暑い。
ティアは、ソファにくったりと身を預けてそんなことを考える。
カレイラはもう夏の季節真っ只中だ。開け放った扉から風は滑り込んでくるものの、生温い。暑い。仕方ないとわかっているが、暑い。薄手の夏服を着ていても、暑い。
ちらりと視線を送った先にいる年上の恋人は、もくもくと書類と格闘している。軍服の上着を脱いでシャツ姿になっているけれど、長袖姿である。それで平気なのだろうか。
「ヒースさん、暑くないんですか?」
「暑いぞ?」
当たり前というような口調でそういったヒースが、同時にペンを下ろした。どうやら出来上がったらしい。書類を横にどけると、椅子から立ち上がり背伸びをする。ごき、と首をひとつ鳴らして、ヒースが歩いてくる。
隣にヒースが腰掛けると、体重差で沈んだ方向へ、ティアは傾いた。抵抗する気もなく、それに従ってヒースにもたれかかる。すぐに肩に手が回された。
「まあ、夏だからな。仕方ないだろう」
「そうですけど……」
暑いけれど、恋しい人から離れるのはもっと嫌なので、ティアはぎゅっとシャツを握り締めた。ヒースの服に皺が寄る。
「しかし、これだけ暑い日が続くと、川で水浴びでもしたいところだな」
帝国は北に位置していて、カレイラよりは少しだけ涼しいと聞いている。それでも、涼を求めて水際に行こうとするのは、違う国であっても同じようだ。そういえば、ローアンの街でも、川などの水辺で遊ぶための水着が売り出されていたっけ。
「そうでよすね……あ、」
様々なことを考えながら、ヒースの言葉に頷いていたティアは、あることを思い出した。それは、季節のせいで湯だった思考の隅に追いやられていたもの。どうして忘れていたのだろう。
「海! 海に行きましょう、ヒースさん!」
がば、と顔をあげヒースに詰め寄る。
「海?」
いわれたことを反芻するヒースに、ティアはにこにこと笑いかける。
「はい! ローアンから西南方向にある海岸地帯って、私たちはいっちゃいけないことになっていたんですけど、ドロテア王女がローアンの人たちのためにって、その一部を解放してくださったんです。そこにいってみませんか?」
ティアの言葉に、ヒースが顎に手をあてて考え込む。やがて「ああ」と声を漏らした。
「王家の直轄領地になっているところか? 確かに海に面していたな」
うんうん、とティアは頷く。
「そうだな、そういうことなら今度の休みにいってみるか?」
「やったぁ!」
ヒースからの了承に、ティアはぎゅうと逞しい体に抱きついた。その勢いで、ヒースをソファに押し倒してしまったものの、それはご愛嬌というものだ。
あまりの喜びように苦笑いするヒースの胸に頬を寄せて、ティアはその日が早く来ることを祈った。
そして、ヒースの休暇当日――
「わあ……!」
木々の合間を縫うようにして海へ続く道を抜けたところ、急に開けた場所から見える景色に、ティアは歓声をあげた。遠くに見えるのは、サミアドにも続く道を有する大鮫の顎と呼ばれる場所だ。そこからこちらに向かってなだらかに低くなっていく崖の端。その終わりから広がる白い砂浜が眩しい。
「海、海ですヒースさん!」
「そうだな、海だ」
歓声をあげ、白いワンピースの裾を翻して振り向くと、ヒースが苦笑しながら同意する。
「青いー!」
「ああ、青いな」
駆け出したくなるのをおさえながら、ティアは海風に帽子が飛ばされないように気をつけながら瞳を細めた。
西へと細く長く続く砂浜は、大鮫の顎の崖が海の流れによって侵食され、その砂が運ばれることによって形成されたらしい。砂が白く美しいのも、その砂に石英が多いからとかなんとか。
海に遊びにいくといったとき、そんなことをいわれたような気がするけれど。きっと、喋ったドロテアもその意味をよくわかっていないだろう。ただわかるのは、この砂浜が綺麗だということだ。王家直轄領地とされ、一般人がはいることを許されなかったというのも頷ける話だ。
「あそこの小屋を使って着替えていいんだったな?」
「あ、はい。そうらしいです」
ヒースの指差した方向の砂浜の片隅には、いくつか小さな小屋がたっている。みれば、家族連れが出てくるところだった。この小屋は、海水浴にくる民たちの意見をドロテアがとりいれ、簡易的であるが設置されたものだ。近づいてみれば、なるほど確かに急ごしらえではある。が、住むわけではあるまいし、目的はじゅうぶんに果たせるものだ。
