ティアは、ヒースのもとへ折を見ては訪れていた。いろいろなことがあって、泣くことがあっても、やはり会いたかったからだ。
ただ、なんとか記憶を取り戻してもらおうとしていた頃のような必死さは、もうない。
他愛のない日常のことを話し、そして帰る。ただ、それだけの穏やかな時間を過ごしていた。
今日も、そんな一日だった。そうなるはずだった。
だって、そういう風になるように、ティアは努めているのだから。
「あ、将軍っ、こんにちは!」
ローアンの街にある公園の片隅、周囲に人気のないベンチに座り込む大きな人影に、たまたま通りかかったティアは、明るく声をかけた。
篭手の調子をみていたらしく、素手のままヒースが軽く手をあげる。
「よう、ティア。今日も元気そうだな」
「はい!」
抱えた紙袋を落とさないように気をつけながら駆け寄れば、伸びてきた大きな手に、くしゃりと頭を撫でられた。その感触に、ティアは目を細める。
あんなことがあってはや数ヶ月がたっている。ヒースは一向に、記憶を取り戻すそぶりはない。
ティア以外の者も皆、あれこれと手を尽くしたが、効果はなく。だが、ヒースの仕事ぶりに問題があるわけでもなく。もう、記憶があるころとなんらかわりのない日常が、そこにはあった。
最初は寂しかったティアも、この状態に随分慣れた。
ただ、目下の悩みは、ヒースがみせる優しさに、自分を見る瞳のやわらかな視線に、何気ない仕草や行動に、勘違いをしそうになることだった。
思い出してくれたのではないか。ほんとうは忘れてなどいなかったのではないか。まだ自分を好きでいてくれるのではないか。そもそも、この現実が夢なのではないか。
そんな風に思ってしまう。
だが、それは思い過ごしなのだと、淡い期待がみせる幻なのだと、ティアは考えるようにしている。
そうしなければ辛くなるのは、わかっているから。自分の想いは、報われはしないのだと、もう知っているから。
そんなことは一切表に出さず、すとん、とティアはヒースの隣に腰かける。その横手に、生活雑貨を覗かせる荷物を降ろしながら、ティアは小さな鼻を動かした。
「なんだか……いい匂いがしますね」
「これだろう。すごいな、犬並みだ」
「もうっ」
そういってヒースが掲げたのは、横手に置かれていた小さな紙袋。からかわれたことに抗議したティアの前に、突きつけられるそれ。
あけてみろ、というヒースの言葉に、ティアはそれを受け取った。
「わぁ、お菓子!」
手渡されたその中を覗くと、艶やかで美しい焼き菓子が、いくつもみえた。ふわりとたち昇るのは、ティアが嗅ぎつけた匂いと同じものだった。
「君はこういうのが好きだろう?」
「はい! 覚えてくれたんですね!」
「ああ。あと紅茶派だということもな」
なんでもない会話のひとつをちゃんと覚えていてくれたことが、素直に嬉しい。
ティアはにこにこと笑いながら、そういえば、と首を傾げた。
「それにしてもどうしたんですか、これ?」
「さっき、立ち往生している女性を助けたらいただいた」
ヒースがいうには、足の悪い老女をみかけたので代わりに荷物を家まで運んだら、くれたらしい。
「――ふふっ、将軍ってばもてるんですね」
「なに、お使いを果たした子供にやるようなものだろう」
よしよしと、老女に頭を撫でられるヒースの姿をなんとなく想像し、ティアは小さく噴出した。そんなことはおそらくなかっただろうが、そうだったら可愛いではないか。
そんなティアの様子に、ひょいとヒースが肩をすくめた。
「まあ、なんでもいいが。ティア、よかったらそれを貰ってくれないか」
「そっか……将軍、甘いもの苦手ですもんね」
いいのかな、と思ったが、そういえば甘味の類を、ヒースは得意としていない。
ヒースのことだ、礼だといわれ差し出されたものを、性格的に断ることができなかったのだろう。
うんうん、とティアは頷いた。
「……」
「どうかしましたか?」
ごそごそと紙袋の口を閉じながら、急に黙り込んだヒースをみあげる。
「いや……君は、そこまで知っているのか、と」
少々驚いただけだ、とヒースがいう。
「オレは、好ましいものは語るほうだが、好ましくないものはそうじゃないからな」
そういえば、教えてもらったことはなかった。
「そうですね、将軍には伺ったことなかったですね」
「……」
ああ、とティアは声を漏らした。そうだ。前は、ちゃんと教えてくれていたけれど。今、教えてもらったことはない。やはり記憶がいったりきたりしてしまう。
だめだなぁ、と思いながら、ティアは眉を下げて微笑む。
「お菓子、ありがとうございます。友達といただきますね」
こんなにたくさんあるのだから、レクスやファナにもおすそ分けしよう。それとも、皆を呼んでちょっとしたお茶会でもしようかな。そんなことを考える。
と。
「なあ、ティア」
ふ、と低く真剣な声音で名を呼ばれ、引き寄せられるようにティアはヒースと視線をあわせた。絡み合った瞬間、ぞく、と形容しがたい感覚が、身体の中を駆け回る。なんだろう。
