―― この箱をひらく汝に 大いなる災いあれ! ――
そんなことが、古代文字であたかも模様であるかのように全体に掘り込まれているなど思いもしないまま、ティアは手のひらに乗る大きさの箱に指をかける。
見た目より重いそれは、鮮やかな色彩でティアの女心を巧みにくすぐってくる。
はたして、この中に何が詰まっているのか。
ふかふかのソファにすわったティアは、そのやわらかさに負けずとも劣らない、心地よく軽やかな想像を膨らませずにはいられない。
と。
「なんだそれは」
「ええっと、ここに来る前に小間使いの人から渡されたんです。私あてに、預かってくださっていたらしくて」
横手から尋ねられたティアは、動きをとめてそちらへと顔を向ける。
フランネル城の一室を与えられ、苦手な事務作業に取り組む帝国将軍のヒースが、机に肘をつき顎に手をかけ、青灰色の瞳を静かに瞬かせる。
そこに、わずかに滲む苛立ち。それは、穏やかな日に微睡むような湖面に、風がたてる漣よりも小さなものだけれど。
「――男か?」
「……ふふっ、さあ、どうでしょう?」
わずかな沈黙をはさみ、どこか探るような声音でそんなことをいうヒースに、ティアは可愛らしくふきだし、そのまま悪戯っぽく笑う。
ティアならばわかる。ヒースの機嫌が、ちょっと悪くなったこと。
この、いつも余裕綽綽にみえるこの男が、意外に嫉妬深いという事実は、恋人であるティアだけが知っていることだろう。
「君も、いうようになったな」
「それはもう、誰かのおかげさまです」
苦笑しながらみつめてくるヒースに、ティアは薄い胸を張って得意げに答える。
散々にからかわれ、赤面させられ、慌てさせられ――そうして甘やかされることを繰り返せば、ある程度の耐性はつくというもの。
ティアは、にこりと笑う。
「大丈夫ですよ? 私が好きなのは、ヒースさんですもん」
「知っている。知ってはいるが、な……そういう問題じゃないんだ」
かといって、他の男からちょっかいをだされるのを黙って見過ごすことはできないのだろう。
ともすれば重くなってしまいそうな感情だけれど、ヒースからだと思えば、それは心地よいものだった。だって、年上のこの男がとっても可愛く見える。
ティアは、くすくすと笑いながらもう一度、箱に手をかけた。
誰からのものか確かめねばならない。とくにメッセージカードのようなものもなかったので、贈り主がわからないのだ。
橋渡し的な役目となった小間使いも、誰からということまでは知らされていないといっていた。
もしかしたらなにかの手違いということもありえるし、あまり高価なものでも困る。
「ん、……っと」
重い蓋をあげるため、指先に力をこめる。
わずかに持ち上がった次の瞬間――
闇色の大きな手が、ティアの細い喉に目がけて素早く伸びる!
悲鳴をあげる暇もなく、その指がティアに絡み、握りつぶそうと素早く締まる。
が。
この場に雷が落ちたかのような鋭い音が響き、見えない壁に跳ね除けられたように、黒い手が箱ごと吹き飛んだ。
「きゃあっ?!」
その衝撃に、ティアは目を閉じて身体を竦める。ぐるりと世界が回るような気持ち悪さが、胃の奥からこみあげる。
「ティア!」
怒声に似た呼び声が部屋に響き、すぐにティアは力強く抱きよせられた。
「ヒース、さん……! う、っ……!」
風のように駆けつけてくれたヒースの腕の中で、ティアはこみ上げる吐き気を堪える。
ヒースがティアを抱きかかえたまま、部屋の端へと大きく下がる。
距離をとったところから、ティアは薄っすらと開いた瞳であたりを見回した。
あれがなにかわからないが、いけないものだということは、生物の直感として感じ取っていた。
なんとか視線を向けた床のうえで、箱がまるで生きているかのようにのたうちまわっている。中身は素敵なものなどではなく、ぞっとするような闇がつまっていた。
そうして暴れながらも、黒い手は床を這うようにして、じりじりとティアたちへと向かってくる。
魔術に精通しているわけではないティアは、あれに対抗する術を知らない。プラーナを扱えるヒースとて、そうだろう。
けれども、預言書に選ばれたティアには、世の理の支配主ともいえるものたちがいる。
「み、んな……!」
ティアは、なんとか意識を集中させて預言書をよびだした。
そのすべてが具現化するよりはやく、四つの煌きがティアの前へと集う。それは、夜空を駆ける星のごとく。
預言書の守り手、そして世界の導き手たる大精霊が、ティアの前へと姿を現したのとほぼ同時に、箱が大きく跳躍した。蓋が弾けとび、闇が解き放たれたように天井いっぱいに広がる。
全てを飲み込む顎のように迫る黒い手。それを阻止しようとする、精霊たちの力。
ふたつの力が触れた瞬間、覆いかぶさるようにヒースがティアを抱きしめる。
「!!!」
音なき衝撃が、ティアの身体を強く揺さぶり――強い風が爆発した。
窓が、扉が、それに内側からおされて吹き飛ぶ。
ティアとヒースの身体が、まるで木の葉のように壁へと押し付けられた。
嵐の夜のような暴風に押さえつけられながらも、元凶である箱を、ティアはうすく開いた瞳で見つめ続けた。
と、もだえ苦しむようにうごめいた黒い靄と化した手が、開け放たれた扉から廊下へと飛び出していく。
いけない。
このままでは城内の人に襲いかかるかもしれない。
後を追いかけようと、ティアはヒースの腕の中で身をよじる。
が。
自分を守ったその力強さが、まったくないことに気づく。
――え?
驚いて、押し付けられていた逞しい胸から続く、ヒースの顔を見上げようとして――ティアは、大きく目を見開く。
「ヒース、さ……ん?」
そこにはなにもなかった。まるで透明な人形がヒースの衣服を身にまとったような、変な錯覚に陥る。
現状を理解できないティアの目の前で、主を失った服が、鎧が、ほどけたように落ちていく。
ばさり、がっしゃん、ごつん、と重量のある金属が、床に打ち付けられる音が響いた。一部、妙に鈍いというか重い音が混じっていたような気もする。
一体、なにが起こったのか。
ぺたりと床に座り込んだまま、ティアは震える手を伸ばす。だが、確かにそこにいたはずの男をとらえることはできない。
あるのは、身に纏っていたものたちだけ。
「ヒース……さ……、ヒースさん?!」
まさか素っ裸で飛び出していったとでもいうのだろうか。
そんなはずないそんなはずないと、一瞬想像してしまった映像を脳裏からかき消しながら、ティアは頭を振る。
だって、ついさきほどまで隣で抱きしめていてくれた。その感触と、ぬくもりを覚えている。
と。
がたがたと、ヒースが脱ぎ散らかしたとおぼしき鎧が動いた。
なにか、いる。
それがなにかを確かめようと考える間もなく――
「ふわぁぁぁあんん!」
甲高い盛大な泣き声が、ティアの鼓膜を引き裂くように響いた。
「えっ、えっ?!」
ティアは思わず、自分の小さな耳を両手で塞いだ。いきなりのことに驚いて、目を白黒させる。
「え、なになに、どうしたの?」
異常事態を察した精霊達がミエリを筆頭にして集まってくる。
「あああ、うるせぇな! なんだよこのガキの声!」
姿を見られる可能性もあるということで、人間の子供がやや苦手なレンポが、顔をしかめて耳を覆う仕草をみせる。
「……でも、なんで子供……?」
ネアキが不思議そうに顔をかしげる。
「確かめてみるのがよろしいのでは? あの黒い手も、いずこかへと去っていってしまったようですし」
もっともなことをいうウルに、それもそうだとティアは頷いた。
その間も、わんわんとした泣き声はおさまることなく響いてくる。
どこからって――それは、床に広がるヒースの服と鎧の下から、だ。
「……えいっ」
意を決し、ティアはヒースの鎧の一部をもちあげた。
「うわぁぁぁああん!!!」
「わあっ?!」
とたんに、一段階音量を増して声が響いた。
だが近づいた感じでは、怪しくも危なくもない。己の直感を信じ、ティアは次いで服をめくった。
やはり、なにかいる。
びくり、と大きく震えたそれを、優しくひきよせる。
引っかかっている首と肩周りを保護する防具をとりさると、濃い褐色の髪をもつ丸みをおびた頭がひょっこりと現れた。哀れなくらいに、大きく震えている。
「ええっと、えっと、あのね……、だ、大丈夫、だよ」
なにがと問われれば、言葉にした張本人であるティアにも答えられないが、少なくともそんなに泣かずともいいのだと、伝えたかった。
だって、これは間違いなく子供の頭部。こんなところにどうしてという疑問はあるが、それよりも泣く子を宥めたかった。安心させたかった。
そっと撫でてやると、ふ、と泣き声がやむ。
伏せられていた顔があがる。
青灰色の瞳にいっぱいの涙をためて、かみ締めた口の端を下げた――小さな、男の子。
誰かに似ているなあ、と止まりかけた意識の端で考える。
年の頃は、五つにも満たないだろう。幼児、というにふさわしいむっちりとした頬が、可愛らしい。
ぱちり、と視線が絡む。
震える小さな手が、伸びてくる。それが、ティアのコートを、おずおずと懸命に掴む。
きゅ、とあえかな力がこめられた瞬間の気持ちを表現する言葉を、ティアは持ち合わせていなかった。
呆然としていると、子供が可愛らしく首を傾ける。
「……おねえちゃん、だれ……?」
「ええっと……えっと……」
誰、と尋ねられたのだから、素直に名乗ればいいはずなのに、言葉がうまくでてこない。頭の中が真っ白なのだ。
そんなティアの両肩あたりから、子供を覗き込んだ精霊達が口々にいう。
「おい、どーすんだよ、こんなガキになっちまいやがって」
「でも、ティアを守ってくれたんだから感謝しなきゃ!」
「そうですね。この御仁がいなければティアがこうなっていた可能性もあります。それはそれでたいへん可愛らしかったとは思いますが」
「そうかもしれないけど、それだと困る……。次の世界が子供の世界になる……」
実に冷静に、レンポが、ミエリが、ウルが、ネアキが喋る内容を耳から脳へと伝達させ、混乱しきった頭で整理し、噛み砕いて考えて――ティアは叫ぶ。
「……この子、ヒースさんなの?!」
それを受けて、きょとんと互いの顔を見合わせた精霊達が、じっとティアをみつめる。
「どうみてもそうじゃねーか」
「どうみてもそうだよね」
「どうみてもそうです」
「……どうみても、そう」
「……」
至極冷静な四者四様の答えに、ティアは絶望というものを感じて黙り込む。
城の地下牢に無実の罪で投獄されたときだって、クレルヴォを前にしたときにだって、感じたことはなかったというのに。
あたりを虚ろに見回せば、扉は壊れ、窓は吹き飛び、家具は壁に叩きつけられて大破している。シャンデリアはぐちゃぐちゃだし、さすがに重い造りをしている執務机は健在だが書類は派手に散乱し、部屋を白い斑に染めている。
そしてあげくが、これ。
「おねえちゃん?」
不安そうに、どこか怯えているようにもみえる、潤んだ瞳の幼い男の子。
この子は、間違いなくヒース。
どうしてこうなったのかはわからないが、髪の色も瞳の色も、顔の造作だって、彼を彷彿とさせる。
そんなこと、最初にこの子と視線を交わらせた瞬間にわかっていたけれど――素直に認められるわけがなかったのだ。
ああ、でも。ああ、でもでも!