「先に使うといい」
「あ、はいっ」
小屋の中を確認し、ヒースがティアを先に入れる。
慌てて中に駆け込んで、自分の荷物から水着を取り出し、う、とティアは息を飲んで顔を赤らめた。
二人で海に出かけると決めてから、ナナイやファナを巻き込んで一緒に選んだものだが、いまさながらに恥ずかしい。これを着て、ヒースの前に立つなんて。
「ティア、どうかしたか?」
動きがないことを気配で察したのか、ヒースが小屋の外から声をかけてくる。
「す、すぐ着替えます」
えいや、と崖から飛び降りるような気持ちで、ティアは着替えだした。正直、布地の少なさに頼りない心地である。さらに、ティアはナナイのように女らしい体つきでもない。自信はこれっぽっちもない。
とりあえず着替えてはみるももの、鏡があるわけではないので自分の姿はみられない。くるくると回っておかしなところがないか確認する。
ああでも――やっぱりだめだ。
ティアは荷物からあるものを引っつかんだ。
そして。
「お、おまたせしました……」
そーっと扉をあける。こそこそと外にでると、小屋の壁に寄りかかって待っていたヒースが噴出した。
「なんだその格好は」
「だ、だって!」
ティアは、頭からすっぽりと大きなタオルに包まれながら抗議した。ぎゅっとあわせた部分を持つ手に力を込める。
「今から海に入ろうっていうのに、それはないだろう」
そんなことわかってる。
「うー……」
このままでいいわけがないことくらい。
「わ、笑わないでくださいね! 絶対ですよ!?」
「ああ、わかったわかった」
ティアの心情を察してくれたのか、ヒースが頷く。それを見て意を決したティアは、そっとタオルを脱いだ。
「えと、ええっと……どう、ですか?」
もじ、と重ねた指をすりあわせる。すい、とヒースの瞳が眩しそうに細くなる。その青灰色の瞳には、水着姿の自分が映っているはずだ。
身につけているのは、淡いピンクの生地に白いリボンのついた、上下に分かれた水着だ。いままでこういったものは着たことがないから、お腹や胸元が心もとなくて、まっすぐ立てない。もっとこう、質量があちこちにあれば、よかったのに。
そんなティアの心はさておき、ふむと頷いたヒースが、笑う。
「ああ、よく似合っている。可愛いぞ」
嬉しそうな楽しそうなその顔と、素直な気持ちのこめられた言葉に、ティアは背筋を伸ばした。
「ほ、ほんとですかっ」
「オレは君に嘘をいったことはないはずだが?」
わざとらしく、疑われるの心外だという顔をするヒースを目の前にして、ティアは自分の顔があからさまに輝いていくのがわかった。
「さて。ちょっと待っていてくれ」
そういって、ヒースが入れ替わるようにして中に入っていく。
似合っている。可愛い――――そんな恋人からの賛辞にティアが夢心地になって頬をおさえていると、ヒースはあっという間にでてきた。
んく、とティアはその姿に息を飲む。
「よし、いくか」
ひょい、とティアの荷物も当たり前のように手にして、ヒースが歩き出す。
「……は、はい」
その後を追いかけながら、ティアは小さく頷いた。
当たり前といえば当たり前だが、服を脱いで水着姿になったことで晒されたその身体は、しっかりと筋肉に覆われていて、まろやかな女性の線とはまた違う意味で美しい。そしてやはり格好いい。
いつもは服の下に隠されているものが、明るい場所で惜しげもなく晒されていることに、ティアはついつい目を奪われる。視線を注ぐ自分が恥ずかしいけど、仕方ない。
「それにしても、思ったより人がいるな」
ぽや~、としつつ、場所を探して二人一緒に歩いていると、ヒースがそんなことを呟いた。
「え、どうかしましたか?」
「ん、まあ……なんだ」
ヒースが回りに視線をめぐらせるのにあわせて、ティアもそっと辺りをうかがう。ちらちらと、人々の視線が心なしか集まっている、ような。
「すまんな。オレは、あちこちに傷があるからな」
皮膚にいくつも走る傷の痕。薄くなってはいるものもあるが、そうでないのもある。戦ってきた者の証ともいえるそれらは、ヒースの目立つ容貌もあって、注目されても仕方がない。
「う、んー……あ!」
ぽん、とティアは手を打った。
「じゃあ、あっちのほうにいきませんか?」
ティアは、ヒースの側に駆け寄ると、もっと西のほうを指差した。
「だが、あちらは立ち入り禁止のはずだぞ」
