静かに扉が閉じられる。
ほんとうなら、追いかけて問いただしたかった。でも、足は動かない。なにより、心が動かなかった。
ヒースと付き添いの兵士の姿が消えた部屋の中央で、ティアはぎゅっと自分のコートを握り締めた。空気が重い。その中心にいるのは、ティア自身だ。
なんだか、変な気分だ。もやもやといろんなものが、お腹のなかで複雑にまじりあって、自分のことがよくわからない。
頭を優しく撫でてくれていたヴァルドの手が離れる。ティアは、ゆっくりと顔をあげた。
僅かに見開かれる紅玉のようなその瞳に、涙にぬれた顔の、自分がいた。
ああ、泣いているんだ、とティアは気付いた。
涙のせいで歪む視界、熱い目頭、塗れて冷たい頬、つんと痛む鼻の奥。そんなつもりはなかったけれど、一度自覚してしまえば、そうした感覚が津波のように押し寄せた。
顔が、歪む。震えをおさえようとしているのに、止まらない。ティアは、痛む胸からなんとか息を吐き出しながら、唇を動かした。
「皇子……。ヒースさんが、はじめましてって……」
耳にこびりついている。自分をみつめ、そうしてかけられた言葉。
怖がらせないように、と気をつけているのはすぐにわかった。ただ、そこに親しみがなかった。つい先日まであったはずのものがなかった。それがひどく辛かった。
「私のこと、まるで知らない、みたい、なこといって……ひどい、ですよね?」
思い出すまでもない。ただひたすら頭の中に響く音は、さらにティアの涙を誘った。
――君のことを、知らないんだ――
耳に馴染むほど、よく聞いている声が紡いだのは、冷たく残酷なものだった。
ぼろぼろと勢いよく溢れたものが、ティアの頬、そして床を濡らしていく。
「ティア」
困ったように、ヴァルドがティアの名を呼ぶ。
「あ、あれは冗談ですよね!?」
「ティア」
目の前のヴァルドに、縋るようにして訴える。しっかりするんだ、というヴァルドに、ティアは頭を振った。
「そんな、だって、ヒースさん、私のこと、あんな風にいうわけないもの……! だって……! ヒース、ヒースさん、は……!」
「ティア!」
普段、滅多に声を荒げることのないヴァルドに、痛いほどの力で肩をつかまれ、ティアはしゃくりあげた。
与えられる痛みが、ティアの意識に冷静さを呼び戻す。
「よく、聞いて欲しい」
「……はい」
ぐしぐしと、目元を拭い鼻をすすって、小さく頷く。
落ち着いたと判断したのか、ヴァルドが語りだす。
「ヒースが、国境付近に私の代わりに視察にいったことは知っているね?」
こく、とティアは頷く。だって、それを聞かされたのはあの大切な出来事の最中だった。忘れるわけがない。
「そこで、魔物の大量発生が起きていたらしい」
そんなこと、ヒースは何も言っていなかった。つまり、そういう事態になっていることを知らず、でかけたのか。もしくは、でかけたあとに発生したのか。
いずれにせよ、由々しきことであったのは間違いない。なれば、ヒースがとる行動は容易に想像できた。
「ヒースを筆頭に、その対処に我が帝国軍があたったのだけれど……。掃討も終了した頃、倒したと思っていた魔物がまだ生きていたらしく、起き上がったかと思ったら、近くの兵士に襲い掛かった」
その現場にティアはもちろんいなかったけれど、脳裏にはそんな光景がちらついた。これまでにティアも、幾度かそんな魔物の大量発生を鎮めてきているから。
かたかたと手が震える。自分の知らぬところで命をかけるヒースを想像して、血の気が引いた。
「ヒースは、その兵士をとっさにかばって……魔物とともに、崖下へと落ちたそうだ」
「っ!」
ひ、とティアは息を飲む。さきほど会ったヒースは、だからあんなにも傷だらけだったのだ。
「すぐに救助されたが、そのときにどこかで頭を打ったのか……次に目が覚めたとき、ヒースは忘れていたんだ」
これまでのこと、すべてを。
そう伝える静かなヴァルドの言葉は、ティアにとってこの世の終わりを突きつけてくるに等しい。
「軍医が確認したところ、私が暗殺者に襲われ魔王に体を乗っ取られる前あたりの記憶までしか、持ち合わせていないらしい」
