今日もまた、彼女を待つ。
一度は手ひどく拒んだというのに、それでも「会いたい」という健気な申し出を、これ以上すげなく断れるわけがなかった。
だが、明確な約束をしたわけではない。都合があわなければ、数日顔を合わせることもなかった。互いにやるべきこともあるからだ。
だが、いつの頃からか、癖というか習慣というか、こうして同じ時間同じ場所で、彼女を待つようになった。それに疑問を抱くこともなく。ごくごく当たり前に。
そうして、訪れた彼女と、一言二言、言葉を交わす。この、フランネル城の門の前で。
ティアは、いい子だ。
明るく、誰にでも分け隔てなく優しく、カレイラの英雄と呼ばれているのに驕るところもなく素直で。その心は、いままで出会った誰よりも美しかった。接していれば、自然と心穏やかになる。ティアがもつ、優しい空気のおかげだろう。
そんな少女に懐かれるのは、正直悪い気はしない。自分でなくとも、誰だってそう思うに違いない。
将軍、将軍、と鈴のように響く、柔らかな声の記憶が耳をくすぐる。
が。
いま目の前にいるのはティアではなく。
「ええと、君は確か……レクス、だったな?」
「……」
青髪赤目の少年は、鋭い視線に剥き出しの敵意をのせ、それを少しも隠すことなく、ヒースを睨み付けてくる。
「いつまでも、ティアがお前のことを好きでいるなんて、思ってるんじゃねーぞ」
唐突な言葉だ。ずっといいたくてたまらなかったのだろう。体全体から滲む気迫に、ヒースは小さく苦笑して返した。
「ああ、きっとそのほうがいいだろう」
きりり、と少年らしい細い眉がつりあがった。
「……本気でそう思ってんのかよ」
「ああ」
レクスの腹の底からわきあがるような声に、ヒースは頷く。それがいいのだと、自分の判断を肯定するように。
「なんでだ。なんであいつを泣かせるような真似ばっかすんだよ」
記憶を失ったこと、ティアを突き放したこと。レクスがそれを責めていることは、考えるまでもなく明白だ。
ヒースはほんの少し、眉を下げた。
「お前、なんとかっつー流派をティアに教えてただろ? 師匠じゃねーか。それに……あいつ……あんなに、」
何かを思い出すような瞳をしながら、レクスがぎりりと歯軋りする。
ティアは、レクスにヒースからの仕打ちを喋ったりはしないだろう。そんな子ではない。ならば、ティアの様子からレクスが推測した、というところか。
ヒースはそう考える。
まあ、ティアとヒースの様子をみれば、これまでを知っている者ならそれもすぐわかることだろう。
親しい位置にいるからこそ、なせることだ。
くちごもっていたレクスが、ぐっと拳を握り締めた。
「応えられないなら、せめてさっさとローアンからいなくなれよ……!」
「それはできんな。オレには皇子をお守りし、支えなければいけない義務がある」
レクスの叫びに、ヒースは即答した。
平和を目指すヴァルドのもとで、その助けとなることこそが、ヒースが己の残りの生涯をかけて成したいことだった。
「……なんなんだよ。あいつ、あんなに幸せそうだったのに。なんで、忘れちまったんだよ……あんなに、仲良かったじゃねぇかよ」
ヒースの考えもレクスはよくわかっているのだろう。どうにもならない理不尽さに、苦々しげに顔を歪め、ヒースを責めるその様子は、年若いがゆえの素直さだ。
「それは、オレでないオレの話だろう。今のオレが、応えられるわけもない。そうして、いいわけもない」
ぎ、とレクスの視線が苛烈なものになる。いますぐにも飛び掛ってきそうだ。
「軍人だからか」
「そうだ」
静かに抑えた声が問いかける。ヒースは淡々と返す。
「戦争ばっかしてきたからか?」
「ああ」
今まで歩んできた道をわずかに思い出しながら、ヒースが小さく頷いた瞬間。
「この……! ふざけんな!」