湧き上がる気持ちに突き動かされて、細い腕を伸ばす。
「かわいいっ」
この場の惨状と、不憫極まりないヒースの現状はさておいて、ティアは小さな子供を力いっぱいだきしめる。
「ああ、これが現実逃避というものなのですね」
どこか感心したように呟くウルの言葉が、乱れきった部屋にぽつんと落ちた。
目の前に出された紅茶は、香り高い一級品だ。王族ともなれば、こういうのが日用品なのだから、一般人であるティアには想像もつかない世界である。
普段なら、うきうきと心浮き立つ幸せ気分いっぱいで、遠慮しつつもいただくところなのだが、現状はそれを許してくれない。
テーブルの真向いに座っているヴァルドが、気品あふれる端正な顔に苦悩を滲ませる。
「フランネル城の裏庭の片隅で、死体がみつかったそうだ」
おもむろに切り出された言葉に、ティアはわずかに肩を揺らした。もしかしたらそうではないか、という予想が当たってしまった。
「そうですか……」
「どうやら、君に箱をわたしたという小間使いが、呪術師だったようだね」
ヴァルドが別室で受けた報告の内容を耳にするたび、気持ちがずるずると下がっていくのがわかる。
もともと呪術師であった小間使いだったのか、それとも変装して城内に紛れ込んでいたのかまでは定かではない。
しかし、確かにわかることは、ティアは誰かに呪われそうになっていたということだ。
「首謀者もつかまったよ。まったく、王国の貴族という身分でありながら、安易なことをしたものだ。王国と帝国が和平を結んだことを快く思っていなかったようでね。帝国と手を結ぶくらいなら滅んだほうがよかったなどと……困ったものだね。苦しむのは、力なく、罪もない民だというのに」
「……」
ヴァルドの疲れを滲ませる言葉を聴きながら、ティアはことさら鎮痛な面持ちで顔を伏せた。
よかれと思ってやってきたことが、王国内から疎まれているとは思っていなかった。
攻めてきていた帝国側から、冷たい言葉と視線をかけられることはあったけれど、ヴァルドやヒースがさりげなく庇ってくれていた。それをまさか、王国側からも向けられていようとは。
この王国に住むものたちからさえ、死を願われるような存在に、いつの間になってしまっていたのだろう。
小さく息をついた瞬間。
「いたい?」
ぺた、と小さな手がティアの頬に触れた。一瞬虚を突かれたティアは、見開いた瞳をゆっくりとなごませる。そのぬくもりが、じんわりと心まで温めてくれるようだった。
「……ううん、だいじょうぶだよ」
微笑んで膝の上にいるヒースを――子供の姿になってしまったヒースだ――を、抱き直す。間に合わせの子供服を着せられたヒースの優しさが、心に染み入る。
そっと赤みを帯びた額を、いたわるように撫でてやる。最初泣いていたのは、どうもここに鎧が当たったせいであったらしい。
あの事件のあとは、順応性が高いのか、人見知りをまったくしないのか、ティアやヴァルドにもすぐに馴染んでしまった。こうして、ティアの膝のうえで無防備にくつろぐくらいに。
ティアとヒースのやりとりに、ヴァルドが小さく微笑む。あどけない仕草と、見返りを求めない優しさには、どんなときでも、どのような立場の人物であっても、心癒されるものらしい。
「まあ、そちらに関しては王国側で処分をすることになったから、私達はそれ以上なにかすることはない。問題は……」
「……ですよね」
二人分の視線を受けて、きょとんと目を瞬かせるヒースに、ティアとヴァルドはそろってため息をついた。
居心地が悪くなったのか、おりる、と動くヒースを膝から下ろすと、てこてこと歩いていく。
広い部屋や調度品が珍しいのかもしれない。きょろきょろと興味深そうにあちらこちらに顔を向けている。
「まったく、どうしてこんな子供になってしまったのか……」
その小さな後姿を眺め、皆目検討もつかない、とヴァルドが肩を落とす。ティアも、まったくもって同じ心境である。
「呪術師の人が生きていたら、何かわかったかもしれませんけど」
「だが、命を落としたいまとなっては……」
「わかりませんね……」
とほほ、とティアとヴァルドは揃って肩を落とした。
とはいえ、ここで諦めるわけにはいかない。
ヒースはヴァイゼン帝国の将軍であり、ヴァルドが絶対の信頼をおける数少ない人物であり、ティアが世界で一番大切な人なのだ。
このままでは困る。とっても困る。
ぐ、と小さな手を握りしめ、ティアがなんとかしなきゃ、と決意を新たにしていると。
「ティアおねーちゃん」
ててて、とヒースが駆け寄ってくる。のばされる小さな手に請われるまま、腕を伸ばして抱き止める。
「どうしたの? ヒース、さ……ん」
こんな子供にさんづけするのはどうだろう。ふと思ったティアの疑問にヴァルドも気付いたのか、小さく首を傾げる。
「ティア。ヒースは今は子供なのだから、敬称をつけるとおかしくないかな」
「そ、そうですか? ……ですよね」
皇子の指摘に、やはりそうかとティアは考える。と、なると。
「ええっと、ヒース……?」
精一杯の勇気を振り絞るように、か細く呼びかける。
「うん」
なぁに? といわんばかりに、にぱっと笑うヒースは、とってもかわいい。
「……」
無言のまま、ほんのりと頬を染めあげるティアをみて、レンポが笑う。
「何照れてんだよ、ティア!」
「だって恥ずかしいんだもん」
「相手はガキじゃねーか」
肩付近に舞い降りてきたレンポのからかいに対し、ティアは視線を向けつつ小声で抗議する。
そんなティアの服を、くいくいとヒースが引く。そういえば、何かききたくてティアのところにきたようだった。
どうしたの? と優しく再び問うと、ふっくらとした指先が持ち上がる。
「これ、なーに」
空中――というか、精霊達を指差してそんなことをいうヒースに、一瞬、場の空気が静まり返る。
「え?!」
「「「「「!!!!!」」」」」
「おや」
そして重なる驚きの声。もちろん部屋に零れたのはティアとヴァルドの声のみだが、精霊たちもそれなりに驚いているようだ。
「え、みんながみえるの?!」
「へえ、ヒースには大精霊たちがみえるのか。それはうらやましい」
妙に感心したように、ヴァルドが頷く。
「まあ、子供には我々が見える子も稀にいますからね」
それもありえることだと知っているウルが頷く。
すい、と空を横切ったミエリが、喜色満面でヒースの前へと舞い降りる。
「すごいすごい! 一度お話してみたかったの! こんにちは、ミエリ、よ」
細く長い指で自分を示し、ミエリが名乗る。こくん、とヒースがあどけない仕草で頷く。
「みえり」
「こっちはネアキ! とっても可愛いでしょ? 氷の精霊なの!」
復唱して確認してくるヒースに気をよくしたらしいミエリが、ネアキを示す。
「ねあき」
「うんうん、いいこだね」
すっかりお姉さん顔で、美しく微笑んだミエリが、手をひらめかせた。その先には、炎の大精霊と雷の大精霊。
「で、赤いのがレンポで、黄色いのがウルよ」
「ふーん」
なんとも大雑把なミエリからの説明に、ヒースが首を傾けてレンポとウルをみつめる。
「おい! オレたちにはずいぶんとおざなりじゃねぇかよ! っていうか、オレ様たちの名前は覚えるつもりねーのか?!」
かあっと燃え上がる炎のように怒気をあらわに叫ぶレンポを、常に冷静さを保つウルが宥めにかかる。
「まあまあ、レンポ。子供相手に大人気ないですよ――ひゃあっ?!」
ぺろん、と衣装の裾をつままれ持ち上げられて、ウルがきいたこともないような声をあげた。
もちろんそんなことをしているのは恐れ知らずのお子様――ヒースである。ひらひらとしたところが面白いのか、ウルの焦る様が楽しいのか、きゃらきゃらと笑って離そうとしない。
世界の大精霊に対してやることではない。決してない。
「うわわわ、そんなことしちゃだめだよ。もっと優しくしてあげて!」
「や、優しくされてもめくられるのはごめんこうむりたいところなのですが……!」
必死に衣の裾を抑えようとするウルの様子は、突風にスカートがめくりあげられた婦人のようである。
なんとかウルの服から小さな手を引き剥がし、ティアはヒースを抱き上げる。これ以上野放しにしていたら、ミエリやネアキの服まで摘みあげられかねない。
おもちゃをとりあげられたときのような不満げな表情が一瞬浮かんだが、ティアに抱っこされた気分のよさと相殺されたらしく、ひとまずヒースは落ち着いてティアの服を掴んだ。
「もー、やんちゃな子だなあ……」
深く深く、ティアはため息をつく。当の本人といえば、甘えるようにティアへと頬を寄せている。これはこれでとってもかわいいけれど。
疲れ切ったような、何か大事なものを無くしかけたような、そんな様子のウルを慰める精霊たちの姿をみていると――
「はやくなんとかしなきゃ……!」
強く、しみじみと、ティアは小さく呟いた。
「……うーん、大変だね、これは」
ヴァルドに精霊達はみえないので、何が起こったか正確なところは把握していないだろうが、ティアやヒースの反応からある程度予想がついたのだろう。
珍しく、なんともいえない顔をしている。ヴァルドにそんな表情をさせるとは。
これは、はやくもとに戻ってもらわないと周囲が心労でまいってしまいそうだ。
と。
「あ、そうだ!」
ぱ、とティアの脳裏に赤い髪の美女の姿が浮かび上がった。
どうしてすぐに思いつかなかったのだろう! 彼女がいるではないか!
暗闇に一筋の光明を見出したように、ティアは顔を輝かせた。
「どうしたんだい、ティア」
「ナナイです!」
その様子に首を傾げるヴァルドへと、ティアは乗り出さんばかりの勢いで、名をあげる。
「ナナイ?」
「ええと、私のお友達で――」
そういえば、ヴァルドとナナイに面識はなかった。それを思い出したティアは、ヴァルドにナナイのことをかいつまんで説明した。
ふむ、とヴァルドが頷く。
「なるほどね。今のローアンでは彼女以上の適任はいないということか。では、下町に使いをだそう」
「お願いします!」
ヴァルドのありがたい申し出に、ティアは自分が彼女あてに手紙を書くことを提案し、ひとまずヒースをヴァルドにあずけてペンをとる。
書いている間、子守をする皇子という希少極まりない光景が繰り広げられたのだが、それをゆっくり鑑賞する余裕はティアにはなかった。
そして、一時間ほど後。
「あらー……ずいぶんとまあ、可愛らしくなっちゃったわね」
兵士達に案内され、ヴァルドの執務室へとやってきたナナイは、開口一番そういった。その翠の視線は、ティアに抱かれたヒースにそそがれている。
使いの者にもっていってもらった、ティアからの手紙を読んだのだろう。半信半疑という瞳が、徐々に真剣味を帯びていく。
「ナナイ! きてくれてありがとう! あのね、あのね……!」
「ええ、ちゃんとわかっているわ。ティア、落ち着いて。ね?」
ナナイがきてくれたという安心感からくる、泣きた気持ちを堪えながらティアが駆け寄ると、ナナイが艶然と微笑んだ。
今日も見惚れるほどに美しい魔女は、ゆっくりと豊かな赤髪をかきあげる。その拍子に、しゃらりと黄金細工の音がした。
「ど、どうしたらいい? ナナイ!」
ティアは自分に張り付いたままのヒースと、目を丸くしているナナイを交互に見遣る。
なかなか信じてくれないだろうが、これは間違いなくヒースである。そして、魔術や呪術の世界にも詳しいナナイは、そういうことがありえることを知っている。一般人にくらべれば、格段に話がしやすい相手だ。
そうね、とナナイが呟く。
「呪いであるのは間違いないわね」
じっとみつめてくるナナイに、その対象であるヒースがおもむろに口を開いた。
「おばちゃん、だれ?」
罪なく悪意もない無垢な言葉は、時として最高の刃となりうる。
ひくっと、ナナイの頬がひきつり。ティアは、顔を青褪めさせた。
「……なっ! お、おば……?!」
「ヒースさぁぁん?!」
「ぶっ」
ひぃ、とティアは喉の奥で悲鳴をあげた。おもわず、さんづけに戻ってしまうくらいに動揺してしまう。
一方、ソファに座っているヴァルドが噴出した。あちらを向いて肩を震わせていることから察するに、笑いを堪えているのだろう。
ひどい。助けてほしい。
おろおろとしている間に、ゆっくりとナナイがティアに顔を向ける。
美しい笑顔だ。だけど、目が笑ってない。
「……ティア。このお子様、このままでもいいんじゃないかしら、ね?」
ここでナナイに見捨てられては、もうとれる手段がない。
「ナナイ~!」
半泣きになって縋れば、ナナイが「冗談よ」と視線をそらす。
とても冗談には聞こえなかったんですけど。
そう言いたいのをぐっとこらえて、ティアはナナイをみつめた。
「ほら、調べてみるからちょっとかして」
まるで物のような扱いをするのは気が引けたが、確かに調べてもらわないことには、対処のしようがないだろう。
ティアは、ヒースの顔を覗き込む。
「怖くないからいっておいで」
そういいながら、ヒースをナナイに渡そうとする。が。
「やだ」
ぎゅっとティアの服を掴み、胸に顔を半ば埋めて、ヒースはそれを拒む。
ぴきっとナナイのこめかみが動いたのが、ティアにはみえた。
「我侭いわないの! こっちにきなさい!」
美女の怒りは迫力満点だ。というか、さきほどのヒースの発言が多大に影響しているに違いない。
がっしりと、綺麗に整えられた指がヒースを掴む。脇の下をつかみ、ティアから引きはがす。