ヒースのいうとおり、向こう側は解放されていない区域だ。ちゃんと監視のための兵もいる。
「大丈夫です!」
力強く言い切ったティアは、ヒースの元へと駆け寄る。持ってもらっている自分の鞄を、ごそごそと漁る。浮かれていて忘れかけていた一枚の紙を、ヒースの目の前へと突き出した。
「実はドロテア王女に許可もらってきているんです!」
ぱち、とヒースが目を瞬かせた後、声を上げて笑い出した。
「は、はははっ! しっかりしているな!」
「えへへ」
この区域でしか遊べない人たちには申し訳ないが、せっかくもらった許可である。活用させてもらうことにして、ティアはヒースと一緒にそちらへと向かった。
境界を管理している兵士にドロテアからの許可証をみせる。事前に二人がくることを聞いていたのか、ずいぶんとあっさり通された。
そうして、潮風を受けながら、人気のない海岸を歩いていく。
「気持ちいいな」
「ほんとですね、それにとっても静か……」
解放区の賑やかさもいいが、こうして二人だけというのも悪くない。ヒースに視線が集まらないのもいい。格好いい恋人を誇りたいけれど、でもあまりみられたくないという、微妙な乙女心である。
「なんにせよ、ここの許可がいただけていて助かったな」
「そうですね」
ふふふ、とヒースを見上げて微笑むと、僅かに身をかがめたヒースが耳元で囁く。
「それに、君を他の男に見せずにすむ」
に、と笑ったヒースにそんなことをいわれ、ティアの頬に朱が散った。
「あ……、や、べ、別に私なんて見る人は……!」
わたわたと手を動かし、慌てて否定する。枝のように細い腕や、肉の薄い体つき。自分で否定してみたものの、ティアは思い当たるそれらの要因に気持ちが沈む。
「何を言っている。さっき砂浜を歩いているときにみられていただろう。気付かなかったのか?」
「う、嘘っ」
ヒースに水着姿を追いかけることで精一杯だったせいか、まったく気付いていなかった。赤く熟れた頬を手で押さえて俯く。
それにしても、ヒースも同じようなことを考えてくれていたなんて。
「まあ、信じる信じないは君の自由だが、少なくともオレは見惚れたぞ」
「うう~……」
髪を撫でられて、恥ずかしさが倍増する。どうしてこう、さらさらと嬉しいことばかりいうのだろう。
「ははは。さて、時間ももったいない」
ぽん、とヒースに背を叩かれ、はっとティアは顔をあげる。絡んだ視線の先、ヒースが少年のように笑っている。ティアもつられて、相好を崩した。ひとつ、頷く。ヒースの言いたいことがわかる自分が、嬉しい。
ヒースが荷物を下ろすのを確認して。
「いきましょ、ヒースさん!」
ティアは歓声をあげながらヒースの手を引き、青い青い海へと駆け出した。
飛び込んだ海は、思ったより冷たくて、最初はびっくりしたものの、少しずつ肌が慣れていく。しかし、流れる川とはまた違い、ゆらゆらとした水の動きに戸惑う。
「えいっ」
「っ!」
ふとももまで水に浸かったあたりで、ちょっとだけ余裕がでたティアは、油断しているヒースに海水をかけてみた。
それをまともに真正面から受け止めたヒースの頬が引き攣る。撫で付けていた髪が乱れる。その様子に、声をあげてティアが笑うと、逞しい腕が伸びてきた。
「いい度胸だな、ティア」
「っ、きゃーきゃー!」
低い声で、にやりと笑いながらそういったヒースに、がっしりと捕獲される。嫌な予感にティアは身をよじるものの、ヒースの逞しい腕から逃げられるわけもなく。ティアを抱えて器用に泳ぎだしたヒースは、深いところ深いところへと進んでいく。
「や、ヒースさんっ! あ、足、足がつきません~!」
ひぃ、と小さな悲鳴をあげながら、さらにじたばたとしてみるものの、ヒースはとまらない。
やがて、ティアを捕まえていた腕がするりと離れた。
「きゃあ!」
ティアは泳げないわけではないが、予測のつかない波の動きや足がつかないという不安に、ついヒースへと手を差し伸べる。だが、ヒースはすいとその手をかわした。
「ヒースさんのいじわるー!」
半泣きになりつつ手足を動かす。川よりは海のほうが泳ぎやすいという噂のとおり、なんだか身体が軽い。でもやっぱり怖い。足元に何がいるのかわからないというのもある。
「君が先にしかけたんだろう」
にやにやとヒースが笑う。悔しい。頬を膨らませ、ティアはぷいと顔を逸らした。
