摘まれても—–10

 足早に執務室として与えられた部屋へと戻ってきたヒースは、扉を開けて中に入ると、大きく肩で息をついた。
 主のいなかった部屋の空気は、少し冷たい。だがそれが、今のヒースにはちょうどよかった。
 曇りのない窓から差し込む光に目を細めながら、今度はゆっくりとした歩調で室内を横切り、ヒースは執務机の椅子に身を落とした。ぎしりと小さく軋む音が響いて消える。
 広い机の上には、まだ目を通していない書類がつみあがっているが、読む気にはなれない。いまは、そんな気分ではない。
 視線を下げれば、自分の腕がみえた。ヒースは、己の右腕に左手を置き、指先に力をこめる。何かを、押しとどめるように。
 まだそこには、ティアを抱きとめたときの温もりと、柔らかさが残っている。あまりにも軽くて、その存在がひどく儚く感じられたことを覚えている。
 自分の腕の中から、こちらを仰いだときのティアの近さ。大きな瞳の煌き。ふわりと女の子らしい香りがヒースの鼻腔をくすぐった瞬間も。
 ひとつひとつが、まざまざと脳裏を過ぎる。
 あのとき、自分はどうかしていた。
 ティアだ、と当たり前のことを認識したら、腕が、手が、勝手に動いて――抱きしめていた。
 どうしてそうしたのか、己のしでかしたことなのに、よくわからない。
 階段を踏み外したティアを受け止めて助けただけのはずなのに。あんなことをする必要など、まったくなかったはずだ。
 心から驚き、大慌てで離れたことは、ティアはわかっているのだろうか。ばれていたら、なんと無様なことだろう。
 ゆっくりと目を閉じる。
 引き寄せた腰の細さ。手を添えた頭の小ささ。震えた声も、淡く色づいた唇も。
 どうにも、忘れられそうにない。
 馬を駆けさせたときの振動に似た鼓動の響きが、耳元で煩く鳴り渡る。
 文官と二人で話をしていたとき、ティアがいたことには気付いていた。そして、逃げるように去っていったことも。
 だから、探した。話を途中で強引に切り上げて、相手に不思議そうな顔をされても、かまわなかった。
 あんな反応を示すティアの様子から察するに、まだ自分のことを気にかけてくれている。あんなことをいったのに、それでもまだ慕ってくれている。その事実が、ヒースを突き動かした。
 そうして、ティアをみつけて、いい訳をして。あげくに、事故を利用して抱きしめて。茶の誘いを断られて気を落とし。
 まったく……。青臭い少年ではあるまいし、自分はなにをやっているのだろう。
 ヒースは、むしょうに頭をかき毟りたい衝動に駆られた。
 ティアの心は自分に向かないほうがいいと、そうあってはいけないと、思っていたはずなのに。いまは、それがこんなにも心躍らせる。
 これではまるで……――いや。
 まるで、じゃない。
 もう。
 認めるしか、ないのだろうか。
 ぐしゃ、と自分の考えがまとまらぬよう、ヒースは前髪をかき乱す。みえかけているものが、ほんの少し遠くなる。
 ああ、それでも。ほろりと何かが綻ぶ感覚が、胸のうちにある。くすぐったくて、意味もなく笑い出しそうだ。
 それが満開になるまで、あとどのくらいだろう。
 断定はできないが、それはそんなに遠くないような気がした。
 どこというわけでもなく部屋に視線を彷徨わせる。
「なあ、オレは、どうしたらいいんだろうな……?」
 答えるものはいないのに、そう問いを零してみる。  記憶を失くす前の『ヒース』なら、もっと上手くやれたのだろうか。それとも素直に言うのだろうか。
 それにしたって、その頃の、真っ直ぐにティアを想い、想われていたらしい自分に、神経がささくれ立つ。自分のことのはずなのに。
 今ほど、記憶を失ったことを惜しいと思ったことはない。
 だが、それを取り戻す術はない。
 ティアだって頑張っていた。周囲の人間もあらゆることをしてくれた。自分だって自分なりに頑張ったのだ。それを人に、いったことはないけれど。
 それでも蘇らなかった。
 だがそれは、いいわけにはならない。
 零どころか、自分の手で減にしてしまった自分とティアの関係。
 それを是としていた自分。以前のようなことはないと、否定した自分。
 これまでにしでかしたことを思えば、さらに意識は混乱の高みへと誘われる。
「……はー……」
 一向に解消されぬ苛立ちをすこしでも紛らわせるかのように、ヒースは深く深く。
 ため息をついた。