摘まれても—–1

「あの……?」
 ティアは、おずおずと言葉を発しつつ、小さく首を傾げた。
 数分前、突然家にやってきたヒースは、向かいあったまま微動だにしない。
 開け放った窓からゆるゆると吹き込む風に髪を揺らしながら、ティアは記憶を辿ってみる。
 が。
 今日は特に何の約束もしていなかったはずだ。
 ここ最近は、自分の冒険にヒースについてきてもらったり、ご飯を食べてもらうために家にきてもらったり、季節毎のお祭りなどに一緒に参加してみたり……。そんなことが多かった。
 そんな風に過ごしながら、ヒースのことをたくさん教えてもらったし、自分のことをたくさん伝えた。
 この前は、戦争に関わってきた自分だけれど、幸せを求めてみたいということをきかされて、おおいに頷いて賛成したものだ。だって、ヒースには幸せになってもらいたいと思うから。
 そのときの、ほっとした優しい笑顔がとっても素敵で――そこまで思い出して、かあ、とわずかにティアは頬を染めた。
 考えてみれば、ヒースとは同じ時間をたくさん共有してきている。お互いに、お互いを誘い誘われることに、互いが側にいることに、慣れきってしまっている。当たり前だとすら、思っている。
 そんな現状が嫌だというわけはもちろんなくて、むしろ楽しく嬉しいからいいのだけれど、ヒースを心から慕っている自分というものを認識してしまったら、いまさらながらに恥ずかしくなった。
 もじもじと、ティアはお腹の前で絡み合わせた指先を動かし、ヒースの反応を待ち続ける。
 家に入ってきてからずっと、青灰色の瞳を揺らして、何か言いたげに視線を下げていたヒースが、すいと顎をあげる。
 ふいに浮かんだその真摯な表情に、ティアはつられて居住まいを正した。
 ティアが息をつめたのを見計らったように、ヒースが口を開く。
「好きだ」
 ここまで、ずっと沈黙を保ち続けていた男から突然届けられた言葉に、ティアはぽかんと口をあけ、目を見開いてその贈り主をみつめた。
「……え?」
 それ以外に言葉がみつからなかった。
 その返答に、戸惑うような、困ったような、そんな顔をして大きな手で頭を掻いたヒースが、ぐっとティアの瞳を覗き込んでくる。圧倒されて、ティアは思わず仰け反りかけるが、それをなんとかこらえる。
「いきなりですまない。オレからこんなことをいわれても、君にとっては迷惑でしかないかもしれないが……――好きなんだ」
 いつもの口調の中、想いを形にするときだけ、聞いたことのないような色を声に帯びさせるヒースを、ぼうっと見上げることしかできない。ティアは、浅く息を吸い込んだ。
 こうして想いを告げるために、わざわざ我が家に足を運んでくれたのか。それが、とても嬉しかった。
 なにか、いわなければ……! そう思うけれど。なんていったらいいんだろう。
「あ、」
 肺に送り込まれた酸素が、体中に火をつける。かあ、とティアの全身が熱を帯びる。それに慄いて、きゅっと小さな手を握り締める。
「あ、あの……わたしっ、わたしは……! あの、」
 心の奥から堰を切られたように溢れる感情に、身体が悲鳴をあげる。ついていけない。一瞬で早くなった鼓動は、まるで濁流のようにごうごうとティアを苛む。
 想う相手に、こんなことをいわれて、嬉しさに舞い上がらない者などいないだろう。とくに、恋に不慣れな少女では抗う術もない。
 一言だけでも伝えたいのに、言葉は喉に張り付いてでてこない。
「いいんだ、ティア。無理するな」
 おろおろと、しどろもどろになっているティアをみて、ヒースが小さく笑った。
 わかっていると、そういうかのような仕草と表情に、ほんの少しティアの緊張がほぐれた。
「ゆっくり考えてみてくれないか」
 考えるまでもなく、答えは決まっているけれど――ん、とティアはわからぬくらいに微かに頷く。時間を貰えたことに、ほっとする。
 もうすこしだけ自分の気持ちと向き合って、そうしてひとつの言葉を作れたら、それをもってヒースの言葉に応えたい。
 そう考えたのに。
「明日、オレはローアンから離れるが……」
