「――は?」
よく晴れた空の下。
ヒースは間の抜けた声を響かせた。己の聞き間違いかと思ったのだ。
そうしてしまった原因を作った発言者は、ヒースを見上げていた可愛らしい面に、ぱっと朱を散らす。
「えっと、あ、あの、私なにいってるんでしょう、ね……あは、あはは……わ、忘れて下さい……、すみません……」
そう尻すぼみに言い繕いながら、ティアはしおしおと俯いていく。
見下ろすティアの頭は髪に覆われているからわからないが、その合間から覗く耳は、熟れ落ちそうな果実のように真っ赤である。どれだけ恥ずかしがっているのかが、それで推し量れようというものだ。
ヒースは、ティアからのプレゼントを手に、ゆっくりと瞬きをする。
今日もらったものは、ヒースが好むハクギンツバキだ。こうしてちょくちょくと、ティアはヒースの好むものを差し入れてくれる。
度々こうされれば申し訳ない気持ちが先にたつが、仲良くなりたいのだと、彼女の好意を示されていると思えば無碍に断ることもできず。
ときおり、城の小間使いがやっているゲームをするためのカードをお返しに渡したりしているのだが――今日はたまたまもちあわせがなく、お礼になにかしてほしいことはないかと問うたところ、言われたのだ。
――だっこ、してください――
と。
だっこ、というのはつまり、公園などで父親が子供を抱き上げたり、母親が子供あやすときのような――そういう『抱き上げる』という行為のことでいいのだろうか。それとも自分の知らない別のものがあるのだろうか。
思ってもみなかった要求に、ヒースが軽く混乱していると、それを迷惑に思われたと感じたのか、ティアが勢いよく頭を下げた。
「じゃ、じゃあ、私はこれで失礼します!」
「ティア」
そのまま、顔を伏せて走り出そうとするティアの、細い手首をヒースはなんなく捕らえた。このまま逃げられては礼はできないし、なによりティアがヒースと顔をあわせ辛くなるだろうという予感がした。
「ふぇ?」
引き止められたことに足を止め、思わず振り返ったのだろうティアの顔は、予想以上に真っ赤。
くつくつと喉の奥からこぼれそうになる笑い声をおさえながら、ヒースはティアに近づく。
「すまん、少しの間、持っていてくれ」
「え?」
そして、もらったばかりの花をティアに押し付けて――ひょいと、小さくて軽い身体を抱き上げる。ヒースにしてみれば、ティアなど苦でもなく持ち上げられるぐらいに軽い。
「これでいいのか?」
「う、うわ、わわっ」
ティアが、大きな瞳をさらに大きくしてうろたえる。
ヒースにしっかり支えられているというのに均衡を保とうとして手足を動かす様は、少々滑稽だがティアは真剣そのもだ。その姿に、笑いがとまらなくなる。
笑われて、少々頬を膨らませたものの、ティアは相変わらず手の置き所さえわからないらしい。だがそれもわずかな時間だった。
おずおずとヒースの肩に、柔らかな手が置かれる。
「ありがとう、ございます」
青空を背にはにかむティアが、ひどく嬉しそう微笑む。遠いいつかを懐かしむように、和む瞳。
「……私、ちっちゃい頃にお父さんもお母さんもいなくなったから、だから、すごくひさしぶりです。こんな風に、だっこしてもらうの」
「そうか」
「はいっ」
その言葉に淡い笑みを浮かべながら、ふとこうしたほうがさらに高くなるのではないかと思い、ヒースはティアを抱え直す。脇の下に手を入れて持ち上げていたのをやめて、自分の腕の上に座らせる。ティアはやすやすと、ヒースの片手一本で支えることができた。まるでそこが定位置であるかのように、しっくりと。
ぱあ、とティアの顔がいっそう輝く。
「すごいすごい! 空が、近くなった気がします! 景色が違う! わ、遠くまで見えますよ! ほら!」
はしゃぐティアをみれば悪い気はしない。
それが父親や母親の代わりであったとしても、だ。ヒースは、小さく笑った。ティアを愛する男としては若干せつないものもあるが、ティアがいいならそれでいい。
それにしても、歳の割にはしっかりした子だと思っていたが、そうでもないらしい。
甘えたい年のころに一人だったのは、さぞ寂しかっただろうに。
「なに、これくらいならお安い御用だ。いつでもいうといい」