身軽に懐に飛び込んできたレクスの拳が、飛んでくる。それを、ヒースはなんなく手のひらで受け止めた。レクスは、できるほうではあるようだが、名ばかりの将軍ではない、確かな実力を伴うヒースにとっては、容易いことだ。
激昂した様子のレクスは言う。
「あいつはな、あいつは……!」
ぎりぎりと、拳をさらに前に出そうとしながら。
「そんなお前が、隣にいることを、」
望んでくれたのが、きっと嬉しかったんだ――そんな、レクスの言葉に重なるように、可愛らしいソプラノの声が響いた。
「レ、レクスっ?! なにしてるの……!」
街方向から発せられたもの。ヒースは苦笑してレクスの手を離し。レクスは親に秘密がばれたときの子供のような苦々しい顔で、そっぽをむく。
「ちっ、うるせぇのがきた」
「もう、将軍に何したのっ」
慌てきった様子で駆け寄ってきたティアを、レクスが睨む。まあまあ、と殴られかけていたヒースが宥めてみるものの、止まらない。
「別に何にもしてねーだろ!」
「嘘っ、殴ろうとしてたじゃない!」
「別にどうでもいいだろ!」
「なんでそんなに怒ってるの!」
「怒ってねーよ!」
「ほら、怒ってるじゃないっ!」
「これは違うだろ!」
「なにが違うの!」
「はははっ」
きゃんきゃんと子犬同士がじゃれつくような少年少女の賑やかなやり取りに、ヒースはとうとう声をあげて笑いだした。
その様子に、はっとしたティアが頬を赤らめ口を噤む。レクスが、舌打ちをして目線を下げる。
もう口喧嘩する気配はないようだ。ひとしきり笑ったヒースは、レクスに向き直った。
「なあ少年」
「あ?」
面倒くさそうに、鼻を鳴らしてレクスがヒースを見上げてくる。その赤い瞳を、じっと見返しながらヒースは口を開いた。
「オレにはな、やはりそうは思えないんだ。そうあって、いいはずがない」
きっとレクスたちが思う以上に、自分は血塗れの道を、武器を携えて歩いてきている。そんな自分が応えていいはずがない。誰かに側にいて欲しいと思っていいはずがない。
そう言葉にはせずとも、届くと信じて。ヒースは、レクスと視線を交わし続けた。
「そんなの、オレにはどうでもいいんだよ」
だが、ばっさりと、レクスはヒースの考えを切り捨てる。そんなもの、ばかばかしいといわんばかりである。
ヒースは、そうか、と笑った。そんなヒースに指を突きつけて、レクスは「ただな!」と声高らかに告げる。
「こんど同じようなことやりやがったら、絶対許さねぇからな!」
そんときは覚悟しろ! と、そう言い捨ててレクスは踵を返した。
結局、ヒースのことなどどうでもよくて、ティアの身だけを案じているらしい。
ティアは、いい友人をもっている。
ズボンのポケットに手を突っ込み、肩をいからせて去っていくその後姿に、そんなことを思いながら。
「……覚えておこう」
ヒースはそれだけを伝えた。
「もぉ、レクス!」
置いてけぼりになっていたティアが叫ぶが、レクスは手を振ることもなく、公園方面へと消えていった。
それを見送ってすぐ、ティアがヒースの顔を覗き込む。
「大丈夫ですか、将軍?」
「ん、ああ」
ティアに心配されるほど、自分は情けないつもりはないのだが、誰に対してもこうして声をかけるのだろうなと考えれば、別段腹もたたなかった。
「レクスと、なにをお話ししていたんですか?」
ティアのことでもめていた、というわけにもいくまい。
「なに……オレが、ふがいないだけの話だ」
「???」
頭に疑問符を並べるティアの頭をひとつ撫で、ヒースは小さく笑う。
そして、ぽつりぽつりと懺悔するように、零していく。
戦争のこと。そこに身を投じていた自分のこと。いままで、そうして歩いてきた道に散らしてきた数々の命のこと。
だからこそ、求められないものが――求めていいはずのないものが、あること。