 ごく自然に続けられたことに、今度はひゅうと心臓が冷たくなった。
 離れる――つまりヒースがここからいなくなる。
 カレイラ王国から、ローアンから。そして自分のそばから。
 すぐにそこまで考えたティアは、顔色を変えた。
「え……、ヒースさん、帝国に帰っちゃうんですかっ?!」
 いいようのない不安に駆られ、ティアは強靭な体躯を誇るヒースの胸へと縋るようにして詰め寄った。
 だから、こんなことをいいだしたのだろうか。
 つい今しがたまで天に昇ろうかと上昇気流に乗っていた気持ちが、焦燥とともに混乱という名の地面に叩きつけられたようだ。
 そんなティアの勢いに目をひらいたヒースが、すぐにニヤリと笑う。
「いいや。そうじゃない。ちょっと、ヴァルド皇子の代理で国境付近に視察にいくだけだ」
「そう、ですか」
 ティアは、胸をなで下ろす。よかったと、心から思う。はぁ、と深いため息とともに、肩の力を抜いた。
 そんなあからさまに安堵するティアの様子を見て、ヒースがますますもって嬉しそうに笑う。
「もお、なんですかっ」
 その顔が、からかうようなものであるように見えて、ティアは頬を膨らませた。今のはヒースが悪いのに。ちゃんといってくれれば、勘違いしなかったのに。
 みなまで聞かずにいた自分のことは棚にあげ、ティアはぷりぷりと怒ってみせた。
「いや、まったく脈がないというわけでもなさそうだからな」
「!」
 見透かされたことに、ティアの身体全体が大きく跳ねた。
「え……あのっ、そ、その……!」
 そうじゃないといえば嘘になる。かといってそうですねとも頷けない。
 何をいいたいのか自分でもわからぬまま、それでも口を開きかけたティアをさえぎるように手をあげて、ヒースがふと真剣な顔をする。
「――ティア。オレがいない間に、考えてみて欲しい」
「あ……」
 いつからか、この世界で一番綺麗だと感じるようになっていたその瞳の色が、ティアを捕える。そこに自分だけが映っている。それが、心地よくてたまらない。この人の心が、自分のことでいっぱいだと思えるから。
「オレのこと、君のこと。オレは、君と一緒にいたい。特別な意味で、だ」
 特別、という言葉をティアは噛み締める。
「オレと、生きて欲しい」
 これから先の時間を、ともに歩くことを欲してくれることが、泣きたいほどに嬉しい。
 ヒースに幸せになってほしいといつも願っていたけれど、そのためにティアだけができることがあるのだと、教えてくれたことが嬉しい。
 ティアは、そっと胸をおさえる。とくとくと、奏でられる甘い早鐘が苦しいけれど。
 それは自分の心が、目の前の男にだけ向けられていることを知らせてくれる。
 でもまだ。
 ティアの唇は、それを言葉という形に成すために動きそうになかった。ヒースは言ってくれたのに。応えたいのに応えられない。
 意気地がなくて、恥ずかしくて。ごめんなさい。
 精一杯に、絡む視線にそんな想いを乗せる。
「待っている。いつまでも、君の答えを」
 そんなヒースに、ティアは懸命に何度も頷く。

「君が、好きだ」

 朗らかに、ヒースが表情を崩した瞬間を、ティアは生涯忘れることはないと、そう思った。

 

 ――それなのに。
 そういってあなたは、笑ってくれていたのに。
 これは、勇気を出せなかった私への、罰なのですか。

 

「ティア殿。お気を確かに」
 かたかたと手が震える。
「どうか、フランネル城へおはやく」
 逆光の中にたつ兵士は、よく見知った姿なのに、地獄の底から死を告げにきた処刑人のように見えた。
 それでも動かぬティアに、兵士は「今一度申しあげます」と慇懃に言う。
「ヒース将軍が、国境の視察の際に怪我をされて、」
 ごく、とティアは細い喉を鳴らす。
 扉の向こうにたつ兵士からの言葉が、どこか遠い異国で話される言葉のよう。
 手足の先が、氷のように冷たい。呆然と、立ち尽くして聞くしかできない。
「記憶を失くされたのとの報告が――、」
 二度目の言葉が鼓膜に触れた瞬間、みなまで聞かず、ティアは駆け出した。