狼の耳と尻尾をもった狼ヒースと、兎の耳と尻尾をもった兎ティアのお話です。
まったくもってゲームとは関係ありません。いままで以上に関係ありません。
いた。
ヒースは、む、と息を飲み込んだ。なんともまあ、相変わらず無防備な。
青灰色の視線の先には、大岩の向こう側――つまりカレイラ王国側でしゃがみこむ小さな後姿がある。赤い上着、明るい色の髪、小さな背。
忘れられるはずもない。自分からまんまと逃げおおせた、あのときの少女だ。
こんなところで、本当に何をしているのか。
自分も、あのときと同じく一人で国境近辺の視察をしていることは棚にあげ、ヒースはため息をついた。学習してないのだろうか。
なんとなく大岩のほうへ立ち寄ってみただけなのに、またもや変なものをみつけてしまった。とはいえ、このままにしておくわけにもいくまい。
がしがしと頭を掻いて、ヒースは足を踏み出した。
「おい」
無造作に声をかける。ぴく、とまたあの時と同じように長い耳を動かし、少女は弾かれたように顔をあげ、立ち上がった。きょろきょろあたりを見回して、すぐにヒースをみつける。綻ぶ、顔。
「あ、この前の狼さん! こんにちは!」
まったくもって警戒心の欠片もない満面の笑みを向けられて、ヒースはほんの少し眩暈を覚えた。
いやいや、道端で出会った知人や友人でもあるまいし、その反応はどうなんだ。
ここが、小競り合いがたえない国境とはとても思えないほどの、のどかさ。それもこれも、柔らかな空気を撒き散らすこの少女のせいだろう。
毒気を抜かれるとはまさにこのことか、と思いつつ。
「……ああ、こんにちは。オレのことを覚えていたのか」
ヒースはそう言った。
というか、剣を向けられた以上、覚えているのは当然だろう。そういえば、あんなことがあったのに、少女は自分が怖くないのだろうか。
「はい!」
ヒースの思考を吹き飛ばすように、元気よく頷いた少女が、てくてくと近づいてくる。
だが、国境をこえることはなく。
ぴたり、と岩の手前で立ち止まる。そこのところは、ちゃんと理解したらしい。
にこー、と春の日向を思わせる笑顔を浮かべる少女を前に、ヒースは逞しい腕を組んだ。
「なんというか、この前も訊いたと思うが……君は、そこで何をしている?」
よくぞきいてくれました、と、いわんばかりに少女が薄い胸を張る。
「これです!」
じゃーん、などと言いながら少女が差し出したのは小さな藤製の編み籠だ。そこには、赤い宝石のようなものがたくさん入っている。つやつやとしていて、自然の恵みいっぱいのそれは、今の季節の森ではよくみかけるものだった。
「……木苺か?」
そういえば、と視線を送る。さきほどまで少女がしゃがみこんでいた場所に、まだたくさんの果実が成っているのが見えた。
「はい! この前きたときに見つけたんです。あのとき、もう少ししたら、きっとおいしいのが採れるだろうなぁって思ってて。あ、食べますか? あまずっぱくて美味しいですよ?」
うきうきと籠いっぱいに木苺を摘んで、少女が無邪気にそんなことをいう。その言葉に、熟す頃合を見計らい、少女は木苺摘みにきたのだろうということがわかった。どうやってワーグリス砦を越えてきたのが気になっていたのだが、このぶんでは地元の民だけが知っている抜け道などがあるのだろうな、とそんなことも推測してみる。
しかし、普通の森や野原ならそれもいいかもしれないが、ここは国境なんだがなぁ……と、少女の度胸のよさに半ば感心、半ば呆れつつ、ヒースは頭を振った。
「いや、せっかくだが、遠慮しておこう」
木苺をもらうためには、自分か少女が国境をこえるしかない。それは避けるべきことだった。
「そうですか? おいしいのに」
ぱく、とひとつ口に放り込む少女。おいしい、と幸せそうに頬を赤らめて言う。
なんともまあ――可愛いものだ。
く、とヒースは喉の奥で声を震わせた。
そして次の瞬間。
「――君の名前は、なんという?」
つい、そんなことを尋ねていた。
いつものヒースなら、問いかけたりはしないことだ。
よほど実力のある相手に敬意を払う意味で、尋ねたことならたくさんあるが、それとはまた違う感情で名を尋ねたことに、ヒースは内心驚いていた。
ただ純粋に、知りたいとそう思った心に、突き動かされた。
「ティア、です。狼さんは?」
むぐむぐと口を動かしていた変な兎――ティアは、なんでもないことのように、その名を教えてくれた。
名乗られた以上、名乗り返さないのは帝国将軍としても、一個人としても礼を失するだろうと、ヒースは口を開く。
「ヒースだ」
「ヒース、さん」
確認するように、木苺を摘みながらティアがなんどもヒースの名前を反芻する。その可憐な声で紡がれると、まるで自分の名前ではないような気さえした。
「はい、ちゃんと覚えました」