そう。徒手流派の師匠として、これくらいの可愛らしい弟子の願いを叶えられずしてなんとする。
「えへ、えへへ。ほんとうにありがとうございます。ヒースさん」
照れた様子で、でも本当に嬉しくてたまらないというように、ティアが笑うから、ヒースもつられて笑う。人の笑顔には力がるとは常々思うが、ティアのそれは別格だ。様々なことを積み重ねてきたヒースの暗い部分さえ、照らし出し包み込む温かさがあるような気がする。本人はそんなつもりはきっとないだろう。だがそれが、ティアらしいと思う。
ふ、と口の端を持ち上げるヒースの前で、ティアは目の上に手でひさしをつくってはしゃぐ。
「すごいですね! 公園がいつもよりもっとよくみえます!」
「この街はフランネル城に近づくにつれて土地が高くなっていくからな……さすがに街中まではみえんだろうが」
「でも、市場の隅っこくらいなら……」
「ほう。ティアは目がいいな」
そうしてしばらく見える景色のことなど話しているうちに、ふいにヒースに悪戯心が湧き上がった。にや、と少々意地悪く笑ってみせる。
「なんなら、もっとよく見えるように肩車でもしてやろうか?」
ぱっ、とティアがスカートの端を押さえる。
「そ、それはさすがに……」
もじもじと、腕の上で恥らうティアの予想通りの反応に、ヒースは声をあげた。
可愛らしいティアの様子を見られたことに満足した瞬間、ティアが小さく握りこぶしを作って、きりりと顔を引き締めた。
「今はスカートだからちょっと……ですけど! ズボンのときにぜひお願いします!」
期待に満ち満ちたティアの瞳を見上げ、ヒースは笑顔をこわばらせた。
「……」
なんだか墓穴を掘ったような気がしてならない。
というか、肩車をしてもらう行為は年頃の少女的に問題があるのではないのか。
「……本気か?」
「え、わ、私、やっぱり重いですか? だったら……」
ティアの顔色が変わる。一応気にしていたらしい。どうしてそういう方向に考えるのかと思うが、女の子なら致し方ないのだろう。
「いや、そんなことはない」
身をひねって降りようとするティアへ、ヒースはそんなものは杞憂だと告げながら、どう訊ねるべきなのか、言葉にしあぐねて眉をひそめる。
「なんというか……――まあ、君が望むならかまわないが」
結局、ティアのしょんぼりとした顔をみていたら、いわねばならないはずのものは引っ込んでいってしまった。自分も大概、ティアに甘い。わかっていたことだが。
わぁい、と可愛い歓声があたりを満たす。
「えへへ、楽しみです!」
「ああ、わかった。好きなときに声をかけてくれ」
「はい!」
まあ、本当にそんな事態になることはないだろう。家にでも帰ってよくよく考えてみたら、やっぱり……というふうに落ち着くだろう。
身を乗り出すティアを再度抱え直し、同じように晴れ渡る空を眺めながら、ヒースはのん気にそんなことを考えた。
が。
ティアは、意思の強い女の子である。見た目の可憐さ可愛らしさに秘められたその力に、ヒースは自分の流派のすべてを託すと決めたくらいなのだから、推して知るべし。
つまり、一度決めたらそれはティアの中ではそうそう覆らないということである。
「と、いうわけでお願いします!」
あれから三日。
ズボンをはいて己の前に現れたティアを前に、ヒースは迂闊なことを言った自分を罵ると同時に噴出した。
わくわくとしたティアの顔が、あんまりにも可愛くて。ちゃんと準備してきたことがいじらしくて。
「ヒースさん?」
「い、いや……なんでもない……くくっ」
不思議そうな顔で頭を傾けるティアの前で、手で目元を覆いしばし笑ったのち、ヒースは執務机の椅子から立ち上がった。自分の言葉の責を、果たさねばならない。
「よし、わかった。ほらこい」
「わーい!」
身を屈めながらティアを誘う。満面の笑みで駆け寄ってきたティアの細い足を己の肩に落ち着かせて――ひっくりかえらぬよう、ティアの膝あたりに手を置いたヒースは、ゆっくりと身を起こした。
「どうだ?」
「うわ、うわぁ! すごく高いですー! 天井に手が届きそう! シャンデリアも触れそう! ……あ、ほこりたまってる」
「ははっ、そこは見逃してやってくれ。仕事上、滅多にこの部屋には人をいれんからな」