「は、はい、なんですか?」
そのことに戸惑いながら、ティアは目を瞬かせる。熱を帯びていく顔を逸らしたいけれど、それは許さないとヒースの瞳がいっているような気がした。
「オレは、」
ヒースが今いう「オレ」とは、記憶を失くす前の自分のことなのだろうと、ティアは直感的に思った。
「オレは、君のことを好きだったようだが」
どくり、とティアの小さな心臓が悲鳴をあげて、鋭く痛む。口が、喉の奥が、砂漠のように乾いていく。
「――君は……オレのことを好きだったか?」
わかりきったことを確かめるような問いかけに、ティアは息をのむ。
そういえば、自分の気持ちを言葉にしたことはなかった。
なんて答えればいい? いまでも好きだ。大好きだ。
記憶はなくとも、ヒースは厳しいながらも優しくて、ティアが憧れるにたる存在だ。
それも当然だ。記憶を失う前も、そんなヒースに心惹かれたのだから。
すれ違うだけでも、簡素な言葉をかわすだけでも。こうして隣にいるだけでも、どきどきして恋しくてたまらないのに。
だけど、いうわけにもいかない。だって、今の「ヒース」は、そうじゃないから。そう言っていたから。迷惑は、かけたくなかった。
「……いいえ」
ティアは、虫の羽音のようにか細く、そうこたえる。
「ほんとうか?」
どうしてそんなことをきくの。
「嘘じゃ、ないですよ?」
へら、と。出来る限り陽気に笑ってみせる。
あなたのことを好きではないと。好きでなかったと。そんな嘘をつく。
あの日、夕暮れの中、涙ながらにうそつき呼ばわりしたときのことを考えれば。それまでにとっていたティアの行動を省みれば。ヒースが、ティアの言葉が偽りであると想像するのは容易いだろう。
それでも違うといわなければいけないと思うティアの心の端が、ちりちりと焼けていく。
その火がそれ以上燃え広がらぬよう鎮めるがごとく、ふ、と温かなものが頬に触れた。それは、ヒースの大きな手のひらだった。
労わるように、慈しむように髪を払い、頬を撫で。そっと重ねられる、節くれだった恋しい男の手。
そこから伝わるぬくもりに、ティアの意識がぼうっと霞んだ。
その一瞬を見計らったように。ティアの顔に、影が落ちてきた。
あ、と思う間もなく。すぐに視界がぼやけて、息ができなくなった。
唇に、何かが触れている。
柔らかくて温かく――それは泣きたくなるような感覚で。
あたりまえのように、ティアは目を閉じてそれを受け入れた。
長い時間だったような気がする。実際はきっと、ごく短い一瞬だったのだろう。
ティアは、風が自分の唇を撫でるように吹いたことで、訪れていたものが去ったと知覚した。
視界をゆっくりと開けば、驚くほど近くにヒースの顔があった。互いの吐息が、交じり合う。
ヒースの瞳は、その色もあいまって、凪いだ海のように穏やかで静かだ。瞳の奥にしっとりと宿る光は、自分のしたことをちゃんと認識していると示している。
ヒースは、動かない。ティアもまた、固まって動けない。
口付られたのだと、ティアは唐突に理解した。
ティアは、生まれてこのかた一度とたりとも、誰かと口づけを交わしたことなどない。
それが。
それが、恋しい男とはいえ、二人で築いた大切な記憶もなく、ティアの恋人であるというわけでも、そうありたいと願っているといったわけでもない目の前の「ヒース」に奪われた。
かっとティアのどこかから激情がほとばしる。勢いのまま、小さな手が飛ぶ。閃く。
ぱあん、と軽い音が響いた。
はぁ、とティアは肩で息をつく。どん、とヒースの胸を叩くように押し返し。ぎり、と唇をかみしめ、まだそこに残る感触を脱ぐように手をあてた。
ごしごしと数度こする。そのたびに、涙がこぼれた。
「ばかぁっ!」
どうしてどうして。
がんばっているのに、好きだっていえないってわかってから、ずっとずっとがんばっているのに、どうして忘れろといったその唇で、縛り付けるような真似をするの?
意味がわからない、わからない!
「……すまん」
ヒースの頬が、ティアの手の形を写し取ったように、ゆっくりと赤くなっていく。
「だが……ティア、オレは、」
「っ!」
また近寄られて、ティアはびくりと大きく身体を震わせ、ベンチから立ち上がり後退した。
その様子に、ヒースが困ったような顔をする。
なんで?
ぐるぐると同じ言葉を、頭の中で繰り返しながら。ティアは手を握り締める。
なんで、そっちが傷ついたような目をするの? そうしたいのはこちらのほうなのに!
拳を大きく震わせて、ティアは精一杯にヒースを睨み付けるとその場を走り去った。
ヒースさんの、ばか!
そう心の中で叫んで、ティアは全速力で我が家へと向かう。
ティアが懸命に繕い形作っていた日常が、壊れた瞬間だった。
そのあとから現れる未来は、果たしてどのようなものなのか。街を駆け抜けるティアには、知る由もない。