ふわふわと笑う少女の、「ティア」という名もまた、ヒースは忘れることはないだろうと思う。あの印象的な出会いといい、こうして他愛のない話を国境でしている異常さといい、付属する記憶が強烈過ぎるのだ。
「それにしても……君は、オレが怖くはないのか」
ふー、とため息ではないが、深く呼吸をしてヒースは尋ねてみる。
ヒースは、耳も尻尾も隠していない。一目見てわかるくらい、あからさまにヴァイゼン帝国の者だ。あげくに鎧を着込み、腰は大振りの剣を携えている。
初めて会ったときにも、まったく動じることがなかった。いまもそうだ。それが、不思議でならない。
先日は、剣戟を交えるというほどではないが確かに自分たちは武器を手に持ち、対峙さえしたというのに。
それで何も思わないほうが、おかしいではないか。
「どうしてですか?」
だが、ティアは、きょとんと首を傾げるだけだ。ほんとうにわからないのか、わからないふりをしているのか。
ここまでくるとよく訓練された間者ではなかろうか、とさえ思えてくる。ヒースは心持ち視線を厳しくした。
「オレは、みてのとおり帝国の者だ。この近辺で、帝国と王国と小競り合いが絶えないことくらい、知っているだろう?」
着任して早々にヒースが兵士たちに伝えた言葉は、比較的よく守られている。以前よりは、あからさまな衝突が減った。しかしながら、小さな牽制などは日常茶飯事。巻き込まれれば、いくら不思議な少女といえど、ただではすまないことくらい、わかるはず。
ティアは、うーんと小さく唸ったあと、口を開いた。
「んー、でも……大丈夫かなぁって思うから」
「その根拠は」
「え、ありませんよ?」
「……」
だめだこれは。
ティアの大きな瞳に、影はない。ヒースが、なにを言っても曇らない。ただただ、本心からそういっているのが、ヒースにはよくわかった。
民間人――というにはちょっとあれな少女だけれども――が、国同士のいざこざに巻き込まれるなど、ヒースは許されないと思っている。
全身から力が抜けそうになるのを自覚しつつ、ヒースは視線にことさら力を込めた。それをみて、びくっとティアが身をすくめる。
「そんな危機感のない状態で、戦争になりかねん場所にくるのは関心せんな」
先生や保護者のような一言を浴びせられて、ティアの眉が下がる。
「むう」
ティアが、つま先で土を弄る。
「でも、こうしていてもヒースさんは私を捕まえようとしないし……帝国の兵士さんたちに会ったこともないですし……」
だから大丈夫だとでもいいたいのか。困った。ヒースは頭を掻いた。なんと言えばこの少女は納得するだろう。
「オレが君を捕まえないのは、ヴァイゼン帝国の兵士として国境をおいそれと越えるわけにはいかないからだ」
軍上層部から、王国攻めの命令があれば、話は別だが。
心の中でそう付け加え、ヒースは続ける。
「この前のように君がこちら側へきたら、すぐにでも捕まえる。今度は逃がさん。君が間者でないという証拠も、ないからな」
「んー、国境、ですか……」
ヒースの真似をしているつもりなのか、同じように腕を組んだティアが、左右に頭を揺らす。その動きに、ゆらりとティアの長い耳もまた、揺れている。
「でもヒースさんの言うとおりなら、このあたりで喧嘩なんておこらないはずなのに」
痛いところを突いてくる。
「……まあな」
皆が、国境を侵すことなく、互いを尊重し、互いの領分を守っているだけならば、ティアのいう喧嘩――すなわち兵士同士の小競り合いは、起こりえようがないのだ。
だが、現実は違う。
こことは違う国境の目印付近で、互いに顔を付き合わせれば威嚇し、牽制し、そしてときには武器を向け合う。どちらが先にそうしたか、と論じることに意味はないだろう。
考えてみれば、いまのところ大規模な戦闘には発展してはいないことが、奇跡かもしれない。
はあ、とヒースは今度こそため息をついた。
「なんというか。君はそうとう変わっている兎だな」
「えー」
馬鹿にされたとでも思ったのか、ティアがやや頬を膨らませる。
「ヒースさんだって、変わってると思いますよ?」
「ほう?」
少女なりに反撃に出ようとしているらしい。ヒースは面白げに片方の眉をはねさせた。
「だって、ヒースさんはこちらにこないじゃないですか」
「それは……、」
話を聞いていなかったのだろうかと思う。理由は、さきほどいったはずだ。もう一度、言葉を重ねようとしたとき。
ティアは、綺麗な瞳でヒースをみた。心のうちに、すっと入り込まれたと錯覚するような真っ直ぐさは、風のよう。む、とヒースの口を閉じさせるだけの力がある、それ。
「ここには、私とヒースさんしか、いないのに」
ティアが、微笑むこともなく淡々と言う。
「王国の兵士さんたちがいない今なら、別に国境を越えて怒る人はいないでしょう? だから、私を捕まえにきたっていいはずなのに」
