綺麗な城だ。
ヒースは、ぼんやりとそう思った。
カレイラ王国のフランネル城は、最盛期よりその国力は衰えたといえ、その誇りと威厳を充分に知らしめている。
磨かれた窓の向こうには、緑鮮やかな庭園が広がっている。城の前庭には清らかな噴水と、手入れの行き届いた花壇があった。きっと、腕のよい庭師がいるのだろう。
そんな、王族の心を和ませるための景色を眺めながら、目が覚めたとき頭が痛かったことを思い出す。今でも微かに痛む。
ヒースは、そっと己に巻かれた包帯に触れてみる。その下、頭の奥にたしかに残る鈍さ。これは一体なんだろうか。
ふう、とため息をつく。
切り傷擦り傷打撲といった傷はいくつもあって、こうして立っているだけなのに、正直辛いところもある。しかし、自分は手も足もついている。指先もちゃんと動かせる。言葉だって話せるし、目も見える。
魔物との戦闘で崖下に落ちたとのだという、兵士たちの証言から考えれば、これは奇跡的な生還のはずだ。
しかし、それにしても腑に落ちない。
ヒースは、通された部屋の窓辺に立ち尽くしたまま、腕を組んだ。
まず、なぜ自分が魔物と戦っていたのかということだ。
目が覚める直前まで、自分はヴァルド皇子の和平交渉の共をつとめていた。隙をつかれ暗殺者に襲われた皇子が、床に横たわった瞬間、そこへ駆け寄ろうと一歩ふみだしていたはずだ。そこまで鮮明に覚えているのに、それがなぜ、国境近辺にいたのか。
また、ヴァイゼン帝国とカレイラ王国が和平を結んでいるという事実がさらに不思議でならない。これは、ヴァルド皇子の平和に向けた尽力が結果となったといわれればそうなのだが、あんなにも難航していたのに、なぜ急に。だが、これが偽りであったなら、こうしてフランネル城の客間に自分がとおされることもあるまい。
いくら考えても、どうしてそうなったのかわからない。ヒースは眉間を深く寄せる。
その「わからない」の答えが――。
「記憶喪失……か」
一度は耳にしたことのある言葉だ。だが、今の自分がその状態だといわれても、ぴんとこない。
ただ、自分を救出してくれた兵士たちに、皇子のことを問いただしたときのあの表情。そして、いくつかの質問に答えたときの、狼狽した表情。慌ててやってきた軍医による診察を受けたときの、驚愕した表情。
そのいずれもが、ヒースを騙そうとしている類のものではなかった。つまり、事実なのだ。
自分が、記憶をなくしてしまった、ということが。
「そうはいわれても、オレとしては何も変わらないんだがな……」
誰も聞くものはいないが、自分がそういう立場にいるのだと確かめるように、ヒースは顎を撫でながらひとりごちる。
周囲の混乱と困惑ぶりはわかっているが、実のところ、ヒースはそれほど困ってはいない。
皇子暗殺の瞬間から、目覚めた瞬間までの記憶がなくとも、皇子が無事であり、ともに目指した平和な世界がおとずれているのなら、さしたる問題はない。
あとはその後の両国がどういった経緯を辿って今の関係となったのか、帝国軍の運用がどうなされているのか、自分がそれに対して何ができるのかを確認し、これからはそれを実行すればいいだけのこと。
やはり、現状に不満も恐れもない。皇子から直接話を聞ければ、大丈夫だろう。だから、こうして軍医や兵たちの制止を振り切って、国境の砦近辺に設置されていた帝国陣営からカレイラ王国の首都ローアン、その中央にあるこの城までなんとかやってきたのだ。
すべては、皇子にお会いできれば――。
そう、考えをまとめつつ結論付けようとしたとき。
ぱたぱたと軽い足音が近づいてくることに気付き、伏せていた視線をあげる。
城には年頃の姫がいるというが、姫がこんな風に走り回ることはないだろう。では、誰だ。
そんな疑問に答えるように、それはヒースのいる部屋の前で止まった。数秒の後、その戸惑いを表すようなゆっくりとした速度で、扉が開かれる。
そっと顔を覗かせたのは、小柄な少女だった。明るい茶色の髪と、深い実り色をした大きな瞳の、可愛らしい面差しをしている。走ってきたせいか、身体全体で呼吸している。
城に使える小間使いだろうかと一瞬思ったが、服装は一般人が身につけるようなものだし、年のころも城にあがるにはまだはやい。姫の友人というには、庶民的すぎる。
息を整えながら、どこか力ない足取りでヒースに近寄ってきた少女の、長い睫に縁取られた綺麗な瞳が、ゆらゆらと揺れている。何かいいたそうな、でもいえない――そんな雰囲気。
間が持たない。
それはどちらも思ったことだったのだろう。だが、少女がかすかに声を震わせるより一瞬はやく、ヒースは唇を動かした。
「こんにちは、お嬢さん。はじめまして」
ヒースは目の前に現れた少女に微笑みかける。澄ました対外的なそれは、見知らぬ者に向けられるに相応しいよそよそしさが滲むものだが、他人を不快にさせるようなものではない。と、ヒースは思っている。
ひとまず挨拶をして、そして「何かオレに用かな?」と尋ねようとしたのに。それなのに、明るい色をした髪の少女は、口をへの字に曲げ、今にも泣き出しそうに瞳を潤ませた。