そんなことをレクスと話していたのだと、ごくごく簡単にティアに語る。
「オレは、オレのこれまでの生き方に後悔したことはない。戦争の只中にあったオレは、後悔することすら許されない」
そういったとき。
ティアが、ことんと首を傾げた。ただ黙ってきいていたティアが、淡い色の唇を動かす。
「それは、たくさんの命を、背負っているからですか?」
「そうだな」
くしゃり、ともう一度ティアの頭を撫でる。絹糸のようなさわり心地の細い髪は、さらさらとヒースの指の間で踊った。
ヒースの力強さに負けたように、俯いてしまったティアが、いう。
「でも……だったら。将軍は生きるべきじゃないでしょうか。そういう人たちの命を背負っているから、だからこそ、そのひとたちのぶんまで幸せにならないといけないんじゃないでしょうか」
はた、とヒースは目をひとつ瞬かせて、顔を伏せたままのティアを見下ろした。
「そう願うことさえ、いけないことだなんて、いわないでください」
ティアの声が震えている。共鳴を起こしたかのように、ヒースの心もまた、震えた。
「ティア……君は、」
そんな風に思うことが、ティアにもあったのだろうか。記憶にはない、ティアとすごしたという時間の中、もしかしたらティアもヒースのように思う出来事を体感していたのだろうか。こんな細い、体で。
カレイラの英雄といわれたならば、そうであっても不思議はないが。
ヒースの懸念が伝わったのか、ふるふるとティアは頭を振った。
「これ……私のことじゃなくて、うけうりなんです。ある人の」
そういって、顔をあげたティアが儚げに笑う。
「そう、か」
ほっとして、ヒースはわずかに肩の力を抜いた。よかった。ティアが、そんな道を歩いていなかったことに安堵する。
でも、ヒースは考えたことがなかった。
誰かの命を乗り越えてきたのならば、そうして作ってきた道を生きていかねばならないならば、その命たちに報いる方法は――孤独に歩き続けるしかないと思っていた。そうして、ひとりで死んでいくことだと、思っていた。
だが、ティアは許されるという。
幸せを願うことは、その人たちの分も生きることなのだという。
するりと、ヒースの胸の奥に打ち込まれていた見えない楔から、力がぬけていく。
そうか、そういう考え方もあるのかと思う。一人歩き続ける道の、変わらぬ暗い景色の片隅に、美しく咲き綻ぶ小さな花をみつけたような心地だ。
だが。
く、と笑ったヒースは、少しだけ羨ましそうにいう。
「その言葉を言った誰かは、そう思えるいい出会いか、きっかけがあったんだろうな」
だが、自分はそうではない。ヴァルドに巡り合い、その理想を手助けするという目標はあれど、それは自分ではなく誰かの幸せを守るためだ。それだけが自分の使命。果たされた後のことは、考えたことがない。
それをきいたティアが、泣きそうに瞳を揺らして微笑んだ。
「……そう、ですね」
それは、歳相応のあどけないものではなく。恋しい男に置いていかれる直前の、女のような寂しげな笑みだった。見る者の胸にせまるような。
「じゃ、私これで失礼します」
それを隠すように、ティアの頭が深く下げられる。
「ん、あ、ああ。またなティア」
つい魅入られていたヒースは、口ごもりながら応える。
「はい」
そうしてティアが顔をあげたとき、その表情はいつものものに戻っていた。
そのまま、背を向けて、町長の屋敷方面に歩いていく。また、魔物退治でも頼まれたのか、それとも友人だというエルフの娘にでも会いに行くのか。
ヒースは、そんなことを考える。
と、すこし先で、ティアがぴたりと足を止めた。
「?」
忘れていたことでもあったのか、と思ったら。ティアが、くるりと振り返った。そこに浮かんでいるのは、やわらかな笑顔。春に美しく咲き誇り、そよ風に揺れる花木を連想させるその穏やかな表情に、ヒースはつい息を飲んだ。