「うわぁぁぁん!」
「こっちむいて!」
突然のことに、じたばたと両手足を振り回すようにして暴れるヒースと、自分の目の高さまでヒースを持ち上げて切れ長の瞳を細くしてみつめるナナイを、ティアは、はらはらとした心境で見守る。
ヴァルドといえば、門外漢なことには口を出すつもりはないのか、静かに経緯を見守っている。口元が微かに笑みに彩られているのは気のせいだろうか。
そして、ヒースの頭部に手をかざしたり、手を握って魔力の流れを確かめるなどをして数分の後。
「なるほどね」
そういったナナイが、ヒースを解放した。ようやく自由を取り戻したヒースが、はじかれたようにティアへと駆け寄ってくる。
「やはり呪いの類だわ。でも、ヒース将軍を狙ったものではなかったのね」
「うん。きっと、私を呪おうとしてたんだと思う」
ヒースを抱きとめながら、ティアは頷く。そこまでは手紙に記していなかったが、ナナイにはわかったらしい。
「なにがあったのか、詳しく、覚えている限りを話してくれる?」
「ええっと……」
ティアは、自分が小間使いから小箱を受け取ったこと。それを開いた瞬間に、黒い手に襲われたこと。なにかに弾かれるようにしてそれが下がったときに、ヒースが庇うようにだきしめてくれたこと。そのあと、精霊達が再び襲いくる手を退けてくれたこと――
思いだし思いだし、ときには精霊たちがみていたことを伝えながら、ティアは語る。
黙って聴いていたナナイが、大きくひとつ頷いた。
「なるほどね。大体わかったわ。つまり――こういうことじゃないかしら」
まず最初は、ティアを呪い殺すための呪術であった。
箱を手渡ししたということで、本人が受け入れたという事実をつくり、箱を開くように仕向けることで発動する類の呪いである。強い呪いは、相応の手順を踏まなければならない。
だが、預言書に選ばれた、つまり世界に守られた存在であるティアに、そんな呪いが効くわけがない。
現に、ナナイの術も、ティアは跳ね返してみせている。
一度弾かれた呪いは、術者のもとへと帰るのが世の理。本来なら、ティアが一度跳ね返した時点で、呪いは術者を食い殺していたはずである。
だけれど、黒い手は、もう一度ティアを襲った。
どうしても失敗できない理由でもあったのだろう。呪いは重ねて発動するように仕組まれていたわけである。
それを退けたのは、大精霊たち。世界の礎たる力を有する彼らに勝る呪力など、ただの人間がもてるはずもない。
ここで呪いは、ようやく術者へと帰っていった。当初の力から数倍の力となり、術者を滅ぼした。
城の片隅で死んでいたという小間使いに化けた呪術師は、相当の苦しみをもって、死に至っただろうと予想される。
そして、ナナイはこう、結論付けた。
「呪が、絡んだのね」
「どういうこと?」
意味がわからず、ティアは小さく首を傾げた。対して、ヴァルドが頷く。
「呪う力と、それを退ける力が二度ぶつかりあったために、それらの力が絡み合ってしまっている――そういうことかな?」
「ええ。しかも、預言書の主を守る力と、大精霊の力よ。ちょっと厄介ね」
どう対応すればいいのか対処しあぐねているところが、ナナイの言葉に滲んでいる。
「それを閉ざされた部屋でやってしまったのだから、吹き荒れた魔力は相当なものだったはずよ。普通の人間が、それに対抗できるとは思えないわ。きっと、私でも身を守れるかどうかというところね」
ふう、とナナイが息をこぼし、肩を竦める。
つまり。
「なるほど。三者三様の力が干渉しあって、そばにいたヒースにこのような影響を及ぼしたわけだね。こういうのを、君たちはなんというのだったかな……ああ、そう! とばっちり、だったかな」
「ううっ」
お願いだからヴァルド皇子、そんな爽やかな笑顔でそんな庶民じみた言葉で、とどめをささないでください。
ティアは思わず胸をおさえて呻いた。
「とにかく、今のその子には三つの力が絡んでいる状態なの。無理に解こうとすれば、余計にこじれるわ。でも、精霊たちの力は精霊たちに回収してもらえればすぐに解けるはずよ。問題は呪術師のほうと、ティアの力のほうね」
ここが一番の問題だと、ナナイは悩ましげに眉をひそめた。
「呪術師は死んでしまっているから、本人に解かせるのは無理ね」
「……うん」
ティアは、弱弱しく頷いて返す。
「そうなると、ティアに先に預言書の力、になるのかしらね? それを回収してもらって、そのあとに解呪するっていう方法をとるしかないんだけれど……」
そういったナナイが、じっとティアをみつめる。つられたようにヴァルドにも視線を向けられて、ティアは縮こまった。
「どうやったらいいのか、わからないよ……」
そう言いながら、自分の情けなさにティアは眉を下げる。
「そこが問題よねえ。あのときも、ティアは自分がなにをしたのか、よくわかってなかったものね」
おそらくナナイの館でのやりとりのことをいっているのだろう。確かに、あのときも、自分がなにをしたのか、いまでもわからない。
「でも、他に方法があるかもしれないわ。ひとまず、古い魔術書をあたってみるわね」
「うん、お願い」
「こちらも、信頼のおけるものに調べさせてみよう」
「皇子も……ほんとうに、すみません」
もとはといえば、すべて自分が悪いのに。
ティアが、俯くとヒースがじっとみあげていた。心配させないように、慌てたティアはぎこちなく笑顔を作った。
「まあ、まかせてちょうだい。その間、いいこにしてるのよ?」
「?」
ちょん、とナナイに頬を突かれたヒースが、不思議そうに首を傾げる。
「あのね、ヒースのために、ナナイおねえちゃんが頑張ってくれるんだって」
話の細かい内容まで、わかるはずもない。だが、自分のために誰かが何かをしてくれることだけは、わかるのだろう。
ヒースが、にぱ、と笑う。
「ありがと、えっと……ナナイおねえちゃん!」
ちゃんと失敗を学習しているあたり、ヒースは賢い子、だったのかもしれない。
満面の笑みを屈託なく向けられたナナイが、一瞬、ほうけたように動きを止め、次いで、咳払いをする。
「――ねえ、やっぱり、このままでもいいんじゃない?」
「……」
自分もちょっぴりそう思ったティアは、思わず同意しそうになって、頬を染める。
「おや、ヒースはこのころから女性を虜にする術を知っていたみたいだね」
のんびりと、聞き捨てならないことを呟くヴァルドには、あとでどういうことか確かめようと誓いながら、ティアは無言で何も知らぬいたいけなヒースを引き寄せた。
そうして、精霊たちにヒースに絡む自分たちの力を取り除いてもらったあと、ナナイは城を去っていった。
美しい後ろ姿を見送って、ヴァルドがティアへと向き直る。
「さて、もう日も暮れる。ヒースのことはこちらで面倒をみるから、君は帰るといい。今日は、ずいぶんと疲れただろうからね」
「はい。ありがとうございます、皇子」
気遣いに礼を述べ、ティアはヒースと視線をあわせるようにしゃがみこむ。
「じゃあ、またね、ヒース」
そういって、頭を撫でてやると、不安げに青灰色の瞳が揺れた。
「……おねえちゃん、いっちゃうの?」
「うん、明日くるから……っ、」
また遊ぼうね、と言いかけた言葉を、ヒースの小さな手が遮る。ぎゅう、とコートが力いっぱい掴まれる。
ぶんぶんとヒースが懸命に頭をふる。
「や」
「や、って、そういわれても……」
ティアが口ごもるのをみて、くしゃりとヒースが癇癪を起こしたように顔を歪める。そのまま抱きつかれて、ティアは思わずその小さな背に手を添える。
「や!」
どうやら、置いていかれる、もしくは離れるのが嫌、ということらしい。いつのまに、こんなになつかれてしまったのだろう。
「……どうしましょう」
よわりきって、ティアはヴァルドに助けを求める。
「ティアがよければ、一緒にいてやってほしいところだけど。どうかな?」
「それはもちろん、かまいません! でも、私……呪われるような立場、ですし」
むしろティアが原因でこうなってしまったヒースを放り出しておくなんて、心が痛むというものだ。だけれども、ティアを疎んじる存在がいるのなら、またヒースに迷惑がかかることもありえるかもしれない。
口ごもるティアの肩に、ヴァルドが優しく手を置く。
「ティア。この王国の人たちはね、君に感謝こそすれ、恨むような人はほとんどいない。戦争を止め、平和のための交渉の場を設け、知る人はいないけれど世界の滅びに猶予を与えた。君の活躍があったからこそ、ローアンの復興も進み、帝国との交易も活発になり、経済的に上向いているのは確かだ」
見上げたヴァルドは、ひどく優しく微笑んでいる。夜の闇をまるく照らし出す、月のよう。
「それは、君のほうがよくわかっているだろう?」
「……はい」
ぐし、とティアは鼻を鳴らす。
こんなことがあって、ずいぶんと弱気になってしまっていたのだと、ティアは気づく。
でも、ヴァルドのいうとおりだ。
街の人も、兵士の人も、貴族の人だって、王族のドロテアだって王様だって、ティアにありったけの気持ちをこめた、感謝の言葉を幾度もくれていた。
「一部の身勝手極まりない者たちのせいで、君が守った輝きを曇らせてはいけない。君に向けられたあたたかなものを、忘れてはいけない」
「はい。ありがとうございます、皇子」
どうして、この人の言葉は、こんなにも自分を救ってくれるのだろう。
やはりヒースがその忠誠を捧げるだけの人物なのだと、ティアは感じる。
「それに、今回かかわったものたちはすべて厳しく罰せられる。こういう噂が広まるのは早いものだ。ティアやヒースに、いま手を出そうとするのは自殺行為だ。利己主義の輩であっても、それくらいの分別はあるだろう」
ヴァルドがそこまで後押ししてくれるなら、と、ティアはやりとりの意味がわからず、きょろきょろとしているヒースの顔を覗き込む。
「私と、いっしょにいく?」
「いっしょにいる!」
今度は、顔を素直に喜びにほころばせるヒースに、ティアは小さく噴出した。
「かーわいい」
ふふ、と笑ってティアはヒースを抱きしめる。容易くその細い体すべてを抱きしめられる現実に、ふと胸を寂しさが霞めたけれど。
「まったくだね。うーん……この子がどうしてああなったのか」
顎に手を当てて真剣な顔で首をひねるヴァルドに、ティアは苦笑するしかない。
はやく、元の姿に戻してあげなければ。それができるかどうかは、きっと、自分にかかっている。
ナナイやヴァルドだけにまかせておくことはできない。
自分なりに調べてみよう。まずは預言書でどうにかできないか、今一度、確かめてみなければ。
そう考えながら、ティアはヒースの手をとり、立ち上がる。
「じゃあいこっか?」
「うん!」
大きく頷くヒースを連れて、ティアは進行方向を指差した。
「しゅっぱーつ」
「しゅっぱーつ!」
真似て大きな声をあげるヒースが、楽しそうに笑う。
ではまたね、という穏やかなヴァルドの声を送られて、ティアとヒースは遠足にでもいくような賑やかさで、執務室をあとにした。
夕暮れの公園を、ヒースとともに誰もが知っている童謡を口ずさみながら歩いていく。
赤い太陽に照らされて、東に向かって長い影が揺らめく。噴水のある公園は、家に帰る子供たちや、仕事帰りの人たちが行き交っている。
「ティア!」
噴水の傍をとおりかかったとき、いずこからか名をよばれたティアは、足を止め、きょろりと辺りを見回した。
みれば、西側の方向から一人の少年が歩いてくる。
帽子に飾ったユウシャノハナの香りを、静かな風に乗せながら、ローアンの自称勇者ことデュランが近づいてくる。
「こんにちは、ティア」
「デュラン、こんにちは」
親しい間柄であっても、こうして礼儀正しく挨拶をしてくれるデュランは、きちんと育てられたのだろうということが伺える。
そして彼がもつ、厳しい父親とは全く違う穏やかな雰囲気は、戦争や武道大会などを経て、どこかしなやかな強さをあわせもつようになっている。
「とはいっても、もうすぐ『こんばんは』の時間帯だろうけどね」
「ふふ、そうだね」
ティアもいつも迷う。昼と夜の狭間にある、この美しい一瞬に、どういった言葉をあいてに送るべきなのか、と。
ちら、とデュランが視線をさげる。
繋いだヒースの手が、ぴくっと動いた。あまり人見知りをしないようだと思っていたが、初対面の相手にはそれなりに緊張するのだろう。
「ええっと、その子……ティアの弟、ってわけじゃないよね」
確か一人っ子だったよね、と呟くデュランにティアは乾いた笑いを浮かべた。
「ええーと、ちょっと、いろいろあって」
あはは、と誤魔化すように声をあげ、無難な言葉を精一杯の速度で、脳内で探し回る。
「……しばらく、私の家にいることになった子なの」
「そうなんだ」
素直に納得できるような説明ではないはずなのに、デュランはそれ以上追求することもなく、その場でしゃがみこむ。
いい人でよかった、とティアは内心で胸を撫で下ろす。ティアが、微妙に困っているということを察してくれたに違いない。
「やあ、お名前は?」
にこ、とデュランが人畜無害というような優しく穏やかな笑顔で声をかけると、わずかに身構えていたヒースが、おずおずと口を開いた。
「ヒース」
あ。
と、つい間の抜けた声をあげそうになって、ティアは口を噤んだ。
そういえば、そういうことを口止めしてないっていうか、名前なんてこんな子供に口止めのしようがないっていうか、ああああ、どうしよう!