ね? と、ティアが首を傾げる。それは、そのとおりだ。今、誰も見咎めるものがいないなら、そうしたって構わないはずだ。
「どうしてそうしないんですか? 私のこと、疑ってるんでしょう?」
確かに、そうすることが兵士としてはある意味当然の行為だろう。
ではなぜそうしないのか。
それは、自分のほうが知りたいくらいだと、ヒースは思う。
「……どうしてだろうな。オレにも、よくわからん」
ただ、目の前の少女を争いごとに巻き込みたくないと、それよりも強く思うのだ。民間人云々を抜きにしても、この少女はそんなことを知ってほしくない。
あいまいなヒースの返答に、ほやんと柔らかにティアが微笑む。
「ほら、やっぱり。ヒースさん、変わってますよ」
「だな」
確かに、帝国の兵士という立場を考えれば、自分の言動は変わっているだろう。肩の力を抜く。そうして、苦笑しながら、ヒースは頭を掻いた。
「まあ、それはいいとして、だ。なんにせよ、前も今も、そんなふうにふらふらとしているのは危ないんだ。わかったか?」
「大丈夫です!」
ティアはきっぱりと言う。
「あのときは、ほかにも木苺がある場所がないかなって、そう思って夢中になってただけですから! もう摘んだから、だから大丈夫です!」
そう、にこにことした笑顔で、言い切ることではない。褒められた理由では決してない。
「なるほど。そうとう食い意地が張っているんだな、君は」
はー、と深くため息をつきながら、ヒースは言う。今日何度目の溜息か、数えるのも面倒くさい。ヒースにとっては理解しがたいが、ティアにとっては理由になることらしい。
「そ、そういうわけじゃ……!」
年頃の少女なら気にしてしまう単語に、さっと顔色を赤くしたティアへ、ヒースはわざとらしく首を傾げた。
「違うのか? あのときに見つけた木苺が、どうしても食べたかったら、わざわざまたここに来たんだろう?」
うぐぐ、とティアが唇を引き結ぶ。
「そうでなかったら、また来る理由はないだろう? それっぽいことを、さきほど君がいったと思うが聞き間違えか?」
ついさきほどの、ティアの言葉を思い出せと言う。
「木苺が、すごく食べたかったんだろう?」
すごく、に力を込めて言う。反論しようとしてか、口を開け閉めしていたティアが、しゅんと項垂れた。ぺたり、と耳が下がる。
「……た、食べたかった……です……」
認めた。
顔を赤くして、少し悔しそうな表情をみせて、もじもじとするティアに、ヒースは噴出した。
「――は、ははは!」
この兎、本当に変わっている。だが、悪くはない。これは、そういう存在だ。それでいい存在だ。そう思わせる何かが、ティアにはあった。
間者ではない。そう確信する。その素直さは、歪められた仮面ではない。そんないびつな気配は微塵もない。何度もみてきたものがない。勘も働かない。
ヒースが声をあげて笑ったのを見て、しばらくぽかんとそれを見つめたティアの顔が、ぱあと輝く。まるで楽しいおもちゃでもみつけたような、壮大な景色を目の前にした旅人がみせるような、そんな顔。
その反応に、そういえば自分が笑顔を見せるのは初めてかと、ヒースは気付いた。なんだか気恥ずかしくなって、顔を引き締めようとするがうまくいかない。変な顔になっているだろうな、とヒースは思った。
「えへへ」
その様子に、はにかんだようにティアも笑う。
と、思ったら。ふいに何もない虚空をみあげ、「うん」と、ひとつ頷いた。
「私、そろそろ帰らないといけないみたいです」
空にある太陽の位置からでも時間を割り出したのだろうか、と思いながらヒースは頷く。
「そうか、なら――」
もうここには二度とくるな、と言おうとして。
「じゃあヒースさん、また!」
とびっきりの笑顔と声に、遮られる。
「……!」
言いかけたものは、その軽やかな勢いに押されて、つい今しがた上がってきた喉をとおり、すとん腹の底へと落ちていった。
「あ、ああ。またな」
どこか呆然と、ヒースはそう返す。
「はい!」
ティアが、ぶんぶんと手を振った後、くるりと回れ右をする。そうして、あのときと同じように去っていく。こうしてティアを見送るのは、二度目。
木々の向こうに姿が見えなくなったのを確認して、いつの間にかとめていた息を、ヒースはゆるゆると吐き出した。
また、と言われるとは思わなかった。
ティアは、次に会うことを予感しているのか。それとも会いたいと、望まれているのか。
ふるり、とヒースは頭を振った。
こんなことを考えること自体、どうかしている。
よくある社交辞令だ。それに意味なんてない。ただ単に、口から飛び出した意味のない挨拶だろう。
そろそろ自分も砦に戻らなければ、と――考えを切り替えて、ヒースは表情を今度こそきつく引き締めた。
少女との僅かな触れ合いで、ほんのりと胸の奥に灯ったあたたかな何かには目をそむけ。
ヒースもまた、白い岩に背を向けた。