魔物に襲われる兵士の姿が、ヴァルド暗殺時の記憶に重なったのかもしれない。だから、その鮮烈な記憶まで、ヒースは引き戻されたのかもしれない。
それは軍医にもわからぬことだったが、今となってはヒース本人にもわからないことだろう。記憶が、ないのだから。
「つまり……」
「ああ。君や、このカレイラで起きたことすべて。ヒースは覚えていない。いや、知らないといったほうが適切かもしれない」
それは、ティアとヒースの思い出が、なにひとつ残っていないということだった。立ちくらみを起こしたときのように、目の前が真っ暗になる。ティアは俯いて、手で顔を覆った。
なにも、ない。ヒースは、なにも覚えていない。
一緒に城から脱出したことも。広い背にティアを乗せて平原を渡ったことも。徒手流派を伝授してくれたことも。クレルヴォ肉体の元へティアをいかせるために、一人墓場に残ったことも――そうしてすべてが終わったあとに、楽しく穏やかに二人で重ねた大切な時間も。
ふらつく足の裏に、ティアはなんとか力をこめる。倒れないように必死に頑張りながら、涙にまみれた顔を勢いよくあげた。
でも、忘れてしまっただけならば。
「い、いつ、いつか、思い出してくれますよね!?」
それが唯一の希望だった。だって、ヒースは死んだわけじゃない。ちゃんと生きてそこにいる。ならば、なにかきっかけがあれば思い出してくれるかもしれない。
ヴァルドは、そう思うティアに対して、申し訳なさそうに頭を振った。
「すまない、ティア。……それは……わからないんだ……」
「そん、な……」
ティアは、唇をかみしめて俯いた。
「軍医の話によると、すぐに思い出すときもあれば、何年も何十年も思い出さぬときもあるらしい。もしかしたら、明日ヒースはすべて思い出すかもしれない。でも、もしかしたら――――」
死ぬまで、思い出すことはないかもしれない。
ヴァルドがいうのは、可能性の話だ。必ずそうなるとは限らない。でも同じくらい、そうならないとは、誰にもいえない。
重く痛々しい沈黙が、部屋に落ちる。
カチコチと、柱時計は幾度その秒針を動かしたのか。長かったのか、短かったのかわからぬまま、ティアは、ぎゅっと胸の上で両手を握り締めた。
「でも、思い出すことも……ありえるんですよね?」
「そういう事例も、あるらしいけれど」
しかし……、とヴァルドが口ごもる。きっとそういう例は稀なのだろうと、聞かずともその反応からすぐにわかった。
でも。
自分はそれにかける。
「私、ヒースさんの側で、できる限りのことがしたいです」
思い出してもらいたい。自分のこと、ヒースのこと。
涙にぬれた目元を拭い、ティアはいう。一瞬驚いた顔をしたヴァルドが、なんとか微笑むティアを見て、赤い瞳をそっと伏せた。
「そう、か。知ってはいたけれど――ティア、君は強いな」
「……だって。それしか、できませんから」
そういって、ティアは歩き出す。軋むことなく滑らかに開く扉をあけた。
「ティア、明日から君がきたら、ヒースのもとへ案内するように兵士に伝えておこう」
それは、ティアの行動を応援してくれるということ。
「ありがとうございます、皇子」
ヴァルドの言葉をとても嬉しく思いながら礼を述べ、ティアはそっと部屋をあとにした。
誰もいない長い廊下に足をふみ出しながら、まだ頬を濡らすものを、コートの袖口でこする。これから家へ帰るまでに街ですれ違う人たちに、心配をかけるわけにはいかない。
たどり着かねばいけない目的地はあっても、どうすればたどり着けるのかわからない旅に放り出された心地だ。
でも、手探りでも、どんなに遅い歩みでも、目指さなければ心が折れてしまいそう。
懸命にやれば、報われると信じなければ、いますぐにでも崩れ落ちて立ち上がれなくなってしまいそう。
できる限りのことをしよう――
ティアは、ヴァルドに告げた言葉を、自分自身にもう一度言い聞かせる。だが、悲愴な決意をこめた誓いとは裏腹に、足取りはひどく頼りない。
ティアは、よろよろと長い廊下を南へと辿っていく。
明日から、剣を付き合わせるような戦いとはまた違う戦いが、はじまるのだ。
気分がひどく沈んでいくのを、ティアはなんとか堪える。
忍び寄る夜の気配に、飲み込まれてしまいそうだった。