軽く混乱してきたティアのことには気づいていないらしく、へえ、とデュランが呟く。
「帝国将軍と同じ名前なんだね。髪や目の色も似ているし……もしかして、親戚とか?」
実際、名のある家であるならば、武功のあった祖先や名高い功績を残した親類にあやかって、その名を戴くということは、よくあることだ。
ティアは、あいまいに笑った。
「……そ、そんなとこかな……あはは」
この子、実はヒースさんなんだよ、なんていえるわけない。ティアには、説明できる自信がない。
「可愛いし、利発そうな子だね。僕は、デュラン。よろしくね、ヒースくん」
「でゅらん!」
「おっと」
たどたどしい口調で名を呼んで、ヒースはデュランに飛びついた。それを、デュランは笑いながら抱き止める。
子供は自分に好意的な人間を見分けるというが、ヒースはなかなか目が利くようだ。
きゃっきゃ、と抱き上げられてヒースが歓声をあげる。あっという間に仲良くなってしまった二人に、ティアは穏やかに息をつく。
ヒースを肩車までしたところで、ふと、デュランがなにかを思いついたように、ティアに向き直った。
「そういえばティア、この子の服とか用意してあるのかな?」
「……あ」
今度こそ、ティアは間の抜けた声を漏らした。
そういえば、現在着用しているものは、皇子がいそいで用意されたもので、もちろん一組しかない。
呪いを解く方法を探す間、どうするべきかこれっぽっちも考えていなかった。子供はよく汚すし、汗もかく。同じ服を着せ続けるというのは、衛生上よくないだろう。
ううーん、と腕をくんで考え込んでしまったティアに、デュランが微笑む。
「僕のお古でよかったらあげようか」
「いいの?!」
いま、ティアの瞳にはデュランが救い主にみえた。思わず胸の前で手を組んだティアに、デュランが微笑む。
「うん、もう着れないものだしね。いつまでも思い出があるからって残しておくわけにもいかないし。ちゃんと着てくれる子がいるなら、服もそのほうが喜ぶよ」
「デュラン~!」
ありがとうありがとうと繰り返し、ティアはデュランの厚意に甘えることにした。
そして、三人で西方面にむかう。
デュランは子供が好きなのか、それとも子供に好かれるのか、そのどちらもなのか、すっかりヒースの心を掴んだようで、じゃれあう様は中のよい兄と弟のようだった。
そうして、稽古をつける雷に似たグスタフの声が響き渡る道場前を通り過ぎ、デュランの家へとお邪魔する。
奥から出してもらった服たちは、古着というにはもったいないくらいのものばかりだった。
母親が綺麗にしてくれたものを、ずっと大切にしまっていたのだと、デュランは照れたように笑う。
「僕も、なかなか手放すことができなくて。でも、いい機会だよ」
「ありがとう、デュラン」
服は大切なものである。庶民にとっては、季節に一枚新調することだって難しいというのに。
譲ってくれるという申し出に、重ねてお礼をいうティアに、デュランが笑う。
「いや、勇者として当然だよ。人の役にたってこそ、だからね」
「ゆうしゃ?」
服を眺めていたヒースが、ぱっと顔をあげてデュランをみつめる。
そっとその小さな頭を優しく撫でながら、デュランはいう。
「みんなを守る人、ってことだよ」
「……!」
きらきらと、ヒースの瞳が煌めいていく。
興奮して丸い頬が紅潮していく。ぴょんぴょんと飛び跳ねるヒースが、ぎゅっと小さな両手を握り締めていう。
「かっこいい! おれ、おにーちゃんみたいになる! そんでティアおねーちゃんまもる!」
「……!!!」
ピシャーンと雷が落ちたようにデュランが固まった。一瞬にして、彫像にでもなったようである。瞬きひとつすることなく、デュランは可愛らしいことをいってはしゃぐヒースをみつめている。
「デュ、デュラン……?」
いきなり動きを止めてしまったデュランの名を、ティアはおずおずと呼んでみる。
と、ぷるぷると全身を振るわせはじめたデュランが、勢いよく涙した。
「う、うわぁっ?! ど、どうしたの?!」
急に具合でも悪くなったのかと思ったが、デュランは顔を覆って頭を振る。
「ぼ、僕、はじめてそんなこといわれたよ……!」
どうやら、ヒースの一言は、デュランの心に会心の一撃を与えたらしい。
「……よ、よかったね、デュラン」
感涙にむせぶデュランに、なんといったらいいのやら。
ティアは、あいまいに笑うしかできなかった。
目の前の少年をそんなふうにさせたのは自分であるのに、当のヒースはまったくわかっていないらしく、ひたすら「ゆうしゃ、ゆうしゃ!」と繰り返している。
そんなヒースに、勇者のなんたるかを語り始めたデュランの瞳も、星を宿したような純粋な輝きを宿している。
あっけにとられるティアの前で、きゃっきゃと楽しげに交わされる男の子同士の会話は、いつ終わるのだろう。
ああ、えっと、と意味のない言葉を零しながら、ティアは手を伸ばす。
「じゃ、じゃあ、この服大事に使わせてもらうね!」
いそいそと服を大事に袋にしまいながら、ティアが強めにそういえば、別れのときを感じ取ったデュランが、ヒースの小さな手をしっかりと握り締めた。
「名残おしいけど……! いつでも遊びにきてね、ヒースくん! また、勇者とはなにかについて語ろう!」
「うん! デュランおにーちゃんまたね!」
さよなら、と元気に小さな手を振るヒースをつれて、ティアはそそくさとデュランの家をあとにした。
家から一歩外に踏み出せば、あたりは既に真っ暗だった。長居してしまった間に、太陽は西の向こうへと姿を隠してしまったらしい。
かわりに夜の静寂と安寧を見守るように、無数の星と丸い月が空を飾っていた。
デュランの家からティアの家は、比較的近い。通りなれた道だ。明かりがなくとも、月の光だけで十分歩いていける。
ティアとヒースは、下町を通りぬけ、すぐにローアン入り口付近に建つ、小さな家へとたどり着いた。
お腹がへったというヒースに、子供でも喜んで食べられて、かつ消化がよさそうなものを考え夕食をつくり、ともにそれを食した後。
さて、とティアは考え込んでいた。
目の前には、年季の入ったバスタブがひとつ。半分ほど水が満たされ、ほかほかと湯気があがっている。
これまでは、薪もなかなか用意できないし、水を汲み、火を起こして、という時間のかかる手順を踏まなければいけなかったので、悲しいかな、入浴は数日に一度という場合が常だった。
ところが、預言書に選ばれ、大精霊たちの力を借りられるとなると、ティアの入浴事情は一変した。
なにしろ、水さえ汲んでしまえば、あとはレンポが水を温めてくれるのだ。年頃の少女にとって、これほどありがたいことはない。
そして、今日もレンポの好意に甘え、いつものように風呂の準備をしたティアは、悩んでいた。
「お風呂……どうしよう」
ちらり、と足元に立つヒースを見遣る。
「?」
お腹いっぱいになって落ち着いたのか、ヒースはとてもおとなしい。
とはいえ。
むむむ、とティアは眉間に皺を寄せて考える。
「……」
へたに一人で入らせたら、大変なことになりそうである。
バスタブ内で足を滑らせてもらっては困るし、きちんと一人で身体を洗えるのかというと、甚だ疑問だ。水をあたりに撒き散らすようにして遊ばれたりしても困る。なんだか、いろんな意味で危ない予感がする。
苦悩するティアを、ヒースは不思議そうな瞳でみあげている。
ティアは、息をついて覚悟を決める。
「……仕方ないよね……。ヒース、一緒にお風呂はいろっか」
「おふろ?」
きゅっと柔らかな毛で形作られた小さな眉が寄せられる。
「うん。今日、天気よかったし、汗かいちゃったでしょ?」
そういって、ティアはコートを脱いでブラウスを腕まくりする。一応ベストも脱いでおくことにする。
身軽になったティアは、次はヒースの服を脱がせようと振り返る。
次の瞬間。
「やだ!」
ぱっとヒースが駆けだした。浴室の扉を開けて、隣の部屋へ逃げていく。
「え、ちょ、ちょっとヒース?!」
「やーだー!」
慌ててあとを追いかけると、ティアに捕まらないように、ヒースが部屋を縦横無尽に走り回る。
「ちょ、ちょっとまって、ヒース!」
ちょろちょろとした動きに翻弄されるものの、ここで負けてしまうわけにはいかない。持ち前の運動神経と活かし、また、かつて徒手流派を伝授されるときにつけられた稽古を思い出し、ティアは素早く手を伸ばした。
「えい!」
「やー!」
昼間、ナナイに対してしていたより一層激しく身体をよじられ、ティアは面食らう。
「そんなに嫌なの……?!」
あまりの逃げっぷりと暴れっぷりに、ティアが困惑していると、やがて力尽きたように、ヒースが動きをとめた。ぐったりと手足をたらす様子は、人形のようである。
「……目にお水はいるの、やだ……耳も……やだ」
今にも泣きだしそうなしかめっ面。ふるふると震えながら、そんなことをいうヒースに、ティアは苦笑した。大人のヒースでは考えられないような理由だ。この様子では、あまり入浴によい思い出がないのだろう。
「でも、おねえちゃんは、綺麗なヒースがいいな~」
「……」
わざとらしいくらいの猫なで声で、だからお風呂はいろう、ともう一押しすれば、うー、と唸っていたヒースが小さく頷いた。それをみて、ティアはヒースを抱きしめる。
いいこ、と背を撫でながら浴室へ再び向かう。
「ぎゅーって目を閉じてていいからね」
「うん」
ぱっぱ、とヒースの服を脱がせていったティアは、下着をみて一瞬躊躇したが、まあ、この年頃なら裸なんて可愛らしいものである。勢いよく脱がせると、ヒースを抱える。
「転ばないようにね」
そのまま、ゆっくりとバスタブに下ろし、声をかける。
「はーい」
いい子のお返事をするヒースに、ティアはくるりと背を向けて、石鹸に手を伸ばし――
「ちょっとそのまま待っててね……、きゃあああ?!」
水が叩きつけられて飛び散る音も華やかに、背後から湯を浴びせかけられたティアは、あやうく前に倒れこみそうになるのをなんとか堪えた。
ぽた、ぽた、と髪の端から含みきれなかった水分が雫となって落ちていく。
ゆっくりと振り返ると、にこにこと天使の笑顔のヒースがいた。だが、やっていることは悪魔の所業である。
小さな手で、水を足す用に置いてあるバケツを抱えて笑っている。手の届く範囲において置いたのが悪かった。
「ヒース! もう、なにするの!!」
「ティアおねーちゃんもおふろでしょー。手伝う!」
「……はー……」
しかりつけてはみたものの、ヒースはあまり悪いことをしたと思っていないらしい。むしろティアを助けているつもりらしい。
そもそも一緒にはいろうといったのは自分だったと、ティアは肩を落とした。言葉足らずだった。
びしょ濡れになったティアは、もう諦めることにした。
相手は子供。子供なのだ。大人のヒースとお風呂にはいるなんて、考えるだけで顔から火が噴きそうだが、今は子供。
恥ずかしがる自分のほうが恥ずかしいと、己に言い聞かせて服を脱ぐ。
そうして素早くバスタブにはいりこめば、丁度よい温度の湯が出迎えてくれる。ティアは、その心地よさにゆっくりと息を吐き出した。
「ほらもう、そんなことしないで。とりあえずあったまろうね」
「うん」
ぱちゃぱちゃと水面を叩いて遊ぶヒースを引き寄せ、膝の上に座らせる。いつもはこれで十分だと思っていた広さが、いまは手狭に感じる。なんだか、不思議な気分だ。
自分に子供ができたなら――こういう日々が待っているんだ。
そしてお風呂をあがれば、愛しい夫が待っている。青灰色の瞳を細めて、駆け寄る子供を抱き上げて――
と、そこまで想像したティアは、はっと我に返った。
「おねーちゃん?」
「な、なんでもないよ……!」
真っ直ぐ見上げてくるヒースの視線が、心に痛い。そんな妄想じみた未来を思い描いていたなど、知られたら恥ずかしすぎる。
ティアは、愛想笑いを浮かべると、ヒースの額にはりついた髪を横によけて、いう。
「さ、綺麗にしちゃおうね」
「……!」
そうして、ティアはさきほどの言葉に従い、慌てた様子できつく目をつぶるヒースが可愛い。
くすくすと笑いながら、ティアは小さな浴用布に手を伸ばす。
それからは簡単だった。
よほどお風呂に嫌な思い出があるらしく、小さく縮こまるようなヒースを洗うのには一苦労だったが、さきほどのようにお湯を浴びせられることもなく、あっという間に終わった。
自分も汗を流し、身を清めたティアは、最後に別にとっておいたお湯で身体を流し、バスタブを出る。
「おわったー!」
「あ、こら! ちゃんと身体ふきなさーい!」
「きゃー!」
水気をきちんと拭き取らぬまま、ヒースが駆け出す。ぺたぺたと、小さな足跡が床に描かれる。
きゃっきゃと素っ裸で家の中を走り回るヒースを、ティア布を広げて追いかける。お風呂の前もお風呂のあとも、追いかけっこすることになろうとは。
「えいっ、つかまえた!」
甲高い歓声が、賑やかにティアの家を彩る。
ごしごしとヒースをふきながら、ティアは訊く。
「お風呂、気持ちよかった?」
「うん! 目も痛くないし、耳にお水はいらなかった!」
興奮気味に語るヒースをみて、ふと思う。
いままでどういうお風呂の入り方をしていたのだろう、と。
ヒースがもとにもどったら、尋ねてみよう。
「おねーちゃん、お水のみたい」
「あ、ちょっと待っててね」
お風呂にはいって喉が渇いたらしいヒースに、寝巻き代わりに自分のシャツを着させたティアは、水差しとコップをとりにいく。
「はいどうぞ」
注いで渡せば、小さな両手でコップをつかみ、こくこくと喉を鳴らして飲み干していく。
そんなヒースにティアはいう。
「じゃあ、お風呂片づけてくるから、いい子にしててね」
「うん!」
にぱ、と屈託なくヒースが笑う。だが、その素直な返事がくせものなのだ。心配は心配だけれど、後片付けもしなければいけない。
どうしようかと逡巡した間に、すう、と緑色の煌きがティアの傍に降り立った。
「みててあげようか?」
ティアの肩に腰掛けたミエリが、春の花のように愛くるしく微笑む。
「そうだね。お願いできる?」
「まかせて! ヒース、わたしとお話しましょ!」
「ミエリ!」
よほどヒースとおしゃべりできるのが嬉しいのか楽しいのか、嬉々とした様子でミエリがヒースの面倒をみるため飛んでいく。
昼間のウルのようにされないか心配だったが、ミエリにはまったくそんなそぶりをみせず、ヒースは他愛ないおしゃべりに興じている。
これなら大丈夫、かな。
ティアは、そーっと邪魔をしないように気をつけながら、水浸しになった浴場へと足を向けた。
そして。
「あらら」
風呂を片付け、部屋にもどったティアは、ふふふ、と堪えられない笑みを零した。
どうりで静かだと思った。
足音をたてぬよう注意して、ティアは寝台へと近づく。
そこにはすでに一人の人間が大の字になっている。随分と小さな大だけど、手足をのばして、すやすやとあどけない顔で眠っている。
その傍には、美しい精霊が横になっており、同じような寝息をたてている。。
どうやら、お話をしている間に眠気に襲われたようだ。ミエリと一緒に、眠りの世界に遊びに行ってしまったのだろう。
「ふふ、ほんと、かわいいなあ……」
ふに、とヒースの頬をつつく。
ゆっくりとティアは寝台に腰掛けると、身体に疲労が急に押し寄せる。
子供ってすごいなあ、と、数年前まで同じような年頃であったことを棚に上げ、ティアは考える。
それだけじゃなく、呪われそうになったことや、ヒースがこんな目にあってしまった心労もあり、休息に身体が眠りの淵へと追いやられるのがわかる。
早く眠って、明日に備えよう。いろいろと調べてみなければいけないこともあるのだから。
「よいしょ、と」
ティアは、明かりを消すと、ヒースがベッドから落ちぬよう壁側へと動かし、ミエリを潰してしまわぬよう、枕元にそっと移動させる。
そうしてできた場所へと、ティアは身を横たえた。もぞもぞと、掛布をひきあげていると。
「ん……、おねーちゃ……」
寝ぼけているのか人のぬくもりを求める本能か、ティアへとヒースがすり寄ってくる。
「……」
そっとヒースを抱きしめて、ティアはふわり微笑む。
すっかりお母さんの気分である。
いつか、いつか。愛する人の子を産みたいと、漠然と思っていたけれども――まさか、急に子持ち気分を味わうことになろうとは予想すらしていなかった。
でもなんだか妙な違和感がある。それがなにか、はっきりとはいえないけれど。
すっきりしない思いを抱えながら、ティアもまた、夢の世界にいるヒースを追いかけるように、眠りについた。
ばん、と勢いよく家の扉をひらきつつ、ティアは後ろを振り返る。家の中では、素っ裸のヒースが、ぺたぺたと裸足で歩きまわっている。
「ヒース! 下着くらいはきなさい!」
「ないよ?」
おねしょをしてシーツから寝間着かわりのシャツから、あらゆるものを汚したヒースは、当然下着も汚している。
昨日の残り湯を使って、一通りの洗ったもののなかにそれもある。ヒースのいうことはもっともである。服は譲ってもらったが、下着は次の日にでも買いに行こうと思っていたのが仇となった。
ぐぐぐ、とティアは唸ったあと、イスにかけてあるものを指差す。
「じゃあ、布巻いて! ほら! 風邪ひいちゃうから!」
「はーい」
朝から元気に飛び回るお子様ヒースに、叫びに近い声をあげながら、ティアは洗濯物がはいった籠をもち、外にでる。
まったくもう、下半身素っ裸で平気とかどういうことなの。
そもそも、おねしょをされるとは思っていなかった。しかしながら、まあ、あのくらいの幼い子ならそれも仕方がないだろう。
どう育てていけばいいのか、さっぱり見当がつかない。今まで考えたことのない育児について頭を悩ませてながら、家の外にある物干しに手にしたシーツを広げていると。
「なんか知らねーが、ずいぶんと雑な扱いだな、おい」
「レ、レクス……!」
「よう」
紙袋を抱えた青髪赤目の少年が、ひらりと手を振る。友人であるレクスの突然の登場に、ティアは思わず固まった。
だって、これじゃあまるで、ティアが粗相をしてしまったようではないか。
案の定、レクスがティアとシーツを交互に見遣る。
へ、と鼻で笑ってくるレクスに、ティアは肩をはねさせた。嫌な予感!