う、とヒースは小さく呻いた。
これはまずい。
自分が大柄な体躯であることを、ヒースは充分に理解している。そんな男が、怪我だらけで、包帯を巻いた状態で。急に話しかけてきたら、こんな華奢な女の子は、怯えるに違いない。失念していた。
子供が苦手というわけでもないが、年頃の少女の扱いはなかなかに難しいものだ。
少女は何の反応も返してくることなく、立ち尽くしている。怯えているようにも見えて、ヒースは口ごもる。
小さな手が、羽織っているコートを握り締める。ガラスにひびが入ったような皺が、きゅっと形作られる。
「――な、何を……言ってるんですか? ヒース、さん……?」
悲痛な声と救いを求めるような視線に、む、とヒースはわずかに眉間を寄せる。太い腕を組んで考え込む。
だが、この少女に心当たりはない。いくら記憶を探っても、「会った」という事実がないのだ。
もしかしたら。
「そうか。オレは君に会ったことがあるのか……」
失われたという記憶の中に彼女はいるかもしれない。そう思いつく。
「え? あ、あの……?」
発言の意味が理解できない様子で、目の前の少女はただ戸惑っている。
「すまない。君はオレのことを知っているのだろうが、オレは君のことを知らないんだ」
そうあっさりと言ってのけると、少女の目が零れ落ちそうなくらい大きく見開かれた。ふざけてなどいないことを伝えるように、じっと視線を繋げたままにする。
ヒースの言葉に嘘偽りがないことを察したのか、青ざめた少女が、よろりと一歩後退する。
それは、まるでこの世の終わりをみたかのような、そんな顔だと、ひどく冷静にヒースは思った。
今にも崩れ落ちてしまいそうな少女に対し、わずかに眉を顰める。大丈夫か、具合でも悪いのか、そう問いかけようとしたとき。
「将軍、失礼します。ヴァルド皇子がお見えになりました」
そんな硬い声とともに、扉がするりと開かれた。
「ヴァルド皇子!」
兵士を従えたヴァルドの姿に、ヒースはほっと息をついた。
「よかった、本当にご無事だったのですね。兵たちから聞いてはいたのですが、どうにも信じられず……」
慌ててその側へと駆け寄る。すれ違う瞬間、少女がぎゅっと目を強く閉じたのが見えたが、それを気遣う余裕もない。
「……ヒース、か」
「はい」
当然だ、とヒースは頷く。ヴァルドが、その形のよい眉をひそめた。
少女の様子と、ヒースの高い位置にある顔を交互に見た後、考えるように赤い瞳が伏せられる。
「――心配をかけてすまない。このとおり、私は無事だ」
「はい。本当に、よかった……。皇子が暗殺者に切られたとき、お側にいたというのにお守りできず、誠に申し訳ありませんでした。いかなる処罰も受ける所存です」
「いや……そのことは、もういいんだ」
「しかし……!」
護衛すら務められなかった自分は、罰を受けてしかるべき。そう訴えるヒースに、ヴァルドの瞳が細くなる。
「――本当に、あの頃の記憶までしかないのか」
言外に、いままでなにがあったのかを知らぬことを責められているような気分になり、ヒースは頭を下げる。
「……申し訳ありません」
だが持ちあわせいないものは、ない。仕方がない。
「いや、ヒースが悪いわけではない。さあ、今日はもう休むといい。詳しいことは、あとでまた話そう。ゼノンバート王のはからいで、部屋が用意されている。今、案内させる」
「ですが……」
まだ、皇子に聞きたいことがたくさんあった。暗殺されたあと、どうして皇子は助かったのか。どうして和平が結ばれたのか。
だが、部屋を満たす重い空気がそれを許そうとはしてくれない。
ぽろぽろと、声もなく泣いている者が、いるからだ。
それは子供が泣くように、顔を歪め全身全霊で悲しみや怒りを表すような泣き方ではなく。
いきどころのない感情が、瞳から零れ落ちていく。そんな、静かな泣き方。
今までに、こんな風に泣く人を、ヒースは見たことがない。
「ティア……」
す、と外套をさばいて近寄ったヴァルドが、その少女の髪を撫でた。少女が、深く俯く。
ぱたぱたと、雨のように降る雫。ヴァルドがみせる、慰めるような、慈しむようなその仕草に、二人は親しい間柄であることがわかった。
「……ヒース将軍こちらへ。ご案内いたします」
その関係を問いただす前に、兵士がヒースを促した。
疑問はまだ胸のうちにあるけれど、ヴァルドの指示に従わないわけにもいかない。カレイラ国王の厚意を無駄にすることもできない。
痛む体をやや引き摺りながら、ヒースはゆっくりと部屋を後にする。兵士は赤い絨毯敷きの廊下を北に進んでいく。案内されながら、考える。
あれは一体誰なのか。
自分を知っていて、皇子とも親しく――そして、急に泣き出したあの少女。
「……?」
その姿を思い出した瞬間、ずきりと、脳の中心が深く重く沈んだ。だが、それでも記憶の中に彼女のことは思い浮かばない。
真白になった記憶には、その欠片さえ見出せない。
廊下を歩くヒースには、答えは少しもわからなかった。