なれば、城の掃除をする小間使いも滅多にいれないということだ。もちろん、ある程度の掃除はしてもらってはいるが、それでも簡易的なものに留めてもらっている。これでも機密書類を扱う立場にいる以上、ある程度はいたしかたないことだった。
「はーい」
きゃっきゃ、と普段とは違う景色を堪能するティアが、無邪気に笑う。
「すごく不思議な感じがしますね。部屋が小さくなったみたい。あ、巨人になった気分です!」
「……巨人はやめてくれ」
城の深い深い場所にいたという。巨人であった魔王のことを思い出してしまった。
そんなことはおかまいなしに、ティアが上からヒースを覗き込む。
「あの、ヒースさん、歩いてみてもらっても、いいですか?」
申し訳なさそうにおねだりされて、ヒースは苦笑した。そんなふうにいわずとも、もっと我侭をいってくれてかまわないというのに。
「ああ、隣の部屋にでもいってみるか?」
「いきますー!」
いつかもっともっと素直に甘えるようになってくれればいい。そうして笑う姿が、常になればいい。
そう思いながら、ヒースは隣室へと向かう。
ティアははしゃぎながらあちこちに楽しそうに視線を送っている。
よいしょ、とヒースが膝を折り中腰で部屋に入ろうとすると、ティアもまた小さく縮こまって協力してくれた。
とはいえ、隣室にあるのはヒースの寝床である寝台と小さなテーブルぐらいなもので、大して面白いものがあるわけでもない。
ひととおり探検気分であたりを見回し、さて執務室に戻ろうか、出入り口へ近づいたそのとき。
控えめなノックの音が響いた。誰かきたようだと、思ってすぐに涼やかな声が扉越しに届く。
「ヒース、いるかい?」
「皇子?!」
「きゃっ――はうっ」
勢いよく足を踏み出したとほぼ同時に、ティアの悲鳴と鈍い音が、あたりに響いた。
しまった!
「だ、大丈夫かティア!? すまん、いつもの調子で……!」
主君が自らこの部屋を訪ねるような緊急の事態でも起こったのかと、焦ったゆえの失敗だった。
「あぅ……」
慌てて後退してしゃがみこみ、ティアをおろしたヒースが、顔を抑えて俯くティアの様子を伺いながら謝罪をしていると、声と気配はすれども応えがないことを不思議に思ったのだろう。扉が、静かに開いた。
そうして、現れたのはヒースの主君たる帝国皇子ヴァルドであった。整った面が、微妙に歪む。
「……何をやっているんだい、君たちは」
「い、いや、これはその……!」
「ふぇ~ん……」
なんとこの現状を説明すればいいのか。しどろもどろになりつつも、床にぺたりと座り込んだティアが心配で、その小さな手をなんとかどけさせる。
ティアのおでこに赤い痕。それは間違いないく、何かがぶつかった跡。むしろぶつかっていった跡というべきか。
ヒースがしゃがむことなく歩いたために、扉の枠かそれよりも上の部分に、真正面からぶつかってしまったのだろう。鼻血がでていないことは、年頃の女の子にしてみれば幸いか。
涙目で痛みに震えるティアと、慌てふためくヒースを交互に見遣ったヴァルドが、視線を横に逸らしながら小さくため息をついた。
「――ヒース。いくらティアが可愛いからといって、無理強いはよくないよ。それもこんな陽が高いうちからなんて、節操がなさすぎる。せめて扉の鍵はかけるべきだ」
「……皇子が想像しているようなことと、事実はまったくもって違います」
ティアを抱き上げたヒースは、ヴァルドの盛大な勘違いを正しながら、まだ震えている身体を優しくソファへと下ろし、横たえる。クッションを引き寄せ、その小さな頭の下へと敷く。
「ティア、ほんとうにすまない。ほら、よくみせてみろ」
「ぅ、ん、……っ、」
じんじんと痛むのだろう。ティアが堪えるように息をつめる。
そっと額にかかった髪をはらって、じっと観察する。今のところ腫れなどはみられないが、これからどうなるかわからない。
「冷やさないといけないな。水と、何か布をもらってくるから、待っていてくれ――――あ」
ティアを宥めるようにそう言ったヒースであったが、ふと、ヴァルドがなぜここに来たのかを訊いていないことを思い出した。ティアのことはもちろん心配であるが、ヴァルドの用件が国のために急を要することならば……。
逡巡したヒースをみていたヴァルドが、何かを察したらしく、頷く。