「おねしょか? おまえそんな歳で……」
「わ、私じゃないもん!」
真っ赤になってティアは叫ぶ。ここで勘違いされたまま去られては困る。とても困る。
「はあ? じゃあ誰のだっていうんだよ」
「違うの!」
やれやれといった様子で肩をすくめるレクスに、ティアは重ねて否定する。
ひらひらとレクスが手を振りながら、にやりと笑う。
「誤魔化そうとすんなって。だいたいおまえ、一人暮らしだろうが」
「もー、だから、私じゃなくて……!」
ヒースのことをかいつまんで話そうとしたとき。
「おねーちゃん?」
大きな声でのやりとりが気になったのか、ひょっこりと扉を開けてヒースが顔をのぞかせた。
さきほどいったとおり、ヒースはどうにかこうにか身体に布を巻いていた。ただし、今にもずり落ちそう。
慌ててティアはヒースのところに駆け寄ってしゃがみ、それをなおしてやる。
「なんだこのガキ」
「!」
ひょい、と上から覗き込まれて驚いたのか、ヒースがティアに寄り添う。
「ええっと、えっと……! この子は、」
私が預かることになった子で、と続けようとした言葉は、ぎゅっとティアの服を掴んだヒースによって遮られた。
「だれ?」
ついさきほどまでの子供らしい感じではない。ひどく真剣な声音で、ヒースがレクスをみあげて誰何する。大人のヒースの片鱗が垣間見えた気がして、ティアは思わず押し黙る。
「みたことねえガキだな。なんでティアの家からでてきたんだ」
至極当然の質問に、ティアがレクスを見上げ、昨日デュランにしたような説明をしようとしたとき。
「……ガキじゃないもん」
ぽつ、と聞こえるか聞こえないかくらいの、小さな呟きが耳をかすめた。
「え?」
驚いて、視線をもどした次の瞬間、ぱっとヒースがレクスの前に飛び出した。
「おれ、ティアおねーちゃんのゆうしゃだもん!」
そうして、胸を張っていった一言に、レクスが怪訝そうに瞳を細くした。
「はあ? なにいってんだ? おまえみたいなチビッ子が、ティアの勇者なんて無理に決まってるだろ? もうちょい大きくなってからいうんだな」
「あうっ」
他愛ない子供の夢物語をきいたといわんばかりに一笑いし、レクスがヒースの頭を人差し指で小突いた。
その勢いに押され、わずかにヒースがよろけるが、足を踏みしめて耐える。ぎりり、と表情が険しくなる。
あ、まずいかもと思ったと同時に、細い足が空を切った。
「いてっ!」
ガン、と力いっぱい脛を蹴り上げられたレクスが、悲痛な声をあげた。レクスじゃなくたって、人間の弱点を疲れたら大概こうなる。
ティアは、ひ、と息を飲んでレクスからヒースを引きはがす。
「きゃー! な、なにしてるの、こら!」
「こいつキライ!」
「このガキー!」
ティアの諌める声と、ヒースの泣き声のような叫び、レクスの怒りの声が、朝の静かな下町に響いた。
掴みあげようとするレクスの手を遮り、背後にヒースを庇いながら、ティアはまったをかける。
「きゃああ、レクス待って! 落ち着いて!」
「蹴られたのはこっちだろ!」
「そっちがぶった!」
「なんだと?!」
「だから、二人ともまっておちついてー!」
少年と幼子の衝突に収まりどころがみえず、ティアは頭を抱えたくなった。
ちょっとこっちきて、とひとまずヒースを抱えてティアは家にはいる。
床にヒースを降ろして、ティアが膝をついて覗き込むと、ヒースが真っ赤な顔をして口をつぐみ、今にも泣きだしそうに瞳に涙をためているのがみえた。
「……なんであんなことしたの?」
「あいつ、おねえちゃんいじめてた」
「いじめられてないよ? ちょっとお話してただけ」
「……」
むう、とヒースが口を引き結ぶ。
もしかして、ヒースはティアの勇者として、助けにきたつもりだったのだろうか。
「ね、ヒース。簡単に人を傷つけたり、傷つけるようなことをいっちゃだめ。わかるよね?」
優しく優しく、念を押す。
ふる、と小さな身体が大きくひとつ震えた。ひくっと、ヒースがしゃくりあげる。ぼろり、と瞳から涙がひとつ落ち、もう片方の瞳からまた涙が落ちていく――まるで、泉がそこにあるかのように。
「ティア、おねえちゃんが、ひくっ……うぇ、っく、ふ、ぅ……お、おごったぁぁぁ
……!」
ぶわわ、と涙を頬に垂れ流しながら、ついでに鼻水も滴らせながら、そんなことをいう。
ティアはヒースの急激な感情の起伏に驚いて、わずかな間押し黙る。その沈黙がよけいに堪えたのか、ぷるぷると震えながらヒースが俯く。
「おね、おねーちゃ、っ、……おれのことっ、ふ、っく、きらいに、なった?」
口をへの字にし、しゃくりあげつつ、ヒースが問いかけてくる。
「そんなことないよ」
ティアは、そっとヒースの頭を撫でて、否定する。
ポケットからハンカチをとりだして、ヒースの頬を拭いながらその顔をあげさせる。
ティアはヒースの瞳を真正面からみつめる。決して視線をそらすことなく、わかってほしいとただ願いながら、口をひらく。
「私に嫌いっていわれたら、悲しい?」
「……ん」
こくり、とヒースが素直に頷く。
「じゃあ、ヒースも他の人にそんなこといわないで」
「……」
柔らかな髪に覆われた、小さな頭を何度も撫でながら、ティアはいう。
「ヒースがそう言っているのをきくと、私はとっても悲しいよ」
「……うん」
「じゃあ、あのおにいちゃんに『ごめんなさい』っていえるよね?」
「ん」
いい子ね、とティアはヒースを抱きしめる。ぽん、と小さな背中に手をあてる。
そして、ティアはそのままヒースを連れて、むすっとした顔で家の前に立つレクスのもとへと戻る。
はい、と自分より一歩前に、ヒースを押し出す。ちら、とヒースがティアをみあげる。
頷いて返すと、きりっとヒースはレクスを見上げた。
「ごめんなさい!」
その潔いまでの謝罪に、レクスが目を見開く。
「……ああいや、まあ、いいけどよ」
毒気を抜かれたように、レクスがおのれの首に手を当てて、ばつの悪い顔をする。
「さっきは小突いて悪かったな。ほら、ほんとはティアに持ってきてやったんだけどよ、おまえも食え」
そういって手渡された袋の中をのぞいたヒースが、ぱあっと顔を輝かせる。
「パンだ!」
わぁい、と無邪気に喜ぶところは本当に子供だ。さきほどまで、大きな声で泣いていたというのに、この変わりよう。
そのさまを小さく笑いながら見下ろして、わしわしとレクスがヒースを頭をかきまぜるように撫でる。
ティアは、安堵して肩の力を抜いた。もともとレクスはミーニャを大事にするいいお兄ちゃんだったのだ。子供を嫌いなんてことはない。ただちょっと、誤解されやすいだけ。
よかったよかったと思っているうちに、あむあむ、とパンを口にほおばるヒースを抱き上げたレクスが、ティアに顔を向ける。
「で、こいつどこのガキなんだ? もしかして、おまえまた面倒事に首突っ込んでるのかよ?」
えへへ、とティアは眉を下げて笑う。
「心配してくれてありがとう、レクス。大丈夫だよ。それに面倒事に巻き込んじゃったのは私のほうだし……」
呪いのとばっちりを受けたのは、間違いなくヒースなのだ。
自由すぎるお子様ヒースの面倒をみるのも、洗濯をするのも、何がよくて何が悪いのかを教えるのも、ティアがしなければ誰がする。
そう、散々に振り回されようが、頑張らなくてはいけない。
でもどこまでやれるだろう?
「なんだそりゃ、意味わからねえ」
「私もどうしてこうなったのか意味わかんないよ……」
急に立ち込める暗雲に似た不安に、がっくりと項垂れたティアを、レクスは不思議そうにみつめていた。
お昼を過ぎたころ、ようやく乾いた下着をはかせ、ティアはヒースを連れて街にでていた。
ここは、顔見知りの布地を売る店だ。貴族や商家の人たちが使うような、上等な布地などは取り扱っていないが、庶民向け価格と品を揃えているので、ティアはたまにのぞきにくる。可愛いレースや綺麗な布は、見ているだけで楽しい。
「はい、じゃあこれね。ありがとねー。二人ともまたおいで」
「はい、失礼します」
「またねー」
ヒースが飛び出して人にぶつかったりしないように気を使いつつ、ティアは軽く会釈して布を受け取り、店をあとにした。
ここは、布地の販売だけでなく、端切れなどを利用した小物や子供服を販売している。
数枚の下着を手に入れて、これでいくらおねしょされても大丈夫、とティアは頷く。
いやまあ、おねしょをされないほうがいいのだけれど、すぐになおるものでもないのだから気長にいくしかない。
「公園寄ってから帰ろうか」
「うん! 噴水みるー」
とてとてと真っ先に歩き出すヒースを、ティアはゆっくりと追いかける。大人のヒースとこうして街にでたときには、ヒースのほうが歩幅をあわてくれていたのに。
フランネル城を中心として栄えるローアンは、坂の多い街だ。公園も、何段のもの階段をこえた先にある。
ヒースが転がり落ちたりしないよう、気を付ける。万が一そんなことになっても受け止められる位置につきながら、階段を昇りきると、ヒースがぼうっとあらぬ方向をみて立ち尽くしていた。
「どうしたの、ヒース?」
「あれ」
小さな指が差し示す方向には、若い夫婦とその両親に手を繋がれて笑う子供の姿があった。それはそれは楽しそうで、幸せそうな家族の風景だ。
「仲の良い家族だね」
みているこちらも、幸せをわけてもらえそうなその様子に、ティアはつい微笑んだ。
一家は、子供を父親が肩車をして笑いあいながら去っていく。
それを、ヒースはじっと見送っている。
「ほら、噴水みるんでしょ?」
ほうっておくと彼らが見えなくなるまで見つめていそうな雰囲気のヒースに、ティアが声をかけると「ん」とヒースが頷いた。そして、ティアに小さな手をだしてくる。
とくになにもいわれなかったが、繋ぎたいということだろうと察したティアは、そのふんわりとした手をとって、ともに歩き出す。
きらきらと陽光をはじく水を振りまく噴水は綺麗で、みていると心癒されるものがある。
「お天気よくてよかったね。気持ちいいー」
ヒースに同意を求めるように下を向くと、ヒースは噴水をみつめながら、ぎゅっと重なる手に力をこめてきた。
「かぞくってなーに?」
そして、尋ねられた一言に、うーん、とティアは首をひねる。
「ええっと、お父さんがいて、お母さんがいて、あとは子供がいて……っていうさっきみたいな人たちのことで……、あ、おじいちゃんとかおばあちゃんとかいる場合もあるかな」
「……ふぅん」
そういっても、ピンとくるものがないらしく、気のないような返事だけがかえってくる。
ティアは目線をあわせたほうがいいと思い、しゃがみこむ。
「ヒースにも、お父さんとお母さんいるでしょ? それと……」
一緒だよ、と続けようとしたティアに対し、ふるる、とヒースが頭を振る。
「おとーさんいない」
はた、とティアは固まった。数瞬のあと、わずかに唇を震わせながら、ヒースの顔を覗き込む。
「え、えと、お母さんは……」
「おかーさんもしらない」
ティアをみようとせず、前にある噴水だけをみつめるヒースの瞳が、ひどく大人びた光を宿している。
軽く混乱してきたティアは、口元に手をあてて眉を潜める。
「えっと、え……? じゃあ、誰が……」
ヒースのそばにいたというのだろう。
ごく当たり前の疑問に答えるように、ぱっとヒースがティアに顔を向けた。
「ししょうならいるよ」
「ししょう……? 師匠……かな」
うん、とヒースが頷く。
ヒースは徒手流派の修行に励み、奥義を伝授されてすぐ師匠にあたる人物のもとを飛び出し、腕試しのためにこの国で開かれる武闘大会に出場したという。そのあとは、戦争に参加し、ヴァルド皇子に出会い、彼に騎士としての忠誠を捧げた。
修行にはいったのはいつかなど、尋ねたことはなかったが、もしかしてこんな小さなころから?
