容疑をかけるつもりであったと、そんな恐ろしいことまで考えていたらしい。
たしかに、ヒースしか入れぬ部屋でそんなことがあれば、ヒースが犯人とされるだろう。そうなったら戦争だ。しかも、ティアが氷漬けにした男たちは、小間使いのかわりに、ティアを使ってもいいと考えていたというのだから――人の欲望は恐ろしい。それをきいたときには、ぞっとしたものだ。
ここからうまく残りを炙り出すと、いつになく強い瞳でヴァルドが言っていたので、あとのことは任せておくしかない。これは、帝国の問題なのだから。
とにもかくにも。
「ヒースさんが無事でよかったです。ほんとにもう、どうして教えてくれなかったんですか?」
ローアンの街にある公園のベンチで、膝のうえにヒースを乗せたティアは、恨みがましく問いかける。
「ああ、やつらを刺激して、行動を起こさせたことをいっているのか?」
「それしかないじゃないですか!」
まったくもう。ちっとも悪びれないヒースを、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「苦しいぞ、ティア」
「苦しめてるんです!」
ははは、とヒースが笑う。手加減されていることが、わかっているのだろう。
ぽんぽん、となだめるようにティアの腕を小さな手が叩く。
「魔術師が使節団にまじっていることは、最初からわかっていたことだったからな。なにかしら様子を探ってくるだろうと思っていたんだ」
そういえば、嫌そうな顔をしていたなぁと、いまになって思い出す。魔術の類を嫌うヒースのことだ。ついつい顔にでもでたのだろうか。珍しいことではある。
「それは皇子からきいてます……。ヒースさんの提案で、街道の復旧が終わると噂を流すことにしたんですよね? それで焦ってなにかしてくるって思ったんでしょう?」
ああ、とやはりちっとも恐れなど抱いていなかった様子で、ヒースがあっさりと頷く。
「このままでは埒が明かないと思ってな。それに、復旧の話はまんざら嘘ではない。やましいところがなにもなければ、なにも起きはしないだろう? それならばそれでかまわなかった」
「事件になっちゃったでしょう?!」
ということは、やましいところはありまくりであったわけで。ヘタしたら、ヒースの命はなかったのかと思うと、ふつふつと怒りが湧く。
と、ティアの膝の上でヒースが身をひねった。じ、と綺麗な瞳で見上げてくる。う、とティアは言葉に詰まった。
「そうだな、ティアにまで及ぶとは思っていなかったが――すまん、配慮がたりなかった。少しでも君を遠ざけようと思ったことが、裏目にでた」
思いもかけない謝罪に、頭の中が混乱する。そういうことを言ってほしいわけではなかった。
「あ、謝ってほしいんじゃなくて……、もう、あんな危険なことをしないって約束してくれれば――」
「……そうだな」
ふ、とヒースが困ったように笑った。明確な約束がない。
むう、とティアは頬を膨らませたが、言いかけた言葉を飲み込む。
難しいとはわかっている。ヒースが帝国の将軍である以上、本人がそうでなくとも、その周囲がそうさせてくれないことだってある。気付けば、陰謀策略の渦中に身を置いていることだってあるだろう。今回のことで、身に染みてわかった。
だったら。
自分は、もっと強くなろう。
ティアは、ヒースには言わず、そう決める。
ヒースがそうあっても、くじけぬ心と打破するだけの力を得よう。この愛しい人のために。
それにしても、この呪いが解ければ、まだ不安も減るというのに――ここ毎日の愚痴になってきたことを形にするのも億劫で、そっとヒースの髪に鼻先をうずめたその瞬間。
「ああ、二人ともここにいたのね。探したわ」
「ナナイ!」
赤い髪をなびかせ近づいてくる美女に、ティアは驚いて立ち上がった。
ぶらり、と足をたらす形になったヒースをゆっくりと地面に降ろす。
ふふ、とヒースを見下ろしたナナイが微笑み、その頭をゆっくりと撫でる。
「相変わらず可愛いわね。もとに戻すのがもったいないくらいよ」
「!」
ナナイの言葉に、ティアとヒースは同時に肩を跳ねさせた。
「わかったの?!」
「もとに戻れるのか!?」
かぶりつくような勢いで二人に縋られたナナイは、満更でもない顔をして髪をかきあげる。
「ええ。呪いを解く方法がわかったわ」
「ほんと?!」
よかったー! と、ティアは胸をなでおろす。
「おばあちゃんにきいてみたらね、昔、一度だけ同じような呪いを祓ったことがあるって」
へえ、とティアは頷いた。確かに大神官のエエリならそういった経験もあるだろう。
「この機会に、修行して習ってきたのよ。だから、今日まで時間がかかちゃって……ごめんなさいね」
寄る年波と、衰えた力では解呪できないということで、孫娘であるナナイがその術を会得してきたらしい。
それをきいたヒースが、半歩下がって眉を潜めた。
「大丈夫なのか……?」
「なあに、私の腕が信用できないとでも……?」
じわっと滲み出る剣呑な雰囲気を払うようにティアは手を振った。
「そ、そんなことないよ! ナナイなら大丈夫だって信じてるもの!」
「ああ、ティア! やっぱりあなた可愛いわね! 大丈夫よ、まかせてちょうだい。ティアのために頑張るわ!」
「……オレのためではないのか……」
感激したらしく目を輝かせて抱きついてくるナナイを抱きしめ返すそばで、ヒースがぼそりと呟いているが、それをとりあげていては先に進まない。
「必要なものは揃えてあるし、さっそくやる?」
「うん! ……いいですよね?」
ナナイの提案に頷いて、ヒースを見下ろす。
「ああ、頼む」
どこかほっとしたような嬉しそうなその顔に、ティアは大輪の華にも負けぬように笑う。
「じゃあ、いきましょヒースさん!」
そういって手を出せば、小さな手がそれに重なる。きゅ、と握りしめあう。
「私は先にいくわ。準備もあるし。あなたちは、ゆっくりきなさい」
「はぁい」
妖艶に片目を閉じたナナイが、颯爽と去っていく。
ティアはヒースの歩調にあわせ、かつナナイの言葉に甘え、のんびりと歩きだす。
こうするのも、これでおしまいになる。この時間が失われることが、惜しくないといったら、嘘になる。こうしていられるのは、楽しいこともあったのだから。
でもやはり、自分にとってのヒースはあのヒースだけだ。
強くて、格好良くて、多少の無茶をしても大丈夫だと信じさせてくれる――あの、ヒースだけ。
「――まあ、こうして子供と手をつないで歩くのは、そのうちできますもんね?」
ね、ヒースさん、と笑いかけれれば、ヒースが盛大にむせた。
ゴホゴホと咳払いに似た音をたて、しばらくして落ち着いたあと、小さな手がせわしなく頭をかいた。髪が、くしゃりと乱れる。
照れている。照れている。
くすくすとティアの唇から声がもれた。
「……そうだな。男になるか女になるかは、知らんがな」
「ふふっ、じゃあ、そのときを楽しみにしてます」
最後の最後でヒースにしてやったと微笑みながら、ティアは青い空を見上げる。
こうして、男と少女の呪われた一ヶ月は幕を閉じた。
だけれど、二人の物語は続いてく。楽しく、嬉しく、ときに悲しく、切なくなることはあろうとも、途切れることなく続いていく。
そして未来のとある日に、小さな手をとって歩く二人の姿が描かれることだろう――。