「もういいもん!」
このくらい、自分で何とかしてみせる。どうにかこうにか、ゆっくりと浅瀬に向かってティアは泳ぎだす。
が。
「はっはっは、逃がすと思ったのか?」
「はうっ」
あっという間に近づいてきたヒースに、再び捕獲される。
「ほらいくぞ」
「い~や~!」
そのまま、さらに沖に向かって連れて行かれるティアの悲鳴が、青い海に虚しく響いた。
夕暮れの色が滲む空の下。ティアは波打ち際に足を投げ出して座り込み、ぼうっと海を眺めていた。砂に乗せた踵の下、水にさらわれまた押し戻される砂の感触がくすぐったい。
青と白だった世界は、いまや赤く染まっていた。夏の一日の終わりは、こんなにも美しい。ティアは瞳を細くした。
それにしても、なんて楽しい時間だったろう。
最初こそヒースに意地悪されたものの、海に慣れてしまえばどうということはなかった。
二人で競泳してみたり、砂のお城を作ったり。うちあげられた貝殻や、みたことない奇妙な木の実のようなものもみつけた。疲れたら、一緒に木陰にすわって休んでお話をして――そんな今日のことを思い出して、頬を緩めていたとき、砂を踏みしめる音がした。
ゆっくりと振り返ると、そこには荷物を見つけてきたヒースがいた。
ついつい遊ぶことに夢中になって、どこに置いたのかわからなくなってしまっていたのを探しにいっていたのだ。
「どうした、ティア」
ティアは、にこりとヒースに笑いかけた。すぐ側に荷物を置いて、ヒースがティアの横に座る。
「今日、とっても楽しかったなぁって。ヒースさんはどうですか?」
「ああ、オレも楽しかったぞ……っと、そうだティア」
「はい?」
く、と喉を鳴らして笑ったヒースが、手を差し出す。
「手を」
「?」
今度はティアが首を傾げる番だったが、いわれるがままに手をだす。ヒースの大きな拳が重なる。そっと、ティアの手のひらに乗せられる、小さななにか。
「わ、可愛い……!」
それは、ティアの爪ほどの大きさしかない、淡いピンク色の貝だった。今日みつけた貝殻のどれよりも綺麗だ。
「さきほど拾った。まるで、君のようだろう?」
「や、もぅ……」
どうやら荷物を探しがてら、見つけたらしい。
付け加えられたヒースの一言に、ティアはくちごもり、顔を赤らめた。確かにこの色に似た水着を着てはいるけれど、そういわれては恥ずかしい。でも、悪い気はしない。その様子に、ヒースがからからと笑う。
「それにしても、なんていう貝なんでしょうね」
太陽にかざしながらそういうと、ヒースが顎を撫でた。
「さぁな。オレもわからん。帰ったら一緒に調べてみるか?」
「はいっ」
ヒースの言葉に頷いて、ティアはそれを手のひらに包み込んだ。失くさないよう、落とさないよう――今日の思い出と、一緒に。
「さて。そろそろ着替えて帰るとするか」
「はぁい」
ヒースが立ち上がり、すっと手を差し伸べてくる。そこに左手の指先を重ね、腰を浮かせた瞬間。
「きゃ……! ん、」
手が勢いよくひかれる。そして、無理やりに立ち上がらせられたティアへと、寄せられる唇。それが、ティアの小さな唇を塞ぐ。
夕焼けの中、砂の上に落ちた影が重なっているのが、視界の端にうつる。それはまるで、世界に二人の口付けを焼き付けているような気がして。足元から沸き立つ恥ずかしさに、ティアはきつく目を閉じた。
やがて、小さな音をたてヒースが離れていく。
「だ、誰かみていたらどうするんですか……」
「誰もいない」
抗議してみるものの、ヒースはそんなものどこ吹く風のすまし顔だ。
確かに、あたりに人の気配はないけれど、大胆すぎやしないだろうか。
そんな行動に出たヒースに、呆れると同時に愛しさを覚える。くすくすと笑うと、ぐい、とつながれた手が再び引かれた。
「今日は、君とこられてよかった」
手を伸ばし、荷物を拾い上げたヒースが、楽しかったと微笑む。
「はい。私も、ヒースさんにいっぱい遊んでもらって幸せです!」
自分もだと力いっぱい頷き返し、ティアはいう。
「また一緒にきましょうね!」
「ああ」
そうして、ゆらゆらと影を従え東に向かう。疲れたけれど、ほんとうに素敵な一日だった。笑みしか浮かばぬ自分の顔が、その証拠だ。
ヒースに寄り添って歩きながら、ふと、ティアはぺろりと自分の唇をなめてみる。
ついさきほど触れられたそこは、少しだけしょっぱくて――そしてなによりも、甘い味がした。