「いっしょにいるのは、ししょうだよ。『かぞく』じゃないよ」
ああ。そういうことだったのだ。
ティアは、昨日のよくわからない違和感が疑問であったのだと理解した。
どうして、子供になってしまったヒースが、寂しがることがないのだろう? どうして、親を恋しがらないのだろう?
そう無意識のうちに思っていたのだ。
普通なら、泣き叫んで親を探してもいいはずなのに。
つまり。
もともと、いなかったのだ。
自分を庇護するべき、絶対の守り手たる保護者の、両親がいなかったのだ。だから、縋る相手をしらなくて、なんでもないような顔をしていたのだろう。
この年頃からそんな風にしか思えないということは、想像できるありとあらゆる悪い想像をティアは頭を軽くふって追い払う。勝手な想像は、ヒースにも失礼だろう。
ヒースについて何も知らなかった自分を、ティアはひどく恥ずかしく思った。
たまらなくなって、ティアはヒースを抱きしめる。
「おねーちゃん?」
「ヒースは、師匠さんに会いたい?」
師匠という人を、ティアは知らない。でも、一緒にいたというのなら、育ての親がわりには間違いないだろう。
ティアの言葉に、むう、とヒースが険しい顔をする。
「んー……。べつにいい。ししょう、こわいもん」
「ふふっ、そうなんだ?」
しつけに厳しい人なのだろうかと思い、ティアが小さく笑うと、ヒースが心底嫌そうに言う。
「さかさまにしてお風呂されるからやだ」
「そ、そう……」
どんな人なんだろう。ヒースさんのお師匠様。
思わず遠い目をしてしまったティアを、ヒースが上目使いでみつめてくる。
「ティアおねーちゃんのかぞくは?」
「……私も、いないよ」
よいしょとヒースを抱え、ティアは噴水の縁に腰掛ける。ティアの膝の上に座ったヒースが、可愛く笑う。
「じゃあ、いっしょだね」
「そうだね」
「ティアおねえちゃん、かぞくいなくてさびしい?」
心に直接切り込んでくるような質問に、ティアはわずかに躊躇したものの、頷いた。
「……うん」
家族になりたいと願ったあの人も、いまはいない。この膝の上、腕の中に同じ存在はいるけれど、この子は彼ではない。
この子のことも、あの人のことも、自分は何も知らなかった。ただ守られて、愛されて、幸せを与えてもらうばかりだった。
なんて、自分は子供だったのだろう。悔しくて、自分が情けない。
泣いちゃいけない、いけない。堪えると、小さな手がティアの手に重なる。太陽よりも、温かくて愛おしいぬくもりが、じんわりと伝わってくる。
じゃあ、とヒースがもじもじとしながら、言う。
「おれが、いっしょにいてあげてもいいよ?」
ちらちらと、ティアの様子を伺いながらそんなことをいうヒースに、ティアは一瞬虚を突かれ、そして笑った。
それがどういう意味をもつのかわかっているのだろうか。
「私なんかをもらってくれるの?」
くすくすとティアがおさえきれない笑いをこぼせば、きょとんとヒースが首をひねる。
「もらう?」
「結婚してくれるの?」
ティアは言葉を言い換える。が、それもヒースにはわからないらしい。
「けっこんてなに?」
「好きな人と好きな人がね、これからもずっとお互いを好きでいて、幸せになろうねって約束すること、かな」
今度は反対側に頭をかたむけ、わかったようなわかってないような顔をして、ヒースはティアを見上げる。
「ふーん……。そうすると、かぞくになれる?」
「うん、そうだよ」
それが家族になる方法だとは、理解したようだ。ぱっとヒースは顔を輝かせ、ティアに迫ってくる。
「じゃあ、ティアおねーちゃん、おれとけっこんしよ?」
その、裏表なく、打算もなく、ただそうしようと伝えてくれる純粋さがまぶしくて、ティアは泣きそうに瞳を細める。
「そうしたら、さびしくないよ。ずっといっしょだから、かなしくないよ」
「……」
懸命な言葉が、胸に響く。ティアは、ヒースを抱く腕に、無意識に力をこめていた。
「おれ、ティアおねーちゃんだいすき! だからけっこんできるよね?」
にこー、とすべらかな丸い頬を赤くして、ヒースが笑う。なんの含みもなく、ティアだけに笑いかけてくれている。噴水に煌めく光よりもなお美しく、貴いものにみえた。
「おれと、かぞくになろ?」
子供らしい高い声が、じん、と脳の一番中心を揺さぶる。
その言葉をいってくれる人が、この世界にいること。
今、ティアだけをみつめて、その人がここにいること。
ティアは、ぎゅうとヒースを抱きしめ、その小さな肩に頬を寄せた。
「だめ?」
小さな手が、ティアの腕を、頼りない力で叩いてくる。
「――ううん。そうだね、そうしたらヒースも寂しくないよね?」
感無量のまま言葉を発しないでいれば、ヒースを不安にさせるだろうと思い、ティアは勢いよく顔をあげて笑いかけた。
と、ヒースが顔を真っ赤にさせた。
「ちがう、ティアおねーちゃんのためなの!」
どうやら、自分が寂しいからそういう言葉をいったと思われたくはないらしい。そういうところは、いくら子供といえども男の子だ。
「うんうん、私のためだよね」
ごめんね、ちょっと間違えちゃったといえば、そうだといわんばかりにヒースが満足げな顔をする。その得意げな顔の可愛いこと!
「そう! おれ、ティアおねーちゃんのゆうしゃだもん! だから、ずっと守ってあげるんだもん!」
子供であっても、自分のことを気遣ってくれるヒースが、たまらなく愛しくて。
「ふふ、ありがとう。ヒース……大好きだよ」
大きくても、小さくても。
どうしてヒースは、ティアの欲しい言葉をくれるのだろう。
「おれもティアおねーちゃんすきー」
無邪気なヒースに抱きつかれて、ティアは困ったように、照れたように眉をさげて笑う。
頑張ったけど、もう無理で、涙がひとつ落ちていく。
「っ、なんで泣くの、おねえちゃん。お腹痛い?」
その滴を頬に受け止めたヒースが、顔色をかえてティアのお腹に手をあてる。よしよしとされて、ティアは身をよじった。
「あはっ、くすぐったい……! やめてやめて!」
優しいヒースの手を上から押さえて、ティアは長い睫を伏せる。
「痛いわけじゃなくて、ヒースの言葉が嬉しかったの。私と、ずっといっしょにいてね」
「うん!」
まかせて! と胸を張るヒースは、あどけない姿ではあるけれど――世界の誰より格好いい、ティアだけの勇者だった。
たとえそれが、この子とは叶わなくても。
ヒースの呪いをといたとき、そうなりますようにと、願わずにはいられないほどに。
そうして、ティアと小さなヒースの日々は、めまぐるしくすぎていった。
ナナイやヴァルドにすべてまかせるわけにはいかないと考えたティアは、懸命に絡まった呪を解く方法を探した。
まず、預言書を確かめてみた。だが、ヒースのページはめちゃくちゃで、ティアにも読めないような状態になっていた。コードの中身も、以前にみたものとは違っていた。妙な固定コードができあがっており、がっちりと食い込んでしまっているように、動かすことも解除することもできなかった。
ならば、他種族にならその方法があるのではと、エルフであるシルフィやゲオルグにも尋ねた。彼らのもつ蔵書も、頼み込んでみせてもらった。結局は、わからなかったけれど。 砂漠の神殿をおさめるエエリも尋ねた。すでにナナイも訪れた後だったが、エエリはティアをいたわってくれたうえ、育児のことについて相談に乗ってくれた。最後には、「巫女たちも四方八方に手を尽くしている。必ず呪いは解けるじゃろう」と慰めてくれた。
皆が力を貸してくれることが嬉しくて、ティアはヒースを抱きしめて、こっそりと泣いた。ヒースが慌てたように、その小さな手で頭を撫でてくれるから、また涙が零れた。
さまざまな人たちに助けられ、ティアと幼いヒースは、小さな家で過ごしながら情報をひたすらに求めた。
その間、精霊たちもよく子守をしてくれて、彼らとヒースはとても仲良くなった。
そして、ヒースとの暮らしにも、慣れた頃――
小さなノックの音が響く。
中にいる人物に伺いをたてる声が廊下側から届く。
子ヒースを膝の上に乗せ、にこにことしていたヴァルドが、表情を引き締めた。
「なにごとだ?」
応えがあったことを確認し、扉を開いて入室してきた兵士が、洗練された仕草で一礼する。
「来客中のところ、失礼いたします。ナナイと名乗るご婦人がおみえになりましたが――いかがいたしましょう」
「え、ナナイ?」
先に反応したのは、ティアのほうだった。思わず、はっとしてヴァルドに視線を送ると、頷いて返される。
「丁重にこちらまで案内してくれたまえ」
「は、承知いたしました」
そういって、滑らかな動作で兵士は退室し、いくばくもしないうちに炎を思わせる髪が目を引く美貌の女占いにして魔女であるナナイが来室した。
「ナナイ! どうしたの?」
ティアはソファから立ち上がり、ナナイに近づく。つられたように、ヴァルドの膝から飛び降りたヒースもまた、ナナイを出迎えるように近づいていく。
「ナナイおばちゃ――いたっ!」
ついついでてしまったのか、失礼なことをヒースが言ってしまう前に、いい音がヒースの額で炸裂した。
「ナナイお・ね・え・さ・ん、よ」
にっこり、そこいらの男なら一発で落とせそうな妖艶な笑みを浮かべ、ナナイが言う。
「ナナイおねえさん……」
「イイコね」
叩かれて赤くなった額をおさえ、ひぐ、と涙目になったヒースの言葉に、ナナイが満足そうに頷く。
「あはは……」
よしよしとヒースを慰めながら、それにしても、とティアはナナイを見上げる。
「どうしてお城に?」
ナナイは一目を惹く華やかな美貌であるため、城にいたところで見劣りをすることなど決してないが、堅苦しいことは好まないため、こういうところは得手ではないはずだ。
「あなたたちを探していたら、お城にいったみたいだってきいたのよ。ええっと、ほら、ティアのお友達の男の子たちに」
「ああ、デュランとレクス」
そういえば、ヴァルドに遊びにこいといわれて城に向かう際、二人に会った。すっかり二人にもなついてしまったヒースを引きはがすのは、大変だった。
そこから、城にでかけたということが伝わったのだろう。
にこ、とナナイが同性も魅了するような微笑みつきで、ティアの頬に触れてくる。
ぴゃ、とティアが肩を跳ねさせると、いたずらぽく翠の瞳が煌めく。
「ここまできたのはね、呪いを解く方法について、話そうと思って」
待ちに待った言葉を聞いて、喜ぶべきところのはずなのに――ティアは、ぴたり、と動きを止めてしまった。
ナナイが、怪訝そうに首を傾げる。
「あら、反応が薄いわね?」
ぷるる、とティアは頭を振る。
「あ、ううん、そうじゃなくて……びっくり、しちゃって」
ぺちりと自分の頬をたたいて、ティアは目を瞬かせ、足元にいる小さなヒースを見つめる。
すっかり、この小さなヒースとの生活に慣れてしまったせいだろうか。もとのヒースのことを、忘れたなどということはないのだけれど。
「そう? それにしても探したのよ。まさかお城にきてるとはね」
「うん。ヴァルド皇子が、ヒースを連れて遊びにきなさいっていってくださったから」
「……まるで孫を待つおじいさんみたいね」
「ははは、ひどいな。小さな子供は可愛いじゃないか」
ナナイの呆れたような口調に、黙っていたヴァルドが上品に笑う。ほらおいで、とヒースを招くそのさまは、歳の離れた弟を可愛がる兄のようでもあり、ナナイがいったとおり、初孫に顔が緩む祖父のような空気も滲んでいる。
ひょい、と再び膝に抱えられたヒースをじっとみつめながら、ナナイは言う。
「まあいいわ。ちょうどいいし、皇子様にも話をきいてもらいましょ」
「あ、うん、お願い」
三人そろってソファに座る。事情がよくわかっていないヒースだけが、与えられたクッキーを頬張っている。
「まず、呪いが絡んでるっていうのはいいわよね?」
「うん」
「そうだね。それをどうにかしようとして、調査しているところだ」
しかしながら、有用な方法はみつかっていない――というのが現状である。
ナナイが小さく頷いて、真剣な瞳でティアをみつめる。その強さにあてられたように、ティアはこくりと喉をならす。
「で、その絡んだのを解く方法なんだけど――」
同じくらいの視線を返しながら、ティアは言葉を待つ。
そして。
「あなた、この子とキスしなさい」
いわれたひとことに、ティアは反応できなかった。
ナナイは真剣そのもの。ヒースは相変わらずクッキーを食べている。ヴァルドの瞳が、煌めく。
「……え?」
なんとかそれだけをもらしたティアの言葉に覆いかぶさるように、楽しげな声がかぶさる。
「ああ、まるで御伽噺のようだね! 愛する者を助けるための、清らかな乙女の口付け。素晴らしいね!」
なぜに、そんなにきらっきらした顔をしてらっしゃるんですか、ヴァルド皇子。
そういえば、カムイの書いた小説の熱心な読者だとかいう噂をきいたこともあるし、そういうのが好きなのかもしれない。
いやいや。
ようやく内容を理解したティアは、顔を真っ赤にした。
「な、なんでキ、キス、キスなの?!」
ひっくりかえった声で、どもりながらナナイに詰め寄れば、ふ、と流し目で笑われた。
「やーねえ、赤くなっちゃって」
紅も艶やかな唇が、にんまりと弧を描く。。
「大きいこの子といくらでもしてたんでしょ?」
「ナナイー!」
そういうことは、わかっていてもいうものではない。ティアが頭を沸騰させるような勢いで叫ぶと、ナナイが噴き出した。そして、そのままころころと笑いだす。
からかわれているとわかっていても、それに対抗する手段がない。いいようにやられっぱなしで、ティアは俯くしかできない。
「それにしても、キスすることにどんな効果が?」
「ああ、それはね……」
このままでは話が進まないと思ったのか、ヴァルドがその行為の理由を尋ねる。途中の説明をすべて放り投げていたナナイが、ようやく笑いをおさめる。
「口づけというのは、愛情を確かめ合うためのものとされているけれど、他にも意味があるのよ。呪術的に言えば、相手の言霊を奪う、相手の魂を所有する、といったりね」
ちら、とヴァルドを見遣れば、ふむふむと興味深そうに頷いている。ティアも、ナナイの説明をきいていると少しずつ恥ずかしさが薄れてきた。
「で、今回こんなことをいいだしたのは、相手の悪い者を吸い出す『治療』といった意味合いの口づけで、この子の中にあるティアの力を吸収できないかしら、と思ったのよ」
「なるほど。小なるものは大なるものに引き寄せられるというから、それを利用しようというんだね」
「そういうこと。とくに魔力は、大きいものに魅かれやすいから。同じ力同士なら、なおのことよ」
「これといった打開策がこれまでない以上、やってみる価値はありそうだ」
当事者であるティアとヒースをほうっておいて、ヴァルドとナナイはさくさくと話を進めていく。
すっかりと置いていかれた気分である。実際、そうなんだけど。
「というわけで、キスしなさい」
つ、と翠の相貌を向けられて、ティアはスカートを握りしめながら、唇を震わせた。
「……っ、でも、だって、それで呪いが解けるとは限らないんだよね?」
「そうねえ、いろいろな文献を読んだうえでの提案だけれど……確証はないわ」
「~~~っ」
なら、それでもし、絡んだ力をほどくことができなかったら?