「私のことは気にしなくていい。話はあとででもできるからね」
「申し訳ありません」
「私がティアについているから、はやくいってくるといい」
「――重ね重ね、申し訳ありません」
ティアに怪我を負わせ、あげくに主君に迷惑をかけたことを、心苦しく思いながらヒースは部屋を飛び出した。
そうして廊下のすぐそこにいた小間使いを捕まえて、事情を話して水をはった小さな桶と、清潔なタオルの用意をしてもらう。
それを手にして部屋に戻ると、ティアは幾分か落ち着いた様子をみせていた。
「大丈夫か? 痛むんだな?」
傍により、ソファとセットになっているテーブルに水桶を置きながら、顔を覗き込む。
「……ちょっと、痛いですけど……へいき、です」
弱弱しい笑顔に、ついため息がでそうになる。こんなときまで頑張らなくともいいというのに。
「無理をするな」
水に浸したタオルをしぼり、そっとティアの額にあてると、気持ちいいのか肩の力が抜けたのがわかった。
それをみて、もう問題ないと判断したのか、ティアの足元付近に腰掛けていたヴァルドが立ち上がる。
「事情はティアにきいたよ。ヒースはしばらくティアについているんだ、いいね?」
「は……。申し訳ありません」
みっともないところをみられてしまったと、ヒースが恐縮しきりに瞳を伏せる。
結局、皇子の用件はわからずじまいで、本当に申し訳ないが、かといってその心遣いを無にするわけにもいかないので、ヒースはありがたく思いつつ頭をさげた。
「それでは、また」
優雅に微笑み、部屋をあとにするヴァルドを見送る。と。
「ああ、そうだ。ティア」
扉を半ばひらいたところで、何か思い出したようにヴァルドが振り返る。
にこりとした、いつもとは違う、どこか子供じみたその顔といったら。ヒースが嫌な予感に眉を動かすには、あまりある力をもっている。
「もし痕が残ったりでもしたら、ヒースに貰ってもらうといい」
「え?」
「……」
ああ、やっぱり。
ヒースが、くらりとわずかに意識を回した隙に、品のよい声でヴァルドは続ける。
「女性の顔に怪我を負わせるなんて、謝ってすむわけがないだろう? ちゃんと最後まで責任をとるべきだよ」
うんうんと自分の考えが世間一般では当たり前で、やるべきことで、そうしなくてはならないと言い切るヴァルドに、ヒースは何もいえない。
「ゆっくり休むように。いいね、ティア」
固まるティアとヒースを交互に見遣り、ヴァルドはマントを翻す。その姿が、扉の向こうに消えていった後。
「「……」」
再び二人きりになったヒースとティアは、沈黙を重ねあう。
だが、ソファに横になったティアから注がれる視線に、熱がこもったのがわかる。ぴりり、と肌を焦がすような。それでいて甘いそれ。
誘われて顔をそちらに向けると、期待と戸惑いに揺れる水面のような瞳がある。
「ヒースさん……」
己の意思では消せない火のような恋の輝きを、その奥底に見つけてしまったヒースは、言葉につまる。その目はヒースの心を暴いていく魅力がある。
「――べつに、君に傷痕が残らなくとも、」
そっと、再度ぬらしたタオルをやわらかな額に当てながら、ティアの瞳を遮る。
年甲斐もなく頬が熱いから、いまの自分の顔をみられたくなかった。そこまで顔色が変わるたちではないが、色づいたことくらいみてわかるはずだから。
ヒースは、一度大きく息を吸う。
「君は、オレがもらう」
そう、断言しながら手を離す。
「っ、」
ぴくん、とティアの身体がわずかに動いた。震える指先が、顔半分を覆うタオルを掴む。
「そ……です、か……」
「ああ」
ぎゅうと、細い指がタオルをきつく握り締める。
真っ赤な耳と真っ赤な頬は、隠すことができていないティアが、消え入りそうな声で「……よろしくお願いします……」と呟く。
うむ、ともっともらしい声をもらしながら、赤らむ己の頬を冷やすために、布をもう一枚もらってくるべきだったと考える。
ああ、抱っこも肩車も、ティアへの日頃の感謝を伝える手立てのつもりであったのに。
これでは、どちらが褒美をもらったのかわからないではないか。どうやら、高みへ連れて行かれたのは自分のほうであるらしい。
甘い沈黙におぼれそうになりながら、ヒースは己が頭を手荒く掻いた。