小さな口が、精一杯に大きく開かれる。
「将軍、私ね!」
懸命に張り上げたティアの声が、辺りに満ちる。
「私、将軍が将軍として生きてきてくれて……!」
す、と一つ息が吸い込まれ、吐き出される。
「ヒースさんが、こうしてここに居てくれることが、とっても嬉しいです!」
それは、ヒースの全てを肯定する言葉だった。
生まれたこと、徒手流派の伝承者となったこと、戦場を駆け巡ったこと、帝国の将軍となったこと。その全てがあったから、今こうしていられるのだと、そんなあなたに出会えてよかった、とティアはいっている。
つたない言葉に、こめられた心が伝わる。
「……」
ヒースは呼吸も忘れ、目を見開いた。
その視界の中に映るティアは、言い切った後に自分の言葉が恥ずかしくなったのか、それとも久しぶりにヒースの名を口にしたせいか。薔薇色に頬を染めあげて。照れたように眉を下げ、微笑んだ後――ぺこりと頭をさげた。
そうして、ティアは今度こそ去っていった。振り返らずに、真っ直ぐに。
ざあ、と風が吹く。乱れる髪を直すこともなく、道の向こうに消えていく、風に翻る赤いコートを見送った。
それが見えなくなった頃。ゆるゆると視線を下げながらヒースは口元を覆った。
どうして。
他人行儀になった呼び方、遠慮がちな笑顔。
さきほどレクスにあらわしていた剥き出しの感情を、自分にはほとんど向けないようになっていたのに。
ただ、ちらちらと想いの端だけを、ときおり垣間みせることはあった。けれど、それも随分少なくなっていた。
それなのに。今のような眩いばかりの素直な想いを急にぶつけられて、ヒースはひどく戸惑う。
あの言葉が、木霊する。
――ここに居てくれることが、嬉しい――
心の中で噛み締める。ひとつひとつが、綺麗な音を奏でているようだ。
ヒースが何をしてきたかを知っているのに、ティアはヒースを否定しない。ただ、笑って手を伸ばしてくれる。今は遠慮がちなものだったけれど、ヒースが願えばきっと、満面の笑顔でそのぬくもりを分け与えてくれる。
ティアは、すべてをありのままに受け入れられる少女なのだ。
善いことも悪いことも、すべて、すべて受け入れられる。それはとても稀有なことだ。
だからこそ、次の世界に伝えるべき「価値あるもの」を見出せると、ティアは世界に選ばれたのだろう。
ずっと、どうしてあんな儚い少女が過酷な運命にと思っていたが、そうした世界の心が。わかったような気がした。
「まいったな……」
薄々は感じていた。
ティアという存在の、大きさ穏やかさ。
今日この日に、こんな風に理解するとは思っていなかったが。薫風のように心に渡っていったものは、なんと表現したらよいのだろう。
ああ、笑顔も言葉も、なにもかもが鮮やかすぎる。勝手に速まる己の鼓動に、いろんな意味でめまいがする。
身体がやけに熱いのは、陽射しのせいだと思いたかった。だが、違う。それくらいわかっている。わかる。
ティアという光が差し込んだ心の奥、そこでふいに芽吹いた小さな何かは、いつか育てていたものによく似ている気がした。大事にしたかったものに、よく似ているような気がした。
だが今のヒースに、それはいつだったのか、思い出すことはできない。
「まいった……」
つい同じ言葉を繰り返す。
さきほどレクスに対して、可能性はないといったばかりなのに。舌の根も乾かぬうちに、自分に起きた現象に頭が痛む。どういうものなのか、判断がつきかねる。
だからといって、込み上げたこの気持ちがどうにかなるわけなど、ないのだけれど。
頭を抱えたヒースの頭上、燦々とした光を振り撒く太陽が、青い空を渡っていく。
小さな芽が育つとは限らない。途中で枯れて消え去ることだってあるだろう。
でも、もし育ったのなら。
それは、どんなものになるのだろう。