ちらりとヒースをみれば、大人の難しい話には興味がないのか、相変わらずお菓子を食べている。視線があえば、にこ、と笑ってくれた。
うう、とティアは唸った。
もしこれで、キスをしてそれでも力を取り戻せなかったなら。
自分はそうとう危ない人物ではなかろうか。
キスのなんたるかも知らない小さな男の子とキスをする、なんて。
思わずその光景を想像し――ティアはあまりの羞恥から、頭に血を昇らせた。
「無理無理! できないよ~!」
ぶんぶんと頭を手を振り、次いで顔を覆って身を折る。
自分の太ももに上半身をあずけ、深呼吸を繰り返す。
もし、これが同じ年頃の子供同士による遊びの延長であったなら、ティアだってそこまで気にすることはなかっただろう。
しかしながら、ティアはもうすでに子供ではない。恋を知っていて、愛されることも知っている。口づけの意味も、一般的な愛情表現としか受け取れない。
ナナイのいうとおり、ヒースは恋人であるのだから、気にする必要もないだろうといわれればそれまでだが、なんというかこう、罪悪感を覚えるのだ。
大人のヒースではなく、子供のヒースにそんなことをするなんて、道徳的によろしくない。そうとしか思えない。
ヒースはこれから健康的にすくすくと育っていって、素敵な大人になってもらわなければ。
……って、あれ、もともとヒースさんは大人だよね。
だったらいいのかな? いやいやでもでも、小さな子供にいくらなんでも……。
うんうんと目をきつく閉じて悩むティアには、ぽそぽそと周囲で交わされる小声の会話は耳に届かない。
ヒースの呪いは解きたい。でも、その手段として目の前にだされたのが、口づけ。しかも、成功するとは限らない。
ティアは、く、と声を漏らし、勢いよく顔をあげながら言う。
「やっぱりそれは一番最後にして、もう少し別の方法を――「いまだよ、ヒース!」
探してみませんか? というティアの言葉は、ヴァルドの号令にかき消される。
ほぼ同時に、ちょうど目の前になぜかあるヒースの顔が近づく。
どうなっているのか状況がつかめぬティアの頬を、小さな手がおさえる。
あ、と声漏らす時間もなく、制止する余裕もなく、避ける暇もなく。
ちゅう、と可愛らしい音とともに、ティアはヒースに口づけられていた。
「~~~?!?!?!」
やわらかくあたたかなものが唇を覆う感覚は、久しぶりのもの。懐かしい、なんて思うくらいに小さなヒースの唇は、あのヒースから与えられたものとよく似ていて――否、一緒だ。
思わず、うっとりと瞳を閉じかけたとき。
風が吹いたような不思議な感覚が、ヒースの方から向かってきて、逆に目を見開くことになった。
触れた箇所、すなわち唇を通じて、どこかに置いてきてしまった自分の一部が、空を渡る風のように還ってくる。
それは、ほんのわずかな時間。驚きに、鼻からの呼吸を忘れても、生命活動に支障がないくらいの、短い時間。
それが途切れたとき、小さな唇が離れていく。
近すぎてみえなかったあどけない面が、遠くなるにつれ、ティアは顔を紅潮させていく。ぷるぷると全身が小刻みに震えた。
「な、な、なん……なん……?!」
何かを成し遂げたような、「どうだ!」といった表情のヒースが、自分を抱えるヴァルドへと首をひねって顔を向ける。それはとても誇らしげにみえた。
「おうじ! にんむかんりょうしました!」
「うむ、よくやったね、ヒース。これでティアは救われる。褒めてあげよう」
よしよしと頭を撫でられて、わーいとヒースが素直に喜ぶ。なんだろう。すごくしてやられた感がする。
「な、なん、なに、が……」
いまだなにが起こったのか理解できないティアに、ナナイが笑う。
「ティアが悩んでいる間に、そこの皇子さまがお子様を唆したのよ。『ティアを助けるために、君の力が必要だ』ってね」
ばっとヴァルドとヒースをみると、まったくもってこれっぽちも悪いと思ってない、いい笑顔でヴァルドがそのあとを引き継いだ。
「そこで、ヒースを抱っこして君の前に配置し、好機を待っていたというわけだね!」
「きょうどうさくせんだよ!」
「……」
ああ、すっかり忘れていた。
ヒースが、大人の頃は当然のこと、こうして小さくなってからも、ヴァルドの忠実な部下であったことを。よく、軍隊ごっこして遊んでいたっけ。
「君があまりにも悩んでいるようだったからね、手伝いをしてみただけのことだ。なに、礼などはいらないよ」
そうして向けられる上品このうえない微笑みに、ティアは沈黙するしかない。王族ってずるい。
「おねえちゃん、これでだいじょうぶなんだよね?」
にこー、と自分が何をしたのかわかっていないのだろう、天使の笑顔でヒースがいう。
「うん……ありがとうね、ヒース」
ここまでくると、悩んだ自分が馬鹿らしいというものだ。
でも、恥ずかしいものは恥ずかしい。ティアは、熟れた果物のようになっているだろう熱い頬をその手で覆い、睫毛を伏せる。
「で、どんな感じだった?」
「……やわらかかった」
もうやけくそ気味にそう応えれば、ナナイとヴァルドが大きく笑う。
「そ、そうじゃなくて……! あははっ、やだ、ティアったら可愛いわね!」
「は、ははっ! ほんと、君たちは笑わせてくれる、ね……!」
「な、なんで笑うんですか!」
うわぁぁん、と半ば泣きそうになりながらティアが叫べば、ナナイが目元に滲んだ涙を拭う。
「言葉不足だったわね。なにか、感じなかった?」
「え、えーっと……」
そういえば、風が全身に行き渡るような、そんな奇妙な体験をした。
「あ、うん! あったよ、なんていうか、もどってきたっていうか、吹いたの!」
我ながら意味がわからないと思うが、それ以上に説明するすべをティアは持っていたなかった。ナナイのように魔術に詳しいのならば、もっと的確に伝えられただろうに。
「そう、それならうまくいったのかもしれないわね。ほら、ヒース。こちらにいらっしゃいな」
ヴァルドに抱きかかえられたままであったヒースが、ナナイの手に渡る。
きょとんとしたヒースの柔らかな額に、ナナイが美しくしなやかな手を置いた。
じーっと何かを探っいるような瞳のナナイにみつめられ、ヒースは「やー」と顔をしかめてむずがるが、逃げられはしない。
しばらくして、ナナイがにっこりと笑った。
「ティアの力、ちゃんともどったようね。もう、呪いは絡んでいないわ」
そういったあと、「……こんなにうまくいくとはおもわなかったわ……」と小声で呟かれたのは、この際気にしてはいけない。
ティアは、ナナイに詰め寄った。
「じゃ、じゃあ……!」
期待に満ち満ちたティアの声に、ナナイが頷く。
「あとは、呪いを通常どおりの手順で解呪すれば大丈夫だと思うわ。まかせてちょうだい」
ああ、これで、ようやくヒースはもとにもどれる! 手伝ってくれたみんなの苦労も報われる。それになにより、また、あのヒースに会える。
感無量で、神に感謝をささげるように手を胸の前で組んだティアは、はた、と気づく。
ということは。
「おねーちゃん」
いつの間にか、ナナイの腕から抜け出していたヒースが、ティアのスカートをひく。
「……ヒース」
「なあに?」
名を呼べば、甘えるようにくっついてくる。それを見下ろし、いつものようにその小さな頭を当たり前のように撫で――この子と、別れなければいけないのだと思い至ったティアは、喉を引き攣らせた。
何事もなく別れることなどできないくらい、情が移りすぎている。
「どうしたの? かなしい? いたい? ちゅーする?」
ティアの表情が険しくなったことに気付いたのか、ヒースが心配そうに見上げてくる。
「……ううん」
ゆっくりと頭を振って、ティアはしゃがみこむ。
こうして、低い位置にある視線に、自分の視線をなんどあわせただろう。
手を伸ばして、その小さな身体を引き寄せて抱きしめる。
こうして、すべてを包み込むようにして、この子を何度抱きしめただろう。
でも、それも終わりだ。
ティアは、ヒースの顔を覗き込む。
「あのね、ヒースよくきいてほしいの」
首を傾げるヒースの頭を、何度も、何度も撫でる。これまでよりもなお、心を込める。
ヒースはなにかを感じ取ったのか、じっと穴があくくらいにティアを見つめてくる。まるで、この人を絶対に忘れたくないとでもいうかのように。
「いつになってもどんな姿になったって、私が大好きなのは『ヒース』だよ」
「うん。おれも、おねーちゃんがすき。ずっと好き」
真剣な顔をして、あの日の公園で未来を結ぶ約束を交わしたときのように、ヒースはティアに心を伝えてくれる。
ふわりと笑いながら、ぎゅっとヒースをもう一度抱きしめる。
「そっか! なら、大丈夫だね」
「うん!」
ぎゅうぎゅうと抱きしめあう二人を、ヴァルドとナナイが少し物悲しそうにみつめている。ティアは、そんな二人に泣きそうに瞳を揺らして、微笑む。
そして、ナナイに向かって目配せをする。
頷いた麗しの魔女が、指先を空中に滑らせる。
それを確認したティアは、縋り付くヒースの背を、心臓が奏でる律動と同じように優しく叩く。
やがて、ナナイの操る眠りの術にかかったヒースは、ひとつあくびをして、すうと眠りに落ちていく。
いきなり力の抜けた軽い体をしっかりと抱きとめて、ティアはその額に唇を触れさせた。
「よかったの? もっとちゃんとしたお別れするくらい、待ってもよかったよ?」
「……ううん、いいの」
半ば無理やりに寝かしつけたナナイに問われ、ティアは顔をあげる。
「だって、余計つらくなっちゃう」
「そうだね。この子は可愛い、いい子だったからね」
きっとヴァルドも別れは惜しいと思っているのだろう。ティアとヒースに近づいて、愛おしそうにその頬を撫でてくる。
「あとは、ナナイにまかせていい?」
呪術師による呪いは、ティアには解くことはできない。
ここから先は、魔女であり神官としての修行も密かに重ねているナナイに頼るしかない。
「ええ、まかせて。あたしが責任をもって呪いをとくわ。隣の部屋を、お借りしても?」
「つかってくれてかまわないよ」
自信に満ちた表情で頷くナナイに問われ、ヴァルドが使用許可を出してくれた。
「ありがとうございます、皇子」
ぺこり、と頭をさげたティアはヒースを抱きかかえて、そちらへと向かう。
「なにかこちらで用意するものはあるかな?」
ヒースを寝台に横たわらせていると、ヴァルドがナナイへと問う。できることはなんでもしようという申し出に、ティアが後ろを振り返ると、ナナイが人差し指を顎先に当てて悩んでいた。
「うーん……あ! 服をお願いできるかしら?」
「服?」
それがこれかの解呪の術にどんな効果があるのかと思うティアに、ナナイがやーねぇと、すこしおばちゃんくさい仕草で手を動かす。
「だってもとにもどったらその服、やぶけちゃうわよ」
「……あ」
それもそうだ。
「今着ているものは、身体が締まるとまずいから、あたしが脱がすわ。術の準備もあるから、その間にもとの服を適当に見繕ってもってきてちょうだい」
「そうだね。小間使いの者に、ヒースの部屋にいってもらうとしよう」
「じゃあ、私も道具を組み立てるわ」
そうして、ヴァルドとナナイが動き出す。
ティアはそんな二人を眺めながら、もういちどヒースの頭を撫でる。
「ざんねんだなぁ、もうお別れなんて。こんなに可愛いのに」
ひょこり、ティアのそばに現れたミエリが、穏やかな寝顔をみつめながら、唇を尖らせる。
「このままじゃいろいろとめんどくせーし、これでいいんだよ」
「……ちょっと、さびしい、くせに」
「うっせーな、ネアキ!」
なんだかんだで、一番仲良くなったのはレンポだった。
ぶっきらぼうな口調ではあるが、少し思うところがあるのを見抜いただろうネアキに突っ込みをいれられて、レンポが声を荒げる。
「子供の世話をするなど、貴重な体験でしたよ。実際の子育ては、臨機応変にしなくてはいけないのですね」
しみじみと感慨深く頷くウルに、ティアは苦笑いする。そういえば、育児書なんてものも熱心に読んでいたっけ。
声をかけずとも、預言書から姿をあらわしてくれた精霊たちの優しさが、なんだか自分のことのように嬉しい。
「そろそろいいかしら?」
「うん」
どうやらそんなことをしている間に、用意は整ったらしい。
「集中しないといけないし、他の力が混ざるとまずいから、隣の部屋にいてちょうだい」
「わかったよ。では、いこう。ティア」
ヴァルドに導かれ、ティアはヒースをナナイに託して、歩き出す。その傍らに、精霊たちが慰めるように寄り添ってくれる。
ティアは、扉が締まるぎりぎりまで、ずっとヒースをみつめていた。
長い時間だった。
時計をみれば、さほどの時間ではなかったが、ティアには一日以上が経ったような感覚だった。
ナナイが失敗するとは思えなかったが、心配で心配でたまらなかった。もし、ヒースにまたなにかったら、もし、ナナイの身にもなにかあったら、と。
ただ祈ることしかできない自分を歯がゆく思いながら、それでもティアは祈り続けた。
だから、扉が開く音がしたとき、ティアは弾かれたように振り向いた。
そうして姿を現したのは、ナナイでひとりであった。にこりと、妖艶な花のような顔が、少女じみた笑顔になる。
「終わったわよ」
その一言に、ティアは飛び上がって、駆け寄った。
ナナイは解呪にはいるまえとどこも変わっていない。無事でよかった。
「ヒースさんは?!」
終わったという言葉から、よい結果であったことは推測できるが、ちゃんとナナイにいってほしかった。
「ふふ、私を誰だと思っているの? ちゃんと、呪いはとけたわよ。主に絡み合っていたのは、ティアと精霊の力が大きかったみたいだから、さして手間取らなかったわ」
ほーっと、ティアは息を吐き出す。このまま、足元から崩れ落ちてしまいたいくらいの安堵が、全身を揺さぶる。
「そうか。それはよかった。ヒースを騎士として召し抱える主として、麗しい魔女殿に心からの感謝を。なにかあれば、できうるかぎりのことをさせてもらうよ」
「あら、一国の皇子様にそんな風にいわれるなんて……なんていうか、くすぐったいというか、怖いわね」
ヴァルドからの言葉は、一般市民からみれば恐れ多いくらいの謝辞である。ナナイが、ちょっと驚いたように目を見開いている。
「そうね、とくにお願いしたいことはないから……、貸しひとつということにして忘れないでいてくれれば、いまはそれでいいわ」
「わかった。必要なときには声をかけてくれたまえ。ところで、ティア」
「あ、はい!」
ヴァルドが、美しい赤の瞳を細くして微笑む。
「はやく、ヒースのところにいかなくていいのかい? こちらのことは気にしなくていい。野暮な真似はしないから」
「あ……ありがとう、ございます!」
ぱぁっと頬に朱を散らしたティアは、嬉しさと恥ずかしさを半分ずつ混ぜた心地で、勢いよく頭をさげ、隣室へと足を向けた。
「あ、ティア」
それをナナイが制した。ぴたり、と足を止めたティアへ、ナナイがいう。
「ちょっと予想外のことがあったけど、大した問題じゃないから気にしないで。じゃあ、あとは頑張って」
「?」
意味深なナナイの言葉に首を傾げたものの、はやくヒースに会いたくてティアは大きく頷くと、今度こそ部屋へと駆け込んだ。
「ヒースさんっ」
部屋に設えられた寝台の上に、大きな人が座っている。懐かしさと、こみ上げる恋心に、ティアはいまにも泣きながら抱きつきたくなった。
でも、がくがくと震える足が、それを叶えてはくれない。身体と心が、思うように連動しない。
シャツに腕を通していた人が――呪いを解かれ、かつての姿に戻ったヒースが、びくりと震え、ゆっくりと振り返る。
間違いない。
精悍な顔だち。少し日に焼けた肌。左目上から頬に向けて走る傷。厳しくもあり穏やかでもある青灰色の瞳。いつも、信念を持って前だけをみつめる屈強な騎士たる凛々しさが――いまは、ちょっとだけ薄れている。
なんだか、戸惑っているような、困っているような。そんな雰囲気が、ヒースの全身から滲んでいる。
よろり、頼りない足取りて一歩一歩近づき、その真正面にたったとき。
「あ、ああ、ティア」
ぎこちなく、ヒースが言葉を発する。
「その……いろいろと、世話になったな。すまない……君に、あんなに迷惑をかけるとは」
はあ、と深い溜息をついたヒースが、大きな手で目元を覆う。
「……え」
ひくっとティアは頬をひきつらせた。
ヒースからの謝罪の言葉。
なんのための?
迷惑といわれることは、大人のヒースにかけられた記憶なんてない。ちょっとティアには難しいお願いがあったとしても、それはごくごく個人的な、いわゆる恋人同士としての甘えといったものであって、迷惑だったことなどない。
となれば、考えられることはひとつだ。
この部屋に入る前、ナナイにいわれた『ちょっと予想外』って、これのことじゃないだろうか。
つまり、だ。
「覚えてる、んで……すかぁ?!」
ヒースが子供であった頃の記憶がなくなるなんて、そういえば誰もいってくれてない。保障なんてしてくれていない。ただなんとなく勝手に、消えてしまうんだろうなと思っていただけだ。
ひっくり返ったティアの言葉に、無言で頷くヒース。
ということは、つまり、あれもこれもそれも――! 全部みられた、全部しられた! 全部おぼえられている!
その事実に、ヒースと暮らしてた頃の自分を振り返る。
最初はあれこれと気にしていたのに、最終的には一緒にお風呂を入るのは当たり前だし、下着姿なんて当然みられていたし、母親よろしく子ヒースにもっともらしいことをいっていたし、いたずらした子ヒースのお尻を叩いたこともあった。そのほか、諸々。
ぶわり、足の先から頭の天辺まで、羞恥という衝撃が駆けのぼって弾けた。
「いやぁぁぁぁ!」
「おい、どこにいく」
思わず、だっと逃げ出したティアを、太い腕が捕まえる。先ほどまでの細く小さな腕なんかじゃない。もがいてもティアには抜けだすことなどできない。抱きしめてくれていた頃のことをふと思い出したが、いまは胸をときめかせている場合ではない。
「立場逆転だな。いや、やっともとにもどっただけか」
「ひ、ひ、ひーす、さ……」
じたばたともがくティアの顎を、ヒースが掴んであげさせる。
視線をあわせてくる瞳に甘い光が宿っていて、目が逸らせなくなる。
こうしてみつめられるのが、やはり好きだと、状況も忘れて見惚れる。
「なんだ。もう呼び捨てにはしてくれないのか? さんざん呼んでくれていただろう? なあ」
「きゃ!」
ちゅ、と頬と耳たぶの繋ぎ辺りに口付けられて、悲鳴が漏れる。
ああ、なんだかものすごくまずい状況にいるのではないだろうか。
一瞬だけみた申し訳なさそうな様子はもはや空の彼方。ヒースは決断と切り替えのはやい男だ。でも今それを発揮しなくていい。
ティアは顔をことさら赤くしながら、ヒースに助けを請うように身をよじる。
「あの、ヒースさ……」
「今日は、オレが風呂にいれてやろうか? ……今までの礼をせんとな」
自分がいままで子供のヒースにしてきたことを改めて思い出し、ティアは涙目で悲鳴をあげる。
「ヒースさん、何気に根に持ってますね?!」
「はっはっはっは、いやいや、そんなことはないぞ。世話になったのだからな」
うそだああああ!
ひーん、と瞳に涙を滲ませてると、ヒースが笑った。
「君との約束も、ちゃんと覚えている。それでも、嫌か?」
「――あ」
脳裏に光がいくつもひらめいたような感覚に、ティアは涙を引っ込めて目を見開く。
愛しそうに、ヒースがティアに腕をやわらかにまわしてくる。
「まあ、とりあえずいまは――」
ぎゅう、と力いっぱいに抱きしめられて、ティアは胸の中の空気を全て押し出されてしまう。でも、心地いい。この腕の中が、世界中のどこよりも好きだ。
奇跡的といわれる風景をみれる稀有な場所よりも、大切で愛しく貴い場所。ティアだけの、場所。
「君をまた、抱きしめられてよかった」
ヒースもまた、そう思ってくれているのか、幸せそうにそう呟いてくれる。
「……はい」
ぴったりと寄り添って、ティアもヒースの背中に手を回す。すべてを抱きしめるには広すぎるけれど、だからこそ懸命に腕を伸ばす。
「抱きしめてもらうのもよかったがな」
「もう……、忘れてください」
くつくつと喉の奥で声を震わすヒースの胸に額を押し付けて、抗議する。
「すまんな。そういうところの記憶力はあるほうなんだ」
つまり忘れるつもりはないということだろう。とはいっても、ティアもまた、今日までの日々を忘れることはないだろから、お互い様、なのかもしれない。
ティアが呪いをかけられそうになり、そのとばっちりと受けたヒースが幼子となり。確かに、いろいろたいへんではあったけれど――ティアが、ヒースを好きであることを本人が居た堪れなくなるくらいに、教えてくれた出来事でもあった。そしてヒースもまた、どんな姿になろうとも、ティアを好きになってくれることもよくわかった。
記憶があるなら、忘れてはくれないのなら。
小さなヒースが懸命に伝えてくれた、あの言葉もまた、愛しいこの男のこの胸に刻まれているのだろう。
きゅ、とヒースのシャツを握る手に、ティアはわずかに力をこめる。ティアの髪を梳いてくれるヒースの手つきは、とても優しい。
「愛している。ティア。オレと暮らしてくれて、オレを守ってくれて、オレを育ててくれて――ありがとう」
情愛のこもった低く心地よい声は、ティアの内部に静かで美しい波紋を描くように、広がっていく。
――ティアおねえちゃん!
可愛らしい呼びかけが、その向こうから思い出される。
あの声はもうきけないけれど、あの笑顔をみることはもうないけれど。
ちいさなあの子と暮らした日々は、かけがえのないものだった。
「私、楽しかったですよ?」
だから、何も問題はない。
ヒースはこうして戻ってきてくれた。
大好き。
そう囁いて、ティアはヒースを抱きしめて、その背中を一定の律動で叩く。可愛いあの子へ、最後にしてあげていたように。
ただ違うのは、すべてを包み込む温かな腕が、ティアの全身を抱いてくれているということだった。
ふふ、とティアは笑う。
「家族に、なってくれますか?」
念を押すように、悪戯っぽく尋ねれば、ふう、とヒースのため息がティアの髪を揺らした。
「ちいさいほうに先を越されたような気がして、なんだか癪なんだが……」
「ふふっ」
まるで嫉妬でもしているようなその台詞に、笑うしかない。ヒースが、なんだかとても可愛い。
「いますぐにでも、君と家族になりたい」
大きなヒースからの言葉に、重なるものがある。
――おれと、かぞくになろ?
もちろんティアの答えは決まっている。
にこりと微笑んで腕から伸びあがったティアは、ヒースの頬への口づけで、それに応えた。